時の雫-風に乗って君に届けば
§10 灯火に気づくトキ
Episode 4 /5
あの日の翌日から、美音は登校時間に圭史と会う日はなかった。
その訳を知ったのは数日後だった。
いつもの電車に乗る、――気が進まなくて一本遅い電車に乗った日の下駄箱での事だった。
美音が履き替えようと手を伸ばした頃、声が聞こえてきた。
中庭を通って下駄箱にやって来ていた圭史と谷折の会話だった。
「あ、そう言えば、部室の鍵閉めたっけ?」
ふと思い出したように言った谷折。
「あー?……閉めてただろ?ストーブの火の確認してから」
「そうだったけ?」
それでもいまいち記憶に自信のない谷折の反応に圭史は口を開く。
「朝練で一日に使う脳みそ使い切ってるんじゃないって」
「ぬわに〜。一体、誰に付き合ってると思ってるんだー」
「あー、はいはい、それはすいませんね」
いつもの電車にいないのは、圭史が自主朝練をやっているからだった。
谷折はそれに毎朝付き合っているらしく、他の部員はしていないだろう事が予測された。
それらを理解すると、美音は急いで靴を履き替えると早足で教室に向かっていった。
あの電車に乗っていれば今ここにいる訳はないだろう美音の姿を見た圭史の顔を、見たくなかったから。
二人は他に人の姿が見えない下駄箱で靴を履き替えながら言葉を交わす。
「で、突然避けるようにして朝練する理由は?」
「別に、ちょっと自粛しようと思っただけだよ」
「自粛、ねぇ。……中山の言ったこと気にしてんのか」
「あー、いや、それは少し」
「……そっか。でちなみに春日さんの方とはどうなったの?」
「……うん」
伏目がちにそう口にした圭史に谷折は言う。
「答えになってないけど?」
「……今の俺じゃ冷静になれないから、名前出さないで」
圭史は外靴をしまいながらそうはっきりと言った。
そんな余裕のない圭史の顔を横目で見遣った谷折は静かに口を噤んだ。
「春日さーん」
手を止めたまま顔はノートに向いている美音を覗きこむようにして、快は何度も名を呼んでいた。
「春日さーん」
ようやっと目の前にいる快に気付いた美音は、その場から腰を上げ本棚からファイルを一冊取り出して捲りながら声を出した。
「何?藤田君」
「何ってそれはこっちの台詞ですよー。ずっと呼んでるのに反応無しで。それともずっと無視してたんですか?」
ファイルから目を放さず、美音はその表情のまま言う。
「……そうかもね。 で、用は何」
いつになく機嫌の悪そうな美音の様子に生徒会室は静まり返っていた。
「これまとめ終えたんですけど、次は何しましょ」
相変わらずの快の調子に、自分を落ち着かせるように息を吐いてから美音は言った。
「野口君の手伝ってあげたら?」
「はーい」
美音はそのまま手にしていたファイルを戻し又違うのを引き出してから椅子に座った。
そこに渦巻くぴりぴりとした空気を、その二人以外は感じていた。
それから暫くの時間が経った頃、美音が思い出したようにカバンの中からノートを取り出し、そのまま机の端にカバンを置いた。いつもならちゃんとすぐに定位置に戻すのに。
それすらしようと思わないほど、機嫌が悪い表れなのだと亮太は理解していた。
出したノートを捲りながら目を通しているうちに、肘が当たってカバンは落下した。
「あー……」
賑やかな音に参ったような声を出した美音は、カバンから飛び出た物を拾い始める。
亮太は足元に転がってきていた手帳を拾いながら、丈斗の足元にキーホルダーのついた鍵があるのに気づいた。
亮太が口を開こうとする前に、それに手が伸びた。
「あー、可愛いキーホルダーですね、これ」
それを拾い上げて快はそう言った。
「あ、う、うん」
少しどもりがちな美音の声を気にすることなく快は言う。
「あ、僕が持ってるのと交換しましょうよ。これください」
「だめ!返して」
快の笑顔とは裏腹に、美音の表情には余裕がない。
なのに、それに気付いていないのか、わざとなのか、快は変わらない様子で言う。
「いーじゃないですかー。僕にください」
「駄目だってば!早く返して」
そんな美音の必死な様子が面白いのか、快は手に持ったまま動かそうともしない。
「ちょっと、藤田君!」
見かねて亮太が口を開く。
「それは春日が欲しいって言って造って貰った物だから、よそにあげたらまずいだろ。返してやれよ」
それに美音はきゅっと唇を噛んだ。
快は不服そうな顔を浮かべ、何かに躊躇っている様子だった。
美音が顔を俯かせた時、快の横に座っていた丈斗がすっと手を伸ばしてキーホルダーを取り上げた。
「はい、春日さん」
取り返してくれた丈斗に、安心た笑顔を見せて礼を言った美音。
「ありがとう」
丈斗はそれに笑顔を返すと、不服な顔をしている快に目もくれず、再び椅子に座り仕事を続ける。
美音は自分の手に戻ってきたそれをぎゅっと握り締めると静かに腰を下ろし口を噤んだ。
暫くして美音がそれをポケットにしまい、ノートに顔を向けたのを見て、亮太は静かに息を吐いた。
美音と亮太が生徒会顧問の教師に呼ばれて教員室に訪れていた。
放課後の教員室は、いつもより緊張が解けている空気が漂っている。
ここで目にする生徒の殆どは部活の用事で訪れている者ばかりだった。
「あ、部誌返すの忘れてた。これも持って行ってくれ」
「あ、はい」
男性教諭の言葉に返事をした男子の声を耳にして、美音は思わずそちらに顔を上げていた。
いつものウエア姿に部活用のジャンバーを着ている圭史の姿がそこにあった。
部誌を受け取り、そのまま扉に向かおうとして、圭史は美音に気づくと、困ったような苦笑とも取れる微笑を浮かべ、進むまま顔を逸らし教員室を出て行った。
美音は、その圭史の表情を見た瞬間、顔を伏せていた。
亮太は目の端に圭史の後ろ姿を捉えて、横にいる美音に目を向けた。
浮かない表情で俯いているその姿に亮太は怪訝な色をその眼に浮かべていた。
生徒会室は、薫と入れ替わりに二人がいなくなってから、薫と快の間で時折雑談が交わされているくらいで、丈斗は無言を保っていた。
その空間に静寂が訪れた時、手を動かしながら丈斗は言葉を紡ぎ始めた。
「なぁ、もういい加減みっともない事やめたら?」
「ん?なに?」
けろっとして言った快に、ため息をついて丈斗は言葉を放つ。
「いくらアプローチしてたって、迷惑がられてるだけで、仕舞いには嫌われるだけですまなくなるぞ」
「……んだよ、頑張ってみなくちゃわかんないだろー」
そんな二人のやり取りに、薫は一瞥してからまるで何事もないかのように書類に目を通している。
「……わかるよ。お前とじゃあ、つり合いは取れない」
「……誰と比べてるんだよ」
他に何か言いたげな、じとっとした目で快は言った。
それにまたため息をつきながら、丈斗は言う。
「分かってるんだろ。敵わない相手がいるって事、ほんとは」
「……なんでそうやって決め付けるんだよ」
「あのなぁ、見てるこっちがもの悲しい気分になるんだよ。春日さんだって仕事中に迷惑だろうが」
快は不機嫌な顔をすると机上の書類に目を向けシャープペンを握り締めた。
その様子を見て、丈斗はそれ以上余計な事は言わず手を動かし始めた。
周りは異変に気付いていながらも、あえて知らないフリをしていた。
傍から見れば、美音の様子はいつもと変わらなかったし、圭史はいつものように部活にと頑張っている。
一部の間では、この間の事件をきっかけに圭史が美音に振られた、という噂も流れていた。
当人たちの耳に届かないまま、あと数日で1月が終わろうとしているその日。
「けほっ、こほん」
軽い感じで咳き込んだ美音を見て、動かしていた手を止め亮太が訊く。
「珍しいな?風邪か?」
「うーん、そう言われてみれば、少しだるいような気も……」
「早く治せよー?」
「分かってるよ。2月に入ったらお仕事いっぱいですから」
「そうそう。そんで卒業式が済めば、俺らも引継ぎの準備だな」
「そうだねぇ。そう考えると早いもんだよね。2年なんてあっという間だね」
少し物寂しげな表情で机上に目を向けている美音を眺めていて、亮太は不意に口にしていた。
「……お前さ、最近一緒にいるとこ見ないけど、瀧野の事振ったりとかした?」
「……はあ?」
突然の台詞に思い切り眉を寄せてそう口にした美音。
それを見て、亮太はしまったと言わんばかりの顔を向こうに向けた。
その様子に美音は呆れた口調で亮太に言う。
「なぁに?今そんな噂まで流れてるの?」
「あ、うん。ま、気にするな」
「でも、亮太がそんな事訊いてくるなんて珍しい。なんで?」
「……いや、いい。お前怒りそうだし」
「そんなの聞いてみなくちゃ分からないでしょーよ」
「いーや、お前は顔合わした頃から血の気が多そうだった」
「失礼な。人の事なんだと思ってんだか」
「……。俺の事だって、ただの仕事仲間くらいにしか思ってないだろ?」
「そりゃー、同じ生徒会役員だし」
「どっちかっつーと、ライバルに近い感じの」
いつもに比べて軽い口調で亮太は口にしている。
「あー、そうかもねー。で、それが何なの?」
「まぁそこそこ信頼はされてると思うんだが」
「うんー、してるしてる」
「でも、それだけだよな。春日はどんな相手にも基本的に甘えたりしない」
「……はぁ」
「それは結構お気に入りの足立さんが相手だとしても」
「そう?」
「うん。こうも近い関係だと、見たくもないものまで見えるからな。で、そんな俺からの忠告が一つ」
「・・・・・・なに?」
美音は内心、それが言いたかったのか、とぼやいている。
「一度くらい思いっきり素直になってぶつかってみたら?案外うまくいくかもよ?案ずるより生むが易しって言うしな」
目をあちらの方向に向けて言っている亮太に、眉を寄せながら美音は返す。
「亮太くん、言っている意味がよく分からない」
「おう、俺もよくわからん」
「なんじゃい、それは」
きっぱりと亮太に言われて、美音は他に返す言葉が浮かばなかった。