時の雫-風に乗って君に届けば

§12 光が満ちるトキ


Episode 12 /12



 月曜日、期末試験初日。
始業時間がいつもと違うので、電車に乗る時間もいつもと違った。
圭史は美音の姿がないことに気付くと幾分消沈した。そのまま一人なので学校に向かう速さもいつより早くなった。
校門を抜けた所で、前方、下駄箱に入ろうとしている後ろ姿が目に入り、圭史はそれを美音だと直感し、急ぎ足で追いつくように向かった。
 下駄箱に行けば、丁度履き終えた時の美音の後ろ姿があった。
「おはよう」
その背中に圭史は声をかけた。
すると、美音の体はピクン、と反応を見せ、一瞬間があった後顔を向けた。
「お、おはよう……」
そう口にしている間に、忽ち美音の顔は赤く染まっていく。
それにつられる様にあの夜の余裕のなかった自分を思い出して圭史の顔も赤くなった。

教室に向かいながら、圭史はかける言葉に戸惑いながらも言う。
「勉強、できた……?」
「……なんとか」
赤い顔のまま美音はずっと圭史に顔を向けず俯いたままだった。
意識されてガチガチになっている彼女を隣に感じて、この時はまだそれはそれで幸せだと感じていた。


 期末試験3日目の2時間目が終了した時、圭史は不機嫌をその顔にあらわにしていた。
本日最後の試験は数学。この10分休みの間に頭に詰め込むような事はなかった。
圭史はそれを頭の中で思うと、思い切ったように椅子から立ち上がり教室を出て行った。
向かうのは1組の教室。閉ざされた扉をいとも簡単に開けて中に視線を向ける。
端から端まで見渡しても美音の姿はない。
「あれ? どうした?」
近くにいた阿部が圭史に気づきそう声をかけた。
阿部に目を向けたところで、視界の端に机の向こうでしゃがみ込んでいる後ろ姿が見えた。
「あ〜〜〜、……なんでもない」
そう言ってからため息をこぼし、圭史は諦めた様子で教室に戻って行った。

扉が閉まったのを目の端で捉えていた川浪は、頬杖をついたまま、その左側の机の下辺りにいる美音に声を放った。
「……いいの?」
「え?な、何が?」
上擦った声で返す美音の顔は赤い。
 この休憩時間、美音は出席番号で後ろの席の川浪に向いていた。
扉が開く音が川浪の耳に聞こえた次の瞬間に、美音は姿を隠すようにしゃがみ込んでいたのだ。あまりの素早さに川浪も言葉が出なかった。
 美音はよろめく体を椅子などに腕を乗せて支えながら、自分の席に着くと、そのままおでこを机の上に置いた。
「……」
顔の熱さはまったく引かず、心臓も賑やかに音をたてている美音の様子に川浪は微笑を浮かべるとノートに目を移した。


結局、それから圭史は試験期間中に美音に会うことは叶わなかった。
自分の席で頬杖をつきながら圭史は今日も不機嫌な顔をしている。
今日は今週最後の登校日。答案用紙返却日だ。
 会えずじまいでイライラする自分に余裕のなさを感じながらも、圭史は一人心の中でぶつぶつ言う。

 ― ……俺を欲求不満で殺す気か……! こんな調子でいって、急に二人きりとかなったら抑え効かないぞ。襲うぞマジで ―

美音が聞いたら、思い切り逃げ回りそうな事を圭史は思っていた。
 教室でじっとしていても、美音が会いに来る事はなかったし、廊下で会えることもなかったし、生徒会の用事で顔を合わす事もなかった。
ガラガラッと教室の扉が開く音がしたと思ったら、谷折の声が飛んできた。
「瀧野―、今日は昼まで筋トレだってよー」
今日、この後の終礼が終われば練習だった。それの内容報告に教員室からの帰りに寄ったらしい谷折の所に、圭史は向かった。
 谷折は圭史がやって来たのを見てそのまま大人しく廊下に出る。
その後を続くように圭史が出てきて扉が閉められると、谷折は圭史の顔を見た途端言葉を放った。
「えらい不機嫌な顔だなぁ」
「……。いや、単に部活に専念しろという神の啓示に少しばかり不服なだけだ」
本当に不満な顔を向ける圭史。
「へ? ……でも、ま、その顔はとりあえず、ふられてはいないんだろ?」
谷折の微笑に、圭史は先日の不様な自分を思い出し、ほろ苦い気持ちになりながら言う。
「……ない。……悪かったな」
バツの悪そうな顔で言った圭史を見て、谷折は笑みを向けて明るい表情で言う。
「いや何。いつも余裕たっぷりっていう顔してる瀧野のあんな顔見れるのも面白いしね」
「……悪趣味め」
「瀧野ほどでは」
「……こいつ……」
などと他愛無い言葉を交わしていたら、目の前に栞の姿が現れた。
思い切り目が合った栞に、圭史はほろりと自然に訊ねていた。
「……春日、元気にしてる?」
「うん、数学が思ってたより出来てたらしくて、瀧野くんのお陰だって言ってたよ」
「……そう」
気を緩めれば、それだけで自然と顔がほころぶのを予感しつつ、圭史は少し照れた顔でそう答えた。
栞は笑顔を二人の方に向けると、すっとノートを谷折に差し出した。
「これ、先生が忘れたから渡してくれって言われて」
谷折は素直にその部誌を受け取ると言葉を口にする。
「あ、ありがと」
「いいえ」
再び、にこりと笑顔を向けて、栞は教室へと歩いて行った。
「……」
圭史は静かなままでいる隣に横目を向けると、谷折は両手で部誌をひしっと持ちながら栞の後ろ姿をぼーっと惚けるように眺めていた。
「おい、顔緩みすぎ」
圭史がそう言うと、谷折ははっとした顔をし筋肉を元に戻した。
「は、いかんいかん。他の部員に緩みきった顔を見られたら、部長としての威厳が……」
「あったか? うちの部長に威厳なんて」
「な、何をー」
「いや、無いな。あるのは部長という肩書きだけだな」
「おいおい。……」
そう言ってから、谷折はじーっと両手に持っているノートを見つめながらぼそりと言った。
「……カワイーなぁ」
「……切ない片思いだな」
呟いた圭史にちろりと目を向け、谷折は言う。
「……俺って、……片思い?」
「片思いだろ?」
肩を竦めるようにして言った圭史の言葉に、谷折はため息をしてから口を開く。
「……やっぱ、そうだよなー」
「ま、結果的にお前がそう望んだんだから、仕方ないよな」
「……つめてー瀧野」
「慰め様がないって。それとも、望み、あんの?」
「……ない」
「じゃ、腹括って頑張ってみるか?」
「…………」
眉間にシワ寄せて黙り込んでしまった谷折。圭史は呆れたように息を吐いた。
渋い顔で何かを考え込んでいる谷折を横に、圭史の頭は美音の事を考えている。
 テニスしている姿が好きだと言っていた美音。

 ― ……真面目に練習して、あとは気長に待つかなー ―

心の中で呟いた言葉は、どこか暢気に言っているようでもあったが、半ば自棄を起こしているのが本音だった。

 ― あーあ! ―

声に出せなかった圭史のやるせない気持ちだった。


 日曜日、練習を終えて部室に向かっていると、他の部員の話し声が耳に聞こえてきた。
「ランキング貼り出されていたらしいよ」
「どーせ上位の方なんていつもと変わりないだろー?」
「まぁ、そうだろうけどさ」

 ― ふーん ―

それを耳にして部室に向けていた足を中庭へと向け、掲示板の前で足を止めた。
そして、貼り出されている主要5科目をざっと眺めていく。
国語英語は美音の名前がのっている。理数には圭史の名前が。数学の時は前から見ていくのだが、自分の順位を過ぎていった所で、圭史の動きは止まった。

 ― ……え? あれ? ―

そこには美音の名前が載っていた。

 ― ……やばい ―

頭に過ぎるのは一抹の不安……。


 その日の夜、圭史は兄、功志の部屋へ赴いていた。
「兄貴、3年で使う問題集選んで欲しいんだけど」
ベッドの上で横になって文庫本を見ていた功志は、顔を離し数秒の間をおいて口を開いた。
「ああ、来月から3年か。 今から見に行くか?」
「うん、お願いします」
「よし」
圭史の返事を聞いて、功志は勢いをつけて起き上がると机の上に置きっ放しの車の鍵を手に取った。3年間バイト代を貯めて、4回生の夏にようやっと念願の車を買ったのだ。
こういう時、功志は嫌な顔などせず、圭史を横に乗せて出かけていく。
あと財布を持った功志は部屋の電気を消し1階へと降りていく。
 一旦部屋へと戻り出かける準備をした圭史は数分遅れて降りていった。
「ちょっと兄貴と本屋行って来る」
途中、母親にそう声をかけてから玄関へと向かう。
「あら、そう。気をつけてね」
「はーい」
玄関を出て家の近くの駐車場に兄の車はある。
そこへ向かい、兄の車に乗り込みシートベルトをつけると、兄は車を発進させた。
大きい本屋に向かう中、圭史はポツリと訊ねてみる。
「……彼女、できた?」
「微妙だなぁ」
「微妙、ですか」
車が進む道をぼんやりと眺めながら圭史は呟いた。
兄はハンドルを握ったまま、声だけを圭史に向ける。
「そういうけいは? 今はテニス一本か?」
「……そういう、訳じゃないけど」
何とも言えない表情を浮かべている圭史を、ちらっと盗み見てから微笑を浮かべつつ言う功志。
「じゃあ、いるんだな」
「……うん、まぁ」
「やけにハッキリしない返事だな。……相手、あの子だろう」
少しの間を置いて、考えが浮かんだように言った功志の言葉に、圭史は胸をドキッとさせながら言葉を紡ぐ。
「……あの子って?」
「うちの家族が皆知ってる子だろう?」
「……」
「美音ちゃん」
「……」
黙ったままの圭史をちらりと見てから、功志は楽しそうに言う。
「その顔は当たりだろ」
「〜〜〜っ、なんで?」
恥かしそうに、照れくさそうな顔を隠すように頬杖をつく圭史。
「バレンタインの朝があったからなー。それ覚えてたから、……なんとなく」
「……、なぁ、母親知ってんの? 話した?」
「いや、……気付いてないと思うぞ? あの様子からして。……まぁ、相手があの子なら言いにくいわな」
「……。じゃ、ひろは?」
「あれは全く何も気付いちゃいねーだろう」
「そうでしょね。……じゃ、まぁいいか」
安心した様子で圭史は背をもたれた。

買い物を終えて帰宅すると、母親が声を投げてくる。
「圭史―? なんか広司が呼んでたみたいだったけど?」
「あー? ……わかったー」
部屋に行くついでに弟広司の部屋を覗いてみれば、もう真っ暗で眠りについていた。
「……寝てんじゃん。しかし、えらい早寝だな、こいつ」
珍しい様に圭史は呆れながらそう呟いていた。





 月曜日、終業式。
圭史は講堂で、壇上で並んでいる生徒会役員に目を向けた。
学校行事のときは、役員全員が白っぽいグレー地のネクタイをつけている。
結局会えずして1週間が過ぎたのだ。
 朝も美音の時間に合わせて改札口で待っていれば会えただろうが、何分夕べは夜更かしをしたのでいつもよりゆっくりの時間で良かったのにも係わらず、中々布団から出れなくてその時間に間に合わせられなかった。

 ― 明日から春休みだというのに…… ―

それでもテニス部は毎日のように練習があって自由がきかないのが現状だった。
普通に学校がある方がまだ身動きが取れるような気さえする。

 ― ……あー、余計な事は考えないでおこう。考えれば気だけが焦る…… ―

そう、気長に行こうと決めたのだから。

 式が終わり、ぞろぞろと教室に戻っていく。
圭史は気だるい体を重く感じながら両手をズボンのポケットに入れて歩いていた。
そこへぽんと肩を叩かれて圭史は反射的に顔を向けた。
「ごめん、ちょっといい?」
「……いーけど」
それは面識のない同じ2年の女子だった。
 人の流れから外れた所でその子に言われた台詞に圭史は迷う事無く言う。
「ごめん、彼女いるから」
「……そっか」
雲が流れるようにその場から去り、また人の流れの中に身を任せた。
 教室に向かって流れていく中で、周りがやけにざわついているのに気付いた。
生徒たちの視線は前方を行く、2年生徒会役員の3人に注がれているようだった。
一般生徒からすれば、あの3人は人目を引く存在。特に今日みたいなネクタイの色が違う日は尚更だった。教室を行く美音の背はしゃんとしていて表情ともに凛として見える。
生徒会としてのスイッチが入っている時は、隙のない空気を纏っていた。可愛さよりも美人の方が優っている時。気高きその存在は、他の生徒からの羨望の的だった。

 ― ……いや、実際は負けん気が強くて、ちょっとした事でもうろたえたりする所が可愛いんだけど ―

一人そんな事を思う圭史は軽いため息と共に足元に目を向けた。
そして、頭に過ぎる思い。

 彼女は、自分といて無理をしている……?


 終礼が終わってからの午前中はトレーニングだった。
それを終えて昼食を食堂でとっていた。
定食を食べていた手をふと止めて、圭史は窓の外を眺める。
外はもう春が訪れている。ついこの間まで寒くて仕方がなかったような気がするのに。
「今日、カノジョに会ったか?」
目の前でカレーを食べている谷折が、スプーンですくった時に言った。
「……、いや会えずじまい」
顔を定食に向け再び手を動かしながら圭史はそう答えた。
「今日、お仕事で居残ってるみたいよ?」
「じゃあ、練習早めに切り上げてくれる?」
「……それは無理です」
目を瞑り圭史を見ないようにして言った谷折の言葉。
「わかってるよ」
「……なんか元気ないねぇ? それとも俺の気のせい?」
「気のせいじゃないな。まともに一週間会えてないってどうよ?」
「……。俺なら耐えられましぇん」
「だろーな。あーあ、攻めの一手でいったら逆効果で逃げられるの目に見えてるしなぁ。で、引いてみたら放ったらかしってどうよ?」
ちらりとヤサグレた目を向けて言った圭史に、谷折はスプーンを口に銜えたまま数秒の沈黙の後口を開く。
「攻めて攻めて攻めまくれば?」
「お前がやれ」
「わぉ。貰っていいの?」
「誰がやるっつったよ!」
そう言うなり圭史はテーブルの下で谷折の足を数回蹴った。
「いていて! ……カノジョの方は別に放ったらかしっていう風には見えなかったけど?」
「ん?」
「終礼終わって廊下で会った時、言葉交わしたけどさ。当たり前の話だけど、今日練習あるんだよね?って。こう縋るような上目遣いで。俺の男心はくすぐられてグラグラ……、危うく手が勝手にふらふらと」
再びテーブルの下で圭史の蹴りが数発入った。
「いたたたた。だから、カノジョがそういう顔する時って、お前の事を訊いてくる時だけなんだって」
「さー、どうなんでしょうねぇ」
「……。しかし、お前見てて思うけどさ、人間惚れた方が負けだよなぁ。ははは」
その台詞に圭史は渾身の蹴りをくらわせた。
「いてー!」
食堂に響く谷折の声だった。


「明日から春休みですねー。どっか遊びに行きましょーよー」
歩く美音の後ろをくっ付いて歩く快。
「はいはい、勝手に行っといで」
相変わらず相手にしていない様子の美音。
「春日さーん、一緒に行きましょー」
「休みは忙しい」
スタスタと前を行く美音に快はめげずに言う。
「一日くらい大丈夫でしょー」
さすがにたまらなくなって美音は振り向きざまに声を上げた。
「ゴタゴタ人の後ろで言ってないで仕事を終わらせなさい!ほら!バスケ部バレー部他体育館の部活行ってきて!」
「はーい、いってきまーす」
ちぇ、と口にしつつ快は素直に体育館の方へと向かっていった。
美音は呆れたように息を吐くとそのまま中庭とグランドの間にある通路を歩いて行った。
 教員室のある棟を越えたところで雑草に隠れるように転がったままのテニスボールを見つけた。
「こんなところに」
そう呟いて拾い上げると美音は優しい眼差しを注いだまま、その先へと進んでいく。
美音の足は用具室の前で止まり、一つの扉を静かに開けた。
誰もいないことを確認すると、美音は安堵の息を吐き中に入っていく。
入ってすぐのところから、美音は手に持っていたテニスボールをたくさんのボールが入っているカゴ目掛けて放物線を描くように投げ入れた。だが、それはボール同士で当たってしまい弾かれた様に違う場所へと転がっていってしまった。
それを拾いに奥へと進む。
中は埃っぽい。
「窓開けよう」
そう呟いて先に奥へと進む。だが、横倒しになったままのトンボに足を引っ掛けてドターンと派手な音をたて転んでしまった。その拍子に他の物までが次々と倒されていく。
「……いったー! もう!ちゃんと立てかけないで!」
痛い足を引きずりながら、とりあえず行く手の邪魔になったトンボを綺麗に立てかけてから窓を開けにかかった。
幾分明るくなったであろうその部屋を見渡してみて、美音の動きは止まり呆然とした顔で呟いた。
「……すごい有様。はー……」
この惨状を一人で片付ける事に、美音は肩を落としてため息を吐いたのだった。


 食堂を出てから教員室に向かった圭史は、その足で部室に向かう途中に物を出しに寄ろうと向かっていた。時間はまだ十分あったが、出してしまった後に部室で寝ていようと思っているからだ。
何も考えていなかった頭で用具室の扉を開けて見て、中の様子に圭史は言葉を失った。
 扉の開く音がして、こちらを振り向いた美音の顔が忽ち赤く染められていく。そして、その腕に抱えこんでいたカゴがどさっと落下しボールは辺り一面に転がっていった。
「……あ。」
思わず声を出した美音。
いまだ呆然としたまま圭史は口を開く。
「……なに、してるの?」

その圭史の台詞に、赤い顔のまま、しどろもどろに事の説明をした美音。
こうして見ると普通の女の子と変わらない、いや、もしかしたら、他の子より女の子らしいかもしれない自分を意識しまくる彼女を目の前にして、圭史は自分の中で蠢くものを感じた。

 ― ……あ、やば。 ―

理性でどうにか抑える圭史。小さくため息を吐いて辺りの惨状に目を向けた。
参ったように頭を掻くと、倒れている大きな物から起こしていく。
それを見た美音は小さな物を片付けに動いていった。
「……これって、新手の嫌がらせ?」
あまりの惨状に呆れた様子で圭史は手を動かしながらそう言った。
それに「うっ……」と詰まった美音の声が聞こえた。
「いえ、あの、決してそんなつもりはないんですが……」
口の中にこもるような言い方だった。
圭史はため息を吐きたいのを堪えながら開いている窓に目を向けた。
そこから入ってくる風は、圭史の前髪を揺らして美音の元へと流れていく。
今ここに圭史は美音と二人きりだった。
その事実に、圭史は何かを思いチラリと美音の方にそっと目を向ける。
黙々とボールを拾ってカゴに入れていた美音は、その視線に気づいたのか顔を向けた。だが、思い切り目が合うと、すぐさま俯きくるっと背を向け尚更小さくなってボールを拾い続ける。
「……。」
圭史は何とも言えない気持ちになり、参ったようにため息を吐くと頭をガシガシと掻いた。

 失敗した、と思った。
あの時、どんなに苦しくても抑えればよかった。
別に焦るつもりはなかった。
……こんなに怖がらせるつもりはなかった。
 ようやっと、自分の隣にいることに慣れてきた頃だったというのに。

 ― でも、感情が勝って自分ではどうしようもなかったんだ…… ―

 強引にいってはいけないと分かっていた。
先を急いで無理をさせてはいけないと分かっていた。
だって、彼女は「男」に触れられるのを極端に怖がっている。
それは無理もない事なのだけど。
だから、自分は決して彼女を怖がらせてはいけないと……。

「よいしょっと……」
その場を立ち上がり、カゴを両手に持って移動し始めた美音。
「俺の事、怖い?」
耐え切れず呟きのような問を投げかけた圭史だった。
 美音の両手から、トサッとカゴが落下し拾えていたボールはまたあちらこちらに散らばっていった。
その惨状に圭史の表情は凍りついた。
「……美音さん?」
「ああぁあ〜!殆ど拾い終えてたのに〜!」
「……やっぱり、新手の嫌がらせ?」
「ち、違う〜。た、瀧野くんが変な事言うから〜」
半泣き状態でそう反論する美音の様子に、圭史は足元のボールを一つ拾い上げ宙に上げ掌で受け取る遊びを見せ口を開く。
「いつになったら俺、溝口みたいに呼んでもらえる?」
その台詞を理解するのに美音は数秒の時間を要した。
そしてはっとした表情を浮かべた美音を見て圭史は訊く。
「いつ?」
「え? ……あ、……た、あ、……う」
困って言葉を詰まらせてしまった美音。
言葉になっていないそれ。でも、圭史はその意味が分かってしまっていた。
「呼んでみてよ、今」
穏やかな口調、なんの躊躇いも動揺もない落ち着いた様子の表情の圭史。
何かを口にしようとして、開けられている美音の口からは、一向に声が出てこない。
ただ顔が、染まる場所がないのにもっと赤く染まった。
「ま、まだ暫く猶予を下さい……」
蚊の鳴くような声で告げられた台詞に、圭史は小さく息を吐くと、宙に上げたボールをその手でキャッチすると滑らかな放物線を描いて、美音の足元のカゴに放り入れた。
「じゃ、待つよ。待てるから」
平生を装って言った台詞に、手は握り締められていた。
「瀧野くん……? ……やっぱり、怒ってるの?」
いつもと違う雰囲気に美音は気付いたようだった。
美音の台詞に、圭史は一瞬詰まったが気を取り直すように小さく息を吐くと言葉を紡ぐ。
体は転がっているボールを次々と拾いながら。
「……まー、フツー一週間放っておかれたら、どんな人間でもひねてしまうとは思うけど」
それに閉口した美音に、圭史はしょうがないなぁという微笑を浮かべて言う。
「ここ、片付けてしまおうよ」
「う、うん……」
 それから沈黙の中、二人は散らばったものを片付けていった。

 美音に背を向けている状態の時、その静かな二人だけの空間に充満する穏やかな空気も手伝ってか、零れていきそうな思いを声に出していた。
「一緒にいられるのだって、嬉しいと思う。だけど、……美音にとっては大変な事なんだろうか? そりゃ、俺だって男だから、一緒にいるだけで満足っていう訳にいかない時があるけど」
後方にいるはずの美音からは何の反応も返ってこない。
今、どんな顔をしているのだろうと振り返ってみた。
 赤い顔をして茫然と立ち尽くしていた美音は、圭史が振り向いたのを見て、あたふたと壁の隅に逃げるように下がって行った。
「な、……逃げなくても。そりゃ逃げられるような事したけど、でも、俺すんごい傷つくんだけど」
胸が痛いとアピールするように手を当て、ふら、とよろめきながら言った圭史。
 それは効果絶大だったようで、美音はテンパッた様子で赤い顔を両手で覆いながら言い出した。
「だ、だって、だって、ダメなんだもんっ。瀧野くんにはダメなんだもんっ。もっと私、さらっと流せるのに……。いつもこんなんじゃないのに……っ。だけど、いくらそう思っても瀧野くんにはフツーでいられなくてっ。顔も見れなくて、おかしいの分かってるけど、ダメなんだもん!胸は苦しくなるし、もう残りの人生の分使い切るんじゃないかって言うくらい心臓はバクバク言うし!頑張ってフツーなふりするけど、本当はいつだっていっぱいいっぱいで……。どうにかなってしまいそうなのっいつも必死で堪えて……!逃げたい訳じゃないけどっ、でもっ、自分がいう事聞いてくれない……!」
震えた声、涙目の美音に、圭史はくらくらと目眩がして倒れそうな感覚になっていた。
片隅に身を埋めるように小さくし再び両手で顔を覆った美音。
言った本人は気付いていない。
それは熱烈な愛の告白。
 圭史は言葉が出なかった。
油断すれば、手が震えだしそうなくらいの溢れ出す感情。
耐え切れず、彼女に向かって歩き出していた。
 彼女の前で足を止め、片膝を立てるようにしゃがんだ。
それに美音はビクッと体を反応させた。固まった状態で両手を覆ったままで。
「……美音」
それは至極優しい声音。
美音の手に尚力が入ったのを目にした。
それでも外されない手に圭史は名を呼ぶ。
「美音?」
 圭史は分かっていない。
圭史がアクションを起こす度、何かを言う度、美音の心の中では耐え切れず叫び声が発せられている事に。
「……名前で呼ばれるの嫌?」
それに美音は顔をふるふると横に振った。
「じゃ、手離して」
優しい口調だった。だが、美音は動かない。
「……じゃないと、ひねて今後暫く美音の近くには寄らないよ」
それにビクッと反応を見せると、数秒たってからおそるおそると言った感じに両手を離していく。どこに目を向けたらよいのかと迷っている表情で次第に握り締められている手を下に下ろした美音は顔を俯かせている。
 頬にかかって表情を隠してしまいそうな横髪に、圭史はそっと手を伸ばした。
触れるか触れないかのところで、美音はビクッと目を瞑った。
でもそれは、決して拒絶とかではない。圭史がその状態のまま推し測っていると、そーっと目を開けた。
そして、圭史はそのまま髪を指で梳くように美音の頬に触れた。
微かにピク、と動いた美音の表情は、恥かしそうでどこか艶やかだった。
「……キス、してい?」
それに美音は尚一層潤んだ瞳で口を開いた。
「こ、こんな状態で、聞いてくるなんて、……ずるい」
それに、圭史の顔に微笑が浮かんだ。
不思議と心の中は穏やかで、とても温かいものに満たされていた。
そして、静かにそのまま顔を近づけていき唇をのせた。
 今もう、油断すればすぐ思い出してしまう彼女の感触。
ゆっくりと追い詰めていきそうな甘い狂気が身体の内をじわじわと侵蝕していきそうだった。
 唇から離し切ない吐息を漏らして、再び唇を重ねる。
求めて止まない彼女の柔らかさを自分のものだと主張するかのように、今度は彼女の唇を啄ばんでいく。
怖がらせないように、ゆっくりと。それに注意を払って。
空いた手を、床に置かれている美音の手を探すように伸ばしていき、触れた指先から交差させるように握った。汗ばんでいる手に、圭史の方こそ熱くなりそうだった。
 だけど、力が入っている彼女の体に気がついて唇を離した。
そして、美音の口から苦しげにためられていた息が吐き出される。
「大丈夫?立てる?」
「え、あ」
まだ視界が広がっていない様子だった。圭史は手を差し伸べ、腕を掴んで立ち上がらせた。
 不安げな顔で見上げた美音に、圭史は小首を傾げる。
「なに?」
「……ほんとに、私でいいの?」
囁くようなそれに、圭史ははたっと動きを止めた。そして、思わず、じっと見つめてしまう。
美音は、はっとしバツの悪そうな顔を俯いてしまった。
その様子に頭の片隅に相田の顔が浮かんだ。前に何を言われたのか、圭史には分からないが、その時の事が原因しているのだろう。
「それはこっちが聞きたいくらいなんだけどね。……でも、今更だよ」
最後の言葉は搾り出したように言っていた。
それに美音が顔を向ける。え?と訊ねている顔だった。
そんな美音をただ見つめた。
「……何が?」
それにふっと笑みを溢し、圭史は言う。
「だって、今更だよ。諦めて手放す気も、他のヤツに譲る気もない」

 ― たとえそれが、溝口でも戸山でも、万が一に谷折でも ―

揺らぎようのない意志だった。
 折角治まりかけていた赤味だったのに、また美音の顔を侵食していく。
「それとも、俺が他の子の処にいってもいいと思ってるの?」
その顔に躊躇いを浮かべて、美音は俯いた。
「……それは、いや、だけど……」
「じゃあ、もうそういう話はしないで」
「……はい」
しゅん、とうな垂れてしまったその様子に、圭史はため息混じりに声を出す。
「ホントは、こっちの方がもう捨てられるのかと思ったよ。まる一週間放っておかれて」
「で、でも、昨日電話したんだよ?私」
その台詞にはたっと動きを止めた圭史。
「……え?いつ?」
「き、昨日の夜、9時前くらい」
動揺と共に頭の中は、昨日の記憶を辿っていく。
 本屋に兄と出かけた自分と、自分を訊ねていた弟。昨日は珍しく早寝だった。
「……あ、多分、その時兄貴と出かけてた。電話出たの、弟だった?」
「うん。……出来たら、電話欲しいって、言ったんだけどね、ヒロ君に。でも、電話なかったし、怒ってるのかなって思って……」
 圭史の中に瞬時に湧き出る怒り。

 ― あのやろう……! 帰ったら覚えとけよ。しかも、あいつが先に名前呼ばれてるってどういう事だよ ―

 そこで不安な顔を向けている美音にはっと気付いた圭史は、平生を取り繕い言葉を口にする。
「怒ってはないよ。ただやさぐれてただけで」
「……ご、ごめんなさい」
「いーよ、今はもう」
 それでも美音は、圭史のウエアの裾をぎゅっと握り縋るような眼差しを向けてきた。
「ホントに?」
それに圭史はくらくら……、となる。
どうにか平生でいようとしているのに。それを知ってか知らないでかの美音のそれは圭史を追い詰めるだけなのに。
知っていてわざとやっているのではないのだろうか、とさえ思ってしまう。
「ホント」
気を抜けば掠れてしまいそうになる声。
顔ではどうにか微笑んで見せながら、実際は限界すれすれの理性を必死で繋ぎとめている。
なのに、美音はその潤んだ瞳をじっと向けている。
圭史の理性はグラグラと傾きを見せていた。
「……もう、……」
無理。
その呟きは届いたかは分からない。
横髪を避けるように右手を頬に伸ばし、そしてすぐ反対側に左手を伸ばした。
指の間に流れる彼女の髪をそのまま一緒にして頭を支えるように右手で。
そして、流れるようにそのまま彼女の口を塞いだ。
もうその勢いは止まらない。
 始めは啄ばむ様なキスだった。
だけど、突然とも言えるそれに美音は必死な様子を見せる。
圭史のウエアを摘んでいる手に力がこもる。
それすら圭史を煽るものとなって熱が上がったような気さえした。
美音が苦しそうにしているのを見て、何度と唇を離し、その度に角度を変えて唇を優しく舌で舐めていった。それでも苦しそうにする美音の口が次第に開けられていく。
それは更なる激しさを呼ぶ。
彼女の口内に舌を押し進め最初は穏やかだったそれも次第に激しくなっていく。
されるがままの美音。それでも彼女は辛そうで、堪えきれず声が漏れる。
「……っ、……んんっ」
離れようと必死に両手を圭史の胸に押し当てる美音の力にも圭史はびくともしない。
圭史の手は、そのまま撫でるように首から肩、背中を、もう片方の手は腰を逃げられないようにぐっと支えた。
圭史の体の中にすっぽりと収まっている美音の体から、次第に力が抜けていく。
たどたどしい美音の反応にふとした思いが圭史の頭を過ぎった。

 ― ……もしかして、前の彼とは…… ―

圭史の攻めにすっかり美音の体からは力が抜けていた。

 唇を離すと、お互いの口から甘い吐息が漏れる。
何も映していないだろうその潤んだ瞳は、そのまま吸い寄せられるように圭史の胸元に抱きとめられた。支えるように彼女をしっかりと抱き締めながらいる圭史。
 そして頭の片隅で思うのだ。これが自分の部屋だったらなぁ、と。


胸の中で顔とその身とを預け、手を当てたままの格好で美音は告げた。
「……一番、すき」
初めて告げられた言葉に、圭史の中を明るく温かい何かが走るように充満していく。
それに素直に心を預けた。
「俺も好き」
何も考える事無く自然と口からそう想いが零れた。
 やっと、この胸の中に届いた彼女の思い。彼女の温もり。
満たされた想いに圭史はそっと目を閉じた。これからの二人に思いを馳せて。

2005.10.02


あとがき