時の雫・風が向かう先

§0 距離の向こうに


Episode 2




 この数日でやっと涼しくなってきた。
窓を全開にしてやっとなんとか風が入ってくる生徒会室で、上半身を机に任せ疲れた体を休ませていた。

「テニス部でカップルが1組出来たって」
2年副会長の足立が、会長の轟に話していた。
「学祭を大いに楽しんでもらっているようで、良いんじゃない?」
「相田と、男子は1年の何て言ったかな。後輩の内藤とよく一緒にいる奴なんだけど」
それを耳にしていた美音は顔を机にくっつけたまま、口を開いた。
「何組ですかー?」
「うん?7組」
「じゃー、瀧野くんでしょ」
その名を聞いて、足立は納得した顔になって頷いた。
「そうそう、そんな名前だった」

「いーねぇ、みんな幸せそうで」
だらー、と両腕を下に垂らした美音の台詞に、足立は呆れたように口にする。
「おいおい、君が言う台詞じゃないでしょ。今日も津田先輩と約束してるんだろ?」
「うーん、そうなんですけどねー、もー体がしんどくて」
「遅かりし夏バテかぁ?ちゃんと飯食ってる?」
「食べてますよー。 あーもうしんどいなぁ」
ため息をついて窓の外を眺めた。

学祭が終われば、もう一気に中間テストへと空気は変わっていく。
「3年生も学祭が終われば、受験へ一直線だなぁ」
「そーなんですよねー」
美音は気の抜けた顔でいる。・・・思い出したように口にした。
「今何時ですか?」
「今、2時15分」
「約束の時間だー。行かなくちゃ」
やれやれといった感じで立ち上がると、生徒会室を後にした。
「まだ付き合って間もないと言うのに、年寄りみたいだな。春日さん」
見えなくなった後ろ姿を眺めながら轟会長は言った。
「ほんとに」


 待ち合わせ場所に、約束の5分前に着いた。
付き合い始めてから早3週間。それなりに楽しいと感じたし、また新鮮な気持ちもあった。
生徒会の方が忙しくて、言うほど遊んでいる暇は無かったが、…それくらいが丁度良いのかもしれない、と思っていた。
 1、2分して、津田がやって来た。
「ごめん、お待たせ」
「まだかろうじて約束の時間前ですよ」
微笑を浮かべて美音が言うと、津田ははにかみながら言う。
「ああ、ごめん、もう待っている姿が見えたから、てっきり」
それから一言二言言葉を交わし、二人は歩き出した。
「どこ行きます?」
「春日さんの見たいところでいいよ?何見る?」
美音は心に浮かぶもう一人の自分に顔を背け、微笑を浮かべて口にする。
「そーですねぇ、喉も渇いているしお茶しましょうか」
すると、津田は少し意表をつかれたように口にした。
「お茶?……あぁうん。」
「他何かあったら行きますけど?」
真っ直ぐにそう言われ、津田は少し口篭りながら笑顔になって言う。
「あ、ちょっとね、後でで良いよ」
「そうなんですか?」
美音の問いに津田は笑顔で頷いた。


 夕方4時前。
生徒会室に美音が戻ってきた。
「なんか疲れきった顔してるなぁ」
同じく1年書記の溝口亮太は、美音の顔を見るなりそう言った。
「んー?なんかねー疲れが溜まっているみたいで」
「おいおい倒れるなよ」
「大丈夫だよ。学祭終われば暫くはゆっくりできるし」

長机の椅子に座ると、美音はファイルを開き仕事を始めた。
4時を過ぎると、各クラスの実行委員が記入した書類を持ってやって来る。
生徒会役員はそれらを受け取ると内容を確認し、明日の分の書類と鍵を渡す。
それらを受け取ったクラスから後片付けが始められる。
「あ、ここやり直し」
はい、と書類を返し、鉛筆も差し出す。
「えー?いいでしょ、それくらい」
実行委員の非難の声にも美音は全く動じず声を出す。
「机は好きな所使ってください」
美音にそう言われ、反論することも無く渋々ながら適当な机に座ると、左腕で頭を抱え込みながら鉛筆を握った。

5時過ぎ、殆どのクラスが提出を済ませ、生徒会室も人の出入りが途絶えた。
「明日は後夜祭かぁ」
会計の橋枝薫がぼんやりと考えながら、呟いた。
「橋枝さんダンス参加?」
美音の言葉にポイ、と放り投げるように返した。
「薫でいい。…ダンスねぇ。そーゆうの好きじゃなくて」
そんな薫に目を向けて亮太が言う。
「俺んとこのクラスの奴に誘われてたろ?」
「そーだけど、別にねぇ」
「はし、・・・えと、薫ちゃん、誘いたい人いるなら、明日行って来たら?」
次は美音に目を向け亮太は口を開いた。
「おいおい、そっちこそ相手決まってるのに」
思い切って溜まった物を吐き出すように口にした。
「んー、もう明日はパス!しんどい!」
「えー?じゃあ津田先輩何のために勇気出して学祭前に告白したんだか分らないじゃん」
すると、神妙な顔になり、机の上にあごを乗せて言う。
「んーそうだろうけどさ、しんどくてそんな気分じゃないんだよね。仕事しているほうが、気が楽かも」
「まー、仕事はまだまだあるから好きなようにしたら良いよ」
笑顔で轟会長は言った。
「じゃー明日は女を捨て、仕事に励みます」
体を起こし、伸びをしながらそう美音は言った。
 それが、話をややこしくさせることになるとは思っても見なかった。


 翌日、学祭3日目最終日。
美音は昨日宣言した通り、仕事に頑張っていた。
途中の自由時間は友達と回ったりして過ごし、出店などの当番以外は、生徒会のほうで過ごしていた。
「えー、と、あとはこの書類を教員室に持っていって、残りは後日集計出して」
数十センチも重ねられたプリントをその細い両腕で持ち上げると、用具入れのロッカーの中に入れた。他の役員は、体育館で後片付けをしている。
教員室に届け終えてから、応援に行こうと生徒会室を出た。
教員室に向かう途中、何組ものカップルを目にした。
 さすがに後夜祭のダンスがあるだけに今日はあちらこちらにカップルがいる。

−うーん、やっぱ探しに行った方がいいかなぁ……−

津田に悪いような気がして、美音はそう思った。
足早に教員室へ向い用を終えると、とりあえずグラウンドに向かって津田の姿を探し始めた。

−いない、なぁ…−

もう諦めてしまおうかと思った頃、ようやっと津田の後ろ姿を見つけた。
「あ、いた」
余力のある走りで津田に向かって足を進めた。
何メートルか手前の頃に津田が一人でないことに気付き、進めていた足を止めた。
見るからに可愛らしさを背負っている女の子と話をしている。2年だと言うことはバッジの色で分る。

……嫌な感じ、だと美音は思った。
津田が何かを彼女に話している。
それを聞いて、ほころぶような笑顔を浮かべ何かを言うと、手を津田の手に伸ばし、−それはさも当たり前のように− 津田はその手を握って歩き出した。
 美音の顔には、怒りの表情も、勿論笑顔も、浮かんではいなかった。
足を、今まで歩いて来た道に向け、それでもなんとなしに津田に目を向けた。
……微かに振り向いて美音を見たような気がした。
それでも美音は何事も無かったように体育館に向けて静かに歩き出した。
 ぽりぽりと頭を掻くと、頭の後ろに両手を組んで息を吐き、薄闇の中へ消えていった。


 体育館に入ると、外での浮ついた空気が嘘のように閑散としたムードが漂っていた。
「あ、足立さーん。生徒会室のほう終えてきたんですけどー」
数メートル前方に姿を見つけて、聞こえるように大きな声を出した。
「じゃあ、2階通路に飾っている物全部取って」
「はーい」
そう返事をすると、舞台袖の階段を下りたところにある暗幕のように分厚いカーテンを潜り抜けた。すると次は舞台裏から、体育館に出るドアの角を挟んで隣にある扉を開けると、その中に入って行った。
体育館の窓に沿って、幅1メートル弱くらいの通路がある。
普段は殆ど使われていない。使われる時といえば、カーテンの開け閉めくらいだろうか。
そして、その通路には、開会式のときに飾られていた物が外されて無造作に置かれている。
毎年開会式の為だけに飾られているそれら。
「……」
……自分の姿と重なって見えた。
美音は静かに、片足を宙に浮かせ後ろに引くと、軽げに蹴り上げた。
ゴンッ
「…ばかばかし……」
そう呟くと、何も無かったように作業に取り掛かった。





 学園祭の余韻もどこかへと吹き飛び、次は中間試験の事が授業中に触れられることが多くなってきた。次第に教室の雰囲気も、微妙に重苦しい空気が流れ始めていた。
 昼休み、クラスメート達と昼食を取り終え、図書室へと向かっていた。美音は友人の横に並んでただボー、と歩を合わせていた。
だから、横の友人に言われるまで何も気付かなかった。
「春日さん、あっち」
「え?何?」
「ほら」

視線で指す方に顔を向けると、学祭にあの時見かけて以来、顔をあわすことが無かった津田が立っていた。
美音が自分に顔を向けたのを見て、口を開いた。
「春日さん、いいかな」
それは訊ねているのではない。
「来ることが前提」になっている言葉だと言うことを美音は分っている。
 声をかけられる前に、友人たちは気を利かせてそのまま図書室へと足を進めていく。
美音は嫌な気持ちを拭い去れないまま、それでも津田が望むように足を向けた。
 人に話を聞かれないようにと、校舎の裏に促された。
美音は表情無く、じ…、と津田を見つめる。
何をどう切り出そうかと躊躇った表情のまま、彼は口を開く。
「後夜祭のとき、忙しかった?んだよね?」
その奥歯に挟まったような言い方は、美音にとって何やらねっとりと絡み付くような何かがあるような気がしたが、あえてそれを無視し、はっきりと声が届くように口に出した。
「はい、ずっと片付けに追われていたので、役員は皆最後まで一緒に仕事をしてました」
「そう、なんだ。いや、こっちもはっきりと聞いていなかったし、…でも、その時ぐらいは時間空いているものだと思っていたから…、確かめなかったこっちが、悪いんだろうけど」

その、本心を見せるように隠した言い方に、自分の心の中に苛立ちをはっきりと感じ始めた。
「………」
ふい、と、視線を外し、向こうに見える男子生徒が野球をして遊んでいる光景に目を留めた。

「いや、だから何だという訳ではないんだけど、…その、気に、なって」
歯切れの悪さにイラッとしたその気持ちが、美音の口を開かせた。
「途中一度だけ先輩の姿を見かけたんですけど、誰か他の人と後夜祭に向かって行かれたので声かけられなかったんです」

「………え?」



 イライラしながら、美音は歩いていた。
そのイラつきは増すばかりで、他所に目を向ける余裕すら今は無い。
人気の少ない廊下を抜けて角を曲がり2つ目の扉を開けたその場所が生徒会室だ。
ばたんっ、と、珍しく大きい音を出してドアを閉め、中に入った。
……驚いた表情で顔を向けた足立だった。
言葉を発することも無く、むっつりとした顔で椅子に座ると、2つの拳を机に「どんっ!」と振り下ろした。
 ……びくっ、と反応を示す足立。
数秒の沈黙があり、美音は深く息を吐いた。
 次は何をするのだと、不安げな顔をしたまま、身を眺めている足立。
くるっ、と足立に顔を向け、余裕の無い表情のまま訊ねた。
「この時間に何してるんですか?」
その気迫にたじろぎながら、律儀に答える足立。
「いや、先生に頼まれてね、新聞の校正と空欄埋めを3時までに」
「手伝います」
威圧的な空気に押されたまま、横に置いていた書類を差し出す。
「はぁ。じゃ、この見直し、お願い」
差し出された書類を受け取り、衰えぬ気迫のまま、それに目を落とした。

 そんな美音を不思議そうに見つめ、訊ねる勇気を出さぬまま作業を続けた。

 それから何も喋らぬまま、5時間目が終わろうとしている頃、堅い口をあけた。
「足立さん、私って、大人しそうに見えますか?」
唐突の質問に少々うろたえながらも、手を止めて返事をした。
「まぁ、黙って何もして無かったらね。まぁ周りにいる、見る目のある奴らは判ってるだろうけど」
「それって、外見とのギャップがあるって言う事ですか?」
「いや、春日さんはデキる人だっていうこと」
そんな足立の台詞に、微妙に頬を赤ませて目をぱちくりとさせた。
それと同時に美音を覆っていた空気が和らいでいった。
「それ、今一番の誉め言葉です…」
呟かれるように返された台詞に、足立はにこりと微笑んだ。