この間、部活からの帰り道に犬の散歩をしている彼女を遠くから見た。
ふと、足を止めて数秒眺めていたが、何もなかったようにペダルを漕ぎ出し家に向かって行った。
クラスにいるときの康平は至って普通だった。
休憩時間は友人たちと行動を共にし、授業中も真面目に受けている。
教室にいる間は、彼女に目を向けることはなくなっていた。
暦は12月。景色はすっかり冬になり、生徒全員が冬服のブレザーで夏服とは違って落ち着いた雰囲気になっていた。
球技大会の今日は、皆ジャージ姿で校内にいた。
いつもと違う風景だったが、この行事については、康平は気楽にいた。
ただ一日をのんびりと過ごせば良かったから。
友人たちの向かうところに足を向かわせる康平は、彼らが足を止めれば必然と止まる。
「なんかここだけ人が多いな」
「うん、1年の試合みたいだけど」
「ねぇ、何の試合?」
友人一人が観戦している1年生徒に聞いた。
「2組と6組の女子ソフトボールの試合だよ」
「ありがと」
答えてもらった事にお礼を言うと、他の友人が口を開いた。
「2組と6組? ……ああ、あの人のクラスか」
「あの人?」
「ほら、えーと、名前忘れた。生徒会のあの人」
「ああ、それの見物か」
「そうだろ」
横で話している内容には康平は気にせず、また誰のことを言っているのかも知る由もなかったが、観客の生徒たちをぼんやりと眺めていた。
その中に、和花の姿があった。食い入るように試合を見ている。
自分たちのクラスでもないのに、やけに真剣に見ている姿に、康平は疑問符を頭に浮かべる。
―― これが男子の試合だったら、中に好きな奴でもいるのか、っていう話になるけど……。女子だしな ――
そして、動かした視線の端に瀧野の姿が見えて、確認するように照準を合わせた。
丁度、2組の観戦組女子から声援が飛んでいく。
それを聞いて友人たちが思い出したように言った。
「そうだそうだ、春日さん、だ」
「ああ、そんな名前だったな」
そして、康平が見ているところ、瀧野の周りにいる友人たちが言葉を交わし合わせたように声を放っていた。
「春日さーんファイトー」
それに、康平の横にいる友人たちは、半ば呆れてもいたが感心したように声を漏らした。
「おお」
瀧野は横にいる友人たちの行動に参ったように苦笑いをしている。
そして、その声援を送られた女子から「ありがとー」と返事が返ってくると、瀧野の友人たちは「おお」と歓喜の声をあげていた。
「俺たちも言ってみる?」
どこか呆れた顔で友人たちに言ってみた康平。
「無理」
「あれは無理」
友人たちのその返答を聞いて康平は納得したように言った。
「普通、そうだよな」
ボールがミットに投げ込まれた音が響いたと同時に、一部の生徒の間から落胆した声が漏れた。
ふと、目を和花の方に向けると、彼女はさっきよりも真剣に目を向けていた。
そして、次の放たれたボールの後に聞こえる快音に、和花の顔がぱあぁと笑顔になった。
―― え? そうなの? ――
和花がずっと見つめていた先が「春日さん」だと分かって、康平はそう思った。
色々と思うことはあったが、考えるのが怖かったので見ない様にして違う事に思考を向ける。
あそこはどんな様子になっているのだろう、と康平は瀧野の方に目を向けた。
瀧野も試合の様子に目を向けている。
そして、彼の口から言葉が漏れたのを見た。
その表情には冷めた様子も皮肉めいたものもなく、心からの言葉だろうと思う。
どんな子だろう、とその時初めて思った康平は、やっと試合している方に目を向けた。
3塁に立っている女子がそうだろう、と、よく見てみる。
なんとなくどこか華やかで、近寄りがたい雰囲気を持った女子。
康平には、その女子が縁無く程遠い世界にいるように感じた。
暇を持て余している時に、クラスの生徒がどこかで試合をしているとなると、自然に観戦に足を向けていた。
そんな中で、和花の参戦姿も目をする事もたびたびあった。それの観戦結果、康平はそっと思った。彼女は、運動系は得意ではない、と。
―― まぁ、見た感じも文系だけど……。期待を裏切らない、っていう感じかな ――
そして、あの時のぱあぁっとした和花の笑顔を思い出して康平の動きが止まる。
何かを打ち消すように頭を振って足を進めた。
途中、通り過ぎようとしていたある場所の手洗い場の近くで、激しく水が飛び散る音を耳にした。
バケツをひっくり返した音にしては、掃除時間ではないことに気付いた康平が顔を上げると女子の数人が白々しく「あ、ごめーん」と謝っている。
辺りは不気味に静まり返っていた。
標的にされているのは1人。加害者側は3人。
女児の喧嘩には巻き込まれたくないなぁ、なんて事を思いながら、康平の足が止まった。
傍を通り過ぎたが故に巻き込まれる可能性を案じたからだ。
そのまま微動もせずに立ったままの被害者は重々しく口を開いた。
「……偶然じゃないですよね?」
その台詞に康平はぎょっとした。まるで火に油を注ぐようなそれに。
「そんな訳ないじゃん」
「おかしいんじゃなーい?」
楽しそうな加害者たちの空気が一瞬で固まった。
被害者が顔を上げ真っ直ぐと向けた瞳に、その場にいた誰もが威圧された。
康平もまた、その瞳に身がぎゅっと縮まる思いをしていた。
それでも止まない被害者の冷ややかでキツイ眼差し。それだけでなく、相手を全て飲み込んでしまうような黒い恐怖を感じさせた。
「羨ましいですよ?大した勇気をお持ちで。もし、このままこの事態を正当化されて謝りの言葉も無いようなら、私生徒会役員ですので査問委員会に先輩方をお掛けすると思いますけど?どうなさいますか?」
水を最初にかけた側の、圧倒的な敗北がそこにはあった。
―― ……こ、怖い。はったりを、真実の武器にも見せてしまうあの迫力……。
あの目……。マジで怖い ――
髪の毛はずぶ濡れだった。それなのに、手洗い場の下においてある雑巾を取り出して、濡れてしまった廊下を拭こうと動き出した。
それを見て、遠巻きに見ていただろう女子数人が傍に来てうろたえた様子を見せながらも言った。
「私たちが拭くから、早くタオルか何かで頭を拭いた方がいいよ」
「早く、ね?」
数秒考えていた様子の女子は、ぺこんと頭を下げて言った。
「ありがとう」
さっきまであった威圧感が嘘のように無くなっていた。
その場から彼女がいなくなり、康平も目指していた場所に向かって歩き出す。
そして、数分が過ぎて気がついた。
―― ……あの人、「春日さん」? ――
面倒に巻き込まれるのを厭う康平は、絶対に近寄りたくない人物だと思った。
2組対6組のソフトボールの観戦で見た、瀧野と和花の顔を思い出したが、康平の気持ちは変わらない。
―― 有名人は色々と気苦労が多そうだなぁ。ま、俺は一般生徒だし、関係ない世界だし。それに、知り合いになることも無いだろうし ――
翌日は日常と変わらない授業だった。
和花も普段と変わらない様子で過ごしている。
休み時間、いつもと変わらず友人たちといる康平。椅子に座って話を聞いているフリをしながら、視界の端に映る和花を眺めていた。
昨日あった出来事を和花が知ったらどんな顔になるのだろう、と。
普段はあまりハッキリとした表情を見ないあの顔が、あの時のようにくっきりと感情を浮かべるのだろうか。
可哀相、と同情するのか、加害者側に怒りを持つのか分からないが。
和花の顔が動くのを見て、康平は友人に目を向けた。
昨日は球技大会で休みだった部活も今日は普段どおりある。
康平が部室に行くと、珍しく瀧野がもう来ていた。
挨拶を交わして、康平は自分のロッカーの前に行きカバンを置いた。
必要な物を出してから着替え始める。
着替え終わった瀧野は、まだ外に出ずベンチに座ってボーっと天井を眺めていた。
それもまた珍しい光景で、康平は表に出さないが不思議に感じている。
会話する事もないこの空気の中、黙々と康平は手を動かしていた。
すると、座っていた瀧野はごろんと上半身をベンチの上に寝転がせる。
それには今日一番の驚きだった。
だが、康平にあえて訊ねる勇気は無い。
準備が全て整った頃、康平はこそっと瀧野を見た。
どこか沈んだ表情でぼんやりと天井を眺めている。
まだ他の部員が来ていないのが幸いしているのか、瀧野の様子は変わらない。
でも、康平にとって幸いしているのかは定かではない。
このまま声をかけずにそっとして部室を出て行くか。それとも、勇気を出して声をかけてから出るべきか。
一人心の中で悩む康平は、このままじっとしているのもおかしいと思い声を出した。
「コート出るけど、瀧野はまだ?」
そして、そっと目を向ける。
康平の声に気付いた瀧野は「よっ、と」と声を出して起き上がり言葉を返した。
「俺も出るよ」
横に置いていたラケットとドリンクを持ち立ち上がった瀧野。
そのまま歩き出していく様子に、置かれたままのタオルに気付いた康平は、手に取ると言った。
「タオル、忘れてるよ」
ぴたっと足を止めた瀧野。
それになんとなく違和感を抱いた。
こちらを振り向いても一向に動こうとしない様子に、康平は声を出す。
「タオル」
「あ、うん、悪い」
どこかぎこちない声と動作でタオルを取った。
背を向けてドアへと進む瀧野。その後ろ姿に、怪訝な顔を向ける康平。
でも、今の康平にどんな問いの言葉も口にすることは出来ない。
瀧野の背中が何かを拒絶しているように思えたから。
―― 何なんだろう? 昨日も今日も。日ごろの行い悪くないと思うんだけど ――
いまいちパッとしない一日。昨日も今日も。
ただ普通であれば良いと思っている康平には、少々不服そうだった。
2009.8.27