オアシス


4話 見せない威嚇

「おねえ、元気にしてる〜?」
久々にかかってきた妹からの電話だった。
聞かれるままに答えていた会話が途切れた時に、先日の事が頭に浮かんだ一花は言葉を口にしていた。
「そう言えばね、郁郎、私の事で何か言ってた?」
「ええ?どうだったかなぁ?……そう言えば、おねえは徹君をどう思ってるんだろうって聞いてたなぁ」
「は?あのバカ、まだそんな事言ってるの?」
「あはは。郁ちゃんもしつこいよねぇ」
「ホントだわ。手出したら犯罪じゃない」
「あはは。徹君今もう社会人だからー」
「まぁ、そうだけどね」
「徹君はおねぇに懐いているから、郁ちゃんからしたらおねぇを取られそうで嫌なんじゃない?」
「うーん?郁がそんなタイプには見えないけど」
「どうかなあ。私もよくは分からないけど、郁ちゃんも変なところは素直じゃないからねぇ」
「そうかもね。郁は昔から人の男関係にうるさかったから」
「あはは、そうだったねぇ。で、徹君とは実際の所どんな感じ?」
「……あんたまでそんな事言い出すの?」
「ええ?とりあえず聞いておいて見ようと思っただけだよー」
「そー?……この間、って、もう随分日にちがたつけど、仕事で何か落ち込んでうちに来てたよ。今思えば、もっと上手い言葉をかけてあげられたら良かったと思うんだけど」
「へー。徹君は慰めて欲しくて行ったのかもよ?」
「どう慰めていいのか分からないんだって。下手に何か言って、余計傷つけそうで」
「えー?違うよぉ」
「何が?」
「言葉じゃなくてさ、体で慰めて欲しかったのかもよ?」
「……ちょっと。徹ちゃんはそんなんじゃないっての」
「ええ?そんなの分からないじゃない」
「それはそれで徹ちゃんに失礼な話」
「ふうん。おねぇも変なところ頑なだもんねぇ」
「ちょっとなんだって言うの?」
「いえいえ、なんでもございませんですよ?」
「……なんか腹立つ……」
「それにさぁ、いくら年下と言っても、いい歳した男だよ?何の下心もないと思ってるの?というか、仮にも女性と一緒に夜を過ごして、そういう気持ちにならないと本気で思ってる?」
「か、仮にもって……。ちょっと」
「あはは。まぁ言葉のあやだよ、おねぇ」
「まぁ、……一応は」
一花はそれ以上の言葉は飲み込んだ。


  そりゃあ、そうなったらそうなったらで、まぁ仕方ないかくらいには思ったけど。


こんな事を言えば、その後何を言われるかたまったもんじゃない。
一花はそれ以上何も言わずに済ませた。
「おねぇは変なところ面倒見いいんだよねー」
「変なところってあーた」
「でも対象が限られてるんだけど」
「そう?基本的に面倒見が良い、という事もないんだけどね?」
「そうそう。だから変なところ、なのよ。それに年下限定で。……あんまり、変な期待はさせちゃ可哀想だよ〜?」
「は?」
「今までそれで痛い思いさせた後輩、たくさんいたでしょ〜」
「……。まぁ、否定は出来ないけど。でも、それとこれとは」
「さぁどうだかねー。おねぇ、油断して取って食われないようにね〜」
「は?あんた何言ってんのよ」
「はは。それはそれで見物なんだけど」
「ちょっと?」
結局、自分の言いたい事ばかり言っている妹に、ため息をついた一花だった。




 目覚ましの音に夢から覚めた一花は、再び横になりぼーっと宙を眺めた。


  ……徹ちゃんの夢見たー。
  夢の中でも偶然会って思い切り抱きついてたー。
  幸せー……


 そのまま幸せな気持ちで夢の続きを見たいと願う気持ちがあった。
目を瞑ればそのまま夢の中の幸せに浸りきってしまうほど。
 満たされた気持ちで緩やかな時間を過ごしたいという思いを抱きながら、一花は渋々現実に返っていく。
ベッドから身を起こし、洗面所に行き会社へ向かう支度を始めた。


  いい夢見たなー


 ご機嫌で車に乗り込み、そのまま会社に向かった。
その機嫌の良さはずっと続いていた。その気になれば、夢の世界へに浸れてしまうくらいに。
 エレベーターで上がり、自分の机に荷物を置くとコーヒーを入れに向かう。
そこでも一花は機嫌が良かった。

 一花の頭に、あの翌朝の事が思い出された。
元々、休日の朝はゆっくりと過ごす一花だったのだが、土曜日は仕事だった事もあって、尚ゆっくりの起床となった。
奥の部屋を出てリビングを覗けば、徹が寝ていたはずの布団は空になっていた。
そして、そのままキッチンに向かえば、徹が朝食を用意してくれていたのだ。
「うわぁ、ありがとう」
誰かに作ってもらうなんて事がなかった一花は素直に喜んだ。
すると徹は照れ笑いを浮かべながら言った。
「うん、これぐらいしか出来ないけど、一花さんに。お礼もかねて」
その表情がたまらなく可愛かった。心くすぐられるようで、一花の胸はきゅうとなった。
けれど、それをあまり顔に出さずに笑顔で言った。
「徹ちゃん、将来いい旦那になるわねー」
「なれるよう努力します」
嬉しそうな笑顔で、けど、どこか控えめで恥ずかしそうに言った徹。
一花はそれににこり、と笑顔を向けたけど、意味がよく分からなかった。


  ああ、だけど徹ちゃん可愛すぎ……。
  あんな可愛い年下の男の子にご飯作ってもらうのってすんごい贅沢……。


思わず、ぽけーと宙を眺める一花だった。


 一花自身分かっている。
妹が遠回しに言っていたように、徹には甘いという事。
年下を見ると、必然的に面倒を見てしまう傾向がある。やはりこれは長女的気質だとも思うのだ。けれど、それは優しいとは別物。
 なのに、相手が徹になると、優しい心が必然的に生まれてくる。
そして、それは形を変える。


  うう、だって、徹ちゃん可愛いんだもの!


頭に再び徹の顔を思い出して、幸せに浸る一花。
明らかに現実世界には目を向けていない顔を見て、そこにやってきた神崎は思い切り声をかけた。
「おーい、起きてるかー?」
それで我に返った一花は、その顔を見るなり思わず声を出した。
「げ。……おはよう」
「おはよ。……今、明らかに人の顔見て嫌な顔したな」
「……え。気のせいよ」
わざとらしく素知らぬ顔をして言った一花。神崎は呆れた顔で言う。
「お前、素直じゃないねー。俺と会えて嬉しいんだったら、笑顔になれって」
「……」
思わず目が細められた。そして、心の中で沸々と湧き上がってくる感情。
「あんた、もう一回飛ばされてきたら?」
「ひでーな、おい」
「馬鹿なことばかり言うからでしょ」

「なんでこの間来なかった?」
テーブルの上で両腕を組んだそこに顔を置いた神崎は言った。
真っ直ぐと一花を見上げている。
その様子を一瞥した一花は一つ息を吐いてから言った。
「私の都合って言ったでしょ。それに最初にちゃんと言ったでしょ。参加するかは別としてって」
「普通本当にそうするかぁ?」
「いい歳こいたおっさんが何言ってんの」
「おっさんって……」
けれど、神崎の追求は止まなかった。一花が何を言っても話を変えようとしなかった。
「だから、何の用事だったんだよ」
「あーもううるさい。帰れ、自分の星に帰れ」
「俺は異性人か?!」
「素直に同じ地球人と思いたくないよね」
「そこまで言うか……。で、何の用事だったんだよ」
「あーもううるさい。さぁ仕事仕事」
もうそれ以上話を聞かない、という意思を前面に出して一花はその場所を出て行った。
 扉を閉め、自分のフロアに向かいながら一花はぶつぶつと声を出している。
折角気分が良かったのに、それをぶち壊しにされて不機嫌になったようだ。
「……全く……、しつこいしうるさいし……」
その後、仕事に取り掛かった一花の顔には、笑顔が浮かぶ事はなかった。

 それから数日経った頃には、神崎も何かを訊ねては来なかった。時折、目は言いたがっていたが、一花が鋭い視線になると自然と口を噤んでいた。
 神崎からすれば、そこまでして触れられたくない都合というものが気になって仕方なかった。だが、それを知る事を一花は許さなかった。


 いつもはラスト一人になってまで仕事をしている一花が机の上を片付けていた。
見るからに纏っている空気が軽い。
「チーフ、今日はあがるんですか?」
「うん。今の所順調に進んでいるし、また暫くしたら忙しくなるから今のうちに休養」
「もしかしてデートですか?」
「あはは、そんなんじゃないよ。じゃ、お疲れ様」
笑顔を残して一花は事務所を出て行った。
 ビルの外に出ると、傘を広げて人が行き交う中を歩いていく。
雨の日の喧騒は普段と違う空気を醸し出していた。
いつも知っている場所に居るはずなのに、この時ばかりは違う世界にいるように感じる。自分のいる空間が傘で遮断されていて一人きりの世界を感じた。
「一花さん」
自分を呼ぶ徹の声にはっと傘をずらして顔を向けた。
いつもの笑顔で徹がそこに立っている。
「あ、お待たせ」
ほっと笑顔を浮かべると、店「霽月せいげつ」の軒下に入り傘を閉じる。
そこは一花の行きつけの店。一人で入れる居酒屋だけど店主に気に入られた人だけが来れる場所だった。
「今日、車は?」
カウンター席に座りながら訊ねてきた徹に、自然と微笑を浮かべ言った。
「飲むつもりだから、最初から歩き」
「じゃあ、今日は一花さんのほね休みに付き合いますので、満足いくまでどうぞ」
「ふふ、ありがと」
一杯目の飲み物を注文し終えてから、徹は言葉を紡いだ。
「一花さんの車って、社用車とかではなく自分の?」
「うん。5年位前に新車で買ったの」
「新車で?でも中古の方が安くていいんじゃないの?」
「まだ免許とって間もない時は中古乗ってたけどね。一杯傷もつけたし」
「あーなるほどー」
「でもね、中古だと長く乗れないからね。年式が古い分、修理も色々と出てきて費用もかさむし。そう考えると新車の方がいいかなぁと思って」
「で、念の為聞いてみるけど、傷はつけた?」
「……一度だけ擦った」
「……やっぱり」
「……。やっぱりって何?」
「え?いや、勘で」
「徹ちゃん?」
「いや、実は郁郎に運転話は聞いていたもので」
「……」
それに思わず、ジト目を向けた一花だった。

 あれから徹とは普通に時間の合った時やその場のノリで食事に行ったりするようになった。こちらで再会した、最初の頃の関係に戻ったとでも言うのだろうか。
あの時のような落ち込んだ姿を見せる事はないが、徹の口から仕事の話をする事がゆっくりと増えていた。それを一花は優しい微笑でいつも聞いている。
押し付けがましい言い方はしなかったが、自分の過去の話も参考程度にしていた。
それで何を徹が感じ取るかは分からないが、一花なりのアドバイスなのだろう。
そんな時、徹は静かに聞いていて、話が終わってから一言笑顔で感想を述べたりするくらいだった。また徹の言葉で一花の顔に笑みが浮かぶのだった。

徹には最初の頃から心優しい。最初の頃から徹を気に入っていた事もある。
無論、それは恋心とか言うものではない。
一花は徹に一目でも会えればそれで何となく幸せな気分になった。かといって傍に置いておきたいという欲求は抱いたことは無い。
 実際に忙しい時に徹から連絡があっても、嫌な気持ちになったりはしなかったし、まして迷惑だと感じた事も無かった。素直に嬉しいと感じた。心が和む。
それにある程度連絡が無かった時には一花から連絡を入れていた。
「最近何してるの?」と。
今でも、徹は癒しの存在なのに変わりはないのだ。
彼の雰囲気も笑顔も声も、だ。
ぎすぎすしている時でも、彼を感じると不思議と和いでしまう。
一花にとって徹は不思議だけど特別な存在で壊したくも汚したくも無い存在だった。
 多分、徹にとっても似ても非なるものであっても、「一花お姉さん」の存在を好意的に受け入れてもらっている、と一花なりに解釈していた。
 今の、例えて言うなら、ぬるま湯のような関係が居心地良かった。
これからも暫くは続いてくれたら良いと願ってしまうほど。


 アルコールを何杯飲んだろうか。ふとそう思って指折り数えてみた。
丁度それは徹が席を外している時の事だった。
「……え、と、5杯目、かな。これ」
するとカウンターの中から声が飛んできた。
「いえ、6杯目ですよ、一花さん」
「あら?そうだった」
「はい。彼、いい子ですね」
「え?うん、いい子でしょ。昔からそうなのよ」
嬉しそうな顔で言った一花に、店主は笑顔で言った。
「分かります。いつも前で待ってますよね。中に入って待とうともしない」
「真面目なのよー。真面目じゃない面もあるんだけどね」
「ふふ。次からは中に入って頂いて結構ですよ。お一人で飲みに来て頂いても」
それに一花はにっこりと笑顔で言った。
「ありがとう」
 ゆっくりとグラスを口に運び、こくんと少しを喉に流すと、たそがれる様に視線を落とした。微笑を浮かべたままの一花はまるで夢を見ているような表情でもあった。
 店内のざわめきに耳を傾けていた。今のこの空間がまるで別の世界の様に感じて何だか楽しく感じていた。
何の不満もなくこのまどろみに身を任せてしまいたくなるような……。
「大丈夫?」
席に戻ってきた徹の声だった。
いつの間にやら閉じていた目を開けて口を開いた。
「うん、ちょっとぼーっとしてただけ。そろそろ行こうか、いい?」
「うん」
 店を出て並んで道を歩いていた。
自分は普通に歩いているつもりでいたが、気がつけばどこかふら付いているのに気づいた。
ここ数日間の疲れが出ているようで、自分ももう若くはないんだな、と感じる瞬間だった。
「徹ちゃん、腕貸して」
隣にいる徹に素直にそう言っていた。
徹は笑顔で応えている。
仕事中はかけているメガネも今は胸ポケットに仕舞っていて、天然の魅力が前面に引き出されている。いつもより傍に感じる可愛さに心がくすぐられてるような気分だった。

「そう言えば、いつも控えめだよね?」
「え?何が?」
突然の一花の問に徹はそう言葉を口にした。
ちゃんと気づいているのよ、とでも言うように一花は言う。
「お酒。普段はもっと飲んでるんでしょ?」
「え、……あー。会社で新人は嫌というほど飲まされるから、一花さんといる時は程々で」
「遠慮しないで飲んでいいんだよ?」
「遠慮してる訳じゃないんだけど、一花さんが満足するまで付き合いたいし、……酔っ払うとなりたくない自分になってしまいそうで……」
「全然平気だって」
それには困ったような微笑を浮かべて徹は口にする。
「そうだといいな、と思う反面、本当にそうだと困ると思うし……。なんて、意味通じないよね?」
徹の本当に言いたい事が分からない一花はとりあえず笑顔を向けた。
徹の表情に変化は見られない。とりあえずのそれに分かっているのか、分かっていないのか一花には判断つかなかった。
すると、徹はため息を一つ吐いて参った様に言った。
「本当、大人``な人だよね。一花さんって」
その姿に思わず一花は借りていた腕に抱きついた。
「徹ちゃん可愛い」
「えっ、あっ、……!」
あっという間に頬が赤く染まった徹に尚一花はたまらない気持ちになった。
それを行動に移したら怪しい人になると思いどうにか押しとどめた。
「ホントおねーさんがお持ち帰りしたいくらいね」
「……たまらない事言うね、もう」
少しは困っているけど本気ではない様子で。そしてちょっと拗ねた様子でそう言った徹。
「徹ちゃんって、可愛いから何でも許せちゃうのよね」
上機嫌な笑顔と言うのか、酔っ払った笑顔というのか。一花はそんな表情だった。
徹は進行方向をじっと見ながら、大きくはなかったがはっきりとした声で言った。
「……それ、覚えとくよ」
「……あ、可愛いって言葉、嫌だよね。ごめん、すぐ出しちゃうから」
反省したように言えば、徹は顔を向けて訊いた。
「それって、いつも?」
「可愛いって徹ちゃんに言っちゃうの。つい」
「俺にだけ?」
「うん、そう」
「じゃあ許します。俺にだけなら」
「はい、徹ちゃん限定」
「許可します」
少しだけ可笑しそうに一花が笑うと、徹は微笑んで見ていた。
楽しい気分のまま一花は歩いていた。徹の隣を、徹の腕を軽く持って。
緩やかに感じるその時間だった。
 雑踏のような人の中から声が飛んできた。
「秋山チーフ?!」
「え?」
その声に即座に反応した一花はするりと手を離し振り向いた。
「やっぱりチーフ」
相手は会社の女の子だった。恋人と一緒の所だったらしい。
一花はすぐしゃんとした様子で声を出した。
「こんばんは」
にこりと向けた笑顔に男性はぎこちなく会釈した。彼女の目が抜け目なく徹を見たのにも気づいている。
「丁度雨が止んで助かったね」
「そうですね。チーフは今日は?」
「うん?ちょっとほね休みに付き合ってもらってたの」
そう答えたところで、ずっと目を向けていた彼女に徹は顔を向け目が合ったらしかった。
徹がぺこりと頭を下げると、彼女はなんとも言えない笑みを浮かべていて頭を小さく下げていた。
その様子を目にしながら、一花は頭の片隅で思った。


  やっぱりジム通おう。


歳の近い人たちが並んでいるこの光景。自分と徹が立っているよりきっと違和感がない。
それは無言のメッセージを感じているようだった。
 そんな事を考えていても、顔にはまったく出ていない一花は笑顔のまま言った。
その後、お互いの連れの紹介に移ろうとした彼女を察していながら。
「じゃあ又会社でね。明日に疲れ残さないように」
「あ、はい」
「じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
そう言葉を交わすと一花は振り返り徹と共に歩き出して行った。
「会社の子。一緒にいた人は恋人みたい」
「そうなんだ」
取り立て何も気にした様子はなく徹は一花の隣にいた。
駅の構内に入り口にする。
「どこで降りるんだったっけ?」
「……一花さん、家まで送るから」
「え?大丈夫よ。そんな事したら徹ちゃんが家に帰るの遅くなっちゃうじゃない」
「ちゃんと送ります。これでも一応男ですから」
何かを言おうと思った一花だったが、そう言った徹の気持ちを踏みにじってはいけない気がして一旦口を閉じ言葉を出した。
「はぁい、ありがとうございます」
それを聞いた徹が浮かべた笑顔を見て、一花はそう返事をして良かったと思った。
 一花の住むマンションへと向かう駅に到着した頃、足を引っ掛けた一花をさっと手を差し伸べてフォローした徹は声をかける。
「大丈夫?」
「うん。……あー、なんかすっごい酔いが回ってきた……」
「え?」
「もうすぐ家だと思ったら安心してどっと押し寄せてきたのかな?」
「前はもっと飲んでも平気だったのにね」
「うーん、最近仕事で疲れてるのかな。やぁねぇ、年取ると回復力も低下して」
「疲れてる時は誰でもそうだよ。一花ちゃん、最近そればっかり気にしすぎだよ」
「だぁって」
「何?」
「徹ちゃんが若すぎるのがいけないのよ」
「そんな事言われても。……そんなにそれ気になる?」
いつもと比べてトーンが違ったのを察知して、一花は何気ないフリをしつつ言葉を口にする。
「……別にいいんだけどね。そのまんまの姿が好きだからー。問題は私よ、私」
「……それこそ大丈夫だと思うんだけどなぁ」
遠くを見遣るように空を見上げた徹だった。
 一花は徹の腕にぎゅっと抱きつくようにして顔を寄せた。
それに顔を向ける徹。見るからに一花は酔いが回っている様子だった。
そんな一花が顔を伏せたまま言葉を放った。
「世の中うまくいかないね」
「な、にが?」
「いろいろと。時々やるせなくなって家に閉じこもりたくなる」
そう言っていると、そのまま徹の腕に縋りつきたくなる気持ちになった。
けれど、徹はいつも嬉しい事を言ってくれる。
「じゃあ、そんな時はいつでも呼んで。何でも付き合うよ」
「わぁありがと」
普段より笑顔が柔らかい。それを知っているのか徹は微笑んでいた。
 マンションに辿り着きエレベーターに乗る。密室で二人は静かだったが、様子に変わりはなかった。
徹は、部屋の前に辿り着く数歩前で静かな声で言った。
「扉開けて中入ったら、ちゃんと閉めて、鍵もしめてね」
「はい」
笑顔のまま柔らかく一花はそう返事をした。
それに対し徹の笑顔はいつもとどこか違っていた。
扉からわずかな距離を残して徹は足を止め一花を見る。
すると、一花は自然に徹の腕から手を離し顔を向けた。
「徹ちゃん、ありがとう。気をつけて帰ってね」
「うん、またね一花ちゃん」
「うん」
にこりと笑顔でそう返事をすると、鍵をガチャリと開けて扉を開ける。
そして、中に入って体を徹に向けると、バイバイと手を振りながら閉めていった。
徹もそれに笑顔を浮かべて手を振り返す。扉が完全に閉まったところで手は止まり、笑顔も消えた。
そして、静かな底に響く鍵の閉まる音。
手を下ろした徹は、深く息を吐くと引き締めたような顔をして帰路についた。




仕事の方は今の所落ち着いていた。だが、定時を過ぎても一花のデスクは片付く様子がなかった。少し悩んだ顔でペンを指先で揺らしている。
「うーん……」
「チーフ、眉間にシワ寄ってますよ?」
女性社員の言葉に目を向けると、瞬後にぱっと隠すように手を当てた。
その仕草に思わず笑いをこぼしてしまった社員に、一花は照れた笑いを浮かべた。
そんな反応が一花の好かれる所でもあった。
 そこに他から声が飛んできた。
「チーフ、今日皆で食事行くんですけど、一緒にどうですか?」
「食事ねぇ」
その言い方は、他に用事がある訳でもなく全く行く気がないというものでもなかった。
行こうかどうしようか悩んでいる様子に、他の子も言ってくる。
「そうですよー。たまには構って下さいよー」
一花はふっと笑みを浮かべると言葉を口にした。
「そうねぇ、久しぶりに行こうかしらねぇ」
「わーい、やったー」
それに思わず笑みを浮かべた一花だった。
 殆ど毎日仕事で一人でも居残るか、徹と夕飯を食べに出ているか、そうでなければ帰宅してから仕事をしているかで、こうやって飲みに行くのは久しぶりの事かもしれない。


  まぁ、最近は徹ちゃんも忙しくなってきたみたいだしね……


 そして、切りの良い所で仕事を切り上げてから一花はビルを出た。皆より一足遅れて場所に向かう。
「あ、チーフ、こっちですー」
店に入った姿を見て、一人の女性が声を放った。
すぐそれに気づき、応える様に小さく手を上げ一花は笑顔を向けた。
その席に足を向け、空いている椅子に腰を下ろした途端、向かいの席に座っている人間から声がかかった。
「やー、遅かったねー」
その声の主に顔を向けてみて、一花の表情はすぐに変わった。
それは神崎だったからだ。
「え?あんたも来てたの」
そう思い切り嫌そうな顔をして言った一花に、神崎はがくっと頭をたれた。
「お前ホント愛想なしだな」
「あんた相手に愛想あってどうすんのよ」
「……そこまで徹底しなくてもいいだろうが」
再び反論の口を開こうとした時、弾むような声が飛んできた。
「わー、やっぱり二人ってそういう間柄だったんですねー」
「普段から空気違いますもんねー」
「お似合いの二人だからー」
矢継ぎ早に投げられた台詞に一瞬思考が止まった。
「……は?」
頭になかった言葉達に、一花は固まった表情でそう一声だけ漏らした。
「チーフも、最近やけに楽しそうだし」
「そうそう、なんか雰囲気が華やいだというか」
「え?そう?」
そう期待を満ちた顔で訊いたのは神崎だった。
それに女性達は笑顔で頷いた。
笑顔で口を開こうとした神崎に、嫌な予感を感じた一花はおしぼりを神崎の顔に押し付けて口を閉じさせてからきっぱりと言った。
「安心して、神崎とは皆が思っているような間柄じゃないから」
「でも、神崎さんが来てから、チーフが変わったような気がして」
大いなる誤解に即座に口が動く。
「いえ、ストレスが増えただけです」
きっぱりと言い切った一花に、恨みがましい顔をする神崎がいた。
一花は全く動じず、平然とした顔をしている。
 それから神崎の事は置き去りにしてその場は新しい話題に変わっていた。
彼女たちがする話に、一花も笑いを見せながら話を聞いていた。
そんな時、携帯にメールが着信されて目を向けた。
それは徹からだった。

〔やっと仕事終えたよー(*´Д`)=з一花さんは?〕

徹のメールを見ただけでも自然と一花の表情は柔和になった。
そしてすぐに返信した。

〔今日もお疲れ様!私は、今日は終わらせて外だよ。徹ちゃんもちゃんと晩御飯済ませるのよ〜〕

いつもならすぐカバンに仕舞う二つ折りの携帯電話を畳むと、テーブルの手前に置いた。
そして程無くして徹からの着信に電話が鳴る。
一花は電話を手にすると、店の出入り口へと行き電話に出た。
「もしもし」
「あの、メールで外だってあったから」
一花からすれば、電話に出た瞬間聞こえてきた徹の可愛らしい口調。それに機嫌指数は上昇する思いだった。
「うん、会社の子達に誘われてね、飲みに来てるの」
顔も笑顔、声も笑顔で一花はそう言った。
「会社の人?」
「うんそう。殆ど年下の女性社員で、……徹ちゃんの方が歳近いかな」
「へぇ……。じゃあ今日は」
徹がそう言った時、心の中で不思議な感情が湧き出たのを感じたが、それはすぐ塗り潰された。いつの間にか横に来ていた神崎がいたのだ。
「おーい、相手誰だよ。何してんだー?」
「あ、ちょっと!」
思わず受話器を自分の胸元に押し付けた。神崎の声がそれ以上聞こえないように。
「見て分かるでしょ、電話よ。何しに来てんのよ一体!」
「敵情視察」
そんな神崎の言葉さえちゃんと聞かずに一花は言う。
「又誤解されるから席戻って」
無理矢理押しのけると慌てて電話に出た一花。
「ごめんごめん、で、何だっけ?」
受話器の向こうから、数瞬の間があって徹の声が聞こえてきた。
「うん、一花さんと仕事している人見てみたいし、行ってもいいかな?」
「あ、……うん、皆いいと言うと思うけど、ちょっと待ってね」
一花はそう言うと、席に戻り女性達に聞いてみた。皆笑顔で快く返事をしてくれたのを見て徹に場所を伝えた。


  私がいるところだから……?
  やっぱり、歳の近い子と知り合いになりたいのかもね。


そんな事を思いながらグラスを口に運んだ。
真っ直ぐに向けられる視線に気づき目を向けて見れば、向かいに座る神崎がじーっと目を向けている。
一花は自然とむっとした表情で言っていた。
「何よ」
「別に」
無愛想に言ったその言葉に、一花は何も返す事無く視線を逸らしただけだった。
「今から来る人、どんな人なんですか?」
隣に座っている女性が訊ねてきた。
「んー、ちょっとした知り合い、というか、まぁ親しい友人というか」
「付き合い長いほうなんですか?」
「そう、ねぇ。5年位かな」
「へぇ、チーフのそういう話聞くのって初めてですね」
「そうなのかなぁ」
「はい、そうです」
にこり、と穏やかな笑みで言った彼女に、改めて自分の事を顧みた瞬間だった。
 それから暫しの時間を経て、再び一花の携帯電話が着信に鳴った。
相手は徹で、近くまで来たというので一花は店の外に出て行く。そして、徹を連れて席に戻れば、皆の表情が驚きに変わっていた。
中からには「かわいい」という声も聞こえてきた。ついこの間まで学生だった空気は早々消えないものらしい。
徹は苦笑すると示された席に腰を下ろした。
 この様子を見るからに、一花の知り合いは女性だと思っていたに違いない。
ぎこちない空気が流れていたのは最初だけで、すぐ女性達は徹を質問攻めにしていた。
一花は苦笑しつつグラスを口に運ぶ。彼女たちのパワーに圧されているのが分かる様子の徹だったが態度は至って真面目だった。
けれど、彼女たちと一緒にいる姿は何も違和感を感じさせない。
きっと、これが自分となら、見る人が皆感じるのだろう。
この齢の間には誤魔化せない若さと老いがあるのを一花は感じていた。
一人静かに考え事をしながら飲んでいると、いつの間にやらグラスは空いていた。

 その場から休息を得るように徹はお手洗いにと席を立った。
姿が見えなくなってから彼女たちは言葉を交わす。
「ウブな反応が可愛いね」
「うん、堪んないというか、なんというか」
「ちょっと誘ってみようか」
「そうだね、遊んでみたいね」
 それを聞いて、一花は下に置いたメニューを見つめながらはっきりと口にした。
「それは許可出せないかも。遊びではダメよ」
「え?それって……」
「あ、実は神崎さんは目くらましで、本命は彼?」
彼女たちの言葉に、一花は動じる事もなく一笑した。
「それは保住君に失礼でしょう。……それに、彼には決まった子がずっといるから」
「その子を見たことあるんですか?」
「何回かチラッと見たことあるよ」
神崎はそんな一花の様子をずっと眺めていた。
彼女たちは口を噤み止める気持ちになったようだった。
 何も気にした様子を見せることはなく、次のドリンクを決めた一花は徹が戻ってきた頃にお手洗いにと立った。

 お手洗いから出た所は、他にもちょっとした身支度が出来るくらいのスペースがあった。
そこに、神崎が一花を待っていたかのように立っていた。
その姿を見て、一花の足は思わず止まった。顔も幾分怪訝そうだ。
それに構わず、神崎は言葉を口にした。
「意外だったよ。見た目も地味であんな青二才を庇うなんて。付きあってんなら今のうちに止めとけよ」
何を言うのかと思ったら、と最初は驚いた顔をしていた一花だったのに、すぐさま表情が変わった。神崎の言葉に、一花の中で怒りが沸いた。
表情さえもいつもより鋭いものになった。
「彼はわざとああいう装いをしているの。あんたにそこまで言われる言われはない。そんなつまらない事ばかり言うんだったら、もう話しかけないで」
そう言って一花は席に向かって歩き出した。だが、ちょっと進んだ所で足を止め振り向いた。慄然とした顔で。
「彼に余計な事言うんじゃないわよ。大事な人だから」
そうとだけ言うと、神崎の顔も見ずにさっさと歩いて行った。
だから、神崎の酷く驚いた顔を一花は知らない。


  徹ちゃんに何かあったら、次こそ郁郎に本気で怒られるわ。
  何を捲くし立てられるか分かったもんじゃない……。
  郁郎も、昔から徹ちゃんにだけは違うのよね。
  大事にしてるのが分かる。だから、こっちも変なところで気を使うのよ……。
  お姉さんであるようにと。


まるで自分に言い聞かせるように言ったその心の台詞に含まれている自分の気持ちを一花自身は気付いていなかった。

テーブルでは一花お気に入りの居酒屋が話題になっていた。
「前、雑誌に載ってたの見てねー、いい感じだった」
「へー、やっぱチーフお気に入りだけあって」
「懐かしい雰囲気はあるんだけど、大衆臭さはなくて。お洒落なのに気を張るものがないというか」
「え?連れて行って貰ったの?」
「ううん、雑誌に載っていたのを見ただけ」
「それって、霽月の事ですか?」
話を聞いていて、一花がよく連れて行ってくれる店を思い浮べた徹はその店の名を口にした。
「え?保住君も知ってるの?」
「ええ、何回か連れて行ってもらった事があるんで」
その台詞に彼女たちは一瞬固まっていた。
誰が何度頼んでも連れて行ってもらえないその店に徹は幾度と行っていると言う。
その事実は大きな意味を成し得る。
「そうなんだー。すごいねー」
感心した表情とその言葉が返ってきた事に徹は戸惑っている様子だった。
「どうしたの?」
席に戻ってきた一花は、徹の様子を見てそう声をかけた。
顔を向け一花の存在を確認すると、徹は何でもないというように笑顔を向けた。
だが、その笑顔がすぐ消えたのに一花は気づいた。
不思議に思いながら席に座り、何気なく徹の視線の先を確認する。
一花が立っていた所の後方には、戻ってくる神崎の姿があった。
その顔をちゃんとは見ていないが、大体は想像できた。大人気なく攻撃的な表情をしているのだろう。歳若い徹に。
その威圧に徹は笑顔を消したのを目の端に捕らえた。
 思わず深いため息を吐きたくなった。
そうするよりも、徹の事が気になって目を向けた一花。


  困った顔でもしていたら、それは私の責任でもあるから謝らなくちゃ。


そう思ったものの、徹の表情は意外にも何もなかった。静かな笑みを浮かべ料理に手を運んでいる。
一花は「あれ?」と思ったものの、「まぁいいか」とグラスに手をつけた。
今日はこの店だけで帰ろう、そう思いながら。


2006.9.15