時の雫-風に乗って君に届けば
§10 灯火に気づくトキ
Episode 2 /5
始業式の日、朝になり学校に行く準備をしながら、圭史の胸はドキドキ言っていた。
だが、その緊張は空回りで、始業式の準備の為いつもより早くに向かっている美音と登校時間に顔を会わす事はなかった。
その日一番に見たのは式の最中に最前線に起立している生徒会役員の中に見える姿だった。
― 現実とは相寂しいもんです…… ―
そして、その日はまともに顔を合わすことないまま、放課後になり部活へと向かったのだった。
それから数日後の、学校が始まって第1水曜日。定例各委員会の日。
毎週水曜日は特別に許可が下りない限り部活動は禁止となっているその日、終礼が終わると圭史は会議室に向かっていた。
「よっ」
肩を叩かれると同時に放たれた声に顔を向けると、冬休みにゲーム館で会った人物だった。
「よう」
圭史がそう返すと、彼は横に並んで歩きながら笑顔で話してくる。
「あの日、あの後どうだった?」
「どうって別に……。あれから暫くして帰ったから」
「ふぅーん。なんだ、うまくいったかと思ったのに」
少し気落ちした感じのそれを聞いて、圭史は何とも言えない複雑そうな顔をした。
「そんな顔するなよ。俺は素直に瀧野の事認めてるんだからさ」
思ってもいなかった突然のその台詞に、戸惑いながら口にした。
「……なんで?」
その返答は意外だったようで、彼は一瞬だけ驚いた顔をしてすぐ笑顔を浮かべた。
そして、天井を仰ぎ見ながら答えた。
「そうくるか。だって俺、瀧野に敵わないって思ってるからさ。そういう男になら渡してもいいって思えるからな」
「……」
密かな告白に、圭史は言葉が出てこなかった。
こういう事を言われたのは初めてだった。
美音に気がある男連中は結構いるだろう。密かに想っている人間だっているだろう。
時折、痛いほどの視線を背中に浴びる事もあるし、面と向かって鋭い視線を向けてくるのもいる。それらに圭史はただ冷静に素通りするだけだった。
それに、何か手を出してくる勇気ある輩はいない。
テニス部部長の谷折が顔が広く、柔道部や剣道部といった人間とも親しいこともあるし、実行委員での仕事ブリに生徒会や他の委員、教師陣にだって信頼を得ているからだった。バックボーンのある人間に手を出す輩はいない。
「まぁ、それは俺ひとりが勝手に思ってる事だから。あ、だけど一つだけ注文つけさて貰うとすれば」
「……何?」
「あの、バスケ部のアイツにだけは負けるな」
「……肝に銘じとく」
「はは。瀧野っていーやつ」
「何がだよ」
委員会が終わると例の如く圭史がまとめを任され生徒会室に行った。
そこでは、いつもとなんら変わらない光景があった。
生徒会役員とはすっかり馴染んでしまっている圭史は、ごく自然に生徒会室に入る。
役員もそれに違和感を感じないし、美音に至っては職務に就いている時などは入って来た事に気づかない事もあった。
「春日さんは冬休みどう過ごしてたんですかー?」
机に頬杖をつきながら快は言っていた。
相変わらず顔は机上のノートに向けたまま、美音は愛想無く言う。
「色々」
「たとえば?」
「例えばぁ?」
「教えてくださいよー」
「うーん」
手を止めて考え出している美音。
圭史は既に美音の所を通り過ぎて、奥の机に座っている亮太の所へ行き3年の書類を渡しているところだった。
「そうねぇ、言うほどの事と言えば、カッコイイ人とデートしたくらいかな」
亮太に体を向けていた圭史は、その言葉に反応するように心臓がどきっ!と声を上げた。思わず美音に振り向いていた。様子を確かめずにはいられなかった。
快はひどくショックを受けた顔をして体に力が入らないようだった。
美音は楽しそうな顔で言葉を続ける。
「なーんて、ね、……」
そう口にしながら何となく顔を向けてみた先で、圭史の存在をこの時ようやっと知った美音は驚いた表情を浮かべ、すぐ次の瞬間には、戸惑いながらも再びノートに顔を向けていた。
その台詞にも、その反応にも、圭史は動けないでいた。鼓動ばかりがいつもより早くいというのに。
そこへ丈斗が声をかけてきた。
「瀧野さんすいません、送別会は部の方、参加するんですか?」
「え?あー、どうしようかな……」
我に返って、どうにか気持ちを整えながら圭史は言葉を紡ぐ。
「一度部の方で相談してから決めるよ」
「わっかりました」
思い出したように言った美音の声が聞こえてきた。
「あ!冊子取りに行かなくちゃいけなかったんだ。藤田君、一緒に来て」
「えー?俺ですかー?」
「仕事しないんだからこういう時くらい役に立ってよね」
「じゃあ役に立ったらなんかしてくれます?」
目を輝かしてそう言う快に、美音はひたすら冷たい眼差しを向けて言う。
「……仕事の出来ない男性は問題外です。藤田君は役に立たなくてヨロシイ」
スタスタと歩き出した美音に、慌てた様子で快は言い後を着いていく。
「わわわ、すいません。行きます、手伝います。役に立たせてください」
二人の姿が生徒会室から消えると、丈斗の顔には苦笑が浮かんでおり、亮太は呆れながらため息をついて口を開く。
「……あいつも、懲りんやっちゃなぁ。いい加減相手にされてないの認めて諦めた方が利巧だろうに。なぁ瀧野?」
「……俺は何とも」
つい無表情になっていた圭史。
「そう言えば春日さんって、あんなに人気があるのに今まで彼氏がいたとかいう話は聞かないですよね」
何かに気付いたように話し出した丈斗。
圭史は近くにある空いている椅子に座り足を組んで頬杖をついた。
「そうだなー、なかったなー」
「1年の時に1度だけあったよ。内藤たちが騒いでたから知ってるんだけど」
何事もない顔をして圭史はそう言った。
「あー、あったあった。当時3年の先輩とだろ?」
「そうそう」
「あん時は少しばかりもめてたよなー」
腕を組んで椅子の背にもたれながら言った亮太。
「え?何かあったんですか?」
「付き合ってみたものの、上手くいかなかったみたいで、その3年の先輩が好きだって言う1コ上の人に水ぶっ掛けられたりとかいうのもあった」
「ええ?水……」
「髪はずぶぬれだったな。それが原因なのか知らないけど、それから頑として誰とも付き合わないな、あいつは。未だにその話したら怒るよ」
「へー。女の人の嫉妬は怖いって聞きますけど、……嫌ですねー」
「ああ。あの時だってなぁ、本当は泣きたかったくせに、悔しいからって必死で我慢してたなぁ、あいつ。変な所気ぃ強くて人に弱み見せるのが嫌いで、女だからってちょっとでもバカにしてみろ?凄い勢いで突っかかってくるぞ、仕事をネタに。又これが仕事出来るから反論できねーんだ」
今までよっぽどそれを味合わされてきたかのように言った亮太。
「そうだよなー。春日には敵わないんだよなー」
遠くを眺めながら圭史は言った。
「なーに言ってんだよ。真っ当に渡り合えるのは瀧野くらいなもんだよ。俺の方が敵わないって」
ため息混じりに零された亮太の台詞。
「……」
それに圭史は答える言葉が浮かんでこなかった。
「今日ってまだ、……余裕でかかりそうだよな」
役員の机の上に置かれている書類を眼にして圭史はそう言葉を口にした。
「そうだなー。かかるなー。日が暮れるの今まだ早いしなぁ」
「……じゃあ、図書室にいるって言っといて」
「図書室って何時までだっけ?」
「5時40分」
「じゃあ遅くてもそれくらいには終わらせるよ」
「おう。じゃあな」
「おう」
そうして圭史はその場を立ち上がり、扉に向かっていく。途中で手元に持っていた2年実行委員の用紙を美音の机に置いてから、生徒会室を出て行った。
「瀧野さんって、かっこいいですよね」
「そー、……だな」
「委員会のある日は終わるの待って家まで送ってあげて。前に怖い思いした春日さんの為にでしょ。家が近いからって理由だって聞きましたけど、あの二人って実は付き合ってるとかじゃないんですか?」
「いやー……、確証がないから何とも言えんなぁ」
「お似合いだと思うんですけどねー。春日さんも瀧野さんだと信頼してるのは見てても分かるし」
「そうだなぁ」
「傍にいるような人はああいう人しかいないんだから、藤田には無理でしかないのになぁ」
「多分本人も分かってはいるんじゃないのかと思うんだけどな」
「……どーでしょうねー」
目の開きを半分にして言った丈斗の表情はやや否定的だった。
「うーむ……」
それを目にしてため息混じりに唸る亮太だった。
生徒会室のある棟を出て、校舎の中央に位置する廊下を突き進んでいると、前方から教員室の帰りである美音と快が歩いてきていた。
ダンボールに山積みのを快が持ち、それに入りきらなかった分を入れた紙袋を美音が持っている。
美音は途中、掲示板からはがれかけている用紙に気付いて直しに寄った。
それに気付いていない快は一人そのまま進んできた。
丁度それが圭史の1メートル手前の所で音をたてて数冊が零れ、快の声と共に足も動きが止まった。
「あっ」
圭史はそのままの歩調で進み、それを拾い上げるとあった場所にポスンと置いた。
「はいよ。ごくろーさん」
圭史は普段となんら変わらずにそう言ったのだが、快はじ…、と見つめてから、好意的ではない目と口調で返した。
「……ども」
それには多少の怪訝さを感じたが、圭史はそれ以上目を合わせず通り過ぎていく。
掲示板のそれを直し終えてこちらを向いた美音が圭史に気づき、頬を赤らめながら笑顔を向けた。
圭史もそれに自然と笑みが零れる。
ある程度近づいた所でお互いがゆっくりと足を止めた。
言葉を交わすより先に、美音の横髪で留められていたはずの髪留めが外れそうになっているのに気づき言葉を紡いでから手を伸ばした。
「あ、髪留めが落ちそうになってる。ちょっと待って」
「あ、うん」
その気になれば抱き締められてしまうその近距離に、美音はどうして良いか分からない様子で俯いた。
そんな彼女にくすぐったさを感じながら、外したそれを手渡してやった。
今まで後ろに揃わされていた横の髪が安堵の息をつくように前の方に流れてくる。
「……」
漆黒ではない優しい色の艶やかな髪は胸元までの長さがあった。
「あ、ありがと」
「あ、……今日は図書室に、いるから」
後方から突き刺さるような視線を感じて、それだけを言い、もどかしい気持ちで言葉を口にしながら美音から離れていく。
「じゃ……」
「あ、うん」
零れるように浮かべられた美音の微笑みに、圭史は胸が熱くなっていくのを感じた。
背後の視線にたじろぐ事も振り帰ることもせず、圭史は図書室に向かって歩いていった。
図書室にある辞書を片手に、明日にも授業がある教科の予習をしていた。
辞書を捲る手が不意に止まり、圭史の目は宙を見つめている。
― なんか最近、周りから圧力を感じるな…… ―
2学期に引き続いて、美音と噂の種になっているのは分かっている。
圭史は人から訊ねられてもあえて否定する事はしないし、公然と好きな子がいると表明もしている。そして、どういう訳か、見ている分では美音のところには事の追究はいっていないようだった。
― 俺の一方的だと分かるから、人によっては応援の言葉をかけてくれるのだろうか・・・・・・? ―
同じクラスの友人たちは、圭史には美音の話は振ってこない。
以前だったら、ほんの些細な事でも訊ねてきていたのに。
それどころか、今ではどこか諦めているような様子さえ受ける。
― いつからだ? ―
記憶を思い返してみて、球技大会からだと判断した。
― ・・・・・・まぁ、あれだけハッキリ片岡に言えば、あいつらにも分かるか・・・・・・ ―
辞書を片手に持ったまま足を組み、もう片方の手で頬杖を突きながら顔は正面に見える窓を眺めていた。そして、その視界の端にカバンを手にした美音の姿が映った。
「あれ?早いね」
手から顔を離して圭史はそう言っていた。
美音はただにこりと笑みを向けて傍に歩み寄ってくる。
「何してるの?」
「ん?明日の予習で英訳をちょっと」
美音は圭史の隣に荷物を下ろすと椅子を引きながら口を開く。
「じゃあ、私もしていこっと」
隣に座ってカバンの中から教科書とノートを取り出している美音を見つめながら、圭史は微笑していた。
もしかしたら彼女は、図書室で待たせているのを気にして、持ち前の度量で仕事をこなしてきたのかもしれない。
もしかしたら彼女は、している勉強を途中で終わらせるのは悪いと一緒に予習をしようと思ったのかもしれない。
どんな理由にせよ、彼女といる時間が増えて圭史は嬉しく思った。
校内に殆ど生徒は残っていない水曜日の放課後。
静かな図書室で圭史は隣に美音を感じながら辞書を捲った。