時の雫-風に乗って君に届けば

§10 灯火に気づくトキ


Episode 3 /5




 今朝も駅で一緒になってから、当たり前のように肩を並べて学校へ向かってきた。
どちらかが寝坊をしたとか、早くに行かなければならない、とかいう事がなければ、ほぼ毎日一緒に登校をしている。
そうなっている事が、圭史には素直に嬉しかった。
 階段を上ると先に着くのは4組の教室。
そこで圭史はその先の教室に向かう美音と別れ、扉を開けて教室の中に入る。
 そこには他の部活動で朝練を終えて机の上に顔を伏せて寝ている者もいれば、週刊誌を読んでいる者もいた。
適当に挨拶を交わして、圭史は自分の机の上にスポーツのバッグの中から教科書とノート、必要な物を出すと、教室の後ろにあるロッカー棚の上にバッグを置いた。
そして、席に戻り机の中にそれらを仕舞い終えると、何となく頬杖を突いて窓の外を眺めた。そこには寒空が広がっている。
 数分経って、2時間目の授業で小テストがある事を思い出し、教科書を取り出して眺め始めた。それはいつもと何ら変わらないはずの朝だった。

 まだ数分しか経っていない時間に、耳に教室の扉が開く音が聞こえてくる。
クラスメートが登校してくるのだから何の疑問も抱くことなくただ教科書を眺めていた。
「瀧野くん」
そんなに大きくはない声が、静かな教室に響きわたっていく。
聞き間違えるはずの無い声に、机から顔を上げるとすぐ立ち上がり足を向けていた。
 生徒会の用事がない限り、来る事のない4組へ、美音が来ていた。
だから少し不安げな美音の表情。
 自然と圭史の足は早くなる。
それを見て慌てた様子で美音は言葉を綴る。
「あ、あの、教科書あったら貸して欲しくて。現国の」
足労をかけないようにと気遣った美音の声はいつもより早口だった。
「あ、うん。あるよ、ちょっと待って」
足を止めてそう答えると、美音はほっと安心した表情を浮かべ、そろ…、と廊下に身を隠した。他の人間が向けた視線に居ずらさを感じたのかも知れない。

 圭史はすぐに机に戻って教科書を取り出し、美音の所へ持っていく。
教室を出て扉を閉めてから、教室とを隔ている廊下の壁にもたれている美音に差し出した。
「はい」
「ありがとう。1時間目終わったらすぐ返しにくるからね」
「うん」
ここのところ、彼女との空気は穏やかなものだった。

「お二人さん、おはよーっす」
その声に顔を向けた圭史の目に入ってきたのは、意味ありげに目を細めた顔で笑みを浮かべた谷折だった。
圭史は冷静な目と共に挨拶を返すと、美音は愛想笑いを浮かべて挨拶を返していた。
「……」
谷折が去った後の二人は、どこかぎこちない空気を漂よわせている。
圭史は照れたような少し困ったような表情で、何を話そうか考えているようだった。
そうして、美音がどんな顔をしているのか確かめるように顔を向けると、俯き加減で何かをじっと堪えているようにも見える。どこか、少しだけ拗ねた感じに見える表情なのだけど、長く伸びた髪がカーテンのように顔を隠していた。
 圭史は見つめたままの目で、すっと手を伸ばし確かめるかのように美音のカーテンのように頬を隠した横髪をさらっと指で流すように掬い上げた。
 それに美音は一瞬驚いた表情をして、ゆっくりと顔を上げた。
自分に真っ直ぐと注がれるその眼差しに、喜びを感じてしまう。
圭史がそれに逸らさず見つめ返すと、美音の頬は仄かにピンクに染まる。
「この前も思ったけど、髪、伸びたよね」
そう言いながら、圭史は指から髪を解放する。
「あ、そうだね。何となく切らないでいたら、ここまで伸びてたんだけど」
圭史の頭の中に、美音のロングヘアが思い出されていた。
「……そう言えば、昔、ロングヘアの時があったよーな?」
それはいつだったか。
 高校に入ってからでは、今が一番長いはず。
思い出そうとしている圭史に、先に記憶を辿り寄せた美音が口を開く。
「ああ、あったあった。え、と、中2の時、ね……」
中途半端に止まってしまった美音の言葉に、圭史は目を向けた。

美音の顔は確かに昔を思い出している。
けれど、すぐにそれは消えてはっとした表情を浮かべていた。

その反応の理由に思い当たるものは、多分一つだけ。
思い出してほしくないそれに気付いた圭史は、湧いて出た感情と共に口にしていた。
「何か伸ばしていた理由、あるの?」
きっと自分は今すごい嫌な顔をしているだろう。

そう訊ねてきた圭史の顔にそっと目を向けてみて、美音はすぐさま口にしていた。
「う、ううん! 髪、どれくらいがベストだと思う?」

「……」
取り繕うようにして向けた美音の笑顔は、圭史の考えを肯定している……。

 ― そんなコト、いつまでも気にしてたって仕方ないのに、……春日の事になると気になってるんだよな、俺 ―

少々無理のあった美音の、話の流れの変え方は、本当は困惑している事の表れだった。
そうさせてしまった自分に呆れながら美音に目を向けると、やはり困った様子を見せていた。
 圭史が見たいのはそういう姿ではなく、先程みたいな様子だ。
自分を見てくれている彼女の姿。
 そうして圭史の頭に浮かんだのは、頬を仄かに色付かせた美音の可愛らしい姿。
 だから、圭史はそっと髪を摘んで穏やかな口調で言う。
「これくらい。長過ぎず短すぎず」
丁度それは肩の下位だった。肩の上では少し短い気がする。

「セミロングだね」
そう言葉を返した美音の頬は先ほどと同じように染まっていて、どこかぎこちなさを漂わせている。それでも必死で笑顔を向ける様子が圭史には何とも可愛く感じて仕方なかった。

 通り過ぎている生徒がどんな視線を投げつけていっても、今の圭史にはそんな事はどうでも良い事だった。





 次に美音と会ったのは、1時間目が終了して貸した教科書を返しに来てくれた時だった。
圭史は、教室でなんとなく落ち着かない様子で扉が開くのを待っていた。
落ち着かないといって、わざわざ自分から取りに行くのは反対に悪い気がしたし、かと言って廊下で待つのも悪い気がする。
 それに美音のクラスには、あまり顔を合わせたくない人間もいる。
部外者なのにテニス部に無責任に姿を見せてくる子達だった。差し入れはまだ許せるのだが、一番煩わしいのは不躾に近づこうとされる事だった。
2学期にだって2度美音を使ってしてきた事があった。2度目ははっきりと言ったけれども。
 そんな事を考えていて扉が開いて美音の姿が見えた時には、圭史は颯爽と廊下に向かっていた。
男子の半分が冷やかしの目を向けている事にも気付いていたが、圭史は何食わぬ顔で扉を閉めて出ていった。
「ありがとう。助かりました」
教科書を両手で差し出すとともに笑顔でそう言った美音。
「午後の授業だったから、いつでも良かったんだけど」
「うん、でも、3、4時間目は家庭科で被服室にこもってるから」
「ああ、そっか」
「ありがとう。……じゃ、また」
そう言ってクラスに戻っていく美音の後ろ姿。長めの髪がその時はまだ揺れていた。



昼休み、予鈴が鳴る数分前に廊下で谷折と立ち話をしていた圭史は、いつもと違った空気を感じていた。それはまるでたとえようのない不安にも似ていて、虫の知らせのようになんだか落ち着かない圭史だった。
「そー言えば、3、4時間目になんかあったみたいだよな?」
ふと思い出したように言った谷折の言葉に、圭史は訝しげな目を向けた。
「なに?」
「いや、俺も詳しい事は知らないけど、クラスの女子がなんか騒いでたからさ」
「だから何?」
「あれはやり過ぎだとか何とか」
「ふうん?」
それ以上詳しく話そうとしない谷折にそう返事をしながら、圭史の頭は今日はまだ図書室から戻ってくる美音の姿を見かけていないな、と考えていた。
 今日は珍しく早い時間に戻ったのだろうか、と思った頃、予鈴が鳴り始めた。
自然と谷折と別れて教室に足を運び始めた時、急いだ様子の足取りが階段から聞こえてきて、そちらへ顔を向けていた。
視界に入ったのは、図書室から帰ってきたであろう美音の姿だった。
今日はいつもより遅いそれに、一瞬疑問に思ったがすぐそれは掻き消された。
「……」
圭史が何かに戸惑っている間に、視線を注いでいる圭史に気付いた美音は、その一瞬だけ足を止めたが、すぐ気まずそうに俯いて小走りにそのまま教室に向かっていった。

なぜか圭史は目を放すことが出来ず、その後ろ姿を見送っていた。

 ― ……? なんだろう? ―

その態度にも疑問を抱きつつ、答えを得ようとするかのように本人気付かず美音を凝視していた。
美音が足を動かしても、雰囲気軽やかな髪は靡くことなくただふわふわとしている。
 今朝、2度も触れた髪。

「……あ!髪の毛!」
解ったと同時に出た圭史の声に、美音は背中をビクンと反応させたのと足を止めたのが同時だった。美音は何とも言えない表情で反応を窺い見るように振り返った。
 圭史はそれを見て、浮かんだ言葉を口に出そうとしたのだが、それより美音が早くに逃げるようにして教室へと入って行ってしまった。

「瀧野、もう本鈴鳴るぞ」
谷折の声に、圭史はまるで操り人形のように自分の教室の中へと入っていった。
力なく自分の席について、だた呆然とする圭史。

1、2時間目の休憩時間にこの指で触れた髪が、今見た圭史の目には随分短くなって映っていた。
朝、髪の長さを聞いて、髪に触れた圭史に笑顔を見せた美音だったのに。
感じていた嫌な感じと、谷折の言葉、そして会った時の美音のあの態度。
それがすべてあの髪の長さの理由に繋がっている気がして、圭史はそれ以上考える事が出来なかった。

― ……なんで……?―

顔が青ざめていくのを感じながら、ただただ時間が過ぎるのを待った。



5時間目が終わると6時間目は体育の為、体操服に着替えて体育館に向かった。
様子を見る限り、内藤たちはいつもと変わらない。
谷折が言っていた事は彼らの耳に入っていないのだろう。
 3組男子もばらばらと姿を見せたのに気がついて、圭史は谷折を見るなり側へと向かった。
「なぁ、昼休みの終わりかけに言ってた話だけど、それってさ、……春日に関係してる?」
……もしかしたら、気のせいかも知れない。気のせいであって欲しい、と思いながら、圭史はすぐれぬ表情で訊ねていた。
「あー……」
谷折は言いにくそうにそう口にして、様子を伺うように近くにいた亮太たちに視線を向けた。それだけで、肯定なのだとわかる。
「まぁ、女同士の揉め事だよ。春日も結構烈しい所あるから、な……」
答えにもフォローにもなっていない台詞を亮太が言った。
「それ、……」
圭史が言葉を紡ぎ始めた時だった。
亮太の隣にいた中山が、キッと鋭い目を向けて声を放った。
「瀧野が目のつくところであおるような真似をするからだろ!だから変な面倒が彼女に起こるんだ。助けられないなら側に置くなよな」
彼はそれだけ言って、ふいっと体を背けその場から離れた。
亮太はまずい、とでも言うような表情をして、後を追うように離れていった。

 中山の台詞に、圭史は愕然とした。
何がどういう事なのか分かりはしなかったが、自分が原因で起こった事だという事はわかる。
 地の底に投げ込まれたような気分だった。
そんな様子を、谷折は感じ取っているのか、ため息混じりに声を出して圭史の肩を軽く叩き言った。
「あー、コトはもう済んでるらしいから、また部活でな?」
「……わかった」
谷折は彼らのもとへ向かい、圭史は重い足を運びながら内藤たちの所へ戻った。
普段の圭史からは想像つかない程の落ち込んだ様子に、池田が声をかける。
「どうした?何か言われてたみたいだけど」
「……なんでもない」
圭史には言葉が浮かばなかった。

 頭の中にあるのは、朝、この手で摘んだ美音の髪だった。
艶があり、程よいコシと太くはない髪質。

 ― ……まさか、あれだけの事で……? ―

 あの時視線を感じた。
視界の端に映っていたのは、1組のあの彼女達。

美音の笑顔を思い出して、圭史は頭を抱えて座り込んでしまいたかった。





 終礼が終わり、ずっと落ち込んだ気分のまま教室を出た。
いつものように圭史はこれから部室へと向かう。その足が数メートル進んだ所で圭史の耳に、中山が美音を呼ぶ声が聞こえて、止まった。

「春日さん、なんか色々あったみたいだけど、大丈夫?」

その台詞に思わず上体を振り向けて窺うように顔を向けた。

「え?もう話が広がってるんだ。参ったなぁ」
苦笑とも取れる笑みを浮かべて言った美音だった。
そう言ってから一瞬俯いたと思ったら、すぐ顔を上げ美音はにこりと笑顔を向けて言う。
「でも、なんて事ないから。心配してくれてありがと」
それ以上の言葉を拒絶するような毅然とした美音の態度だった。

中山と別れると、美音はそのまま真っ直ぐと歩いてきていた。
その時はまだ圭史に気付いていなかった。
 茫然と見つめていた圭史にようやっと気付いたのは1メートルほど進んで来た所だった。
圭史と目が合った美音は、一瞬、悲しげな瞳を浮かべた。
だが、すぐ顔を伏せ、小走りにそのまま階段へと突っ切って行ってしまったのだ。
 圭史は何か声をかけたかった筈なのに、微塵も、動けないでいた。
昼休みの時と、今の美音の態度に一番のショックを受けたから。
「……、……ッ」
 顔を合わせてもろくに挨拶も交わせなかった以前の状態よりも、嫌なものに変わってしまうのかと考えて、胸が、切ないよりも苦しく痛んだ。

 名前を口にしようと振り返った時には、既に美音の姿はなかった。





 その日の練習が終わり、着替え終えた部員から順に帰宅している中、圭史はずっとストーブの前の椅子に座って揺らぐ炎を眺めていた。
まだ何も帰る準備をしていない様子に見かねて谷折は声をかけた。
「おーい、他の連中皆帰ったぞ? いつまでそうしてる気だよ?」
「……女同士の揉め事って、原因は俺?」
やっと出したその声に、谷折は圭史の表情に目を向けた。
ひどく暗い様子だという事しか分からない。
小さくため息をつくと、圭史の座っている近くにあった椅子に腰を下ろし話し出した。
「そこまではっきり聞いてる訳じゃないから分からないけど、正直そうだと思うよ。揉めた相手って、いつもテニス部の練習とか覗きに来ている子達らしいから。5、6組の子」
そこで一旦口を噤み、圭史を様子見た。
何を考えているのか分からない表情。先ほどと同じ姿勢。
「……お前にキツイ事言った奴いたろ?」
「ああ、中山、だろ」
「そうだけど。……あいつさ、先週昼休みにいつの間にやらいなくなったと思ったら、予鈴鳴った頃にひどく落ち込んで戻ってきて、何言っても上の空で暗くてさ。月曜にやっとその理由を教えてくれたんだけど。……春日さんに告白してきっぱり振られたって。俺その話聞くまで全然知らなかったよ。学祭の時、下駄箱に手紙入れた事もあったらしい」
圭史の手がピクリと反応を見せた。ただ、それだけだった。
「で、話は戻るけど、1、2組の女子が3、4時間目被服室で授業するのに、1、2時間目は5、6組が使ってて入れ替わりだったんだって。で、一人がわざと春日さんにぶつかって持っていた鋏でザクッて切ったらしい。切られた春日さんはというと、その鋏を奪い取って自分の髪を彼女たちの気が済むように切ったらしいよ」
谷折に顔を向けた圭史は、何か言いたげだった。
「……切って、どーすんだよ……」
顔を覆うように両手を当て、圭史はたまらない気持ちに覆われていた。
谷折は困ったように天井を見上げると、話を続けた。
「それで周りにいたクラスメートとかは慌てて止めに入ったみたいだけど、それでまた、その5、6組の子らと仲の良い1組の子が何か言ってまたもや場は騒然となって揉めたらしい。でも、女子の殆どは春日さんの味方らしく、その喧嘩は彼女達の負けで終了だったらしい。
売られた喧嘩、買うなんて、春日さんらしいっちゃあ、らしいよな」
「……そーだけど」
「女の僻みは恐ろしいね」
「……、はぁ」
「で、その話を聞いた中山がお前の事を怒ってたって訳。けど、お前もようは被害者になるしなぁ」
「……はぁ」
「俺が知ってるのはそれくらい。春日さんがお前を避ける理由までは知らない。……まぁ、何となく分からないではないけど」
「……なに?」
「それは本人に聞いてください」





 駅の改札口を出た所まで谷折と一緒に帰っていた。
電車の方向は反対なので、ホームからは一人になった。
 もうすぐで2月になろうとしている日の夜は寒い。
暖かいマフラーをその肌に感じながら、圭史は白い息をぼんやりと眺めた。
両手はポケットに突っ込んだまま、ホーム内の時計に顔を向けた。
時間は8時過ぎだった。
 到着した電車に乗ると、人もそれほど多くなかった。
空いている席に適当に座り、圭史はまたぼんやりと考え始める。
何か他のことを思い出したとしても、頭はすぐ美音のことを考えていた。
 何十回同じことを考えているだろう。その度に同じ苦しい気持ちに囚われて、それが辛くて中途半端のまま思考を手放している。
「……はぁ」
今ごろ家にいるであろう美音の姿を思い浮かべて、圭史は腕時計に目を向けた。
もし、このまままっすぐ家に帰れば、8時30分になるまでには家に着くだろう。



 駅から出て家に帰るために道を進んでいた。
いつも通る道。見慣れた景色。……なのに、気が付けば、足は勝手に違う方向へと進んでいた後だった。
そして、辿り着いて足を止めた先は、美音の家だった。
「……」
 ここに来てどうしようと言うのだろうか。
そう自分に問うてみながら圭史は何も言葉が浮かばないでいた。

 ― ……どうしよう。マジで。
例え出てきてくれたとしても、またあんな反応されたら……。
それに、なんて言おう…… ―

 呼び鈴を見つめながら、同じことをずっと思っていた。
手足はすっかり冷え切っているのに、心臓だけがどきどき鳴っている。
そうして、腕時計を見ると8時40分を過ぎようとしているところだった。
その時間に心は焦りを見せた。

 ― やばい……。いくらなんでも9時は遅い ―

 また明日学校で。
そう思って目を閉じたら、今日学校での美音の態度を思い出した。
もう、避けられて口をきいてもらえないかもしれない。
圭史はそれを思うと、自分で自分を追い込むように心の中で叫んだ。

 ― ええーい、押しちまえ! あとはどうにかなるだろ……っ ―

押したその音がやけに大きく聞こえた。

 それから家の人が出てくるまでの数秒の間、圭史の心臓はうるさく鳴りっ放しだった。
がちゃ、と扉が開き、中からの光と共に若い女性に姿に、圭史の心臓は大きな声を上げた。だが、よく見てみると彼女ではない……。
「……あ、こんな時間にごめん。お姉さん、いる?」
「あ、はい、ちょっと待ってくださいね」
美音の妹は、一旦家の中に入ると2階の部屋に向かったみたいだった。
その間、圭史は必死で心臓を落ち着かせようとしていた。
 美音が出てくるまで、2、3分経っただろうか。

厚手のパーカーのトレーナーを着た美音が出てくると、扉を閉め門扉の外にいる圭史の前にまで下りてきた。
いつの間にやら点いていた玄関の外の灯りに、お互いの顔が照らし出されている。
目に映った美音のぎこちない表情を考える余裕もなく圭史は口を開いた。
「俺、迷惑かけたみたいで、……ごめん! 何も考えてなかったから……」
その言葉に美音は心底意表をつかれたような顔をし、数秒固まっていた。
圭史が目を合わせられないでいると、思考が動き始めた様子の美音が口を開いた。
「あの、……もしかして、この髪のこと、気にしているの?」
その台詞に圭史は顔を少し上げて美音が自分を真っ直ぐに見上げているのを見て、すぐまた顔を伏せた。
何も言わない圭史に、美音は言う。
「反対に瀧野くんに嫌な思いさせたんじゃないかって思ってたんだけど……」
美音が言っているのは、2時間目と3時間目の間の休み時間にあった事だ。
 ただ、圭史は握っていた手に力を入れた。
悔しそうとも取れる圭史の表情に、美音は言う。
「私、瀧野くんには一つも迷惑なんてかけられてないよ。だから、謝られる覚えもないよ」
そう言われても、圭史は顔を上げなかった。

「……この髪型、もしかして、似合わない?」
不安そうなその声に、圭史は髪形なんて見ていなかった事を今更ながらに気付き美音の顔に視線を向けた。
 ずっと今まで揃えられていた毛先だった。
それが今目の前にいる美音の髪型は、前上がりのラウンドカットにトップからレイヤーが入っているミディアムヘア。そのすっきりした毛先に軽やかな印象を受け幾分洗練された感じを受ける。
ただ、圭史が言っていた長さより大分短くなってしまったが。
 どんな気持ちで、長かった髪を自分で切ったのだろう。
「クラスの子でね、美容師志望の子がいて上手でね、この髪もやってくれたんだけどね」
微かに声が震えている。瞳だって悲しげに揺れている。
「……うん、よく似合ってる」
関わる説明を一切省いて言ったそれに胸が切りつけられる痛みを感じたが、それを堪えて圭史は微笑を浮かべて言った。
「良かった」
そう安心したように言葉を紡いだ美音には笑顔が浮かんでいて、それにつられるように美音の目を見つめた。そこで初めて、美音の目が涙で潤んでいるのに気付き、もう何も他の事は考えられなくなった。
そして、圭史はその想いのまま美音を抱き寄せた。
容易に美音の体は圭史の腕に包まれていた。
圭史の頭にはもう余計なことなど何一つ浮かばない。

 もう、このままずっと、この胸の中に閉じ込めてしまえたらどんなにいいだろう。

「……え?」
突然の出来事に把握できていない美音の声だけが、宙を舞った。


 苛々している時でも彼女の声を耳にすれば、心はすぐに和いでしまう。
鼻腔をくすぐるような甘い彼女の匂いは、いつだって理性を落ち着かせなくした。
彼女の真っ直ぐな瞳はいつも眩しく感じていた。
彼女の笑顔はいつだって元気と幸せをくれたのに。

 彼女のほかに求めたことはなかったのに。

抱きしめる腕に力が入った。ぎゅう、と抱きしめてみて知る華奢な体。

 今二人に周りの音は一切耳に入っていなかった。
聞こえるのはお互いの心臓の音。感じるのはお互いの温もり。
思うのは相手のこと。

「…………ごめん……」
声は掠れていた。

「……ど、して、謝るの?」
うろたえた美音の声。

気が遠くなってしまいそうな自分なのに、美音の温もりだけは感じていた。
 そっと彼女の頭を優しく撫でて、震える指先を必死に堪えながらゆっくりと彼女を解放した。
そして突如襲い掛かる空虚感。

「……今日は、ごめん。 …………おやすみ」
 まるで取り残されたような顔をした美音がゆっくりと顔を上げていく。
圭史は目が合いそうになる寸前に、その場から走り出していた。

もう後戻りは出来ないほどの気持ち。それに理性は捕まろうとしていたのに。
けれど、寸での所で圭史はそこから逃げ出していた。

残ったのは、美音の瞳に映った、走り出す瞬間のひたすらつらそうな圭史の表情だった。