時の雫-風に乗って君に届けば

§11 揺さぶられた想い


Episode 1 /10




 朝、吐く息は真っ白に見える気温の中、圭史は学校に向かいながら様々な思いを頭の中に駆け巡らせていた。形にならないもやもやとした思いと殺伐とした心は、その身をじわじわと蝕んでいこうとしているようでもあった。
 それに囚われまいと、毅然とした思いで校門を抜けそのまま部室へと向かった。
もう既に鍵の開いているドアを開け中に入ると、ストーブの前で暖を取っている谷折はいつもと変わらない様子で言葉をかけてきた。
「おーっす。今日はゆっくりだったなぁ」
「おう。ちょっと家出るのが遅くなったから」
「ふーん」
ストーブに手をかざしながら谷折はそう口にした。
 暫く経ってから圭史に目をやると、ウエアに着替えている最中だ。
「……」
何か言いたそうな表情だったのに、何も口にすることなくストーブに顔を戻した谷折だった。



 圭史の様子は、特にいつもと変わらないように見えた。
ボールを打ち合いながら、二人は雑談を交わしていた。
 そして、谷折が昨日の事をやっと口にしたのは、練習を終えて部室で着替えている時だった。
「……なぁ、どんな感じだった?春日さん」
カッターシャツのボタンを留めながら谷折はそう口にした。
圭史はうろたえる様子を見せることなく落ち着いた様子で口を開く。
「かなり恐怖心植えつけられたみたいだった。ずっと喋れずにいたから」
「……そう、だよな。女の子にとったら相当なショックだよな」
「そっちは、あれからどうなった?」
「ああ。バスケ部顧問につき出してやった。俺らと仲良い女子生徒襲ったからって。
名前は頑として言わなかったけどね。でも、さすがに問題になるの怖くて、余計な詮索はしてこなかったよ。あいつに処罰与えようと思ったら、春日さんの名前出して、春日さんが学校側に話さないといけなくなるだろ。だから、春日さん次第なんだけど」
「わかった。……そう言えば、カバン置いてくれてたの気付かなかった」
「うん、邪魔しちゃ悪いと思って、音たてないようにものごっつ気ぃ遣ったから。俺らの顔見て変に動揺与えたらいけないと思ったし。……瀧野も、暫く練習控えて、その手治せよ」
谷折の最後の台詞に、普通を装って動かしていた圭史の手が止まった。
「……気付いてたか」
片岡を殴った為に痛めた右手だった。ずっと顔に出さないようにしていたのに。
「あったりまえだろ。あんだけ派手に殴れば相当だろうが」
それにふっとした笑みを浮かべながら圭史は言う。
「あと2、3発は殴りたかったけどな」
「だろうな。あん時のお前、かなりやばかったよ」
そう言ってから谷折はため息をつきながらロッカーの扉を閉めた。



 まだ予鈴もなっていない登校時間に、圭史は頬杖をつきぼんやりとしながら席についていた。
 ずっと、美音の泣き顔が頭にちらついて離れなかった。
今まで何度か美音の泣き顔を見た事はあった。だけど、それは我慢しきれない感情に、一人で整理をつけるために流していた涙だった。
 でも、昨日のは違った。
 ……本当は、告白をしようなんてことは、考えていなかった。
それも、この最近になんて。
冷静になって考えれば、あの事件直後にするようなものじゃない。
だけど、あの美音の不安でいっぱいの顔で自分に縋る目を見ていたら、言わずにはいられなかった。

 ― 何、やってんだろーな、俺 ―

 今までと確実に違う美音の心に気付いてしまったから、彼女の全てをこの腕の中に閉じ込めてしまいたくなった。本当は、泣いている彼女を抱きしめながら、自分の中の本能は何度も目覚めようとしていた。
もし、あんな出来事が起こってなかったら……?
そんな仮定を浮かべてみては、湧き出る邪な期待に翻弄されそうになって慌てて否定するのだ。
起こっていなかったら、今までと何ら変わらないお互いだったはずだ、と。
 まして、自分が想っているように、彼女が自分の事を想っているなんていうことは考えられないから。
それは、卵から孵ったばかりのヒナ鳥が初めて見たものを親と思うように、彼女は自分を安心できる人間と思っているのかもしれなくて……。

 ― 俺って、報われないよな…… ―

 それでも、圭史は想いを手放す事はできない。もう、今更。



 小さく息を吐くと圭史は椅子から立ち上がった。
自分がいる教室を出て隣の教室の扉を開け、声を放った。
「溝口!ちょっと」
圭史の声に気付くと、亮太は何も言わずに席を立ち廊下に出た。
「春日なんだけど、風邪で熱出して休みだから」
「風邪?」
「朝に電話があった。余計な心配かけたくないからって。溝口にも伝えておいてって頼まれたから」
「……そっか。そう言えばこの間から咳がたまにでてたな。……2、3日は休むかな」
「かな?じゃ、ま、そういうことで」
「おう。さんきゅ」
そうして、亮太と別れるとその足で1組の教室へと向かった。

この学年になってから、1回程度しか訪れた事のない教室の扉を圭史は躊躇うことなく開けた。

 その扉付近の生徒が開いた扉に目をむけ、そして動きを止めた。
今でこそ少しは落ち着いているが、数日前までは話題に事尽きなかった人間がこのクラスに姿を見せたのだから、驚きを隠せなかったのだ。
 その視線をものともせず圭史は特定の人物を見つけるために教室を見渡した。
テニス部女子の数人が圭史に気づき何かを話している様子だった。

それにも構わずに圭史は口を開いた。
「川浪サン!」

それに尚更教室の中は静かになった。
このクラスの人間は、違う人間が呼ばれるのだと思っていたのだろう。
 呼ばれた川浪はほんの一瞬だけ茫然としていたがすぐ我に返り一言返事をすると圭史の所へと早足に歩き出した。

 圭史は廊下で待つ中、自分を見ている生徒の中で彼女たちがいるのを気付いていた。美音に余計な事を頼み、そしてこの間の被服室での事件に加担していたであろう彼女たち。
心の中に苛立ちが湧き上がるのを感じながら、それでも圭史は表情に出さないよう堪えている。また、余計なことが起きない為にだ。

そして、その場所へ到着した川浪はしらっとした表情で扉を閉めた。いつもと違った教室の雰囲気を遮断するかのように。
 川浪はいつもと変わらない態度で面と向かって口を開いた。
「おはよ」
「あ、おはよ。……春日今日熱出して休みなんだけど、授業のノートとかプリントあったら俺によこして。帰りに届けるから。家近所だし」
「……あ、うん、わかった。じゃあ、部活の時にあれば渡すよ」
「うん、そうして。じゃ」
そうして用件を終えると、愛想の無い顔のまま圭史は教室へと戻っていった。

 圭史が踵を返したときには、川浪は教室の扉に手をかけて入っていこうとしていた。
川浪の様子に圭史への余計な勘ぐりは見られない。
 中に入れば、クラスメートが視線を不躾に投げてくるのを充分にわかっていながらも、そんなものは気にした様子もなく元いた場所に戻っていく川浪だった。
「ねぇねぇ、何だったの?」
グループの子の興味津々といった表情での質問に、何食わぬ顔で川浪は口を開く。
「んー、部活で、プリントあったら頂戴っていうハナシ」
「なーんだ」
かなり要約した話を都合の良いように解釈した相手はそれで話を終えたのだった。
 予鈴が鳴り、今日欠席である美音の席を見つめながら川浪は自分の席に着いた。



 放課後、部室でウエアに着替え終えた圭史が外に出た時、丁度そこへ辿りついていた川浪と会った。
「あ、瀧野クン。ノート……」
そう言いながらカバンの中を探り、ルーズリーフを数枚取り出した。
「これ、今日の授業分とプリント」
「ああ、うん。渡すだけで大丈夫?」
「うん。今日は特に何もなかったから」
「じゃ、ちゃんと届けておくので」
ノートに目を向けながらそう言った圭史は、真っ直ぐと注がれている眼差しに気付き顔を向けて言葉を紡いだ。
「……なんか気になる?」
「あー、うん。春日ちゃん、ホントに風邪で休み?」
川浪のその顔には心配が浮かんでいた。だから、圭史はさらりと述べた。
「俺はそう聞いてるから」
「そう、か。じゃ、ま、明日も休みだったら又渡すから」
「うん、よろしく」
そう言うと、川浪は部室へと入っていく。
圭史も受け取ったノートをしまいに再び部室に入っていった。
 着替えている数人の間を抜けるように行き、辿り着いた自分のロッカーを開けカバンの中に手にしていたのをしまった。ゆっくりと静かにロッカーを閉めると、圭史はまた美音の顔を思い出して小さく息を吐いた。



 練習を終え帰路につき、圭史は電車を降り駅から出るといつもより早足で道を進んだ。
その足も目的の場所に辿り着く一本前の道になると緩やかなものに変わっていく。
 圭史の表情は神妙なものだった。胸の内には緊張が渦巻いていて色々な思いが交錯している。
 ……彼女は出てくるだろうか。
顔を逸らされたりしたらどうしようか。
熱があるのだから出てこれないかもしれない。もしかしたら、遠回しに振られてしまうかもしれない。
 それは考えたらキリが無いほどのものばかりだった。
 まるで後回しにするようにゆっくり向かっていたそれも、家の前に辿り着いてしまった。
家を見上げて、息を吸うと覚悟を決めた顔をして呼び鈴を押した。
家の中にチャイムが鳴り響いたのを耳にして、思い出したようにカバンの中から渡すものを取り出した。

 中から出てきたのは妹の真音だった。
「ノート、届けに来たんだけど……」
「あ、圭史さん。お姉ちゃん、今眠ってるところだから」
「熱、どう?」
「ずっと9度から下がらなくて。寝てても時々うなされてるみたい」
「……そっか。あ、これ渡しておいて。俺が書いたんじゃないけど」
「はい、渡しておきます」
「じゃあお大事にって伝えておいてね」
「はい」

 帰り道、真っ暗な空を見上げて、いたたまれない気持ちで息を吐いた。
どんな気持ちで空を見上げても、目に映る景色は何も変わらない。
同じ空の下で苦しんでいる美音のことを思いながら、その身を撫で付ける冷たい風が心まで凍みるのを感じながら圭史は足を進めた。






 翌日も翌々日も美音は学校を休んでいた。
圭史がその日の授業のノートを届けに行くようになって3日目。
その連日と同じように呼び鈴を鳴らすと、真音が玄関の戸を開け挨拶を交わしてすぐキッチンの方に顔を向けて声を放った。
「お姉ちゃん!」
それに圭史の心臓は反応するように声を上げた気がした。
扉を支えていた真音が一旦中に入り、扉が閉まってすぐ再び開けられた扉からパジャマ姿の美音が出てきた。
足元はふらついていて危なげな様子に圭史が心配顔をした時、真音が美音に上着を差し出していた。
それをけだるそうに袖を通すと美音は熱でまだ赤い顔に笑みを浮かべて圭史の前に出てきた。
「ごめん、毎日届けてくれてありがとう」
「あ、ううん。そんなのは全然いいんだけど。まだ熱あるだろ?無理して出てくれなくても良かったのに」
普通にしているつもりなのに、圭史の頬はほんのりと赤くなっていた。
「丁度下にいたから。ようやっと8度までさがって大分楽になったし、顔見せとこうと思って」
そう言って笑顔を向ける美音の線は確実に細くなっていた。
「しんどいのに気遣わせてごめん。外は寒いしもう中に入りなよ。ぶり返したら大変だし」
「うん、こっちこそごめんね。土日で熱が下がったら月曜には行けるから」
「うん、お大事にね」
心の中で本当は聞きたい事がある筈なのに、無理矢理それを飲み込んで圭史は言葉を紡いだ。笑顔を向ける美音を見て、圭史の顔に微笑が零れる。
彼女はしんどいのに、会えて喜んでしまう自分を不謹慎だと思いながらも浮かぶ笑みを消す事はできなかった。
「じゃあ又」
圭史がそう言っても中に入る気配を見せない美音を見て、ゆっくりと歩き出していく。
そうすると、ある程度離れたところで家の中に入るからだ。
振り返ることなく圭史は進んでいく。澄ましていた耳に、扉の閉まる音が聞こえてほっと安心しつつ少し淋しげな感情を感じながら家へと向かっていった。



 月曜日になっても、学校に美音の姿は見えなかった。
部室の前で今日も川浪にノートを受け取っていると、通りがかりの運動部に冷やかしの口笛をかけられていった。
それが丁度目に映る場所に立っていた川浪は、彼らをチラリと見遣ってから圭史に眼を移した。圭史は何の感情もその顔に浮かべることなく涼しげな顔をしている。
「……結構、長いね。欠席」
ぽつりと零すように川浪が言うと、圭史は少し表情を緩やかにして口を開いた。
「ああ、8度まで熱が下がったから、休みで下がったら学校来るって言ってた。まだ下がりきってないのかもな」
「じゃあ、ずっと9度以上あったってこと?!」
「そういう事だよな」
「そんなにひどい風邪なわけ?」
「……日頃のストレスもあるだろうけど。外には見せないけど、かなり溜め込むタイプだし。……それの殆どは、俺のせい、だろうな」
淋しげな瞳。遠い眼差し。
美音の話をする時だけに見られる圭史の顔に浮かぶ表情だった。
 川浪は喉が詰まったように言葉が出てこなかった。
「……学校出てきたら、春日のこと助けてやってな」
淋しげに、そしてどこか辛そうに言った圭史の顔に浮かんだ微笑。
川浪から言葉が出てこないまま、圭史は部室に入ろうと足を進めた。
その背中に視線を追い川浪は思い切ったように口を開いた。
「瀧野クン、……一つだけ聞いていい?」
その台詞に圭史は足を止め振り返ると言葉を返した。
「何?」
「別に興味本位で聞く訳じゃないんだけど、なんで私に?」
「春日から川浪サンの良い話しか聞いた事がないから」
そうして、傍目が圭史に抱く印象そのままの、人を惹きつける笑顔を浮かべて言った圭史は再び部室に足を進めた。

「…………今のは、不意打ちだわ」
片手を顔に当て、参ったように呟いた川浪。
あの笑顔に胸をときめかさない女の子がいたら見てみたい、と思うほどのものだった。
 美音の話になった時だけ、感情を露にする圭史。
一体それに何人の人が気づいているだろうか。
そうさせている美音に、敵わない何かを感じながら川浪は部室へと向かった。