二人のじかん

chapter3 動き出す空気 中編

 その日、康平は秋山和花と日直になった。
昨日の時点では康平の出席番号前の生徒が日直の予定だった。
女子が男子より2名少ないこのクラスだから、同じ日に日直になることはないだろうと思っていた。
朝のショートホームルームで、教師が欠席者を告げた時も日直の事なんて頭に無かった。
だから、ショートホームルームが終わって数分の休み時間も、いつものように友人たちといた。
特に何かを話すわけでもなくその場所に居る康平だった。
「笠井君?」
名前を呼ばれて少しはっとした。その場も、声が止んでいた。
そのグループ自体、女子との交流がかなり少ないからだ。
自分を呼んだ声の主、和花に顔を向けると、少し安心した様子で口を開くのを見た。
「今日、一緒に日直なんだけど、日誌書くから黒板消し頼んでいい?」
「うん」
康平が返事をすると、和花は笑顔を向けてからすっとその場を離れた。
そして、友人たちのお喋りが再開された。
日直の仕事は知れていた。教師に雑用を頼まれない限りしんどい仕事ではなかった。
女子が必ず日誌書きをするという事も無く、その日が始まる前にお互いの担当を決める。授業開始終了の号令は、授業ごとの交代制で。
 康平はぼんやりと黒板の右端に書かれた日直の名前を眺めた。



 和花は美術部顧問の教師に用事があって教員室に行った。
用事が済み、教員室を出ようとした所で次の授業の教師に呼び止められた。
「秋山、今日の日直知ってるか?」
「私ですけど」
「おお、丁度良かった。資料室開いてるから、そこからこのメモの物を教室に運んでおいてくれ」
言われるままにそのメモを受け取り、教員室を出た。
その授業科目の資料室に向かい、そこでメモを見て実物を探す。目当ての資料を見つけて、和花は表情を歪ませた。
それは大きくて重い見た目は本の資料だった。
「これを女子一人に頼むってどういうこと?……鬼。鬼だわ」
湧き出た感情を言葉にして吐き出した和花だった。


和花は一人で来た事を後悔しながら、必死に抱えていた。
その重量は一歩進むたびに増えているような気さえする。
手が震えてもきたし、ちょっとでも力を抜けば落としてしまいそうだ。
少しでも下ろしてしまおうとすれば激しい音を立てて落としてしまいそうだった。
いろんな事を激しく後悔しながら、もう限界を感じ始めたとき、視界に見覚えのある後ろ姿を見つけて、和花は余計な事を考えず口を開いた。
「ねぇ!ねえってば!」
その生徒との距離は僅かではあった。大きめの声を出せば届くであろう距離。
名前を言えば良かったのだが、頭は違う事に捕われていたから思い出せなかった。
一人で辛い思いをしているその声に振り向いてくれない事に怒りを感じた和花は、癇癪を起こすような声で思い出した名前を言った。
「ねえ!笠井君!」

その声に驚いた康平は固まるより先に顔を向けた。
あの感情的な声が自分を呼んでいたとは思いもしなかった。
「これ持って」
「あ、うん」
そして、声の主を見て驚くより先に、和花から放たれた言葉に返事をしていた。
微かに戸惑った様子を見せながらも、康平は荷物を持った。
和花の身長の三分の二を覆い隠していた大きな本。
康平の腕にずっしりと負荷を与えている。
これはかなり重かっただろうと康平は思った。
よくぞここまで運んで来たことと感服する。
 今まで耐えていた苦しみが解消され、和花は安心の息を吐いていた。
両腕が赤くなって微かに震えている。逞しくは見えない華奢な腕が辛そうに見えた。
そのしんどさを慮りながらも康平にはかける言葉が浮かばなかった。
このまま教室に運べばいいのか悩んでいる康平。ふと、和花の視線を感じて自然に目を向けた。
目が合った瞬間、和花は晴れ晴れとした笑顔で声を出した。
「ありがとー」
けれど、康平は避けるようにぱっと顔を逸らした。
逸らしたと言うより、進行方向に顔を向けたと言った方が正確のところだが。
その視界の端に、眉をひそめた和花の顔が見えて、康平は「しまった」と思った。
だけど、時間は戻らない。


「はぁ」
思わず口から出てしまうため息。
突然の事に全く余裕が無かった自分。あれは失態だったと思う康平は、自然と机上に俯いていた。
自分の席から見える和花をちらりと見て、すぐ黒板に視線を向ける。
内容は全く見ていない。頭の中にあるのは、あの後の気まずい雰囲気だった。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り始めると教師が言った。
「ノート提出。日直は全員の分を集めて持ってくるように」
不満の声が上がる中、号令はかかり授業は終了となった。
教師が退室してから、それぞれがノートを教壇の上に置いていく。その姿が見えなくなった頃に日直の和花が教壇に行きノートの数を数えている。
康平は一人意を決すると立ち上がり、教壇へと向かった。
「えと、何人だっけ?」
和花の問いに、教壇の端に貼ってある用紙を見て答える。
「36人」
「うーん、35しかない」
「……あ、今日一人欠席」
「あ、そっか。じゃあこれで揃ってるんだ」
「じゃ持って行ってくる」
「半分持つよ」
「大丈夫。重くないから」
両腕に抱きかかえ、一番上をあごで押さえながら穂を進め、康平は教室を出て行った。

 康平は、自分の愛想の無さに目を閉じたい心境にもなるが、仕事はしているので良しとしよう、と心の中で自分に弁明をしていた。
余計な言葉を口に出来ない。それはより簡素に。
もしかしたら、印象悪く思われているかもしれない。

 ―― ……いや、印象悪いだろうな。俺だって自分のこと無愛想だと思うのに ――

教室に戻ると、和花が黒板を消している。康平の仕事のはずだが、ノートを持っていったから代わりにしてくれているのだろう。
けど、和花の身長では、黒板の上部には届かない。つま先立ちをして、必死で消そうとしている。
そんな様子を見ている人もいないし、勿論手伝ってやろうという男子もいない。
このクラスはそういうクラスだ。
 康平はドアを閉めるとそのまま黒板に進み、もう一つの黒板消しを持つと和花が消し始めた反対側から消し始めた。
「あ、ごめん」
康平に気づいた和花が腕を下ろしながらそう言った。
内心、どんな顔をして良いか分からない康平は、相変わらずの表情で返した。
「いや、こちらこそ」
「え?なんで?」
そう和花に返されて、康平は一瞬止まった。まさかそういう言葉が返ってくるとは思わなかった。
言葉を口にするのに少し詰まりながら、黒板に向けたまま言った。
「黒板消し、してくれてたから」
「なんだ。ノート運んでくれたんだもん。それくらいするよ」
消し終えて黒板消しを置く。その間は無言だった。
振り返る前にぼそっと康平は言った。
「……サンキュ」
和花の返事を待つことも反応も見ることなく、席へと戻って行った。
自分の顔が熱を帯びているのを感じながら、意識を他の事に向けようと、とりあえず次の授業の準備をする。
 休憩時間の間、和花のいるだろう方向に顔を向けることは出来なかった。

 その日の授業が終わり終礼も終わると、教室掃除の当番が綺麗にしている中、康平は黒板を綺麗に掃除していた。
教室の中の端で、掃除の邪魔にならないようにして日誌を書いている和花の姿もあった。
てきぱきと掃除を終えた康平は、テニスラケットの入ったスポーツバッグを肩にかけると足を止めた。
いつもなら、何事も無く教室を出て部室に向かっている。今もそうすればいい。
 頭の中で考えるように、今日は美術部の活動がなかった事を思った康平は、和花の所へと足を向けた。
和花の前で足を止めたところで、気付いた和花が顔を上げたので康平はほんの数秒固まってしまった。
「……日誌、持って行くけど」
「え?」
「朝、取りに行ってもらってるから」
表情が変わらず、動きの無い和花。
書き終わった日誌は閉じられて置かれているのを見て、それをすっと手に持ち言った。
「じゃ」
そして、すたすたと教室を出て行った康平。
 廊下を一人黙々と歩き、進んで進んで他の学年と混じった所で、「はー」と長い息を吐いた。ほんの数秒足を止めたが、また何もなかったように歩き出す。
まるで自分の無愛想さに目を閉じるかのように。


 部室に入ると、着替え終わった瀧野がだるそうにいらない荷物をバッグにしまっていた。
挨拶を交わし、自分のロッカーの前に立つ。荷物を出し着替え始めた頃、瀧野にしては珍しく声を上げてベンチの上に寝転がった。
「あー、だめだ。眠い」
「……夜更かしでもした?」
「あー、問題集の消化が調子よくてつい」
「へー。あ、そうか。もうすぐで期末テストだったっけ」
「もう無理。笠井、5分経ったら教えて。悪い」
「おー」
着替えながら返事をしたら、もう静かになっていた。
大分お疲れだな、と呟いて、まだ静かな部室に康平は天井を見上げた。

 着替え終わり荷物を片付け用意終わった頃、掛け時計を見る。5分は経過したので声をかけた。何度目かの呼びかけに瀧野の手が動く。それを見て、康平は呼びかけをストップした。
顔に被せていたタオルを外し、まだ少しだるそうに上半身を起こす瀧野。
「おー、サンキュ。爆睡してた」
そんな様子を見て、あえて康平は声をかける。
「問題集って自分で選んで買ってる?」
「ん?まぁ、自分で選ぶのもあるし、兄貴に頼んで選んでもらったりもするよ」
「へー。お兄さんいて、選んでもらえるのか。それはいいなぁ」
「笠井は自分で選んでんの?」
「うん。前に買ったやつはハズレだったなぁ。攻略したい系統の問題が少なくて」
「どの科目?」
「数学と現国」
「数学だったら、終わったから貸すよ。現国は、問題集の名前とかをメモで」
「それは凄い助かる。よろしく」
「オーケー」
そう会話に一区切りついた頃、他の部員が入ってきて賑やかになった。
用意の終わっていた二人はコートへと向かう。



 翌日、いつものように登校し教室に行く。
日直は次の生徒に回っていて、康平は普段と変わらない一日の様子になった。
接点が無ければ、話す事はない。
 和花はいつも一緒にいる同性の友人たちとお喋りをしている。
「……ふむ」
目を一緒にいる友人たちに戻し、言葉を口にした。
「なぁ、問題集って何使ってる?」
「え? 問題集?」
「わー、俺、毎日の授業だけで手いっぱい。お前は」
「聞くな」
あえてそれ以上訊ねる事はせず、康平は口を閉じた。
結局、いつもと変わらない聞き役でいることにした。
 途中、ぼーっとしていて話が耳に入っていなかった康平に、友人が何かを問うていた。
「え? 何?」
「だから、瀧野ってどんなやつ?」
「いや……、中身についてはよく知っている訳じゃないけど、まぁ、なんていうか、人を寄せ付けないっていうか、隙が無いって言うか、侮れないって言うか、他のやつらと一歩違う感じがするかな。……なんで?」
「んー、なんかいけ好かないなぁって話」
「ふーん」
その話に特に何かを思うことはなく、康平は流した。
生きている中で、僻みや妬みはいくらでもあるし、立場が違えば思うことは違うと知っているからだ。
 康平は小さく息を吐いていた。



 今日もまたいつもと変わりなく、終礼が終わって部室へと向かった。
その日は珍しく谷折が一番に来ていた。
彼は着替えるより先に透明のビニール袋に入っているカップケーキを食べている。
交わした挨拶もそのカップケーキが口に入った状態だった。
「どうしたの?それ」
口の中の物を飲み込んでから谷折は答えた。
「これ、3年のおねーさま達に貰ったんだ。何か甘い匂いしますねーって言ったらくれた」
ラッキーと言わんばかりに笑顔の谷折。
「あ、そう」
少し予想した、色恋沙汰ではなかった。
余計な言葉は口に出さずロッカーに行き荷物を下ろした。
「1個食べる?」
「うーん、そういう気分でもないからいいや」
「そう。じゃ遠慮なく食べてしまいます」
「どーぞどーぞ」
それから程なくして部室の扉が開いた。その部員は中に一歩足を踏み入れた所で動きを止めた。それに気付いた康平が目を向けると、瀧野はいつもの様子で挨拶をする。
特に何かを話す事も無く、それぞれがそれぞれの行動をしていた。
 康平が着替え終わった頃に、瀧野は荷物を出していた。谷折はまだカップケーキを頬張っている。
「あ、そうだ。笠井」
瀧野にそう呼ばれて、何だろうと顔を向けた。
「この間言ってた問題集とメモ、な」
差し出されたそれを見て、一瞬何の事かと思った。
だが、すぐ思い出して、顔に表情が表れた。
「あ。本当に?助かる、マジで」
「おー。俺はもうやり終えたから」
「サンキュー」
「え?何々?何の本?」
もぐもぐと次のカップーケーキを口に運びながら谷折が聞いてきた。
「数学の問題集だよ」
ため息を吐くように答えた瀧野。
「へー」
その呆気ない声に、数秒考えた康平は口を開いた。
「お前も期末テストの勉強さほどする気無いだろ?」
「うん」
きっぱりと返事をした谷折に二人は沈黙した。
「ま、赤点さえ取らなかったら、練習には影響ないから」
着替え始めた瀧野はそう言った。
「ま、なるようになるさー」
能天気な笑顔で答えた谷折に二人は声をかけなかった。

 コートに入り練習の準備をしながら、康平は問題集のことを思い出していた。
なんとなく話題に出した事だった。
実のところ、貸してくれるとは言っていたけど、口約束だったから、そのまま流れていき無かった事みたいになるだろうと思っていた。
けど康平が言った事は本当の事だった。ただ恩恵を受けられるとは思っていなかった。
だから、本当に貸してもらえて驚いたのが本音だった。
 不意に知った瀧野の良いところに、康平は今までの印象が少しだけ変わったのを感じた。


2009.9.23

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