時の雫-風に乗って君に届けば
§11 揺さぶられた想い
Episode 7 /10
翌日木曜日、終礼が終わると鬱蒼とした気分で教室を出て部室に向かっていた。
朝練が始まると、朝の登校で一緒になることもなくなり、顔を合わすこともなくなる。
あとは昼休みに廊下で図書室から戻ってくる美音の姿を見かけるくらいだった。
― 結局、訊きたい事は何も訊けなかった…… ―
昨日帰りの美音を思い返してはため息が口から漏れる。
別に落ち込んでいる訳ではないのだが、美音の事を思うと心の中にどうにもならない気持ちが涌き出て、ため息を吐かずにはいられないのだ。
同じ場所にいると、自分の事を意識してくれるのが分かるのだ。
胸の中が嬉しくてくすぐったいような気持ちになる。でも、なまじ全く望みのなかった今までがあるばかりに、俄かに信じられない思いが頭をかすめる。
今までの恋愛に受身だった圭史は、正直こういう時どうしたら良いのか分からない気持ちが生じて、二の足を踏んでいるようだった。
でも、美音の笑顔を思い出すたび圭史は同じ言葉を自分にかける。
― 頑張ろ。とりあえず ―
下駄箱に向かう途中に、1年校舎が左手に見える。
その廊下を通り過ぎた頃に、向かいから歩いてくる快の姿を見つけた圭史は、このまま真っ直ぐ行けばすれ違う事を思い、とりあえず挨拶でも口にしようかと思った。
すいっと顔を上げて目を向けてみれば、快は明らかに圭史を見て険悪な表情になった。それに気がつきながらも、圭史は別段変わりなく顔を前方に向けた。
圭史にとって快のその態度は別に珍しいことではなかった。
だが、この後の反応は正直なところ予想外だった。
言葉を交わす距離になった時に、快は敵意丸出しの顔を真っ直ぐと向けて言い放った。快が圭史に真っ直ぐな視線を向けたのはこの時が初めてかも知れないという程の。
「……春日さんに、ちょっかい出さないで下さい。正直言って邪魔なんです。僕はこの学校に入学した時から見てきてるんですから」
最初は、きょとんとした顔をしていた圭史だった。だが、快の言葉が頭の中に浸透していくにつれムカーッと言う怒りがどこからか込み上がってくる。
「……そんなガキみたいな事言ってる暇あんだったら、認めてもらえるよう自分磨けよ。生徒会の仕事でも男としてでもまだ全然だろーがっ」
「……なっ!」
文句を言おうとした快から圭史はすっと視線を逸らしスタスタと下駄箱に向かって行った。
歩きながらも心の中に渦巻いているのは理不尽な事に対しての怒り。
普段から快は自分に対して好印象を抱いていない事は分かっていた。
彼の態度はそういうものだったから。だが、圭史にとっては、彼はそんな大した存在ではなかった。だから、別に何も思ったことはなかったのだ。
黙々と歩いていると、後ろから急ぎ足で来た生徒に背中を叩かれた。
「よ!」
不機嫌な思いで振り返れば、それは谷折だった。
「さっきの見てたぞー。瀧野くんてばカッコイー。惚れてしまいそう」
「気持ち悪いっての」
その谷折のいつもと変わらないおちゃらけが、心の中が嫌なものに埋め尽くされてしまう所を救われたような気がして、圭史の顔には安堵したような微笑が浮かんだ。
そのまま二人は下駄箱で靴を履き替えて部室へと向かった。
まだ他に部員は来ていない。鍵を開けて中に入りストーブに火をつける。
「……ったく、何なんだよ、あいつは」
積る苛立ちを吐き出すように圭史は言って、ロッカーを開けた。
そんな圭史を眺めながら谷折はロッカーを開け口を開く。
「まぁ、ああいう行動に出るくらい、向こうには余裕がないって事なんじゃないの?」
「……。向こうに、見ていても相手にされてないのは今も前も変わりがないけど?」
「うーん、何か決定的に違う何かがあったんじゃないの?向こうは生徒会で顔つき合わせている訳だしさ。でも、ま、お前が相手するほどのもんじゃないだろ」
「うーん……」
圭史がそう唸り黙々と着替え始めると、二人しかいない部室は静かだった。
その静けさも気にならず、圭史はふと言葉を紡ぐ。
「……あのさぁ、バレンタインに多分特別仕様の貰ったんだけどさ、それって告白した時の返事になるのかな?」
そう言ってトレーナーを頭から被り着替えを着々と行っている。
隣でも谷折が黙々と着替えていたのだが、暫しの時間が経って圭史の台詞の意味を把握したらしい谷折は一際驚いた様子で圭史を見た。
「え?!したの?いつ?!」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いてなーい」
「この間全部話したかと思ってた。 片岡殴った日の、送った時に」
「へー……、益々彼女の態度に理解が出来ないんだけど?俺」
「……、春日は、俺が友達っていうのを気にしてるみたいだ。春日がずっと好きだった奴とさ。何となくは分かる気がするけど、はっきりとした理由は分からない。で、バレンタイン貰った俺は素直に喜んでいいのかなー?と」
「あー……」
なんとなく納得がいったようで、谷折はロッカーに手をつきながら声を漏らした。そして数秒考え込んでから言葉を口にする。
「それはお前、喜んでいいだろー。っていうか、はっきり返事聞きに行った方がいいんじゃないの?あの調子だといつまで待たされるか分からないかもね」
ぽりぽりと頭を掻いて圭史はロッカーの扉を閉めた。
「意識して貰ってるのは判るから、それはそれで嬉しいんだけどな」
「まぁ、ね。でも、曖昧にしているよりハッキリさせた方がいい場合もあるだろうけど、……お前の苦労が目に見える気がする」
圭史はウインドブレーカーを羽織ながら口を開く。
「それは別にいいんだけどさ。過去の状態より今の方がずっと良いから」
「ふぅん?」
図書室に借りていた本を返却しに行った美音は、軽くなった布カバンを機嫌良くぶらぶらと振りながら外に面した廊下を歩いている。
何故だか今日は機嫌が良く、小学生のようにカバンを振り回している自分に思わず笑みが零れていた。
ふとした瞬間に、持ち手が外れてカバンは進行方向とは外れた所に飛んでいってしまった。
「あー、しまった」
周りに誰もいなくて良かったと思いながら、恥かしさのあまり声を出していた。
カバンの所に歩いていきながら物が一つ出てしまっているのに気付き、自分の行動に恥かしさを感じて何とも言えない表情になった美音。
「……何やってんだか」
今は使われていない教室の前で止まったカバンを拾い上げて埃を叩き落としている美音は、そこの扉が微かに開いているのに気づいた。丁度顔の正面だったのだ。
顔を向ければ、その隙間から教室の中の光景が目に入ってきた。
「……!」
見るからに恋人同士のキスシーンだった。
女の方は胸元が肌蹴ているし、ブラウスの中に男の方は手を入れている光景だった。
一瞬にして体の硬直を感じた美音は、どうにかその場をゆっくりと音をたてずに離れ、元いた場所まで移動すると脱兎の如く走り出した。
その足のスピードは衰えることなく下駄箱にまで辿りつき、自分のところに行きつく前の角をそのまま曲がった。
「あ!」
突然塞がれた視界に、そこに人がいるのだと知った時には遅かった。
美音の失速は間に合わず、その一瞬の間にぶつかるのを避けようと逸らしたのだが体はバランスを崩し背中から地に倒れ込みそうになった。
「わわわわわっ、……」
もう駄目だと思った次の瞬間、美音の腕は強い力に引っ張られるようにして倒れるのを防がれた。
「はー、セーフ」
無事を確認して安堵の息を吐いたのはテニス部員だった。
「あ、ありがとう、助かった……」
相手は美音のその言葉を聞いて掴んでいた腕を離し言葉を紡いだ。
「春日さんに何かあったら、顔色変わるのいるから助けられて良かったよ」
「……え?」
何?という美音の反応に、はっとしてやばいという顔をしながら、誤魔化すように言う。
「珍しく慌ててたみたいだけど?」
「あ、あー……、ちょっと驚いた事があって、それでね。……ごめんなさい、危うく怪我させる所でした」
「いや、それは大丈夫だったからいーけど。何があった訳?」
「…………」
「顔、赤いけど」
「……いえ、ちょっと目撃して驚いただけで……」
「何を?」
「……恥かしくて言えません。……あ!」
急に声を上げた美音。
美音は、落とした物を拾い忘れているのに気付き直ぐに取りに戻ろうと思ったのだが、本人達と出くわす事だけは避けたいと思ったのだ。男の方に見覚えがあるのに気づき、記憶の糸を手繰り寄せて思い出したそれを確かめるのに訊ねてみた。
怪訝な顔をする彼に美音は言う。
「身長、多分これくらいで、髪はクセ毛の柔らかそうな感じで頭こういう形した感じの人って、テニス部の峯君っていう人?」
「あ、多分そうだと思うけど」
「そ、かぁ……。判った、ありがとう」
美音は違う所を見つめながらそう言うと、向きを変えて今来た方向へ戻ろうとした。
「あれ?帰るんじゃなかったっけ?」
「えと、忘れ物したのと、ちょっと図書室で時間潰しに。笠井君、お世話かけました、ありがとう」
美音がにこっと笑顔で言うと、笠井は愛想よく答える。
「いえいえ。お役に立てて光栄です」
「じゃあねー」
同じテニス部員なら、部活が始まってから拾いに行けば良いと考えたのだ。
そして、美音は時間を潰すためルートを変えて図書室へと向かった。
「うー、寒い。いるやつからさっさとメニューこなして、中に入って送別会の準備すっか」
「そうするか」
谷折の言葉に同意した圭史。
基礎トレを終え外周走っている時、一緒になった笠井が隣に並んで話しかけてきた。
「そういや、下駄箱で春日さんとぶつかりそうになってさ、急いだ様子で角を曲がってきてぶつかりそうになったんだけど、珍しかったから、訊いてみたらさ、何かを目撃して驚いたんだってさ」
「ふーん」
「恥かしくて言えないって顔赤くしてたよ。そういう反応するなんて可愛いよね」
「ふーん?」
「なんか、思ってたより結構話しやすい子なんだな」
「あー、皆そう言うみたいだな」
「それに、前見た時より、なんか柔らかい感じになったような気がする」
「ふーん?」
「あ、あと、何か峯の事聞いてたけど?」
「なんて?」
「髪はクセ毛の柔らかそうな感じで頭こういう形した感じの人って、テニス部の峯君っていう人?って」
「じゃあ、峯が女に手出してる所でも見たのかもな。あいつって、手癖悪そうだからな」
「え?何でそんなのわかんの?」
「……なんとなく。で、春日とはそれだけ?」
「うん、忘れ物したって言って図書室に時間潰しに行くって言ってたよ」
「へー。時間潰しに、ねぇ?」
笠井の口から聞く美音の様子に、圭史は眉根を寄せていた。
走り終えた圭史は、谷折に教員室への用事を頼まれ一旦部室へと戻った。
「えーと、予定表は……」
汚いテーブルの上に置いている筈の予定表を探している所へ、集合時間には遅れている峯が着替えにやって来た。
「おーっす」
「おう。今日の遅刻は野暮用か?」
圭史はテーブルの上を、物を除けて探しながらそう言った。
峯は「なんでわかった?」という表情を浮かべながらも「うん、そう」と答えた。
ようやっと探し物を見つけ出した圭史は顔を上げ、視界に入った峯の姿に声をかける。
「おい、首に近い肩の所、痕つけられてるぞ」
その台詞にロッカーの扉の裏側に付いている鏡を覗き込み、それを確認した峯は軽く舌打ちをした。
「バンドエイドならあっちの救急箱に入ってるよ」
「サンキュ」
圭史の言葉通り、峯はバンドエイドを取り出し付けられていた赤い痕に貼り付けた。
「あ、そう言えばさ、これの持ち主知ってる?知ってたら渡しておいてよ」
そう言って峯がポケットから出したのは、十分に圭史が見覚えのあるキーホルダーだった。
「……多分、知ってる」
大体予想していた通りだったと圭史は心の中でぼやいていた。
その言葉を聞いて、峯はそれを圭史に放り投げた。それを片手でキャッチすると、すいっと流れるようにポケットにしまった。
「その持ち主って、口堅い?」
背を向けて着替えている峯の問いに圭史は答える。
「軽くはないよ。で、どこで拾ったんだよ?」
「図書室に近い旧視聴覚室の前」
「……なるほどね」
それに峯は何も答えず着替えている。動揺をひとつも見せない彼の姿に視線を向けてから圭史はノートに目を向け、顧問の所に行くからと部室を出た。
向かう筈の教員室とは正反対の方向に廊下を突き進んで行き、ポケットからキーホルダーを取り出し手の上に置き眺めた。それは技術の課題で美音に造った物だった。
キーホルダーに付いているのはどう見ても家の鍵だ。
今頃浮かべている美音の表情が目に浮かぶようだった。
そして、図書室に向かう一本前の廊下に入ると、峯の言っていた教室の前でしゃがみ込んで困り果てた様に額に両手を当てている美音の姿を見つけた。
圭史は足音を立てないように静かに歩いていく。
「……はー、参った」
心底困っているのが窺い知れる美音の声。
圭史はそーっと手に持っているキーホルダーを美音の頬にぴと、とくっ付けた。
「ぅきゃあ!」
突然の冷たい感触にそう声を上げてから、はっとした様子でそれに顔を向けた美音は、目の前に現れた探していた物に顔色が明るくなった。
「あ、これ探してたの。どこに……」
そう口にしながら、それを持っている人物に顔を向けてみて、まるで蒼ざめたような顔になった美音の反応に笑いを零しながら、鍵の部分を指で摘まむように持ってキーホルダーを見せている圭史はそう冗談めかして言った。
「探し物、お届けに来ました」
「……あ、れ?」
ここで落とした筈の物が、何故圭史の手にあるのか判らないという顔だった。
「これを偶然拾った奴が、運良く俺に持ち主知らないかって聞いてきたから」
「……あ、そうなんだ。ないからてっきり……」
目を伏せてそう口にしたと思ったら、その時の光景を思い出したのか、美音の顔は真っ赤に染まっていった。
「で、何を目撃して驚いたって?」
「え?……それは、……笠井君から聞いたの?」
ちらっと目だけを向けて赤い顔のまま美音は訊ねた。
「そうだよ。 座りっぱなしだと体冷えるよ?」
驚いた時に地べたに座り込んだままの姿に見かねてそう言うと、美音は素直に立ち上がった。
圭史を正視出来ず伏せ目がちの美音の頬は紅いままだった。
「はい」
圭史は笑顔でキーホルダーをのせた手のひらを差し出した。
声を出さなくても美音が戸惑っているのが分かった。
いつもなら、美音の手のひらにのせてあげるように渡す事をしていたからだ。
それでも圭史は笑顔のまま、美音がそれを取るのを待っている。
美音は、ようやく手を動かし、おず…、と圭史の手に向けた。躊躇いがちなその手がキーホルダーに届いた時、圭史はそのまま美音の手を捉まえるように握った。
途端にドキッとした様子を見せる美音。それでも、圭史は手を離そうとはしない。
目はじっと美音を捕らえて離さない。
「……、ぁの……」
この空気に耐え切れなくなったのか、か細い声でそう言った美音。
それでも、圭史は解放せずに笑顔とともに台詞を口にした。
「隙だらけなのは俺の前だけにしてね」
「……え、……あ、……え?」
より一層顔を紅く染めてうろたえる美音に、湧き上がる感情と共に微笑みを向けてようやっと手をそっと離した。その手で美音の頭にぽん、と触れてから、圭史は教員室に行く為にゆっくりと歩き出していった。
残された美音は一人、くらくらと目眩がして倒れそうな心境に陥っていた。