時の雫-風に乗って君に届けば
§11 揺さぶられた想い
Episode 8 /10
水曜日は各部との生徒会による送別会の打ち合わせが行われる日だった。
放課後になると圭史はすぐ会議室に向かった。
今日は部活のない曜日。本日は珍しく実行委員会がなく、各部の責任者及び補助1名が会議室に集合となっていた。集合時間までには余裕で時間があり急ぐ必要はない。
圭史はただ美音の事を気にかけていた。
各部長が集まるという事は、バスケ部の片岡が顔を見せるだろうからだ。
圭史の足は気持ちに比例して早足になっていた。
会議室にはまだ誰も姿を見せていないのを確認すると、生徒会室に寄った。
「何か手伝える事あったらするけど?」
建前を口にして生徒会室を覗った。
「おー、サンキュ。奥のテーブルにあるプリント運んで」
生徒会室には亮太と丈斗の二人だけがいた。丈斗が準備し終えた奴から圭史と亮太で隣の会議室に運んでいく。
会議室に入り、教壇にそれらを乗せながら、亮太が口を開いた。
「そうそう、春日は今日図書室で校内新聞の校正してるから」
「そう。今日は溝口が?」
「そうだよ。本当は春日と野口の仕事なんだけど、さすがになぁ」
亮太も同じ気持ちだったようだ。それに幾分心にゆとりが出てきたのか、圭史はふと気づいたことを訊いてみた。
「あれ?今日藤田は?」
「あいつは今日は橋枝の手伝いで、教員室に行ってるよ」
「ふうん」
打ち合わせが無事終了すると、あっけなく解散となった。
圭史がノートをカバンにしまいふと気付いた時には既に谷折の姿はなかった。
「……あいつ……」
思わず口からそう言葉が漏れた。
会議室を出て生徒会室に寄ると、楽しそうに笑っている谷折の姿がそこにあった。
「お前……、姿が見えないと思ったら」
「おー瀧野。遅かったなー」
「遅かったなじゃねぇよ。俺にばっかりノート書かせやがって」
「だって、お前の方がノート書くの適任じゃん。あれ?そう言えば春日さんは今日休み?」
「いるよ。丁度いいや、図書室にいるからタニ呼んで来て」
ファイルを片付けながら思い出したように亮太は言った。
椅子の背を前に向けて跨って座っている谷折は不満そうに口を開く。
「えー?なんで俺?」
それに亮太は全く気にした様子を見せず言う。
「働かざるもの食うべからずって言うだろ」
「あーおやつね。あ、でも俺、今のところ春日さんに嫌われてるからさー、俺が呼びに行ったら機嫌悪くなるかもよ?」
「はぁ?春日は早々人を嫌ったりしないぞ?」
「でもねー、最近嫌われ気味なのよねー」
それは冗談でも何でもないという顔で言う谷折に、亮太は怪訝な顔をしている。
「いーよ、俺行って来るよ」
ため息混じりに圭史が言い、静かに生徒会室を出て行った。
図書室に入ると、他の生徒は見当たらなかった。
委員会も部活もない今日は、さすがに図書室も人がいないようだ。
奥へと進み見慣れた場所に美音はいた。
真剣な表情をして、何か浮かばないかと眉を寄せながら原稿を睨み付けている。
片手にはペンをぶらぶらと動かしながら、片手は額に当てながら。
「うーん……」
そう唸った後、美音は何か閃いた顔をし、打って変わってすらすらと手を動かした。
そして納得した顔を浮かべるとテーブルの上にペンを下ろした。
そのタイミングに圭史は声をかけた。
「春日」
「ぅひゃ!」
突然の圭史の声に驚いた美音は素っ頓狂な声を出し背中をビクンとさせた。
その反応に圭史も驚いて一瞬動きを忘れた。
はっとした様子でうろたえながらも振り向いた美音は、胸を撫で下ろしながら口を開く。
「……あ、ごめん、今すんごいびっくりして」
「あ、うん。溝口がお茶にするから呼んで来てって。打ち合わせの方は終わったよ」
「あ、うん。今行くね」
ペンを筆入れに入れながら立った美音の所に圭史は歩き寄った。
「持っていくのはこれだけ?」
書類などをまとめて手に持ちながら圭史がそう訊ねると、美音は頬を少し赤く染めて頷いた。
圭史の斜め後ろを着いて行く様に美音は歩いていた。
美音の手には何も荷物はなく、全て圭史の腕の中にある。
圭史はいつも荷物に手をかけてから言葉をかける。「持つから」と。
それは決定事項を伝えるだけのような台詞だ。
美音に「持とうか」という問いかけの言葉をかければ、絶対「いい。自分で持つ」と拒否するからだ。反対に先に行動を示してから少々強引に言うと慣れはしないそれに少々戸惑いを見せるが美音は意外に素直に従ってしまう。圭史はそれを分かっていた。
生徒会室に向かう中、二人は微妙な空気を漂わせながら声を出さずに黙々と歩いていた。
今週に入ってから、まともに顔を合わせたのは今日が初めてだった。
だからなのか、話題になるものが浮かばない。それでも、美音と一緒にいる事の出来るこの時間が圭史には大切に思えた。
この日のこの時間、殆どの生徒は校内に残っている事がないはずなのに、ある教室の前を通っている時、不意に聞こえてきた艶かしい声に圭史はぎくりと動きを止めた。
「……っ、……ん」
そして、やっぱり聞こえてきた声に注意がそれて、事もあろうに筆入れが所在をなくしたように床に向かって移動を見せた。
― ……やばっ ―
それは予想通りに音をたてて落ちてしまった。
急に止まった圭史の肩に顔をぶつけた美音は、すぐ落ちた物に手を伸ばした。
「あ、瀧野くん、筆入れが……」
まだ気付いていない様子の美音。その後すぐに、教室の中から男の声が聞こえてきた。
「ごめん、ちょっと待って……」
― ……やばい! しかもこの声は…… ―
筆入れを拾い上げ体を起こしかけている美音を視界の端に捉えて、圭史は腕を伸ばしそのまま彼女を胸の中に隠すように抱きしめた。その直後、美音の手から拾ったはずの筆入れが落ちたのと、その教室の扉が開いたのはほぼ同時だった。
圭史は美音を抱きしめたまま、取り乱すことなく扉に顔を向けた。
「……お互い、いいところだったみたいだな」
圭史の様子を眼にした彼はそう口にした。
圭史は何食わぬ顔で言葉を返した。
「あぁ、それは悪かったな。すぐ場所変えるよ」
それを聞いてから、彼は圭史の胸を一瞥したのを見て、内心圭史はぎくりとした。
だが、彼は何もなかったようにすっと中に戻って行った。
扉が閉まり足音が耳に聞こえたのを聞いて、圭史はほっと息を吐いた。
「……く、るしい……」
その弱々しい声にはっとして圭史は慌てて彼女を解放した。
急いで筆入れを拾い上げると苦しそうに息をしている美音の手を握り足早にその場を離れていった。
― やっぱ峯はああいうタイプだったか…… ―
教室にいた彼は、同じテニス部の峯だったのだ。
その教室の廊下を曲がった所で、美音が息絶え絶えに声を出してきた。
「ま、…て、息が……」
「あ、ごめん」
足を止めると自然に手は離れた。
美音は苦しそうに呼吸を繰り返している。
そうして、圭史の頭の中に艶かしい声と美音の感触が再演された瞬間、体の奥を痺れのような緊張が奔り抜けた。
「……っ、……やばい」
「え?何?」
その小声は美音の耳には言葉として届かなかったらしく、顔を上げてそう訊ねてきた。
無意識に美音に顔を向けて、圭史の心臓は飛び跳ねた感覚になった。
「……あ、えと」
二人の目が合い、美音の顔は燃える様に赤く染まった。この瞬間に、抱きしめられた事を認識したようだった。
つられるように圭史の頬も染まり二人は慌てた様子で顔を逸らした。
「溝口が待ってるから、早く戻ろう……」
油断すれば掠れてしまいそうな声を必死に喉の奥から押しやって圭史はそう言い、生徒会室に向かって足を動かし始めた。背中に美音を痛いくらい感じながら。
「お?どうした?赤い顔で疲れた顔して」
態度で大きく椅子に座りながらお茶を飲んでいる谷折は戻ってきた圭史の顔を見てそう言った。圭史は疲れた顔で谷折を見ると、そのまま静かに荷物を机に置き奥の応接セットに足を運びながら口を開いた。
「帰ってくる途中で峯のいいところに遭遇してしまってマジで焦った」
「いいところってどんなトコ?」
圭史が細い横目で見遣り、人差し指で「来い来い」と指示すると、大人しく谷折は圭史の所に耳を持っていった。他の誰にも聞こえないように谷折に教えた圭史。
「ええー?!俺も見たかったー」
「ばか。声だけ少し聞こえてきただけだよ」
「なーんだ」
平生を装い頬杖を突きながら、圭史は目の端で美音の姿を追った。
こちらの事には興味無さそうに背を向けたままおやつの準備をしている。
今日の帰りは生き地獄だな……、と心の中でぼやきながら圭史はため息を吐いた。
盛り終えた器を奥にあるテーブルに置くと、置きっ放しにしている小皿の所へ戻りながら亮太に言った美音。
「どうぞ」
「ほい」
「ありがと」
お茶を入れたカップを通り過ぎる美音に渡してから、亮太は彼らのカップを持って奥のソファへと身を移した。
美音はもう片方の手に自分の分を盛った小皿を持つと自分の机に腰を下ろした。
「おーい、食うぞー」
「ほーい」
亮太の声を聞いて、二人は器に手を伸ばした。
美音はカップを片手にしながら、机の上に広げた原稿を眺めている。
そんな様子を見遣ってから、亮太は向かいに座った谷折に顔を寄せて潜めた声で訊ねた。
「……お前、何した訳?」
それに谷折は誤魔化すように大きく開けた目を明後日の方向に向けて口はへの字口に曲げた。隣で圭史は少し不機嫌そうに呆れた顔をしているだけだった。
カップに口を付けながら、圭史はふと峯の事を思い出していた。
「……そう言えば、今峯って特定の子いる話は聞いてないよな?」
「うーん? 峯は最初から相手選ばないって言う話を聞いた事はあるけど?」
「不特定多数な。んじゃ、俺が知ってる通りか……」
「で、それが何?」
片眉を上げながら訊いた谷折。
「ん、ちょっとな」
圭史は、腕の中に閉じ込めた美音に目を向けていた峯を思い出しながらそう答えた。
亮太と谷折がお喋りをしている中、頬杖をついている圭史はふと美音の方に目を向けた。
原稿にペンを走らせている美音は引き締まった表情をしている。そんな姿に見惚れてしまう自分を感じながら圭史は小さく息を吐いた。
おやつを食べ終わった頃、美音は原稿を提出しに教員室へと向かったのを見て、亮太は口を開いた。
「で、何したんだよ一体」
そう言われた谷折は不貞腐れた顔をして言う。
「ただちょっと余計な事言っただけだよ。だけど、俺ちゃんと後で謝ったよ」
「で、それいつ頃の事だよ?」
「えー、と、かれこれ一週間以上経つかな」
「……、タニ、俺も大概春日を怒らせた事はあったけど、そこまで根にもたれた事はないぞ?よっぽど余計な事言ったんだぞ、お前」
それは相当だと顔でも言っている亮太。圭史は気まずそうな顔を天井に向けている。
「なんだよ、お前まで。どーせ俺は短絡思考ですよ」
拗ねるように言った谷折を眺めてから、亮太はため息混じりに言う。
「まぁ、タニと春日じゃ、タイプ的に合わないだろうしな。 けど、今の状態が総会まで続いてみろ?お前がヘマしたら攻撃されるの目に見えてるぞ。言っとくけど俺は助けてやれないからな」
「……え? もしかして俺って立場やばい?」
不安な表情になって二人に恐る恐る聞いた谷折に、圭史と亮太ははっきりと強く頷いたのだった。
「だってさー、こいつがうだうだハッキリしないからー」
「俺のせいかよ?俺何も頼んでないじゃん」
谷折の言葉に反論する圭史。亮太は少々呆れ顔で言う。
「あー、それで大体予想つくけど、お前も不用意に関わろうとするなよ」
「お前はそれでいーかもしんないけど、俺はすんげぇとばっちり受けるんだぞ?」
二人の会話を聞きながら、圭史は腕時計に目をむけ時間の経過を確認するとソファから立ち上がり亮太に言った。
「春日は今日はこれで帰れんの?」
「ああ、後は俺が橋枝たち待ってるだけだから先帰っていいよ」
「おー分かった」
「ばいばーい」
そう言って手を振る谷折を少々呆れ顔で一瞥してから圭史は歩を進めた。
美音が座っていた机は、もうきちんと片付けられていて椅子の上にカバンが置かれていた。きっと帰る時にはこれを手に持つだけで良いのだろう。
圭史は自分のカバンと一緒にそれを持つと生徒会室を出て教員室へと向かった。
静かな廊下を美音は一人で歩いていた。
「はぁ……」
ぼんやりとしていれば勝手に出てしまうため息に、尚更ため息をつきたくなってしまう美音。そんな自分に自嘲気味な笑みを浮かべてからゆっくりと足を止めた。
辺りに物音はしない。それを確認してからポケットに手を入れ何かを握るとゆっくりと胸元まで上げ手を広げた。そこに在るのは、圭史に造って貰ったキーホルダーだった。
それを見つめる目は不安げに揺れていた。
「…………」
ため息を吐きながらその手をゆっくりと閉じていく美音の耳に、小さく足音が聞こえたかと思ったら、声が突然降り注いだ。
「あれ?それって」
突然の言葉に美音は体を強張らせた。心臓がギクリと嫌な音を立てた。
「あ、はい」
動揺しながらその声に振り向けば、そこには人目を惹く華やかな容姿と何かを纏って放さないゆったりとした空気を持った男が立っていた。
その人物の顔を見て数瞬後、血の気が引く思いにかられた。
― うわわわ、よりにもよって……。うわー、どんな顔していいのか分からない ―
目を合わせられないでいると、彼が自分を頭から足の先まで調べるように見ているのが分かった。
― もしかして、気づいてる……? ―
そう思った美音は、恐る恐る顔を上げて彼の様子を確かめようとした。
すると、彼は歩み寄っているところで、尚更、美音はぎょっとし、じり…、と後ろに動いた。それを見て彼は足を止め、見る者が強く惹きつけられるであろう微笑を浮かべながら言葉を綴る。
「生徒会の人だよね?同じ2年で」
「あ、うん……」
それが何か?という怪訝な色を浮かべて美音は口にした。
「そのキーホルダー、君のだったんだ」
にっこり。と笑顔で言われても、美音の頭はのぼせはしなかった。浮かぶのは嫌な予想。
― ……と、いう事は、目撃しちゃったのもろバレですか? ―
嫌な汗が額に浮かんでいく。何かに囚われてしまいそうな危険が美音の背筋を這っていた。皆は彼がかっこいいというけれど、今美音が感じるのは恐怖心だった。
彼は「おや?」という意外そうな表情を浮かべると、余裕のなさそうな美音を冷笑を浮かべ静かにまた少し近寄った。
「取り引き、したいな」
「……え?」
固まったままの美音。
「口は軽くないって聞いてるけど、でも確かじゃないしね」
その台詞に体がサーっと冷えていくのを感じた。そして何故だか本能が危険を知らせる。
せめてもの抵抗に後ろへと下がりながら、蛇に睨まれた蛙のように他は動かせないでいた。
「あ、あの、テニス部の峯君とは、何も取引することなんてないから……」
「でも、僕のほうがね」
人を捕らえようとするその笑みが、今の美音には恐ろしく感じた。
峯はそれを楽しんでいる様子に見えた。
「春日!」
感情を込めた強い声がその場に飛んできた。美音はその声に救いを求める顔で振り返った。
圭史は峯との間を遮断するように美音の前に急いだ様子でやって来た。
美音は自分を守るように目の前にある圭史の肩を見て、安堵の息をこっそりとついた。
圭史が間に現れても、峯の目は美音に注がれているままだった。
「この子に手は出すなよ」
それは圭史の強い意志が含まれたはっきりした声音だった。
その台詞に峯の顔が驚きの色に包まれた。そして、圭史の後ろで頬を赤くしている美音を目にして、その背中のラインに何か気づいた様子で口を開いた。
「……ふぅん、そっか。 明日も、朝練あるんだっけ?」
「……送別会の前の日まであるよ」
「分かった。じゃ、また明日ね」
それだけ言うと峯はその場を去っていった。
美音は峯が遠くへ行ったのを確認してから胸を撫で下ろし安堵の息を吐いた。
「カバン持って来てるから、このまま帰ろう」
「あ、……うん」
顔を向ける事無く進行方向を向いたまま言った圭史に、美音は戸惑いを感じていた。
何故なら、声が怒気を含んでいたから。前を行く圭史の表情はどこか怒っているようにも見えた。持ってくれたままのカバンを、自分で持つと言い出せないままその後ろを付いて歩くことしか美音には出来なかった。
圭史の最初の台詞を思い出し、美音は再び頬を赤く染めていた。
圭史が美音と帰る頃にはすっかり日も暮れて、通る道は暗かった。
なのに、二人の間には微妙な距離があり見えない何かがそれを固定している様な気さえする。圭史はちらりと目を向けてみて美音の様子を窺った。
肩にかけたカバンの持ち手に美音の手はしっかりと握られている。「何か手に持っていないと落ち着かないから」と自信なさそうに言われて、圭史は無言にカバンを返した。顔も伏せがちで圭史が顔を向けている時に、美音が顔を向けているのを目にしていない。
悪く言えば、避けられているその様子に、圭史は小さく息を吐いた。
信号待ちで足を止めた時、数秒遅れて美音が止まった。この帰り道で一番近い距離になった。片足に体重をのせれば肩が彼女に当たりそうなくらいの距離。
自分の緊張を解くように手を少し動かしてみれば、ちょんと彼女の手に当たった。
ただそれだけの事だった。けれど、美音の手はぱっと胸元に寄せられていた。
彼女の明らかに意識している様子に、心の中にあった重い気分が少しだけ軽くなったような気がした。
― ……勇気を出して、聞いてみようか ―
二人の間に降り注いでいるのはひたすらの沈黙。
圭史は声を出すのにも今の状態ではかなりの勇気が必要な気さえする。
つまらない感情に左右されてぎこちない空気にしたのは自分だと言うのに。
途中の公園辺りで言ってみようか、そう思って足を進めても、その場所に着いたら上手く声は出せずに重い空気に流されるように過ぎてしまった。
適当に見計らって、と思っても足は黙々と家に向かって進んでいる。
気持ちばかりが焦るだけで上手く言葉を紡ぎ出せないまま、美音の家に辿り着いてしまった。深いため息を吐きたい衝動に駆られた時、美音が口を開いた。
「あの、今日も送ってくれてありがとう」
やっぱり目は伏せがちで自分を見てくれない美音に、圭史は少し困ったような笑みを浮かべた。一瞬だけ躊躇って、それでもやっぱり諦め切れず台詞を綴る。
「……うん、あのさ、一つだけ聞いてもいい?」
どこか控えめな口調の圭史に、「なに?」と顔を上げた美音。
その何も警戒をしていない様子に少し安心しつつ台詞を続ける。
「思ったこと正直に言ってほしいんだけど」
「……うん」
素直に返事をした美音に、少しの安心を感じながら圭史は口を開く。
……それでも、胸は緊張でどきどきと鳴っていた。この時ばかりは、心臓はちゃんと動いているのだとよく知る。
「……俺の事、どう、思ってる……?」
それは絞り出した声だった。言い終えた後、辺りがいつもより静かに感じる。
うるさく聞こえるのは自分の心音。
そして、彼女の顔を目にしてみて、言ったことを後悔した。
そう、そこにいる美音は驚いた表情を浮かべてフリーズしていた。
そして紡がれる言葉。
「……え、と、……その、……私、……」
それは本当に困っている表情だった。
二人の間に凍てつくさんばかりの冷たい風が吹いていく。
圭史の手には汗が滲み出ていてどうしようもなく何かに心が押し潰されそうになっていた。
だが、そこへ、そこに存在する空気を一掃するかのように玄関の扉が開いた。
「あれ?お姉ちゃん、寒い中何してるの?」
「え?あ、何でもない。真音こそ何?」
「回覧版を回しに」
「あ、そう……」
気まずそうに美音は圭史に顔を向け、紡ぐ言葉に困っている様子だった。
圭史はそれまであった思いをぐっと呑み込むように体に力を入れ、どうにか言葉を吐き出した。それは精一杯の思いやりだったかもしれない。
「……また、学校で」
そして、美音の言葉を待つことなくその場に背を向けて歩き出していった。
今の圭史には他の事を考える心のゆとりは全くなかった。
あるのは砕けそうになった気持ちだけ。