時の雫-風に乗って君に届けば

§11 揺さぶられた想い


Episode 5 /10




 今週が始まって2日目の火曜日。
洗顔を済ませ髪をセットし終えてから洗面所を出た圭史は、台所へと向かう途中の廊下で2階の部屋から降りてきた功志と出くわした。
「おーっす」
「はよ。珍しいね、こんな時間に降りてくるなんて」
まだ眠そうな顔をしている兄にそう言葉をかけた圭史。
こんな時間と言っても、学生からすれば決して早くは無い時間だ。
「おー、さすがにそろそろ講義に出席しないと日数がなー……」
「そんなにサボってんの?」
「たまの朝1の講義はつらい」
「ふーん?」
リビングに向かった功志を目に映してから圭史は数歩足を動かした所で先に着替える事にし部屋にあがった。
カッターシャツのボタンを留めその上に白のスクールセーターを着た。

 ― ネクタイはあとでいいか ―

そして再び台所に向かい朝食をとることにする。
 数口目のご飯を口に入れた時、功志の声が飛んできた。
「おーい、今日の新聞はー?」
「ひろはまだ起きてないよ」
新聞を入れる役目の広司は今日はまだ起きてきていなかった。
「しゃーねぇな」
そう呟きながら功志は玄関に向かい寒い外に新聞を取りに出て行った。
新聞を取りに出ただけの筈なのに、圭史の耳には誰かと話している功志の声が聞こえてくる。

 ― ……お隣さんとでも会ったのかな……? ―

そんな事を思っていたら、意外に早く家の中に戻ってきた。そのまま真っ直ぐとリビングに行くのだと思っていたら、台所の手前まで来た所で足を止め声を放った。
「けい」
それ以上何も言わない兄に顔を向けて、圭史は訊く。
「なに?」
それに功志は言葉を紡がず、親指を玄関に向けちょんちょんと動かしただけだった。
「?」
疑問に思ったものの、椅子から立ち上がりそのまま玄関へと向かい外に出て行った。
兄がそうしろと言っているのだから。

 圭史が玄関へと降りて行ったのを見てから功志はリビングに入り、目に入ったカレンダーを見て納得したように呟いた。
「……今日は2月14日かー」

扉を開けた瞬間から冷気が体を纏い自然と身は震えを覚えた。
そんな状態でも門扉の方に目を向けてみて、圭史ははっと小さく息を呑んだ。
朝の冷たい空気に晒された頬が赤く染まり緊張した面持ちで立っていたのが美音だったからだ。
相手が誰だか分かった途端、圭史の心臓は勝手に高鳴り始めた。
心の中で、勝手な期待を夢見る自分がいた。
彼女の傍に足を進めた頃に、目は足元に伏せたまま美音が口を開いた。
「あ、あの、朝にごめんね。これ、良かったら食べて?」
そうして差し出された、大きくはなく小さすぎる事はない位の紙袋を、圭史は素直に受け取り言う。
「ありがとう」
その言葉に、はにかんだ笑顔を見せた美音は言葉を綴る。
「じゃあ又学校で」
「……あ」
言い終えた美音はくるっと踵を返して小走りに行ってしまった。
学校に一緒に、そう言葉を口にしようとした時には、美音の後ろ姿は小さくなっていた。
「……」

頭の中でつい先程までの美音の姿がリフレインされている。
外は寒いはずなのに、圭史の指先は熱くなっていた。手の中には彼女から受け取った紙袋の紐があって、それは夢ではないのだと告げている。
 数秒固まったままで、思い出したように息を吸った時、圭史は我に返った。
学校に向かう準備をしなければ、と家の中に入り、真っ直ぐと部屋に上がった。
時計に目を向ければ、思っていたより時間は経っておらず、圭史は思わず安堵の息を吐くと、ベッドに腰を下ろし足の間に紙袋を下ろした。
「……は―――……」
照れ隠しに頭を掻き、そこで初めて袋の中身に気付いた。
四角い白い箱と赤いリボンが巻かれた銀色の袋。
白い箱は美音が「食べてね」と言っていた物だろう。
もう一つの物は何だろうと思いながら卓上カレンダーに目を向けた。
今日、火曜日の日付を見て一瞬動きを忘れ、圭史はぽつりと言った。
「バレンタイン……」
そして再び紙袋に顔を向けそっと手を伸ばし銀色の袋を膝の上に出した。
幾分緊張しながらリボンを解き包みを開けた。がさごそと音を立てた中から姿を現せたそれはスポーツブランドのタオル。

 ― ……すっげ嬉しいかも ―

それを見つめる圭史の細められた目は優しい色を燈している。
 袋のあった場所にメッセージカードがあるのに気づいて、それを手に取ったまま数秒悩んだがゆっくりと開封した。


瀧野くんへ
いつも色々ありがとう
委員会に部活にと毎日忙しいけど 頑張ってね
 ―――気持ちを込めて
                春日


「……」
読み終えると、そのままベッドの上に倒れこんでカードを持った方の腕を目の上にかぶせた。様々な思いが圭史の中を行き交っていく。


 ― 「今年は義理とかしないでおこうと思ってたんだけど、亮太にはあげないと、……まずいよねぇ?」
「あー、……本命にはあげたこと無いんだ。バレンタインに手作りもしたことない」―


 そして、数日前の耳した美音の台詞を思い出して、がばっと起き上がると紙袋の中から残りの一つを取り出し立ち上がって机の上に置いた。
そっと蓋を開けてみて出てきた中身は、圭史の掌サイズのチョコケーキ。手作りだった。

 ― どの程度までのを受け取れば良いのか分からないけど、……やっぱ嬉しい ―

何とも言えない表情のまま、圭史はずっとそれを見つめていた。

 ……そうだと、自惚れてしまってもよいのだろうか。
頭の中では何度も美音の姿が思い返されている。カードに、圭史が期待した言葉は書かれていなかったけれど、確実に胸は高鳴っていた。

 だが、圭史の頭は「時間」を思い出した。
はっと我に返って時計を目にして、圭史は慌てた。とりあえずケーキだけは元の様に戻し机の奥に仕舞った。

 ― やばい!急がないとぎりぎりだ ―

大急ぎでネクタイを締めブレザーを羽織りバッグとマフラーを手にとって部屋を出た。
 珍しい圭史の様子に、寝坊して急いでいるはずの広司も多少驚いた顔を浮かべていた。
功志の顔には何やら優しい笑みが浮かんでいる。
「行って来ます!」
そんな兄弟の様子に気付く事もなく、急いで靴を履きながら声を出して慌しく家を出て行った圭史だった。



 いつもより2本遅れの電車に乗り学校には登校数の多い時間帯に到着した。
「おーっす」
下駄箱に着いた所で後ろから亮太に声をかけられた圭史。
「おす」
そう言葉を返してから下駄箱に手をかけ開けたら中から雪崩れのようにどさどさっと音をたてて落ちてきた。
「……」
思わず感情なくそれらに視線を落とした圭史に亮太は笑いながら言う。
「ははは、すげーなおい」
ただ息を吐いてからしゃがんでそれらを拾い始めた。その顔は不機嫌なもので亮太は軽く肩を竦めた。

 階段を上りきり廊下に出ると、前方に楽しそうに話している美音と栞の姿があった。
「はーい、これいさちゃんにー」
そう言って美音が差し出したのは、綺麗にラッピングされた可愛い包装紙の物。見るからに既製品だというのは分かる。
「ありがとー。はい私もー」
「わーい」
女の子同士のチョコの交換に圭史は意外なものを感じながら教室に足を進める。
耳に届いてくるのは二人の会話。
「……いさちゃん、チョコ渡した?」
「んー、部員皆で男子部に用意してるし、特別にはあげない。それに最近腹立った事あったから」
「……それって、この間の事だよね。私の、せいだよね」
見るからにしゅん…。とうな垂れてしまった美音に栞はにこりと笑顔を向けて言う。
「違うよ。あれはあっちが悪いの。私の事で春日ちゃんが気にする必要はないの」
「うー。……いさちゃんすきー」
「私もー」
抱きついてきた美音を抱きしめ返す栞を見て、教室の戸に手をかけながら思った。
一番の恋敵は栞かもしれない、と。
「おいおい、何そこでレズってんだよ」
「うるさいなぁ、ラブラブなのよ、放っておいて」
亮太の言葉に美音は答えて栞から離れた。
「いくら男嫌いだからって、同性にはしるなよ。恐ろしいから」
「なっ?!何バカな事……っ」
その台詞に思わず顔を向けてしまった圭史とそう言葉を口にした美音と偶然にも目が合った。忽ち美音の顔は赤く染まり固まってしまったのを見て、圭史は吹き出してしまった。
それにはっとした美音は泣き真似をした真っ赤な顔を栞に向けて訴えた。
「わ、笑われたー、今笑われたー」
「あーはいはい、よしよし」
美音の頭を撫でながら、栞は美音が先程目を向けていた方向に顔を向けた。
そこには圭史が教室の中に入り、こちらに顔を向けながら戸を閉めにかかろうとしているトコだった。
美音も顔を上げて眼を向けたので、圭史は止まらない笑みのままひらひらと手を振って戸を閉めた。
「まだ笑ってたーわーん」
「はいはい」

 圭史のにやけた顔も自分の席を見るなり凍りついた。
「……何これ」
その呟きに答えたのは、池田だった。
「勝手に置いて行ったのと、渡してくれと頼まれたのと。あと机の中にも入ってるぞ」
ショートホームルームが始まるまでの間、スポーツバッグの中に整えながらしまい込んでいる圭史は実に疲れを見せていた。
「お前ね、これだけ貰えるって事は有難い事よ?」
「別にいらねー」
その声は不機嫌な様子がありありと表れていた。



 昼休みは寒いのに廊下に出て谷折と部活の打ち合わせを今日もしていた。
「あ、そうそう。昨日言った水曜日って来週だから」
「来週ね、はいよ」
「で、今日も委員会出るの?」
「今日はない。明日でとりあえず一段落で、あとはリハだけかな」
「ふーん。……もう貰った?」
それが何を指しているのかは言葉にしなくても分かっている。
「……まぁ。お前は?」
圭史がそう聞き返すと、ふふふーと笑みを浮かべてから谷折はため息を吐いた。
それを見て、圭史は視線を逸らしながら口を開く。
「まぁ、振られた相手で、余計な事して怒った相手にあげようなんて普通は思わないよな。俺がその立場なら絶対やらん」
谷折ははっとした顔になり数秒後がっくりと肩を落とした。
それを圭史は冷たい目で見ているだけだった。

 予鈴が鳴る5分ほど前に、美音と栞が教室へと戻ってきた。
穏やかな表情で栞に何か話していた美音が、廊下の壁にもたれて立っている谷折の姿を目にすると、ついっと顔を正面に向け何もなかったように前を通り過ぎていく。
横の栞はそれを別に気にする様子もなく歩いて行った。
「……あーあ、すっかり嫌われちゃったなー。俺は春日さんの事、美人で可愛い容姿で見てる分には好きなんだけど」
谷折の言葉に、圭史の心の中には諦めにも似た、怒りの感情が沸きあがる。
「……だから、嫌われるんだよ」
ぼそっと呟かれた圭史の台詞に、「うーん……」という顔をして谷折は沈黙した。
 圭史の頭の中には、机の奥に仕舞ったケーキの箱がちらついて離れなかった。
そして今日ばかりは早く家に帰りたいと思う自分がいた。