時の雫-風に乗って君に届けば

§11 揺さぶられた想い


Episode 4 /10




 新しい週の始まりの日、月曜日。
いつもと変わらない電車に乗ったが、美音の姿は見つけられなかった。
それを悪く考えないように、それ以上考え込まないようにして圭史は学校までの道のりを進んだ。不思議と心は落ち着いていた。
 昨日、家に帰ってからずっと部屋で物思いに耽っていた。
考え込んで考え込んで行き着いたところは、今までと何も変わらなかった。
だからもう気持ちを固めた。何にも負けないように。





「は――――……」
教室の自分の机の上で頭を抱え込む姿勢で深いため息を吐いたのは、いつもより早く登校してきた美音だった。
他に生徒はまだ見当たらない。
そんな静かな中で美音は何かを考え込んではため息を吐くという事を繰り返していた。
「は――――……、ほんと、何してんだろ、私……」
自嘲気味に呟いて、何もない机の上を必死に見つめている。
教室は静か過ぎて時計の秒針の音が聞こえてくるくらいだった。
 頭の中には同じ事がずっとぐるぐる回っている。
美音の心はそれに囚われていて晴れ間は一向に見えなかった。
もう何度目か分からないため息を吐こうとして机上の外に目を向けた時、いつの間にやら前に立っている人の足に気付いて美音は驚いて顔を上げた。
「……たっ、谷折君っ、い、いつから……」
「あー、やっと気付いてくれたー。何か考え込んでたみたいだったから、静かに入ってきたんだけど、ちっとも気付いてもらえなくてさ」
いつもと変わらない笑顔で谷折は言った。
「そ、そんなに前からいたの?!」
動揺を隠しきれない美音の腕は、机を押さえつけるように力がこめられた。
そのうろたえぶりに谷折は笑顔を浮かべ、前の席の椅子を引いて跨いで座ると背もたれに両腕を乗せながら口を開いた。
「で、何をしたって? 何々?話に乗るよ?俺」
「え?……や、別に、何も……」
目を泳がせながら言った美音。
谷折は両腕の上に傾げるようにして顔を乗せた。
「ふーん? じゃあ、俺の方の話、のってもらっていいかな」
「あ、……う、ん……」
目を伏せがちにしながら、無下に断る事が出来なくて美音はそう言っていた。

「俺の友達が、春日さんがずっと元気なくて心配してるんだ」
友達といわれて頭に浮かぶ顔は二人いた。誰かなんて追及する気にはなれず、伏目がちに答える美音。
「……まだ、体がしんどいから」
「まだ、熱続いてるの?」
「ううん、熱はもう大丈夫だけど、体力のほうが」
それは本当だった。ずっと立ちっぱなしでいると、足ががくがく言ってくる。
「そっか。そー言えば、明日はバレンタインだけど、春日さんは誰にかにあげたりするの?」
普通に訊ねてくる谷折なのに、美音はいつものように素直に話を応えられないでいた。
「……今年は、義理チョコとかやめとこうと思って。……あ、谷折君にはお世話になってるから、本当は贈る所なんだけど……」
「あ、いいよいいよ。別にせがみたくてその話題出した訳じゃないから。それに春日さんから貰ったりしたら、俺友達に恨まれるからさ」
その「友達」という言葉に引っ掛かりを感じてしまう美音。
「あ、……うん。……今テニス部って朝練してるの?」
「今週、後半から始まるんだ。放課後に送別会の練習するから。なんで?」
「谷折君がこの時間にここに来るから、練習あったのかなぁと思って」
「夕べ姉貴と喧嘩したもんで、朝顔合わしたくなくていつもより早く出たんだ」
「へぇお姉さんいるんだ」
「うん、気の強い人使いの荒い姉上でね、カレシと上手く行ってないもんだから俺に八つ当たりしてきてさ。春日さんも八つ当たりとかしたことある?」
その話をどうして振られるのかよく分からなかったが、美音は素直に答える。
「うーん、私は結構悲観的に一人で考え込むタイプだから、……どうだろう?」
斜め上に視線を向けて、考えながらそう言った美音を、谷折はずっと見つめていた。
話といっても、言うほど真剣な話をする訳でもなく、世間話とも言える内容ばかりだった。
それでも、谷折は何かを見つけ出そうとするかのように美音から目を放さなかった。
そして、それは、在る事が決まっていたかのように谷折は口にした。
「今も何か考え込んでたりするんじゃない?」
「……え? そんな風に見える?」
「うん。なんか暗いよ?いつもはもっときびきびしてる」
「そっかなぁ?」
普段の自分がどうだったかなんて、考えたことなかった。
「うん、最近自信無さそうだし。……まぁ無理もないと思うけどね。
それにあと他にやけに暗く落ち込んでるのも若干いるんだけど」
美音をまっすぐと見つめる谷折の目は明らかに責めている。
「……、……そう」
何か言葉が口に出ようとしたのを無理矢理飲み込んで美音はそれだけ言った。
その後、何を言われ何を答えたのかという事を美音の頭は把握できていなかった。
生返事しかしない美音に、突然谷折は言った。
「……春日さん、何で無理に突き放すの?
俺が見てる分では、充分に心を許していてお互いが同じ気持ちだと思うのに。
それじゃあ蛇の生殺しだよ。あいつが、可哀相だよ……」
放たれた谷折の突然の台詞に、美音は硬直した。
顔は俯いたまま動く事が出来ずにいた。微かに握った手が震えている。
それに気付いた谷折が美音の顔に目を向けた。
今にも涙を溢しそうになっているその顔に、ぎくっとした。
「……か、……。 本当は瀧野の事なんてどうでもいいの?」
それでも、谷折は攻撃の手をやめなかった。
手が強く握られたのを見た。だけど、何も言い返そうとしない美音に尚言葉を放った。
その時に誰かが教室に入ってきた事に気付いていてもやめようとしなかった。
「そうなの?何も言わないのは図星だから?」
「……っ、私に、何を言えっていうのっ?」
感情を必死に押し殺して、それでも震えている声だった。
「さっきから訊いてるのに?」
谷折は調子を崩す事無く言葉を返してくる。それが反対に美音は苛立ちを感じた。
「……頼まれたの?そうやって訊くように」
「誰に?」
「……」
谷折は呆れたようにため息を吐いた。
「……のことは、放っておいて」
小さな声で吐き出された言葉に、谷折はこれ以上の言及をやめた。
 その次の瞬間、美音の横に立つようにして栞が谷折を見下げた。
「谷折君、ちょっと来て貰える?」
その声は従う事しか許されない強い力が含まれており、顔は笑顔なのに怒りが顕わになっている栞に谷折は顔を蒼ざめていた。



「私、前にも言ったよね?!苛めないであげてって」
「いや、別に苛めていた訳じゃあ……」
「そういうつもりはなかったとしても!十分に苛めてるの! 他の人間が余計な口を挟んだら悪い状態にしかならないの分かるでしょう?!なんでそういう事するの?!」
普段笑顔で穏やかな栞が感情を顕わにして怒っていた。
谷折はそれに内心動揺しまくりながら言葉を放つ。
「伊沢さんが春日さんの友達のように、俺だって瀧野の事心配して……」
「そんな事して喜んでくれるって思うの?!」
「だって、そうでもしないと」
「そんな事しなくていいの!」
「そうは言っても……」
そう言った谷折の肩越しに、今登校してきた圭史の姿が見えて栞は声を放っていた。
「瀧野君!ちょっとこっち来て!」
「……ぃ?!それは、あの、……助けて……」
話を聞いた後の圭史の顔が容易に目に浮かぶ。谷折は再び血の気が引くのを感じた。
普段と違う様子で声を上げた栞に目を向けて、圭史は少し驚いた表情を浮かべていた。




学校の中は本鈴がなり響いた後だった。
部室でストーブに当たりながら二人はいた。
 谷折は不貞腐れた顔をしてそっぽを向いている。
「そういうのを小さな親切大きなお世話って言うんだよ!」
不機嫌な顔丸出しで圭史は言った。
「だってお前ずっと暗いじゃねーか?!お前がそんなのって理由は一つしかないだろ。皆だって口にはしないけど心配して気遣って」
「だけど、お前が口出す事でもないだろ?!お前は悪化させたいのか!?」
「大体悪化させてるのは彼女の方だろう?!
俺の目から見てたって、彼女の態度は可愛くない!言う事も!もう一つ態度も全然可愛くない!お前だって、そう……」
「うるさい!!」
感情と共に吐きだれた圭史の言葉に、谷折はそれ以上言葉を紡げなくなった。
圭史も目を横に逸らし感情を整えようと息を整え始めた。
そしてその場には息苦しい空気が漂っている。
「……心配かけたのは悪かった。だけど、余計なことはするな。……頼むから」
最後の言葉は苦しく搾り出されたような声だった。らしくない圭史の様子に谷折は目を瞠った。

「……なんでだよ」
ぼそりと呟かれた谷折の声に、圭史は転がっていたテニスボールを手に掴むと長いすに腰掛けた。手はボールで遊びながら、目はストーブの火を見つめている。
数秒の沈黙の後、圭史は静かに話し出した。
「俺が春日を好きだと理解した時、春日は俺の親友に惚れてたんだ。別に付き合っていた訳じゃない。だけど、見ればすぐ分かるよ。どれだけ惚れてるとか見込みがないとか」
「初めて聞いた、そんな話」
「言った事ないもんな。同じ中学の奴だったら大概のやつは知ってるだろうけど」
「そんなに有名な話?」
「そうだな。春日はその時でも男連中からは人気あったし、春日の顔は物すごく正直だったし。すれ違うだけでも緊張してて、離れた場所から必死に目で追ってた。そんな風に想われてる親友が本当は羨ましかった。俺の事なんか視界にも入っていないの分かってたし。だから必死に気持ちに蓋して忘れようとしてた」
「……なんで、高校は……」
「一緒になったのは偶然だよ。俺だって、春日はきっと野田高校行くんだと思ってた。アイツが野田高志望なのは分かっていたし。だから俺は実力圏の南藤選んだんだ。そしたら、クラス発表の日に横に立って見てるんだもんな。あれは正直参ったよ」
「なんで?嬉しいもんじゃないの?」
「自分の事見てくれないの分かってるのに、目にするだけつらいじゃん」
あっけらかんと言った圭史に谷折は驚きを感じた。
「……そ、っか」
「そう思ってるのに、当の本人は生徒会入って目立つわ、やっぱり男連中におもてになるわ、極めつけは3年の先輩と付き合うわ」
「なんで? お前の親友、すきだったんだろ?」
「本当の理由までは知らないよ。告白されてアイツが振ったのかとも思って、それとなく聞いてみたことあったけど、違ったみたいだ。
……アイツは、春日の事容姿で目の保養くらいにしか思ってなかったみたいだけど。
そんな風にしか思っていないアイツに腹ただしさを感じた事もあったけど。……春日も、それ分かってたみたいだよ。昨日、戸山に偶然会ってそんな事言ってた。
3年の先輩とは誰かと付き合ってみようと思っていたところに告白されたからって言うのが本当の理由らしいけど。だけど、告白して付き合ってくれるんだって分かってたら、あの時すぐにいったのに。そしたら俺、頑張ったのに」
宙に放り投げてキャッチしていたボールを両手の上で転がしながら圭史は話している。
「彼女の何がそんなに?」
谷折にそう訊ねられ、圭史は顔を向けた。本当に分からないという顔をしているのを見て、圭史はふ…、と笑みを浮かべると言葉を紡いだ。
「お前が好きな子のタイプとは全然違うもんな。……春日は、人に頼ったり甘えたりしない。しないというより出来ない。だから平気で強がりも言うし、我慢強いし、一人で何でも背負い込む。普通の男からしたら可愛げ無いかもしれないし、やりにくいタイプかもしれない」
谷折は目を斜め上に向けながら話を頭の中で考えてみた。思わず納得しているようだった。
「だけど、一人で何でもやり遂げて前向きに頑張るんだ。見てると、こんな事で弱音吐こうとしてる自分が情けなくなって、もっと強くなろうって思うんだ。
……春日は、人前で泣かないんだ。他の女の子はわざと泣いたりして同情買ったり逃げようとしたりするけど。……誰もいないところで独りで泣くんだ。それ初めて見た時、心臓潰れるかと思った。守ってやりたいって思った。ふとした時の表情とか、照れた時の態度とか、すごい可愛くて俺倒れそうになる。いつも必死で冷静装ってるけど」
優しい眼差しをして穏やかな表情話している圭史を、谷折は少し信じられない思いで見つめていた。
「2年になって、色々と事件があってさ、二人でいる事が自然と多くなっていった。
今まではまともに口をきいた事もなくて、彼女が俺に目を向けた事もなくて、彼女からしたら俺はハナから範囲外なんだよな。だけど、一緒にいる時間が出来て、話をするようになって、目も合わせてくれるようになって、素の笑顔も見せてくれるようになっていったら、段々自分の気持ちに嘘がつけなくなっていって、欲張りになっていくんだ。
頭の中でやばいって警鐘なってるのに。
今までは多少なりとも他の子と混じって好みの子とかに目を向けてみたりしてたけど、それでも本音はどうでも良かった。自分は本気になれない人間なんだって思ってたし。
だけどそれは間違いで、本気になれる子に出逢えてなかっただけで」
「あー、それはわかるかも」
圭史はボールを右に左に返しながら話を続ける。
「平気なフリして見せるけど、本当は凄い怖がりなんだよ。中身は本当に女の子らしくて、気遣いもそこらの女の子より女の子らしい。
警戒心も強いし、本当に気の許した相手じゃないと弱さを見せない。
それを踏まえて最近の様子を考えると、気を許してもらえていたのかなって思ったんだ。だけど、突然避けられるわ、目も合わせてもらえないわ、口も聞いてもらえないわで、俺本当に参って、伊沢に遠回しに訊いたら、超照れ屋で天邪鬼だからって言われて。
それでも限度があるだろうって思った。マジで嫌われたのかと思ったんだ。訳が分からないままでさ。そしたら、昨日、久々に親友と会って歩いていたら、よりにもよって春日と偶然会ってしまって。アイツ見た途端、背中向けて走って行ってしまった。あの顔、忘れられないな」
淋しげな眼差しで圭史は言った。谷折はそれに返す言葉が浮かばなかった。
 好きか嫌いか、特別か否か、ただそれだけの事なのに、何故こうも縺れているのか谷折には理解しがたかった。でも、話を聞いて、圭史がどれだけ美音を思いやっているのか本気なのか分かった。美音が内面に抱えている脆さも。
「でも、好きなんだろう?それでも」
谷折の台詞に、圭史は苦笑した。それは肯定だった。
「想う事をやめられるなら、とうの昔に終わらせてるよ。頭では想わない様にしても心は反応するんだよな。それが辛かった。まぁ、実は俺が、諦めが悪いだけなのかもしれないけど。……仕方ないよな?」
「仕方ないよな」
それだけ惚れてるんだから。そう心の中で谷折は呟いた。
「……誰にも言うなよ?こんな事、告白で言えって言われても絶対無理だからな」
「言わないよ。言ったら俺は確実にお前に殺される。俺だって自分の身は大事だ」
「ふぅん? ま、もしお前が今日みたいな事したら、俺も同じ事してやるから」
そう言った圭史の顔は笑顔だった。でもそれは本気なのだと分かるものだった。
「……絶対しません」
「……とりあえず、春日との事は放っておいて。頑張ってみるからさ。俺も煮え切らない態度とっていただろうし。今度こそ本気で頑張ってみて駄目だったらその時は潔く諦めるよ」
そう言った圭史はずっとボールで遊んでいる。でも、その目は確かな光を宿していた。
「……分かった。 だけどさ、俺が何訊いても何一つ答えてくれなかったんだぞ?こうやって手に力入れて」
「まぁそれがどんな理由かは知らないけど、春日はさ、例えどんなに小さくても自分に非があった場合は言い訳しないから。良い意味で潔いから」
「ふーん?俺にはわかんねー」
「……他の男にそう簡単に分かられてたまるか」
ぼそりと呟かれた低い声に、谷折は思わず身を竦めた。





 昼休み、美音は栞と並んで歩きながら1組の教室を出て階段へと向かっていた。
階段は4組の奥にあり、3組の前を通る時には美音は俯いていた。
ずっと朝から気分は暗かった。その理由は、元はと言えば自分が撒いた物であることも理解していた。
圭史にも谷折にも会いたくない気持ちでその廊下を歩いていたのに、美音の願いはあっけなく却下された。
「春日さん」
それは谷折の声だった。
美音は自分の体が硬直したのを感じた。だが、谷折が再びしっかりと名を呼んだので、美音は顔を上げなければ仕方なかった。
「朝はごめんなさい。俺が言い過ぎました」
そう言って頭を下げる谷折に、美音は驚いた表情を浮かべた。
そして、その奥に、教室から出てきた圭史の姿に気付いて、美音は感情的に声を放っていた。
「謝らなくていいよっ、結局悪いのは私なんだから気にしないで」
そう言ってからぱっと顔を伏せると美音は栞の手を握ってその場を駆け出した。
「いさちゃん行こう」
俯いたまま圭史の前を通り過ぎて階段に向かう美音の後ろ姿は他の事を拒絶しているようにも見えた。

 圭史が再び谷折に目を向けると、ため息混じりに苦笑していた。
ほんと、素直じゃないよね……。そんな声が聞こえてきそうな顔をしている。
「で、今日の部活の予定は?」
足元に目を向けたまま訊ねた圭史に、肩を竦めながら谷折は口を開く。
「いつものように基礎トレをしてから外周走って筋トレしてから練習」
「了解」
「あと、水曜日は送別会の打ち合わせで各部の部長ともう一人出席しなきゃいけないから一緒に出てくれよ」
「俺でいいの?マネージャーは?」
「水曜日の放課後に居残りたい奴はいない」
「なるほどね、わかった。じゃ俺ちょっと行くから」
「はいよ」
「邪魔しにくんなよ?」
「そんな野暮な事はしません」
「そーか」



圭史は不思議と落ち着いた気持ちで彼女が向かった方向に向かっていた。行き先は分かっている。直感めいたそれを確証付けるものは何もなかったが、圭史の心には確信めいたものがあった。
今、美音と顔を合わせて何を話すかなんて頭の中に明確な言葉は浮かんでいない。
だけど、足を向ける以外思い浮かばなかった。
 そして、彼女はそこにいるはずだから。
きっと、自己嫌悪に陥った顔で遠い何処かに眼差しを向けているはずだから。
 彼女の態度はずっと同じものだろう。それでも、圭史は美音の所へ行かなければいけない気がして図書室へ向かった。
つい昨日まではひどく混沌とした心だったのに、今は不思議なくらい穏やかだった。
 中に入り奥へと足を進めると、確かにいつもの席には座った形跡がある。
その横に広げた本に顔を向けている栞が座っているだけで、近くに美音の姿は見当たらなかった。丁度今、本を探しに離れているようだ。
 そのまま適当に足を進めていくと、本棚を背にして本の中身を確かめている美音の姿をすぐ見つけた。丁度その場所から席に着いている者の姿は見えない。その反対も同じだった。
 圭史が体を美音に向けた時、ぱらぱらとページを捲って中身を確かめていた美音が、ふと顔を上げた。それは本当になんとなく、といった様子だった。
 以前までは、どんなに見つめていたとしてもこちらを向いてくれる事はなかったのに。
思い切り合わさった視線。少し驚きの表情を浮かべた美音。
だけど、やはり避けるようにそのままくるっと回転して背を向けてしまった。
「……」
ぎこちない彼女の所作に圭史は足を止めたが、その顔に同様も戸惑いも見られなかった。
ただ真っ直ぐと見つめている。
それを意識してか、美音は背を向けているのに顔を伏せて本棚に引っ付いていた。
 圭史は小さく息を吸うと、ゆっくりと足を動かした。
そして背後から、逃げ場を取り上げるように両手を本棚に貼り付けて美音を腕の中に収めた。
それにはっと小さく息を呑んだ美音に圭史は気づいていた。
それでも圭史はすぐに言葉を紡がず、頭を屈めた。小さな声でも彼女の耳に聞こえるように。美音は反対に身を縮めている。
「谷折に何か言われた?」
「あ、ううん、そんな、あの、些細な事だから……。は、反対にこっちが悪いし……」
思い切り動揺しながら言葉を紡ぐ美音に、圭史はすんなりと言葉を口にする。
「嫌な思いさせてごめん」
「ちが……、私が、迷惑かけてばっかで、不愉快な思いさせてるから……」
感情のこもった声に、圭史は優しげに言う。
「誰に?」
「た、瀧野くんに……」
小さくなっていく声。それでも圭史は尚訊く。
「なんで?」
「い、いろいろ……」
俯いている美音が硬直しているのが伝わる空気で分かる。そして漂うのは数秒の沈黙。
圭史はその手を動かすことなく、静かにはっきりと口にした。
「春日にだったらいくら迷惑かけられてもいいよ。でも、目の前から逃げられるのはつらい。……昨日だって」
そう言ったところで、美音の体がびくっと硬直を見せた。
「今でも、想ってるのは聡のこと?」
「……っ」
美音は強く頭を振った。何も言わないその体に力が入っているのがわかる。
「でもやっぱり一番に考えてしまうのは聡のことじゃないの?」
ぎゅうっと本を握り締めて美音は必死で横に振っている。小さくて感情のこもった声が零れる。
「……違うっ、違うよ……」
それに熱くて迸りそうな気持ちを胸にひしひしと感じながら圭史は静かにそれでも強く言葉にした。
「ほんとに?」
「……うん……」
小さいけれど確かに口にされた言葉。
心の中に暖かい何かが広がっていくのを感じた。

「じゃあ俺、……遠慮しないから」

必死に俯いている彼女の髪はすっかりうなじを顕わにしていた。
そのまま抱きしめたい衝動に駆られたが、それを堪えて本棚から手を離した。
自分の感情に抗うように、油断すればそのまま伸ばしたくなる手を握り締めて圭史は美音から離れた。

「それでも、待ってるから」
それは圭史の熱い思いを馳せた声だった。
美音が自分を見てくれるのを。

 そして、ゆっくりとそこから離れて行った。

圭史が図書室から出た頃、美音はへたへた、とその場に座り込んでいた。
顔を隠すように両手で頬を覆いその隙間から見える肌は、誰から見ても分かるくらいに真っ赤に染まっていた。
静かな図書室だったのに、美音の耳にはざわめきが聞こえて自分自身をも飲み込んでしまいそうに感じていた。





 放課後、美音は生徒会室でその日最後のまとめを終わらせていた。
あれやこれやと休む間もなく仕事をこなしている。
「今日の仕事終わったから、用事あるし先に帰っていいかなぁ?」
書類を机の上で束ねながら美音は声を出した。
それに顔を向けて答えるのは亮太だった。
「おー?今のところ問題ないしいいんじゃね?」
「じゃーお先に帰らせてもらうよー?」
「おう。気をつけて帰れ」
「はーい、じゃあ後よろしくねー」
「おー」
そう言葉を交わし終えると、美音はカバンを手に持ち生徒会室を出た。
その廊下を出た所で、会議室に向かう途中である圭史と鉢合わせした。
この時ばかりは予想外だったそれに、美音は体を固まらせた。
「あれ?もう帰宅?」
いつもと変わらない圭史に、顔を上げることがどうしても出来ず、それでも必死に言葉を紡ぐ様子の美音。
「用事、あるから……。その、何かあったら又明日で」
「うん、分かった。じゃあ、気をつけてね」
「うん、お先に……」
頬を赤く染めた美音はそう答えると、足早にその場を駆けていった。
 圭史は気にしていないとでも言うように数歩歩いて見せてから、静かに美音を振り返った。
ひどく恥かしそうな様子で下駄箱に向かっていく彼女の後ろ姿に、圭史は笑みを零さずに入られなかった。