時の雫-風に乗って君に届けば

§10 灯火に気づくトキ


Episode 5 /5




 月末の放課後、美音は図書室に足を運んでいた。
百科事典を広げて、ノートに書き写しているところへ、トレーニングウエアに着替えた栞がやって来た。
「春日ちゃん」
「あ、いさちゃん」
声に顔を上げ、栞の顔を目にした途端、美音は笑顔になった。
「あれから大丈夫?」
「うん、何もないよ。ナミちゃんが一緒にいてくれるし」
「そっか」
笑顔でそう返事をすると、横の椅子に栞は腰を下ろし、両手で顎を支えながら美音を見つめた。再び手を動かし始めた頃に、栞は言葉を紡ぐ。
「瀧野君とはどう?」
それに美音は意気消沈するかのように浮かない顔になり手を止めた。
「……別に何も。いさちゃんの方が同じテニス部だし私より様子知ってるでしょ」
どこか自嘲気味とも取れるその美音の表情に、栞は静かに微笑むと顔を正面に向けて口を開く。
「まぁ、テニスをしている時の様子なら目にする事はあるけど。最近は黙々と練習してるよ」
「……そう」
美音は再び手を動かす。
栞はその沈黙に身を投じた。だが、すぐ美音は口を開いた。
「……あれから、喋ってないんだ。避けられてるみたい」
「責任、感じてるんじゃない?」
「瀧野くんが悪い訳じゃないのに」
「それでも罪悪感感じてるんだよ」
「私、一つも迷惑とかかけられてなんてないのに。……反対に私の方が嫌な思い、させてるよ……」
「多分、又こういう事が起きるの怖いんじゃないかな」
「……。私、女同士の揉め事にへこたれるほど弱くなんかない。それに、相手が違う人でも似たような事は今まで何度もあったよ」
「……春日ちゃんは、どうするの?」
「……そんなの、わかんないよ」
「そっか。そのうち、生徒会の方でまた前みたいに喋れるようになるよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。だって、毎日マフラーしてるもの。春日ちゃんが選んだあの茶色の」
「……!」
少し意地悪に言った栞の言葉に、美音は頬を紅く染めた。



 栞は時間になると部活の方に向かった。
美音はまた一人になり、調べ物が終わって物を片付けてからふと生徒会の所用を思い出した。

 ― あ、そうだ。この間途中で終わらせたままの折角だからやっていこう ―

カバンを持って図書室を出ると、そのまま真っ直ぐ進んでグランドが眺められる場所で足を止めた。微かに聞こえてくる部活動の声に、美音は静かに顔を向ける。

この場所からはっきりと姿が見えるわけじゃない。

美音はいつも通る場所から道をそれて中庭の方へ向かっていく。
生徒会室に向かうにはかなりの遠回りだった。他に生徒が見えないその場所で足を止め、グランドの奥に位置するコートに目を向けた。

 ― ……練習、してる ―

 テニス部の練習風景に美音が気を向けたのは、あの夏の親睦キャンプの時以来だった。
あの時は、なんとなく目を向けてみて、圭史の普段と違う表情に見入っていた。
「……」
あれが遠い昔のようにも感じられる。
 コートの中に見える圭史は相手のボールを打ち返しながら次の打点に体を向けていく。
真剣な圭史の表情に、美音は思いを馳せる。

 あの晩、あの胸に抱きしめられた彼の鼓動は早かったのに。
彼はただ「ごめん」とだけ口にしてそれ以上何も説明せずに行ってしまった。
それが一体どういう事なのか、分からないまま、彼は目の前に姿を現してくれない。
美音は彼といる時間を大切に思い始めていたのに。

 ゆっくりと視線を外すと、小さく息を吐いてから美音は生徒会室に向かっていった。



「あれ?今からか?」
丁度それは、角を曲がれば生徒会室に到着するという場所で、今出てきたばかりと言う様子の亮太に会った。
「うん、先に図書室で調べものしてたから」
「そうか。じゃ、俺ももう少しやってくか」
そう言うと、亮太は踵を返し今出てきたばかりの生徒会室に向かった。

 机に向かい書類を作成して数時間後、美音は息を吐きながら書類の束を机の上でとんとんと整えた。
「よし、案件3パターンできました。あとはコピーのみです」
「3年送別会のか?」
「そうだよ。これで来週実行委員会はスムーズだね」
「はー。んなもん、全部実行委員に任せりゃいーのに」
「そーすると、リハがギリギリの時間になってつらいからさ」
「ふーん」
「じゃ、コピー行ってくるから」
「おー気をつけてな。変な男の誘いにほいほい乗るなよ」
「乗る訳ないでしょっ」
それだけ言って、美音は生徒会室を出て行った。



 コピー室に一人、美音は原稿をセットしボタンを押すと、その部屋から出て、廊下の突き当たりにある窓の所まで向かった。
そこで足を止めて数秒してから、鍵を開けて外の景色に顔を向けた。
 薄暗いこの時間、テニスコートにはライトがあてられている。
まだ練習をしているのだろう。
 冷たい風に前髪が靡くと美音は小さくため息をついてから顔を中に引き戻した。
だが、手は窓の桟にかけたままで何も映していない瞳は宙を見つめている。
少し何かに躊躇いを見せたその表情は、今までの美音では見られなかったものだろう。
「……ふう。何やってんだろ、私……」
そう呟いて手を離すと、ゆっくりと窓を閉めた。
それでも、後ろ髪を惹かれるような思いは消えなかった。
 なぜか重みを感じる体を引きずるような感覚で足を前に推し進めて、コピー室に入った。
まだ半分も済んでない。他にする事もなかったので、刷り上った1枚を手にとり読み直すことにした。

 この時間の校内は静かだった。
廊下から聞こえてくる音もなく、ただコピー音だけが耳に入ってくる。
その静けささえ今の美音には心許なく感じてため息を吐きたくなった。

が、丁度その時、いつの間に訪れていたのか、背後の人間の声が前触れもなく耳に届いた。
「春日さんひとり?」
声は出さなかったものの、驚きで体が一瞬硬直した。その動揺を隠し切れていない様子で、美音は振り返りながら笑顔を取り繕いつつ口を開く。
「あ、うん。片岡君、どうしたの?」
「コピー機の音が聞こえたから、覗いてみただけなんだ。そしたら、春日さんだったから」
「そ、なんだ。バスケ部もこんな時間まで練習なんだ」
「うん、まぁね」
そう曖昧に言った片岡の笑顔に美音は違和感を感じたが、先ほどの動揺を残したままなのでそう深くは考えられなかった。
 そんな美音の耳に、廊下を教員室に向かって歩く生徒の様子が届いてきた。

かかとを潰したまま履いている上履きの、引きずるような音に、それより後方から急いでくる生徒の足音。静かな廊下ではよく響いている。
「おい、谷折、部誌忘れてる!」
教員室にいる顧問の所へ向かっているところを追いかけてきた圭史の声に、谷折は足を止め振り返った。
「おー、悪い悪い。すっかり忘れてた」
「やっぱ、お前朝練で脳みそ使いきってるだろ」
「失礼な。俺にだって悩み事の一つや二つあるわいな」
「そーか。それは知らなかったな」
そう軽口を言い合いながら教員室へと入っていった。



 中にいる顧問の教師と今日一日の練習の報告と明日の確認事項等を打ち合わせて、部長副部長たちの仕事は終わる。
「最近、調子悪そうだな」
顧問教師は椅子に座ったまま、圭史を眺めながら言った。
「あー……、そう、見えますか?」
「そうだなぁ。そういう時は無理せずに力を抜くのも手だがなぁ。2月は送別会の準備もあるし、それで気分転換して春休みから頑張るのもいいんじゃないか」
「……はい」
浮かない表情の圭史を横目で伺っていた谷折だった。

 話が済み教員室を出ると、二人は来た道を真っ直ぐと向かっていく。
静かなこの廊下に、他に生徒の姿は見当たらない。
「なー、明日もすんの?」
「とりあえず、今週はする」
朝練の話をしながら進んでいく二人に、後方から声が飛んできた。
「瀧野谷折!」
二人は一斉に足を止め、呼び止めた亮太に振り返った。
「あれまぁ、こんな時間まで仕事でっか?」
のほほんとした様子で谷折が言うと、亮太は気を抜かない表情のまま訪ねて来る。
「お前ら行きしなに春日見かけなかったか?」
「いや?俺ら真っ直ぐ教員室行ったから、コピー室は覗いてないよ。教員室で姿は見なかったけど」
「時間が時間だし、気になって様子見に来たんだけど、印刷は丁度終わったところで、姿は見えないし、何枚か用紙が散らばってるし。いつもこういうのきっちり直すヤツだからなんか不自然だし。それに最近、……」
圭史に顔を向けて、浮かない表情のそれに、亮太は紡ごうとしていた言葉を飲み込んだ。
「何か忘れ物取りに生徒会室戻って、入れ違いとかになってるんじゃないの?」
谷折のその言葉に、頭を掻くとため息混じりに口を開いた。
「一回、戻ってみるか」
二人の方向に合わせて亮太は足を進めだした。
「りょーちんも意外と心配性ねぇ」
「普段は、野口か藤田を連れてるからまだ安心だけど、遅くなった時の一人の時はなぁ……」
「そんなん言ったら、会長さんはどーなるの?」
「橋枝は武道習ってるから心配ないんだよ。あいつ強いから」
「へー」
亮太の言葉に返答するのは谷折ばかりだった。圭史はずっと口を閉ざしたままだ。

 その圭史が、T字路に差し掛かったとき、ふと足を止めた。
2歩ほど進んだところで、亮太と谷折も足を止め圭史に顔を向ける。
「……今、声が……。ちょっと見てくる」
言葉だけを二人に向けて、圭史は普段行くことのないその廊下の先へ足早に向かって行った。
 そんな圭史に、二人は顔を見合わせると、とりあえず、その場で足を止めて待つことにした。



 圭史の耳に、美音の声が聞こえたような気がしたのだ。
それは本当に小さいものだったけれど。
もしかしたら、単なる空耳か幻聴だったかもしれない。
だけど、そのまま行く事が躊躇われて気になった圭史は、確かめに足を向けた。薄暗がりのその向こうへ。
 やっぱり気のせいだったかな、と思いながら、圭史は足を止めた。
確かめてみて気のせいだったら、それはそれで良いと思った。
辺りを見回してみても、教室の扉はどこも閉まっているし、明かりがついている訳でもない。だけど、この時の圭史はその廊下にある中で一つだけ、1、2センチ隙間の開いている扉に気づいた。普段だったら気が付かなかったかもしれないし、気にもしなかったかもしれない。そんな程度の異変だった。なのに、自然と何故かそこに注意がいった。そしてすぐ圭史の耳には確かに聞こえてきた。何を言っているかはわからなかったが、女のか細い声が。
そして、その後に発せられた男の声。
「……だから無駄だって」
「……やだ、助けて、……やめっ、やめて、……いやあ!!」
中から聞こえてきた救いを求める声が美音だと分かった瞬間に、圭史はそこの扉を開け放っていた。
「!! このっ……」
そう言うが早いか圭史は蹴り飛ばしていた。
その場に轟く衝撃音。

 扉を開けて目に入ったのは、美音を押し倒している片岡。ネクタイは緩められカッターシャツの第2ボタンまで開けられて、スカートの裾は捲り上がっている美音の怯えた顔。
何をされそうになっていたのか聞かずとも分かるそれに、圭史は沸き上がった感情を、いつもは抑えることしかしなかった感情を、素直に開け放った。

 突然の衝撃に顔を顰める片岡の胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせると、圭史は声を放った。
「ふざけた事してんじゃねぇよ!!思いっきり嫌がってんだろーが!!」
圭史の怒声に痛みを堪えながら片岡はそれでも言う。
「邪魔してんじゃねーよ」
「この……っ」
言葉にならない怒り。嫌がる美音の声と顔が頭の中をちらつく。
圭史は頬目掛けて思い切り拳を投げつけた。
鈍い音がその場を舞い、その直後に床に放り出された音が響いた。
「ふざけんなっ!!……それに、球技大会の試合で余計な手出ししないって言っただろーが!!」
「あんなもん時効だろっ」
殴られた頬を手の甲で拭いながら、片岡は痛みに顔を顰めた。
それでも、圭史の怒りは収まらない。二重、三重に怒りは増すばかりだった。
圭史は足を前に出し再び片岡の胸倉を掴んで引き上げた。
「近寄るな。もう二度とっ。金輪際!!」
「…お前にそんな事言う権利あんのかよ」
反撃をする素振りはない片岡の腕だった。
だが、放たれる片岡の言葉に圭史は殴らないではいられなかった。
その場に響く2発目の鈍い音。
 圭史は手を止めようとはしなかった。
「だ、……瀧野くん、ダメっ」
震えているけれど確かに耳に聞こえた美音の声に、圭史はぴくりと反応した。

 そして、賑やかな音と共に、亮太と谷折が教室に入ってくるや否や圭史を止めに入った。
「もうそれ以上はやめろっ」
谷折は抑え付けるように圭史の腕を掴んで言った。
それでも、収まりそうにない圭史の様子に谷折は言葉を告いだ。
「春日さんが怯えてるから」
それにぴくりと反応し、圭史はゆっくりと顔を向けていった。

 美音は壁を背に座り込んだ格好でいた。暗がりの中でも分かる青白い顔。

圭史の胸はひどく居た堪れない気持ちに押し潰されそうになった。
目が美音のとぶつかった。

動けずにいる二人をよそに亮太が口を開いた。
「また、無防備でいたんだろ。以前何度と注意してやっただろ」
「ちがっ……」
そう美音が口にした時、圭史と谷折の視線を感じたのか、はっとした様子で開いている胸元を手で握り隠した。
3人が言葉に詰まったその時、顔を伏せた美音はその場を走り出していった。
ただ美音の傷ついた表情だけが、その場にいた人間の心に焼き付いた。

 怒りのこもった目を片岡に向けた圭史に、谷折は言葉を紡いだ。
「いーから、追いかけてついててやれよ」
「あいつ、……多分、俺でも他の誰でも駄目だと思うから。……行ってやって」
圭史から目をそらしたまま、亮太が言った。
「……」
数秒の沈黙の後、圭史は追いかけるように駆け出していた。



 姿を捉えることのないまま圭史は生徒会室に辿り着いた。
扉を開けて中に入ったが、明かりはついているものの人の姿は全く見えない。
机の上には亮太の物らしきカバンがあるが、美音の物は見当たらなかった。
 踵を返し生徒会室を出ると、奥にあるお手洗いに目を向けた。
明かりはついていないが、そこに向かう風を感じるように圭史はそこへ足を進めた。

中から蛇口から勢いよく流れ出している水の音がしている。
そして、美音の咳き込んでいる声も。

 圭史は手をぎゅうっと握り締めた。

それから程なくして美音が俯いたまま出てきた。
力なく手にカバンを持った姿は、とても弱々しく見えた。
数歩進んだところで圭史に気づき足を止めた美音であるのに、そのまま動こうとしなかった。

 圭史もそれ以上近寄ろうとせず、出ない声を無理やり押し出して口を開いた。
「……怖かっただろ」

ぎゅう、と手を握り締める美音。

「俺、殴らずにはいられなくて、それも怖かったろ? ごめん」

はっとして上げた顔を美音は横に振った。

その様子にでさえ、圭史は胸が詰まって何も言葉が浮かばなくなる。
 胸元が開けられたままなのに気づいて、圭史は迷ったがそっと手を伸ばした。

美音はびくん、と硬直を見せた。

「……大丈夫だから」
第2ボタン、第1ボタンを留め、そして、怖がらせないよう力を抜きながらネクタイを締め直した。
「……大丈夫だろ?」
そう囁くように言って離そうとした手の上に大きな滴が零れ落ちてきた。
それを目にして、圭史は美音の顔に目線を移した。

 堪えるように唇をきゅっと結んでぎゅっと閉じた瞼からは次から次へと堰を切ったように涙が溢れ出していた。

辛いのを必死に耐えているようなその姿に、圭史は言葉を失った。
何を言っても、それは無意味のような気がして、反対に無神経のような気がして、圭史は口を噤んだ。

ぼたぼたと床に落ちていく涙は美音の声のように思えた。

「……、俺のことも怖い?」
答えを知るのが怖くて小さな声でそう訊いていた。

 美音は小さく首を横に振り、溢れ出る感情を堪えようとしながら必死に口を開こうとしていた。その手には力がこもっている。
「……逃げたけど、捕まって、……こ、わくて、……体がすくんで、動けなくて」
それを聞いているのがひどくつらかった。
でも、か細く震える声で美音は必死で言葉を綴る。
「でも、……何度も、やめてって、言ったのに……」
「……春日……」
「瀧野くんの、顔、浮かんで、……でも、ずっと、避けられて、たから、……もう、私のことなんてっ、……っ、……ぅでも、よくなったんだって……」
時折嗚咽をこぼしながら、それでも、美音はやめなかった。
「でも、でも、瀧野くんの顔しか……っ、……こわ…た、いや、で…、うっ……、だから、…だから、……瀧野くん、瀧野くん……っ」
名前を呼びながら、涙が溢れる目を必死に向けた美音は、もうそれ以上何も口にできなくなって必死に声を殺しながら苦しそうに泣いていた。
甘えるように声をあげて泣く事をしないその姿に、圭史はもう気が狂いそうになってその両腕の中に閉じ込めるように美音を抱きしめた。

 ……あの時、腕を放さなかったら、こんな事にはなっていなかったかもしれない。

すっかり冷え切ってしまっている美音の体。声を零しながら泣く体は震えていた。

 圭史は、幼子をその腕に抱きかかえるように美音を抱き上げて、そっと壊れ物を運ぶようにゆっくり慎重にして生徒会室に向かった。
 生徒会室の奥のソファに、片膝の上に座らせるようにして美音を胸に抱きしめたまま、圭史は座った。片腕ずつジャンバーを器用に脱ぐと美音に被せた。

圭史の胸の中で小さくなりながらずっと泣いていた。
手は圭史の胸元の服を握り締めながら。
泣き止む気配のなかった美音だったが、時間が経つにつれ、ゆっくりとつらそうな様子は薄らいでいっているようだった。
 圭史は言葉で安心させるより、しっかりとずっと抱き締めていた。包み込むようにして背に手を回し、片方の手はずっと美音の頭を支えるように撫でるように抱いていた。
 ずっと、圭史の目は美音を見つめて放さなかった。

 圭史の心に広がる、熱く何よりも強い想いは、ただただこの腕の中にいる美音に注がれていた。

 ― ……好きだ。……一番、本当は、他の事なんかどうでもよくなるくらい、春日が好きなんだ…… ―



 どれだけの時間が過ぎ去ったのだろうか。
部屋の中は、時計の秒針の音と暖房の音しか聞こえていなかった。
外から聞こえてくる音は何もない。
 胸の中の美音は大分泣き止んでいたようだった。
しゃっくりは零すものの呼吸は落ち着いているようだった。
圭史はこの腕の中から手放したくなくて抱きしめる腕を緩めずにいた。
 落ち着いた美音が長い息を吐いたのを見て、圭史はとても優しい声で訊いた。
「落ち着いた?」
それに、美音はこくんと頷いた。

ぼんやりとした目を胸元に向けているのを見て、圭史は美音の頭を優しく撫でた。



 そのまま帰ろうとしていた圭史のウエアは涙で濡れていた。制服に着替えて帰ることにした。
下駄箱に置きっ放しにしていた筈の圭史のバッグは、いつの間にやら生徒会室に置いてあり、それに引き換えるように亮太の荷物はなくなっていた。
いつのまに来ていたのか。それさえも圭史には気づかなかった。

 帰り道、改札を通る時も電車に乗っている時も、美音は抱き着くように掴んでいる圭史の腕からちょっとの間も離れなかった。
何も発せず、ただ黙々と連れられるように横を歩いている美音に、圭史は何かをその心に感じていた。今までは、不安定で不確かで確信の持てなかった彼女の心。

自分の腕の中でだけ涙を許す美音。
泣きながら必死に眼差しを注いでいた美音の瞳は、今までのどれよりも熱く心をともした。
泣きながら必死に自分の名前を呼んだ美音の声は、今までのどれよりも心に沁みた。
自分の腕の中でしがみ付きながら泣きじゃくる美音に誤魔化しのきかない自分を感じた。

 彼女を愛しいと思う気持ちは、何度塗り替えされてきただろう。
最初は本当に、ただ淡い気持ちのものだったのに。

 ― もし、この想いが叶ったなら、俺はもう、他に何もいらなくなってしまうかもしれない―

 彼女の温もりを感じながら思うのは彼女のことばかりだった。



何も言わぬ美音を横に家の前に辿り着いた。
それでも腕から離れようとしなかったので門扉を開け玄関の扉の前まで進んだ。
腕を放そうとしない美音に圭史は優しい声で言う。
「着いたよ。寒いから早く家に入りなよ?」
離したくはない腕をそっと外すと、圭史は門扉の外に出る。
それでも、自分から目を放さない美音に、困ったように微笑むと言葉をかけた。
「体温めて、ゆっくり休んで、また学校で。だから、おやすみ」
美音はこくんと頷いた。
それを見て、自分の家に向かって歩き始めようとした。
だが、圭史は背中に感じる視線に、進めようとした足を止めて振り返って見た。
熱い瞳を真っ直ぐに向けている美音に、圭史は困ったような微笑を向けた。

それでも止まぬ視線。

その時、心の中から溢れ出す熱い思いに圭史は告げずにはいられなかった。
「……俺、春日が好きだよ。ずっと」
静かな暗がりの中、心に馴染むように放たれたその言葉は正直な気持ちだった。
それはどんな言葉にも言い換えられない。
心の奥底にしまい込んで声に出そうとしなかったたった一つの気持ちだった。

言っている言葉の意味をまだ理解できていない様子の美音だった。
 圭史はただ笑顔を向けて再び口にした。
「おやすみ」

そして、今度こそ本当に家に向かって、圭史は走り出していた。