時の雫-風に乗って君に届けば

§11 揺さぶられた想い


Episode 9 /10




 3年の送別会も明日に迫っていた。
前日の今日、午後は予行演習に時間がとられていて、生徒それぞれがあちらこちらを行き来している中、圭史は実行委員会で最終打ち合わせを行っていた。
「じゃあ、後は講堂で確認だな」
「瀧野、春日さんしんない?」
その問いに自然と声は低くなる。
「……今日はまだ見かけてない」
「とりあえず、移動するか」
一人の声を聞いて皆は講堂へと移動した。
そこでは、あちらこちらのスペースで明日の準備を行っていた。その光景はまるで学園祭の時のような雰囲気で、圭史にはその頃が遠い昔のようにも感じられた。
「この進行表、調光室においてくるから」
近くにいた人間にそう声をかけてから、圭史は舞台脇に足を進め舞台袖の階段を下りたところにある、二つ目の暗幕のような分厚いカーテンを潜り抜け、2階へとあがっていった。
そこに存在する調光室に入ると、前方は講堂を見下ろせるように窓ガラスになっている。そしてその機械が並んでいる所に美音が椅子に座っていた。
 自然に圭史の足は歩を止める。
あれから、声をかける気力もなく今日まで二人になるのを避けるようにいた。
進行表を置くのに、何か声をかけようかと思い口を開きかけていた。
だが、ガラスに映った圭史の姿を見て、美音の肩はビクリと反応を示した。
すぐに流れる微妙に重い空気。
 圭史は、たまらず息を吐いてから適当な場所に進行表を置くと何も言わずにその部屋を出て行った。

 その後、講堂に降りて最終打ち合わせを行っている時、調光室から出てきた美音が講堂を後にする後ろ姿を見かけた。
実行委員の輪の中に笑顔でやって来ていた美音の姿は最近見かけられなくなった。
 それも、自分のせいなのかもしれない。漠然とそう思うと、圭史は足元を見つめ胸が締め付けられそうな思いを感じて、耐えるようにぎゅっと手を握った。



「微調整も済んで、やる事は全部終わったよ」
報告をしに生徒会室に行ったのは圭史だった。中には亮太と快の二人がいた。
「じゃー、あとは終礼まで適当に時間潰してて構わないよ。春日もやる事ないって遊びに行ってるしな」
「ふーん」
顔いっぱいに不快感を顕わにしている快は、圭史に顔を見せないようにしている。
何の感情もなくそれを目にしてから、それはもう当たり前のように手前の美音の机に視線を移してみて、その状況に驚いたような声を出した。
「……なんで、そんなにごった返してんの?」
その台詞を聞いて亮太は圭史の視線の先に目を向けてから何事もないように答えた。
「ああ、なんか書類が見つからなくて、机の中ひっくり返して探してたからなー。ここ数日の記憶が曖昧らしくてどこに仕舞ったのか判らないって喚いてたよ。これだけ探しても見つからないから片付け後回しにして、結局放ったらかしだ」
「へー。珍しい……」
ぽつりと呟いた圭史に、何か言いたげな視線を亮太は送っていたのだが、それには気付いていない。

 美音の身の回りでこんな風に散らかっているのは見た事がなかった。
それは何かを必死で探している様子が窺えるほどに。
 ぼんやりとそんな事を思いながら眺めていて、圭史は見覚えのある物に気づいた。
それは美音の机の上に混在しているファイルの隙間に見えた冊子だった。
それはなんだったのかと思い出せず、見覚えのあるその表紙に真っ直ぐと手を伸ばした。
それは、学園祭の時恥かしいからといって見せて貰えなかった心理テストの結果が載っているものだった。「じゃ次にそれ見つけたら見させてもらうよ?」そう言ってもうあれから4ヶ月が経ってしまっていた。
圭史はその台詞通り冊子を見る事にし、その場所でゆっくりとページを捲った。二人はそれぞれの仕事を黙々と進めていて、圭史の事には目を向けていないようだった。

書かれている内容を最初からざっと読んでいって、それが最後の行にたどり着いた時、圭史の目は見開かれ手の動きも止まった。
「……え?」
思わず呟いてしまった声はあまりにも小さすぎて二人の耳には届いていなかったようだ。
圭史は信じられない気持ちで、確かめるように同じ行を読み返した。


 白、瀧野君

白、好きな人

そして、頭の中にはそれを書いていた時の事が思い出される。


―――「んで、あとは[白]。うーん、白、白と言われて思いつく人」
そう言って浮かばなかったそれを、その時目の前にいた人間の名前を書いただけなのだと圭史は知っている。
「瀧野君でいーや」
「お前ホントに適当だなぁ」
亮太の呆れた声に、美音は明るい笑顔で言っていた。
「まー、心理テストとはそういうもんよ。深く考えちゃダメなのよ」

それは偶然で、深い意味はないのだと思う。

 だけど、次に思い出されるのは、冊子を見せてと言った時の反応だった。
美音は瞬時に冊子に手を伸ばすと、あっという間に抱え込んで「駄目!だめだめ!」と声を上げた。それは思いがけない反応だった。泳がせた目で顔は赤くして必死な様子で言っていた。それだけで、思いもがけない事が書かれていたのだろうと予測していた。
「え、えぇと、まだ見てないし、は、恥ずかしいから、また今度」
俯いたまま、隠すように冊子を膝の上に置いて、美音はずっとあたふたしていた。



そして、今までの事が頭の中を次から次へと駆け巡っていく。
様々な美音の反応がまるで数式のように並べられていく。
数学だったら簡単に解けられるのに……。そんな事を思いながら。
 そして、突然に心の中に、ぽわ、と期待が浮かぶ。
何度もそれを抱いては喜んだり、それ以上に落ち込んだり。
ぼんやりと諦めようと思ってみても、それを本気でそうしようとする事は出来ず、ここ数日浮かない気分のまま過ごしていた。

 こんなに自分は諦めが悪かったんだろうか?
自嘲気味にそう思ってから、冊子の内容を読み返していた。


「……藤田さ、この間俺に、入学した時からって言ったよな」
目は冊子に向けたまま圭史はそう口を開いた。
その台詞に快は自信満々に言う。
「そーですよ。ずっとですよ」

「じゃあ、俺は中学の時からずっとだよ」
負けるつもりも引くつもりもないという意志のこもった声と台詞だった。

それには亮太も驚いた顔を浮かべて視線を向けた。
それに構わず圭史は今言った事は大した事でもなかったという素振りで言う。
「溝口は、これ見たことある?」
「あ、ああ。春日見せてきたからな。おかしそうに笑いながら」
「そっか」
圭史は納得したように冊子を元の場所に戻すと、何もなかったように生徒会室を出て行った。



その足で講堂に向かうと、テニス部女子がそれぞれ時間を潰すように座り込んでいる場所に行った。探している人物の姿が見当たらない事に気づくと、壁に寄りかかって馴染みのメンバーと寛いでいる川浪の所に行きしゃがんで声をかけた。
「伊沢にちょっと用事があるんだけど、知らない?」
その顔に意味ありげな表情は見受けられないのを見て、川浪は淡々と答える。
「ああ、栞なら図書室に行ったよ」
「分かった。サンキュ」
それだけ言うと、圭史はすぐに腰を上げた。川浪の周りにいる女子の視線を感じながら、まるでそんな事は興味がないといった様に前だけを見つめて図書室に向かった。



 ― 俺はこんなに自分がバカだとは思わなかったよ…… ―

 それでも、止まる事を知らない想いを胸に、浮上するためのヒントを得るために圭史は足を進めた。
捨てきれない想いだという事だけは良くわかっていたから……。






 圭史は他の何も考えず図書室の扉を開け一層静かな空間へと身を移した。
手の空いている生徒は各々の教室で課題のプリントをしながら自習時間を楽しんでいる時間だったから、生徒がいないのは分かりきっていた。
その予想通り中を進んでいっても生徒の姿は見当たらない。
テーブルにも誰も座っておらず、圭史は足を本棚の方へと移していった。
通りすがら間の本棚に目を向けていっても図書室にいるというはずの栞の姿は見当たらなかった。奥へと進み、突き当りの本棚に近づくにつれ耳には話し声が聞こえてきた。
最初は何を言っているのかまでは分からなかったが、最奥の本棚にあと2つという所で栞の声がはっきりと耳に聞こえてきた。

「……それって、本当は前の恋引きずってるだけなんじゃないの?」
圭史がいる反対の方向を真っ直ぐと見つめる栞は何かを一掃するようにそう言った。

 その台詞に圭史は足の歩みをピタリと止め、見えない先にいる美音の姿を視たような気がした。でも、それは思い違いではないだろう事は予測がつく。
圭史の心臓は嫌な音を奏で始め、体は嫌な汗が浮かんできたのを感じた。

美音はぴたりと口を噤み固まった。
「口では気にしてないって言ってたけど、本当はずっと引きずってるでしょう?
心の傷になってるでしょう。瀧野君の仲の良い友達だから、瀧野君を見る度思い出して、その人を瀧野君に重ねて見てるんでしょう。だから、外見のイメージで勝手に判断されて、現実との差にショックを受けられる事を怖がってるんでしょ。
その人は春日ちゃんの外見しか知らないで突き放したから。
……でも、今度もそうやって何もしないで諦めるの?
一人で勝手にうだうだ考えて、自分の事に囚われて。今の春日ちゃんちっとも魅力ないよ。そんな自分で納得できるの?春日ちゃんの良い所は、いつも明るく人を気遣って恥かしくない自分でいて、そして、乗り越えなくちゃいけない事はちゃんと乗り越える事が出来る人だよ」
「いさちゃん……」

頭の中が真っ白になっていくような気がした。
気にしないようにして、何も考えないでいた事だった。
耳に入ってくる台詞が、何をどういう風につながって発せられているのか分からないでいる。足元から崩れていきそうな感覚に必死で抗っていた。

「瀧野君は、きっと春日ちゃんの良い所も悪い所も分かってる。うわべだけでそこまで優しくなんて人間できないよ。それに、前に男子たちが話してるの聞こえてきてた時、瀧野君が言ってた。怖がりの子ほど強がりを言うって。臆病な子ほど必死に我慢しようとするって。あの時は誰の事を言ってるんだろうって思ったけど、今思えば、あれはきっとそうだったんだって思う。春日ちゃんはどうなの?」

 自分の名前が出て圭史ははっと我に返った。
……確かに、そんな話はした事があったかもしれない。それがいつだとかは全く記憶にはないけれど。
 その場から体を動かす事もできず、圭史は入ってくる声に耳を傾けていた。

「……優しすぎて、どうして良いのか分からなくなる。
そして、辻谷君の事聞かれて……。一番に気になるのかって訊かれたから、ちゃんと違うって言った……!でも、その後、遠慮しないからって言われて、正直分からなかった。待ってるからって言われて、何で?って思った。どうして、何を待てるんだろうって思った。……前に送って貰った時に、俺の事、どう思ってるて聞かれて、私頭の中真っ白になって言おうと思ってた事何も思い出せなくて……。焦れば焦るほどテンパって。そしたら丁度妹が家から出てきて、瀧野くん帰っていったよ。それから、もう顔もあわせてくれなくなっちゃって、……もう、呆れられちゃったよ……」


 ― ……なんだ、悪い意味で困ってた訳じゃないんだ…… ―


「そんなのっ、ちゃんと聞いて見なきゃ分からない事でしょ。好きだった人の事、そう簡単に何も思わなくなんて出来ないんだから。他の事には前向きに頑張るのに、なんでこういう事には臆病になるの?!もう!怒るよ?!」
「〜〜〜もう十分怒ってるよ〜、だって〜……」
「……もう、ほんとに」
呆れたようにそう言った栞が、その時目線をずらした先に、どうしたものかと立ち聞いていた圭史に気づいた。

 圭史は内心ぎくりとした。知っていて立ち聞きしていた訳ではないけど、この状況が良い筈である訳がない。
……だが、栞は微笑した。
それは美音の様子に「困ったものね」と半ば呆れているものだった。
 それに、圭史は困惑した表情を浮かべた。
そして、何も気付いていないフリを装いつつ、栞は何もなかったように再び美音に目を向けた。

「それで、夢を見たって言ってたけど、どんな夢を見たの?」

突然の言葉に圭史は繋がりが分からなかった。

「え?えーと、……夢、です」
それはまるで恥かしい事だと言って説明したがらない美音の声。
そんな美音を見ている栞の顔からは笑顔がすっと消えた。
「ちゃんと言わないとマジで怒るよ」
「……うう。いさちゃん怖い」
半分おどけながらの泣き真似にも栞は表情を緩めない。
「春日ちゃん。」
いつにない厳しい口調に、美音も誤魔化しが利かない事を覚ったようだった。
「はい。……えとね、告白される、夢だった。……熱出してる時に見たんだと思う」
心許無い美音の声に、栞は困ったようにため息を吐くと、半ば呆れたように言った。
「それで?どうするの?何も答えないまま、言えないままで嫌な思いさせたまま、前のように勝手に諦めて、そのうち相手に彼女できて、そして又良かったねって一人納得させるの?」

頭ではその台詞の意味が自分を対象にしているのだと分かるのだが、心の方はそれを信じたがらなかった。

「だって、だって、もう呆れられてる!もう顔も見たくないくらい嫌われてる!最低な態度とってる私の事……、いくら、瀧野くんが優しいからって、もう、……」

 そんな美音の言葉に、体は勝手に息を潜めた。
ついさっきまで心臓は嫌な音をたてていたのに、今では打って変わって高い音が体中に響き始めていた。

「……そんな事、分かんないでしょ。だって春日ちゃんが一人で勝手に思ってる事だもん。本当にそう思われてるのか、訊いてみたらいいじゃない」

そんな栞の言葉に圭史の心臓は勝手に飛び跳ねた。

「……そんな簡単に……」
困った様子を見せる美音に、栞はさっき目線を向けた方向に指し示すように手を向けてあっけなくともとれる位のそれで言った。
「春日ちゃん、ほら」
美音は栞の示した方を素直に目を向けてみて、言葉にでは出来ないくらいに驚きの表情を浮かべた。
「!!!!!」

栞の言葉に、圭史は躊躇いを感じながら美音が見える場所に足を進めた。
この状況に、圭史は何を口にして良いのか分からなかった。
だけど、背中を向けられる状況ではない事だけは分かっている。
それに、ずっと知りたかったのだから。

「ちゃんと言葉で伝えないともういい加減本当に愛想尽かされちゃうよ。じゃ、後はヨロシク。私、もうしーらない」
栞は事を促すようにそう言うと、最後の台詞はどちらに言ったのか定かではないまま、驚きに固まったままの美音を置き去りにし、どちらに目を向ける事無く図書室を出て行った。


その場に流れる息苦しいほどの緊張感。
圭史はもう腹を括るしかなかった。もしかしたら、逃げ場のない状況をずっと求めていたのかもしれない。ただ、そこまで勇気が出せなかっただけで。
 圭史は息を吸うと、美音に向かってまずは足を一歩動かし始めた。
「……何を、訊きたいの?」
それは感情を抑えたような静かな声だった。
でも、その中にははっきりとした意志を感じることが出来る低く落ち着いた声だった。
「え、……あ、……あの、待ってるって、なに、を……」
顔を見ればパニックに陥っているのはありありと分かる。
 それでも、その台詞には思わずため息が出そうになっていた。
「じゃあ、春日は何で俺が待ってると思う?」
「……だって、瀧野くん、優しいし……」
何か躊躇いを見せながら呟いた美音は、圭史の顔を見ようとせず俯いたままだった。
その台詞だけでは不十分すぎる。圭史は訊く。
「……俺の事、優しいただの同級生だと思ってるの?」

「……え?」
何かを抑えた声に、美音は何かを怖く感じて目を向けた。
圭史の目は真っ直ぐと美音を捕らえている。いつも向けてくれる優しい穏やかな瞳ではなく、まるでテニスコートに立っている時の様な真剣な眼差しに、美音は無意識に後ずさっていた。二人の間にあるはずの距離はまるで無いも同然のように感じられた。
美音はすぐ行き場を失い、背は壁に突き当たった。その拍子に手にしていたファイルが床に落ちていく。
「あ……」
でも、呪縛されたように美音は圭史の目から放す事はできなかった。
圭史は躊躇うことなく美音に一歩一歩近づいていく。そして、目の前に立ちふさがった時、尚捕らえようと圭史の瞳に強い光が燈ったのを見た。

「俺を優しいと言えるのは春日だけ。それが何故だか分かる?」
「え、だって、いつも助けてくれるし、……笑顔が優しい、から……、だから、皆だって」
圭史が距離を縮めれば縮めるほど、美音の顔は赤く染まっていく。

きっと、誰もそんな顔など見た事はないだろうというそれに、圭史は目を細めた。
「優しくできるのは春日限定。……俺だって、れっきとした男だって分かってる?」

「……え?た、瀧野くん……?」
今まで見たことがない位の圭史の様子に、美音は体を何一つ動かせられないでいた。
心臓がばくばく声を上げている。なのに、美音にはどうすることも出来ずに頭の片隅で漠然と思っていた。
 なぜ、彼はそんな事を言っているのだろう、と。
そして、圭史は美音を捕らえていく。確実に。今までより力強く。
美音の顔の横に、壁を支えるようにして置かれた圭史の手と、至近距離にある圭史の顔。美音は、このさっきから鳴って止まない胸の音がまるきこえなのではないかと思った。
あまりの悲鳴にも似た心臓の音に、美音は自分の体が爆発するのではないかと思った。震える手を必死に自分で握り締めて、必死の思いで言葉を綴る。
「な、なんで……?」

「ずっと、待ってたんだ。……返事を。あの時、春日はもう熱が出ていてうろ覚えなのかもしれないけど、夢じゃないよ。あの告白は」

「…………え」
そう声を漏らすと、美音は固まったようになった。

それでも圭史は放さなかった。
「見ていても聡を好きだっていうのは解っていたから、ずっと諦めていたんだ。特に俺じゃ駄目だろうって。……だけど、今は……」
そう言って、辛そうに俯くように目を閉じた。
何かを決したようにゆっくりと美音を見つめ、熱い眼差しと共に圭史は言葉を放った。

 美音の心臓は苦しいくらいのどきん!という低くてにぶい音をたてた。

「忘れられないんなら、それはそれでいい。そのまんまの春日に、……俺は惚れてるから」
そうして見つめる圭史の瞳は、何度と今まで向けてきたのよりも熱く揺らいでいた。

憑き物が落ちたかのような表情でゆっくりと圭史を見つめる美音の目からは、今まで見せていた自信なく不安に揺れていたものが消え失せていた。そして、代わりに目尻にはしずくが浮かび、今まで胸に刻まれていたであろう言葉が吐き出される。
「……でも、中学の、皆思うよ、私と瀧野くんじゃ……」
圭史は静かに言葉を紡ぐ。
「……構わないよ」
「私、中身は皆が思ってるような子じゃないよ。可愛げないし、すぐ深みにはまるし」
「……いいよ」
圭史の眼差しが優しく美音を見つめる。向けている美音の潤んだ目を見て、逃げ場を与えぬよう棚につけていた手をゆっくりと外し、代わりに一歩距離を縮めた。
「春日の、気持ちが聞きたいんだけど」
 ただ、それだけを求めていた。

美音は顔を少し伏せると数瞬の沈黙を経て、その小さく熱で湿った手を圭史の手に遠慮しがちに絡めた。
「……すごく、嬉しい、デス……」

臆病な彼女が、少しでも気持ちを伝えようと手を握り、震えた声で言った言葉に、圭史はかつてないくらい喜びに心が震えるのを感じた。
そして、突き上げて来る感情に堪らなくなって、それはもう衝動的に胸の中に抱きすくめていた。自分の腕が彼女を捉えきるまでのその一瞬が、やけに長く感じた。
確かなものなのだと実感させるために、胸の中に納まった彼女を抱きしめた。

彼女の温もりが全身に行き渡っていくようだった。自分の心臓も大きく鳴り響かせていたが、彼女から聞こえてくる心音は早鐘のようだった。
 腕から力を抜いて彼女の顔を目に入れれば、頬は真っ赤に染まっていた。

さっきまで荒いでいた感情の波は嘘の様に引き、心の中には優しい風が吹いてくる。

 落ちてくる美音の横髪を指ですくい止め手のひらで後ろへと押しやる様に流し、視界に映る恥かしそうな表情を見て、そのままゆっくりと赤い頬にそっと口付けた。
少しくすぐったそうに目を閉じる美音に尚愛しさが積もる。

 今度こそ、圭史はその衝動的な熱情に素直に気持ちを傾けた。
顔をそっと美音に近づけていく。
お互いの前髪が触れようとした時、躊躇いながら美音は言葉を漏らした。
「……ぁの、見られたりとか……」
「誰もいないよ」
「……でも」
「ここ、死角になってるし」
美音は救いを求めるように上目遣いに圭史を見た。だけど、圭史がそのままの体勢を保ったまま動きを見せないのを見て、諦めるように目線を落とした。
 圭史の瞳は優しい光に燈され、そのままゆっくりと顔を寄せていく。


 そう、重なると思うその手前で、静かな空間を打破するものが突然と図書室を襲ったのだった。



 慌しく図書室の扉が開かれたかと思うと、騒々しく声が飛んできた。
「春日さーーん!いますかー、緊急に召集かかりましたよー、春日さーん?!」
生徒会役員の中で一番地声の大きい快の声が図書室に響き渡った。

 それを聞いた瞬間、美音の体はピクリと反応を示し、すぐに駆け出しそうな感じになってからすぐにはっと圭史に目を向けた。

「……―――、はぁ」
言葉にならない想いが口から漏れた。方向を逸らした顔を、圭史は何か言いたげな目で美音を見遣ると直ぐに諦めた表情を浮かべ大人しく彼女から手を離した。
 もう顔は責任者のそれになっていたからだ。

「春日さんいないんですかー?緊急会議ですー」
近づいてくる声に多少のうろたえをみせながら美音は慌てた様子で声を放った。
「はーい、すぐ行くから先行っててー!」
「えー?どこにいるんすかー?」
「直ぐ行くから先行ってて!」
「……はーい」
そして足音が遠ざかり出て行く音がすると、美音は安心したように息を吐いた。

すぐ、「あっ」と言う表情で見上げた美音を見て、つれない思いを抱きながらどこか拗ねた感を見せつつ口にする圭史。
「……緊急、だって」
「う、うん、……ごめんね」
思いっきり申し訳無さそうな顔をしながらそう言うと、美音は慌てた様子で生徒会室へと向かって行った。

 そして、静かなこの場所にただ一人。
圭史は堪らず息を吐くと、前髪をかき上げながら本棚にもたれた。
視界に映るのは、本棚の上段と天井。でも思い浮かべるのは、まだ腕に温もりの残る美音のこと。
「……いーけどね、別に」
得たかったものを今度こそは本当に手に入れる事ができたのだから。

その台詞とは反対に、圭史の顔には恨めしい思いがはっきりと浮かんでいる。
一時はそれを抑えこもうと思ったのだが、余計に心の中はもやもやとしてくる。
「あーあ、もう!」
結局、行き場のないやるせない気持ちを吐き出さずにはいられなかった。