時の雫-風に乗って君に届けば

§11 揺さぶられた想い


Episode 2 /10




 火曜日の朝、圭史は普段利用している時間の電車に乗ろうと家を出た。
あれから早1週間は過ぎた。こんなに長く学校を休んだ美音は初めてだった。
改札を抜けて階段を上る。その先にいつもの見慣れ切ったホームがあった。
中央車両辺りの乗り場に足を止め、校内にある時計に目を向けた。電車の到着時間にはまだ数分ある。
吐息が白く目に映るのを見ながら、何となく視線を先頭車両の乗り場のほうに向けた。
 そこにあるベンチに腰掛けている女生徒の足が見えた。細くて白い足にひき付けられるようにその上に目を向けてみて、次の瞬間にはそこに向かって歩き出していた。
それは美音だった。まだ青い顔色でしんどそうな表情でぼんやりと向かいホームを眺めている。
 心臓がやけに音をたてているのを聞きながら、圭史は足を進めて行く。
美音のすぐ傍、手を伸ばせば触れられる距離で足を止めると、言葉を紡いだ。
口から出てきた声は至極穏やかな口調だった。
「おはよう。熱の方はもういいの?」
「あ、おはよう。昨日やっと平熱までさがったから」
少ししんどうそうにそれでも笑顔を浮かべて言った美音。
「それは良かった」
微笑みながらそう言うと、美音は目を伏せがちにして言う。
「あの、ノート、……ありがとう。あと、差し入れとかも」
「ううん、そんな事くらいしかしてあげられなくて」
「いえ、充分、助かってマス……」

 ホームに電車が到着して、立ち上がった美音はふら付いていて思わず手を腰に伸ばしていた。
「大丈夫?」
「あ、うん」
顔を上げることないまま、美音はそう口にした。
 いつも軽々持っていたカバンに、今の美音は振り回されているような感じがするくらい不安定さを醸し出していた。
長引いた発熱に体力は回復しておらず、それを証明するかのように彼女は痩せていた。
 圭史は美音のカバンを手にし力強く言った。
「カバン持つから」
美音が一瞬の躊躇いを見せた時には、圭史は既に一人で抱えていた。
「あ、ありが、と……」
開いた電車の扉に美音を促してから圭史が後から乗った。
 空いていた座席に美音を座らせてその前に圭史は立った。
朝のいつもの気だるい時間が、今日はいつもより頭の中が冴え冴えとしていた。
窓から見える景色に目を向けていて、ふと何かを感じて目線を下に向けてみた。
だが、暖かい車内の空気に撫でられて赤い頬をした美音が俯いているだけだった。

 下駄箱に辿りつくと、それぞれの場所にそれぞれが足を向けた。
上履きを下に落として履き替えた時、また何かを感じてその方向に顔を向けた。
こちらに顔を向けていた美音と目が合い、彼女はすぐ目を伏せてしまった。
印象に残ったのは、やけに赤い美音の頬だった。

 ― ……熱っぽいのかな……? ―

 いつもは4組の教室の前で別れるのだが、今日はそこで足を止めた美音に圭史ははっきりと口にした。
「持ってくから」
美音の反応を待つことなく圭史は自分のクラスを素通りしその先へと向かう。
美音の躊躇いをその背中にひしひしと感じても、圭史は動じなかった。
 1組の教室に来て、ようやっとカバンを美音の手に返した。
「ありがとう……」
熱っぽさを隠し切れない彼女は顔を伏せたまま、弱々しい声でそう言った。
「しんどかったら無理しないで保健室に行きなよ?」
圭史は心配な気持ちでそう言った。
「……うん。しんどい時はそうする……」
「……じゃあ」
「……うん」
様子の変わらない美音だった。
圭史は通り過ぎた自分の教室に向かって歩き出した。
2組の教室を通り過ぎようとした頃、圭史はごく自然に振り返っていた。
1組の教室の前では、まだ中に入らずに美音がこちらを見て立っていた。
 美音は「あ……」という表情をすると、どこか躊躇いがちに小さく手を振った。
なぜだかぎこちないその様子に、胸がくすぐったく感じて涌き出た感情を隠すことなく満面の笑顔を浮かべた圭史だった。
それに美音が肩幅を小さくさせて目を伏せると、圭史にはその赤い頬が目に映った。



 昼休み、教員室に用事を済ませ終えた圭史は、選択の余地なく図書室へと向かった。
ようやっと学校で見られる美音の姿をもっと目にしたくて足を向けてみたのだ。
いなければ、それはしょうがない、と自分に言いながら。
 扉を開け図書室に入ると、中は暖かく静かだった。
奥へと進み、彼女の定位置となっている席へと足を進めた。
それが見える場所に出た圭史の目には、彼女の姿は見えなかった。

 ― 来ていないのかな……? ―

 顔を横に向けてみて、本棚の間に立っている美音を発見した。
上段に陳列されている本を踏み台無しで必死に背伸びをして手を届かせようとしている。どう見ても届きそうにはないのだけれど。
 圭史は言葉をかけることなく彼女の元へと行き、後ろからその本に手を伸ばした。
それは圭史の手によっていとも簡単に美音の手に運ばれた。
「はい」
自分の中にすっぽりと収まってしまう彼女は、差し出された本を、おず…、と受けとり、その胸の中に抱きかかえると顔を伏せた。
「……あ、りがと……」
蚊の鳴くような声。そして、顔を隠すようにおちた横髪の間から、真っ赤に染まった耳が見えていた。



 その日の放課後、様子を見に1組の教室を覗きに行った時には、もう美音の姿は見当たらなかった。その教室に存在する机には美音のカバンがかかっているのは見受けられなかった。多分帰ったのだと思い、圭史は来た道を戻り部室へと向かった。
 その途中で偶然川浪と一緒になった圭史は、なんの躊躇いもなしに言葉をかけた。
「春日は授業出てた?」
「うん、ずっと出てたよ。休み時間は机にうつ伏して寝てたけど」
「まだ熱ありそうだった?」
「ううん。どっちかと言うとしんどそうで顔色悪かったよ」
「……」

「……ねぇ」
尋ねるようにそう口に出しておきながら、それ以上言葉を綴らない川浪に、圭史は「なに?」と目を向けた。
「……二人って付き合ってるの?」
控え目な声でそう訊かれ、圭史は参ったような微笑を浮かべて口を開く。
「……さぁ、どうなんだろう」
他に紡げる言葉は思い浮かばなかった。
 眉を顰めた川浪の顔は何かを訊ねている。
だけど圭史は苦笑するしか出来なかった。



 水曜日の実行委員会を迎えると、3年生の送別会の準備で生徒会共に実行委員も忙しくなっていた。
水曜日以外の日は、圭史は部活での基礎トレを終えてからウエア姿のまま準備に参加していた。
 今日もそれを済ませてから下駄箱で上履きに履き替え会議室に向かっていた。
生徒会室の扉は半開きにされており、通りながら目を向けると、美音は机に向かってペンを走らせていた。その表情は数学を教えているときに見る真面目な表情だった。
「……」
それを目にするだけで心の中には切ないような、淋しいような不思議な感情が流れてくる。まるで、決して手が届かない距離を思い知らせているようで。

 足を進めるたびに動く空気が前髪をなびかせていく。
それを感じながら、自分の心の所在の無さにため息をつきたい気持ちのまま会議室に入っていった。
 中は、そんな想い等まるで関係無しに賑わっている。
そんな事を感じてしまった自分にため息を軽くついてから、担当部署の輪の中に入って行った。
「お、瀧野。丁度今ミーティングが終わった所で講堂に移動だよ」
「悪い。途中からで」
「気にすんなよ。皆分かってるから」
あっけらかんと笑顔で言われ、圭史は苦笑交じりに笑みを浮かべた。



「なぁ瀧野、ここの時間って空きすぎじゃないか?」
「どれ?」
「ここ」
冊子片手に訊ねてくる阿部に覗き込んで見る圭史。
「……確か、この後の準備で時間がかかるからじゃなかったっけ?」
「えー?時間とりすぎだろ?」
「おーい、佐藤。ここって準備時間だったよな?」
講堂の端で採寸している同じ2年委員に圭史は声をかけた。
呼ばれた佐藤は手を止めて寄ってくる。圭史が指差している所を確認してから口を開く。
「えーと、確か余裕持って準備する為にその時間に拡大したんじゃなかったけ?」
「とりすぎだろ?」
阿部の声に佐藤は言う。
「それで、どこかが余興するとかって言ってなかったっけ?」
「え?そうだったけ?」
「えーと、たしか生徒会だったような、先生たちだったような、……あれ?結局無くなったんだったけかな?」
ハッキリしない佐藤の記憶に、二人は「うーん」という表情を浮かべた。
「それがはっきりしないと、ここから段取り組めないんじゃね?」
参ったような表情で圭史が言うと、佐藤はじ…、と眼差しを向け、阿部は笑顔で言った。
「春日なら生徒会室にいるはずだから」
「うん、よろしく」
続けていった佐藤の言葉。
「…………。」
訊きに行く役目は圭史なのだと大前提になっているのが分かる。
それでも圭史は二人に何か言いたげな目を向けた。
だが阿部は笑顔を崩さず出入り口を指差して言うのだ。
「あちらが生徒会室に行く道です」
「…………」
態度を崩さない二人に、諦めた顔をすると方向を変えながら小さく息を吐いた。
そして、顔だけを振り返って二人に愚痴っぽく言った。
「この前言ったのにっ、て怒られたらお前らのせいだからな」
「大丈夫大丈夫。行ってらっさい」
阿部が笑顔で手をひらひらと振ったのを見ると、気が進まない様子で圭史は歩き出した。
本当はそれが理由なのではないのだけど。

 生徒会室のある校舎に入ると、丁度2階に向かうところの亮太と会い、圭史は呼び止めて確認事項を訊ねてみた。
「あー……、それ、な。とりあえず軽音に繋ぎ頼んだらしいから詳しい事は春日に聞いて」
「……わかった」
圭史がそう返事をすると、亮太はそのまま階段へと向かい2階に上がっていく。
まだ足を止めたまま生徒会室を眺めると圭史は小さくため息を吐いた。
それが聞こえたのか亮太は顔だけで振り向くと圭史に目を向けた。
何か躊躇った表情で頭をぽりぽりと掻くと観念した様な顔をして圭史は生徒会室へと歩き出した。

 生徒会室のある廊下に入ると、美音と薫の声が聞こえてきていた。
「美音ちゃん、今年のバレンタインどーする?」
思わずその台詞に圭史は動かしていた足を止めた。
「……あー、そう言えば来週なんだよね?」
「そうだよー。火曜日だよ」
「実行委員に差し入れでクッキーでも作ろうかとは思ってるけど」
「亮太たちには?」
「今年は義理とかしないでおこうと思ってたんだけど、亮太にはあげないと、……まずいよねぇ?」
「うーん、どうなんだろうね。無かったら口には出さないけど文句ありありの顔はしそうだよね。甘いもの好きだから」
「そーだよねー」
「美音ちゃんの手作りだったらお金出しても欲しいって言う人たくさんいるだろうね」
「えー?そうかなぁ」
「今までの本命チョコってどんなのあげたの?」
「あー、……本命にはあげたこと無いんだ。バレンタインに手作りもしたことない」
「へー、そうなの?」
「うん」
それを聞いて、圭史はにわかに信じられない気持ちになっていた。
こういう話を聞いて頭に浮かぶのはいつも同じ人間の顔だった。
戸惑いと躊躇いが圭史の顔に浮かんだ。
 本当なら踵を返してこの場所から離れてしまいたい。
だけど、仕事がある。それに支障をきたすわけには行かない。
初めから判っていた筈だった。彼女が生徒会役員で自分が実行委員に決まってしまった時から、後に支障をきたす事を起こしてはいけないと。

……こんなつもりではなかったのに……。そんな自責の念が体中を駆け巡る。

 圭史は意を決したように息を吸うと止めていた足を再び動かし始めた。
そうしてすぐに後方から駆けてくる音が響いてきた。顔を向けて見れば丈斗で、圭史に気づくと傍まで来た所でその足取りは歩みに変わった。
「よ」
「どもです。今日も部活出てからですか?」
「うん。基礎トレだけな。ちょっとでも動かしておかないと体が鈍るから」
「そーですよねー」
一人で生徒会室に入らなくて済んだ事に内心ほっと安心していた。
 半開きになっていた生徒会室の扉を圭史が開けて中に入っていく。
中に入ると、すぐさま美音の姿が目に入り込んだ。中に入ってすぐに目に映る場所が彼女の席だからだ。
 入ってきた音についと顔を上げた美音とはっきりと目が合った。
圭史がそれに反応を見せるより早く慌てた様子で美音は顔を伏せた。
「…………」

 あれから、美音はずっとこんな様子を見せている。
避ける様に逃げる様に目を合わせない。
気まずそうな顔をして顔を逸らす彼女からは重い空気を感じる。
 その度に、圭史の胸は握り締められたような苦しみに襲われた。
今だってそれは同じだった。

 後ろから入ってきた丈斗は、圭史の横を抜けて薫の所へと行った。
「橋枝会長、先生の所に打ち合わせ行ってたんですけど……」
 ノートを開き用紙にペンを走らせる美音を見て、圭史は向かいの机に視線をずらした。
無造作に置きっ放しにされている送別会の企画書に気付くと、それに手を伸ばし確認に来た目的のページを開き始めた。
「あの、ごめん、ここの時間枠なんだけど、軽音のつなぎって……」
うまく言葉が出てこなかったのだが、それだけで美音は分かったらしくノートのページを捲り圭史の知りたかった情報を話し始めた。
それを聞いている途中で、机と机の間に置かれているメモ用紙を取り必要事項を書き出していく圭史。俯いたままの彼女を気にしないようにしながら。
 説明が終わって美音は元の作業に戻っている時、圭史はまだ書いていた。
そうしているうちに丈斗と薫は出て行き、この部屋には圭史と美音の二人っきりになった。
ペンを持ったまま、様子を伺うようにそっと美音に視線を走らせた圭史。
美音はまるで圭史から顔を隠すように左手を額に当てていた。
顔はずっと伏せたままで圭史の視線を遮断しているようだった。
「……」
それに慣れない圭史の胸に渦巻く重い気持ちが、圭史を押し潰そうとしていた。
それに囚われないようにと、自分を落ち着かせる為息を吸った。
「……あの、」
意を決して圭史がそう口にしたのと、美音がペンを置いて席を立ったのは同時だった。
そのまま扉に向かう美音の背を見て圭史は呼び止める。
「春日」
美音の肩に躊躇いが見えた。だが足は止まる気配が無いのを見て、止まらない感情を胸に圭史は彼女に手を伸ばし、腕を掴んで引き止めた。
「春日」
それに美音の体はビク。と反応を見せたのを見て、圭史ははっとその手を離した。
自分を見ようとしない彼女に、残酷なほど胸が痛みで声を上げている。

 ― なんで突然…… ―

心の中でそう疑問に思っても、答えは分かっているような気がした。
あの時に想いを告げたから。それ以外思い当たる事はない。

 美音は縮こまったように身を小さくして顔を上げようとしない。
そんな様子に泣きたい気持ちになりながら言葉を綴った。
何度も思い浮かべては怖くてすぐに打ち消していたその台詞を。
「俺が、迷惑……?」
美音の肩は小さくピク。と動いた。それだけだった。
「俺の事迷惑?」
もう一度、今度はハッキリと訊いた。
 それに美音は頭を横に振った。顔は上げないまま。
圭史は堪らなくなって名を口にする。
「春日……」
体を後ずさせて、故意に顔を向けず逃げようとする美音の手を圭史は握って引き止めようとした。だが、手が触れたその次の瞬間、美音はその手を払いのけるように胸元に引っ込めた。

「あ……」
しまった、と言わんばかりに顔を上げた美音。
だが、圭史は振りほどかれたそれにひどく傷ついた表情をしている。
圭史はそのショックに何も考えられなくなっていた。
何も言葉が浮かばない。頭も体も痺れたように動かなかった。
「……ご、めんっ、そうじゃ、な、くて……、ごめ、ん、ごめんなさい……っ」
美音のその必死な声に重たい体を動かして目を向けた。
 今にも泣き出してしまいそうな顔の美音は自分が悪いのだと言っているようだった。
「……じゃ、ど、して?」
痛みの声を上げたままの心臓に倒れてしまいたいのを必死に堪えながら圭史はそう呟いた。周りの景色など瞳には映っていない。
映っているのは、今にも崩れてしまいそうな彼女の表情と、自分の動揺だけだった。
だけど、美音は首を横に振るだけでそれ以上何も口にしない。
そして、潤み始めた美音の目を見て、圭史は固まったままの体をどうにか動かし搾り出すように声を出した。
「……ごめん、もういい……」
それ以上美音を見るのも、これ以上胸が痛むのにも耐えられなくなって、その場から逃げ出すように圭史は生徒会室を出て行った。

頭の中は靄がかかったように何も見えなくなっていた。
ただ泣きたいばかりの感情を必死で抑えこんで早足に生徒会室から離れて行った。
 講堂の扉がある廊下に入る前の階段を上りきったところで途切れたように足を止め、そのまま倒れ込むように壁に体を預けて、虚脱感にも似たそれをその身いっぱいに感じながら圭史は声を漏らした。
「……なんだって言うんだよ」
それは聞いた者が心を揺らがすほどの切なくて悲しい声音だった。