時の雫-風に乗って君に届けば

§12 光が満ちるトキ


Episode 10 /12



 外庭では毎年見られる光景が広がっていた。卒業生を見送る在校生たち。
美音は生徒会のメンバーと外庭の一角にいた。すっかり機嫌を損ねてしまい、目が合っても不機嫌な顔で逸らされていた。
「なんか春日さん、怒った顔してるなー?」
隣にいる谷折の声に圭史は返す。
「んー、ちょっとやり過ぎたみたいで」
「……、その割りに顔にやけてるけど?」
その台詞に視線を明後日の方向に逸らす圭史に、谷折は言う。
「まー仲がよろしい事で」
「うん」
「……ちょっとは遠慮しろよ……」
谷折のボヤキを耳にしながら圭史の目は美音を映していた。
そこに足立がやって来ると、美音は笑顔になって言葉をかけ贈り物を渡している。
「……はぁ」
そして無意識に出たため息に圭史自身少し疑問を感じた。それは隣にいる谷折も同じだった。
「……?」

暫くしたところで卒業生女子が団体になって向かってくる姿が目に映ってきた。
どこに向かっているのだろうとぼんやり思っていたが、まさか自分の所だとは思わっていなかったのだが、近づいてくるそれらは、どう見ても自分達の方に向かって来ている気がしてならない。狭まってくる距離に体は勝手に後ずさっていた。谷折は圭史の肩に身を半分隠すようにしている。
「お、お前、何人の後ろに隠れようとしてるんだよ」
「いや、反射的に……。俺、女の集団怖い……」
「バカ、俺だって……」
嫌な予感をその身いっぱいに感じつつ、それでも通り過ぎて行く事を願いながら、二人はそんな会話をしていた。だが、確実に彼女たちは距離を縮め、結果自分たちの目の前で足を止めた。何故かそこから逃げる余裕もない二人に、最前列にいる一人が訴えるような眼差しを向けて言った。
「瀧野君、谷折君」
「は、はい」
3年の先輩たちに萎縮するような様子で返事をした二人に、彼女は構わず言う。
「ネクタイかボタン貰えないかな?」
一見控えめにとれる言葉だが、それに含まれているのは強制、または強請の2文字だった。
「……え?」
我が耳を疑った。
「私ボタン!」
「私ネクタイ!」
「あ、私も!」
と、それぞれが言い出したと思ったら、早い者勝ちとばかりに次から次へと手が伸びてきてそれはまるでバーゲンセールに群がる女性陣の様で二人は簡単に揉みくちゃにされた。
逃げる隙も余裕もなく、二人は翻弄されるがまま。
そして、目的は済んだとばかりに彼女らは嵐の様に去っていった。
残された二人はぼろぼろの様子で疲れきった顔している。
「……こんな事ならスポーツウエアで来れば良かった……」
まるで体力を消耗しきったような様子でそう呟いた谷折だった。


 ようやっと一人になった美音に気付くと、反射的に向かおうと足を踏み出したのだが、すぐ迷ったように動きを止めた圭史。
 持ったままの美音の生徒手帳を返そうと思っていたのだが、この格好では気が引けると思ったのだ。

 ― でも、返しておかないとな ―

「ちょっと春日んトコ行って来る」
「あいよー」
進行方向に体を向けたまま、圭史が言うと、谷折は何事もないように返事をした。
 圭史が美音の元へ辿り着いた頃、谷折は二人の様子に目を向けた。
見ているだけでも二人の様子が分かってくる。
 どこか躊躇いがちに声をかけた圭史に、美音は最初不機嫌な顔を向けたのだが、圭史の身なりを目にした途端、爆笑している。しかも、お腹を抱えて。
最初は戸惑った様子だった圭史も、全然止まりそうにないそれに幾分むっとした表情になり、彼にしては珍しい行動で――美音の片頬を摘まんだ。
「……なんだかんだと、ホント仲睦まじいなぁ、羨ましい……」
ポツリと呟いた谷折の言葉だった。
そんな谷折の耳に、後ろの方からとある会話が聞こえてきた。
「……知らない?」
「いえ、……さっきまではいたんですけど」
そんな内容など谷折はまったく気にする事無く振り向いた。
「あ、谷折、瀧野知らない?」
「え? 今春日さんの所に行って……」
クラブメイトの問に素直に答えながら、その向こうにいる人物に焦点を合わせてみて、谷折の言葉はそこで止まった。
目が合ったその人はにこり。と笑みを向けると谷折の身なりを見て口を開いた。
「谷折君がまるで卒業生みたいね」
「あ、そ、ですね」
なんて答えたら良いか分からず、谷折はしどろもどろにそう言っていた。
 部活で見た時より大人っぽくなっているその先輩に、かける言葉が浮かばなかった。
だが、彼女のその視線が谷折のずっと向こうにいる圭史を捉えたのに気付き、谷折は言葉を紡ぐ。
「瀧野なら、もうすぐ、戻ってきますよ。だから、ここで……」
まだ完全に言い終えていないそれに彼女はきっぱりと言った。
「ううん、気にしないで。そんなに大した用じゃないから」
怖くも凛とした微笑みに谷折はそれ以上何も口にすることが出来なかった。
「おーい、谷折―!」
先輩の声に谷折は声を上げる。
「あ、はい!」
その時、谷折の視界には二人の元へと向かって歩いていく彼女、相田の姿が見えた。
 谷折がその構図を目にしたのは、それが最後だった。


 背後から向かってきた人に圭史は気づいていなかった。
丁度向かいに美音がいる構図になっており、急に笑みの消えた顔で呟く様に言った美音の声で圭史は気づいた。
「瀧野くん、後ろ……」
振り返ってみて気付いた相田の存在に、圭史は思わず口に出そうになった呼称を堪えた。
そんな反応の圭史にも相田はにっこりと笑みを向けた。
それに幾分冷静さを取り戻し圭史は言葉を口にする。
「あ、卒業おめでとうございます」
「ありがと」
相田がそう返して微妙な空気が流れた所で美音が圭史に声をかけた。
「あの、向こうに……」
行ってるね、と告げようとしたのに、台詞の途中で目が合った相田は笑顔のまま言った。
「あ、気にしないで」
はっきりとそう言われ、美音の口は行き場を失ったように閉じられた。
それを目にして圭史は「また…」というような事を言おうと思ったのだが、口を開けるより先に相田が笑顔のまま口を開いた。
「送別会、瀧野ちゃんも来てくれるのよね?」
「はい、行きます」
「良かった。それだけ。じゃあ又後でね」
「あ、はい」
相田は返事を聞いて二人に背を向けた。ゆっくりと歩き出した所で、よそから声が飛んできていた。
「瀧野―」
それはテニス部卒業生前部長の声だった。それに返事をすると早口で美音に言う。
「ちょっと行ってくる」
「うん」
その場から圭史は走って向かっていった。その時はもう済んだと思っていたので幾分解けた緊張が圭史の表情に柔らかさを醸し出していた。
「実行委員と練習とご苦労さんだったな。3年になったら大会、頑張れよ」
「あ、はい。ありがとうございます。先輩も卒業おめでとうございます」
「おう」
そう話していたら他の卒業生もそこにやって来ていた。どの顔も世話になった先輩ばかり。
交わされる言葉に笑顔になりながら、何気なく目を向けた先。
圭史を待っているだろう美音の姿、……のはずだった。
そこには、もういないだろうと思っていた相田と美音の二人の姿があった。
 先程自分がいた場所で、向かい合う相田と美音に圭史ははっと息を呑んだ。
あの場所に自分がいた時の、相田が浮かべていた表情は今でも何一つも変わっていない。
そう、どこか緊張感を感じてしまう、隙のない微笑だった。
それに対峙している美音は、表情が一切なくなっていた。顔色が悪いとも言える位のそれ。
 圭史の体は思わずその場に向かおうと動き出していた。
「あ、ちょっと……」
そこにいる先輩たちにそう言葉を放って行こうとしたのだが、先輩たちは圭史の首に腕を絡めて離してはくれなかった。
「どこ行こうとしてるんだよ、薄情なヤツめ」
「え、いや……」
思い切り動きを止められ、圭史の注意は逸らされたのだった。
次の瞬間に目を向けた時には、もう美音の姿は見えなくなっており、相田はその場所に背を向けて歩いていた。その顔に浮かぶのは微笑だけ。
 言いようのない不安が圭史の身を包んでいく。
一瞬前に見た美音の顔が、胸にざわつきを覚えさせていた。


 美音は人気のない廊下を走っていた。角を曲がるといつも出入りしている扉を開け中に入り、机の上にある自分の鞄を手に持つとすぐ生徒会室を出た。
鞄を持つ両手に力が入っている。自分自身それに気付くと片手を離し落ち着かせるように深く息を吐く。そして、気を引き締めた表情になり、顔を真っ直ぐ前に向けて早足で歩き出した。向かうのは下駄箱。
向かう途中、角を曲がろうとした所で人とぶつかりそうになりスイッと身を避けるとそれは亮太だった。
「あれ?もう帰るのか?」
「……うん。家に帰って休んでから、それから時間に間に合うように行くから」
「ああ。 ……どうした?」
何も表に出さないようにしているはずの美音の異変を気付いたのか、真っ直ぐと心配そうな瞳を向ける亮太に、美音はすいっと顔を逸らすように進行方向に向けて沈んだ声で言った。
「……別に。 しんどいから先帰る」
亮太の返事を待たずに美音は下駄箱に向かい急ぎ足で学校を後にした。


やっと先輩たちから解放された圭史はずっと美音の姿を探していた。
どうしても見当たらず生徒会室の方へとやって来た。
扉を開けても、そこに美音はいない。
「春日は?」
そこにいる亮太に圭史は訊ねた。
「しんどいから先帰るって、帰って行ったぞ。つい5分くらい前だったかな」
机に向かって書類にペンを走らせている手を止めて、真っ直ぐに視線を向けて亮太は言った。圭史はそれを聞いて、言いようのない不気味なくらい静かで雲に覆われたような気持ちになった。
「……そう」
他にうまい言葉が浮かばず、圭史はそう口にする以外出来なかった。

そのまま静かに閉められた扉を見て、ため息を吐きながら亮太は顔を書類に戻した。
そして静かなその空間に放たれた言葉。
「……泣かすなよ」
それは圭史の耳には届いていないのを承知していながらの呟きだった。


 頭の中では同じ場面がぐるぐると回っていた。
ぶつける所のない憤りやひどい罪悪感、焦燥感みたいなものが心の中を混沌としている。
重い足取りで下駄箱に向かい、靴を履き替えて外庭に出た。
もう大分生徒の数は減っている。
その中に、過去の自分の姿が見えたような気がした。
変えようのない自分の気持ちを必死で隠そうとし、自分を誤魔化していたあの頃。
自分を大切に想ってくれていた人を傷つけてしまったあの頃の自分。

過去の自分を責めて気持ちが楽になるのなら、言い訳をして今の状況が許されるのなら、……いくらでも償うのに。

 けれど、美音は頼りなく言い訳をする人間を嫌うだろう。
いつだって真っ直ぐ前を向いて進んでいこうとしている彼女だから。

 圭史は自分が踏んでいる土を眺めると、ぐっと力をいれ手を握った。
顔を上げると、校門を出た所で圭史は走り出した。

 電車に乗っているとき以外圭史は走っていた。
学校から駅に向かっても美音の姿はなく、電車に乗り駅を出て美音の家へと向かって走っていた。公園の近くになってようやっと美音の後ろ姿を見つけた圭史は声を放った。
「……春日!」
それに美音の背がビクン、と反応を示し、確かめるように止まった足がゆっくりとこちらを向いた。
はっと驚いたような美音の顔。
圭史は構わずに美音の元で足を止め、膝に手を置き呼吸を繰り返す。
落ち着くのより先に言葉を紡ぐ。
「何が、あった?」
それに美音はただ驚いた表情を向けた。
「何、言われた?……あの人に」
その台詞に、美音の顔がすーっと冷めていくように沈んだ表情になり、そして目を伏せた。
何も言葉を発しない美音に、圭史は苦しげに言う。
「……ごめん」
それにぴく。と反応した美音。
「ごめん」
さっきのよりも強くはっきりと言った。
「……」
だが美音は目を伏せたまま、今度はピクリとも動かなかった。
瞬時に湧き上がる不安に呑み込まれそうになり、圭史の視界は狭まったようにさえ感じた。
まるで一種の恐怖にも似ているそれに、微かに震える手を何かを確かめるように美音の頬に伸ばした。決して目を合わせようとしない彼女に。
そっと触れかけた圭史の指と美音の頬。
それは縋るような想いからだったのに。

「やっ……!」

美音はそれから逸らすように顔を横に避けた。
体中に示された拒絶。背けられた顔にも、肩にも、鞄を持つ腕にも力が入っている。
「…………」
圭史の力なく閉じていった手はぎゅっと握られ下ろされた。
沸き立つ感情を堪えるように噛み締めるその表情は、酷く辛そうなものだった。

不気味に漂う沈黙は身を切り刻むような緊張感だった。
圭史には美音に告げて良い言葉が浮かばなかった。何も。

はっとした表情を一瞬浮かべた美音は、顔を伏せたまま言葉を口にした。
「……何も、なかった!」
冷静に言おうとして感情が勝ってしまった美音の声。
そうして落ち着かせるように息を吐いた。それは震えていたけれども。
そして美音はまた言葉を紡いだ。先ほどより落ち着いたように見せる声で。
「送別会、今日あるんだよね?生徒会もあるんだ。だから、しんどいから家で休んで、それから用意して行くから、…………ごめん、帰るね」
辛そうな、今にも泣き出してしまうのではないだろうかという微笑を浮かべて、美音は一人走って行ってしまった。
 彼女の後ろ姿を見送ることも出来ずに圭史は顔を俯かせていた。

彼女から何を言われたのか、想像もつかないまま、心は深い深い底に落ちていく。
圭史は力が入らない体をひどく重たく感じた。そこからどうやって、何を考えながら帰ったのか圭史は覚えていない。


 カラオケのパーティールームを借り切っての送別会だった。
圭史は自分がしなくてはいけない所要を終えると奥の空いている角の席に腰を下ろした。
短いけど重いため息を吐き、被っている帽子で顔を隠すように深く被った。
そこは賑やかで盛り上がってる声でいっぱいだったのに、圭史は周りがとても静かに感じていた。心の中は凪いだ海のようだった。
 隣に谷折がやって来た。
「瀧野……」
心配したその声を最後まで聞き終えないうちに、圭史はぽつりと言った。
「俺、……ふられるかも……」
そんな話、誰かに言いたい訳ではなかった。だけど、隣に来た谷折にそう言わずにはいられなかった。
それに驚いた目をし、何か言おうとしていた谷折の声を流れてきた音楽が消し去っていった。俯いたまま表情に変化の見られない圭史に、谷折は何の言葉もかけられなかった。

 中盤に差し掛かった頃、この部屋を出て行った相田の後ろ姿を見て、数秒考え込んでいた様子の圭史だったが、暗い中を静かに立ち上げるとゆっくりと後を追うように出て行った。
人のいないロビーに出た所で圭史は声を出した。
「相田先輩」
そう呼ぶのは1年の初めの頃以来だった。夏に会った時は、まだ「佳世さん」だったのに。
呼ばれた相田は数歩歩いた所で自分が呼ばれた事に気付き振り向いた。
呼んだのが圭史だと知ると、相田は笑顔を向けた。
「なぁに? すごい顔してるけど」
落ち込んだ情けない顔を見てそう言った相田に、見えない感情が何かに震えるのを感じた。
「……」
用があって声をかけたはずの圭史に相田は笑顔と共に言う。
「瀧野ちゃんの彼女、可愛いね」
その「可愛い」という言葉に含みがあるのを圭史は相田の声音で感じ取っていた。
だから、尚聞かずにはいられなかった。
「何を、言ったんですか?」
絞り出したような声で圭史はその言葉を口にした。
相田はそれに肯定も否定もせずに、だた、にこり。と微笑んだだけだ。
それに身の内が震えるような気がした。自分の中に信じられないような感情が沸き立ってくるのを感じた。今までに感じたことのないそれに、圭史自身対処の仕方が分からなかった。そして、しまっておけない思い。
「……許せませんか」
思いがけない圭史の言葉だった。
一瞬驚いた表情を浮かべた相田は、切なく歪んだ顔で言う。
「瀧野ちゃん、私は……」
それは笑顔で隠していたはずの、本音だっただろう。
だが、そこへ割って入るかのように声が飛んできた。
「佳世姉」
相田がはっと顔を上げた先にいたのは峯だった。
「何してるの?もう帰るんだったら送ってくよ」
たった今その場に居合わせた様子に相田は言葉を紡ぐ。
「あ、ううん。ちょっと近くのコンビニ行こうと思って」
「じゃあついて行くよ」
峯は圭史と話していた事は一切触れずにその場から相田を連れ出して行った。
 ……もう、圭史は何の言葉も口に出来なかった。


「で、春日さんに何を言ったの?」
外に出て二人になった途端、峯はそう訊ねていた。
「……盗み聞き、してたの?」
それには非難の声が混じっていた。
けれど、峯は動じる事はなく言い、追究をやめない。
「丁度聞こえてきたんだよ。で、何言ったの?」
「ただ、挨拶しただけよ」
どこか嫌そうに投げ捨てるように言った相田の声に峯は言う。
「ふぅん? そんな様子には見えなかったけど?」
知っているものの言い方に相田は怒りを微かにのせた目を向け、すぐ諦めたように顔を伏せた。そして口にする思い。
「それぐらいで壊れるなら、今のうちにダメになったらいいのよ」
「……あの子、手強いよ?」
それは、否定の言葉。
「……知ってる。有名な子だもん」
「やれやれ、女の嫉妬は怖いな」
それは感心しているようにも聞こえた。
「何よ。しょうがないでしょ。気がついたら体が勝手に動いてたんだから」
「……だから、怖いんだよ。女の嫉妬って」
「……」
悟っているような言い方に相田は口を噤んだ。
そんな様子を目に捉えて峯は静かに言った。
「俺が佳世姉のイトコって言った後の、少し日にちが経ったくらいに、心配して聞いてきてたよ、瀧野」
それに表情を動かした相田。
「な、にを?」
その、たった一言に様々な感情が浮かんでいた。
それを知りながら、峯は素っ気無く言うのだ。
「まぁいろいろ。進学先の事とか、まぁ男の事とか」
「……」
何かを堪えるその表情に、峯は正直に言った。
「本当に幸せになって欲しいと思ってる、って言ってた。その言葉は嘘じゃないと思うよ。瀧野の、精一杯な佳世姉への気持ちだと思う」
並んで歩いていた相田の足が止まった。
峯が顔を向けると、相田の両目から涙がぽろぽろと零れていた。次から次へと溢れてくる涙は様々な相田の想いが込められていた。とても切なくて苦しくて、行き場なく堪えるように溜められていたそれらはたった一人へ向けられていたものだっただろう。
自分でさえ手に余すくらいの。
「佳世姉……」
同情を込めたような声に、相田は構うなとばかりに言う。それは身近で距離がない者への何でもない言葉を。
「うるさい」
峯は泣き止むまでずっとその場で相田を待っていた。
 ぼやけて見えないのに夜空を見上げる相田の頬を、容赦なく涙は流れ落ちていく。
 幸せにして欲しいと思ったのは、彼だったのに。
 彼から初めて貰った精一杯の気持ちは、哀しくてそれでも嬉しくて、ひたすら辛かった。
そして最後で、彼を傷つけたことを相田は悔いた。
 あの時に、素直に言えれば良かったのに。
思っていた事を、して欲しかった事を。
本音を曝け出せれば、好きだった彼を今あんなに酷く傷つける事はなかっただろうに。
頭に過ぎるのは、好きだったけれど、年下の彼に遠慮していた自分。
 別れた後、彼がいつも切なく追い求める様に美音の姿を目に宿していたのに気がついた。
それで心はどこかに取り残された。あの時から、心の時間は止まっていた。
どうしようも出来ないそれに自分自身辛かった。
 相田はすっと目を閉じた。
やっと終える事の出来る想いに、心は不思議と穏やかだった。
そして思う。
 圭史の本当の笑顔が失われないようにと。


 送別会を終えての帰り道、圭史は一人なのに違う道を歩いていた。
見慣れた軒並みの中の一軒を見上げるように眺めた。
その家の2階は全部灯りがついている。という事は、もう美音は帰宅しているという事だろう。どの部屋に美音がいるのかは分からない。
見えない姿をその瞳に映し顔を伏せると、ゆっくりと自分の家に向かって歩き出していった。