オアシス


5話 綴られない綴らない

今日は珍しく、定時を過ぎても殆ど社員が残っていた。
今日中に済ませなくてはいけない仕事があったからだ。
 一花も机でパソコンの画面を見つめている。朝からずっと確認作業に追われていて席を離れる事ができなかった。
そこへ胸ポケットに入れている携帯が鳴った。
顔は画面を見つめたまま、手だけを動かして取る。
ざわついていたその空間は、何故だか急にピタッと静まり、そこにいる人間が一点に注目しているようだった。
そんな事は気にしない一花はそのまま電話に出た。
「はい、もしもし」
不気味に誰もが音をたてない。
そんな中、相手の言葉に耳を傾けている一花は構わず声を出した。
「今日はねぇ、まだ仕事でね。終わるまで帰れない内容なのよ。うん、その日は大丈夫。はーい、頑張るー。うん、ありがとう。じゃあ又ねぇ」
一花の顔には仕事では見せない笑顔が浮かんでいた。
電話を切りポケットに仕舞った一花はそのまま画面を見つめていたが、周りの様子に気づき顔を向けた。一斉に視線が集中されているのだ。
「ん?」
何?とでも言うような一花の反応だった。
すると、皆何もなかったかのようにそれぞれの仕事に戻っている。
いつもと変わらないはずの光景を数秒眺めてから一花の目は画面に戻った。
「……」
 能率の悪さを肌で感じている一花は、ぼそっと呟いた。
「この仕事が9時までに終わらせる事ができたら、晩御飯奢るんだけどな〜」
それまでの静けさはどこへ行ったやら……。急に活気付いて俄然やる気を見せた社員に一花は苦笑したのだった。

 その甲斐あってか、予定よりも早い時間に終わらせなくてはいけない仕事が終わった。
それからの段取りが早く、あれよこれよと場所が決まり、電話で予約を入れ人数分の席を確保し後片付けが済むのも早かった。場所は、会社から一番近い居酒屋。
皆が肩の力を抜いて雑談をしながらアルコールや料理を口にしている中、一花はその光景を微笑ましく思いながら、一人ゆっくりと料理を口に運んでいた。
そこへお手洗いから戻ってきた一人が横に来た。
「チーフ、一杯どうですか?」
その誘いに一花は答える。
「ううん、車だから」
「そうですか」
瓶ビールをテーブルに置き、彼女は一花の隣に座った。
 以前、徹と二人で帰っている時に偶然会った女性だった。
顔は真っ直ぐに一花を向けていなくても、この場には似合わない真面目な表情で口を開いた。
「先日は失礼しました。ゆっくりされている所に声をかけてしまって。後で無神経なことしたんじゃないかって反省しました」
その大仰な様子に、思わず笑みを溢してしまう一花。
「ううん。いいのよ。……一緒にいた子、どんな感じだった?」
まるで冗談でも口にするかのように笑みをその瞳に湛えて一花はそう訊いた。
彼女は一瞬躊躇った様子を見せたが、訊ねた本人を見てから素直に口にする。一花の様子が偶然会ったその時とは違って雰囲気が柔らかかったからだ。
「え、と、弟さんではないですよね?」
少し、様子を窺うような目線に一花はくしゃりと笑みを溢して言う。
「そう聞くって事は、そう見えるって事よね」
「いえ、そういう意味じゃなくて。まぁ勝手なイメージなんですけど」
躊躇った様子で目を向けたのを見て、気にしないで言って、とでも言うように一花は笑みを向けた。
「見た瞬間は素直に驚きましたけど、でもそれは、チーフにはこういう人が恋人に相応しいって言う周りの勝手な言い分があるからで」
「そっかぁ……」
一花はため息混じりに呟いていた。
「あ、でも、お似合いでしたよ」
その言葉には顔を向け笑顔で言った。
「社交辞令はいいのよ?」
けれど、彼女は真面目な様子で口を開く。
「いえ、そんなんじゃなくて。並んで立っている所見ていて、いい感じでした」
一人納得させるように言ったその彼女の様子に、温かい眼差しを向けながら言葉を口にする。
「ありがと。でも、彼はそんなんじゃないのよ。可愛い弟分なのよ」
「んー、でも話を聞いてみるに、実の所は違うのかなとも思ったんですけど」
その台詞に違うニュアンスを感じて一花は顔を向けて言った。
一花が何かの特別な話をした覚えは無い。そう考えて思い当たるもの。
「話?もしかして、この間での飲み会での話がリークしてるの?」
その驚いた様子の一花に、彼女は戸惑いを感じたようだった。
「え、あ、その、実は神崎さんとは本当に何でもないんだって話で」
それにガクッとなった一花は参ったように言う。
「それは常日頃からずっと言っているのに……」
「そうなんですけどね。でも、神崎さんといる時のチーフって普段の顔とは違う姿だから。責任者の顔ではなくて、素と言うか。だから、皆想像を膨らませるんだと思います。神崎さんは違うんだって。あ、すみません、勝手な事……」
「ううん、いいのよ。まぁ、確かに神崎相手には好き放題言っているからね」
「けど、先日ご一緒だった方とチーフを見て、……お世辞抜きで、あの彼と一緒にいる時のチーフ、いつもとは違う感じに、神崎さんといる時とは違って、キレイでした。だから、神崎さんとは本当に何でもないのかなって」
その台詞には一花は笑みを浮かべず言った。
「……仕事が抜けている分、そう見えただけでしょう、きっと」
その反応を見て、女性は考えを巡らせ訊いた。
「チーフは、年下はダメなんですか?」
「んー、一言に年下と言っても、幅がねー」
「今時一回りくらい歳が離れていても驚かれない時代ですよ?」
「そう言うんじゃなくてねー。でも、そうだなぁ、男性が年上だったらまだ大丈夫なのかもしれないなぁ」
「何故ですか?」
「この年頃の女は面倒でダメって事ね」
自嘲気味に笑みを浮かべて、一花はグラスを口に運んだ。
 彼女からすれば、謎かけのような言葉たちだろう。
けれど、どの言葉も一花の心に潜んでいるものたちから形成されたものだった。
はっきりと形にはならないけど、霞のように漂う不安のように。
まるで、浮遊する思いは表に出ようとするのを憚っているようだった。




 土曜日の午後、客先での打ち合わせを終えた一花は晴れ晴れとした表情で腕時計を見た。
「よし。ジムに行くか」
機嫌よくそう言うと、車に乗り込み発車させた。

 体を動かしてかいた汗は気持ちよかった。
久々のこの感覚に忘れかけていたものを思い出したような気がして、思っているよりも老けてはいないのかもと思いもした。
 汗を掻いた後は大浴場に入り体をゆったりとさせて疲れを癒したり、他にはサウナやエステなどもあった。
一花は体をゆったりと伸ばして薔薇の湯に浸っている。
その表情は本当に気持ち良さそうで疲れなどを見せないものだった。
最近巣くっていた疲れの様なものが綺麗に洗い流されたような気分だった。
 モヤモヤとした気分の時は、何かに意識を集中させると気分が晴れて気持ちよく感じた。
まるで、そこでリセットできて次からは違う気持ちで新しい展開が始まるかのように。
本当はそれはその場限りで、問題は何も解決していない事を知ってはいるのだが、真正面に捕らえて深く追求できない。まだ若い頃は真面目に一生懸命に乗り越えようと努力をしたものだったのに。
 今の歳だからそうなのか、今の自分がそういう人間になっているからなのか、分からない事だけども。

その後、気分爽快でジムを後にし車に向かう道中、携帯電話の着信をチェックした。
「あ、徹ちゃんから着信あったんだ……」
他にも確認を終えたところで車に到着し、乗り込みエンジンをかける前に発信をかけた。
「あ、もしもし?」
「はい」
電話の向こうからいつも聞き慣れた声が聞こえてくるだけで、一花の顔に笑顔が浮かぶ。
「電話くれたんだよね。ごめんね、ちょっと出れない所にいて荷物ロッカーに入れてたから」
「ううん。大した用事じゃなかったんだけどね、無性にすき焼きが食べたくなって。だから、一花さん、一緒に食べよー」
陽気な徹の声に、一花は機嫌よく答える。
「うん、いいよー。今から帰る所だから……」
「あ、じゃあ材料買って行くよ。30分はかかると思うけど」
「大丈夫。それくらいだったら家に着いていると思うから」
「じゃあ行くね」
「うん、待ってる」
ニコニコと顔は笑顔でそう答え、お互い同時に電話を切った。
エンジンをかけながら一花は嬉しそうに声を出した。
「わーい、すき焼きすき焼き」
一人じゃない夕飯に喜びを感じながら。

長めの髪を一つに結った一花と並んで台所に立つ徹は真面目な顔をして野菜を切っていた。
台所の上にある収納扉を開けて数秒眺めていた一花は、表情を曇らせている。
「あー……、すき焼き用の鍋、なかったわ。……普通の鍋でやってもいいかな?」
「鍋?うん、いいよ。別に問題ないでしょ」
気にする様子を見せず徹はそう笑顔で言った。
「てっきりうちにあるもんだと思っていたら、姿見当たらないし……。……あっ、そうか」
それはまるで独り言だった。最後の一花の言葉に、どうしたの?と言わんばかりの表情で見た徹。
それに一花は笑顔を浮かべて言う。
「あ、なんでもないなんでもない。ちょっとした思い過ごしだっただけだから」
「そう?」
そう答えて徹は笑顔を向けた。
 ガスコンロでぐつぐつ言わせている鍋から、菜箸で取った肉を口に入れた徹は、納得いかない顔で口を動かしていた。
「うーん、何が足らないのかなぁ。はい、一花さん、あーん」
流しで茶碗を洗っている一花に、新しく肉を取って口に運ぶ。
それに一花は素直に口を開けて受け取った。
味を確かめるように視線を上に向けつつ口を動かしている。
「んー、ちょっと砂糖が足りないかもね」
「砂糖かぁ。どれくらい?」
「そうだなぁ、大さじ半分」
「了解」
一花の言う通りの量を入れ、鍋を傾けて全体に行き渡らせてから再び味を見る。
「うん、できた」
納得顔の徹に、隣で一花は微笑を浮かべた。
 出来たそれをリビングのテーブルに運ぶと後はもう食べるだけに準備が出来ていた。
二人は向かい合わせでは座らず、角を挟んで座っている。
徹が卵を割り中身を器に入れたところで、カラ入れ用の器を差し向けた一花。
「ありがと」
笑顔で礼を言い、それに卵のカラを入れる徹。
相手に向ける些細な気遣い。だけど、その場の空気は穏やかで時間の流れもいつもと比べてゆったりしているように感じていた。二人でそうしている事はとても自然の事のように。
美味しくできたすき焼きを二人で楽しそうにお喋りをしながら食べている。
「仕事場の人に慕われているんだね」
器に鍋の中身を入れながら徹は言った。
「え?慕われているかは疑問だけど、皆嫌な顔しないで相手してくれるよ」
「はは、一花さんが何度か席を外している時も、一花さんの話出てたよ?」
「え?仕事でストレス貯めさせすぎかしら?」
「違うって。俺、反対に聞かれたもん。仕事でダメな人の話とか聞いた事ありますかって。一花さんに嫌われでもしたら会社辞めるとまで言っていた人がいたよ」
「え〜?」
そう言った一花の顔が赤く染まっていった。
夢にも思わないその話に、恥ずかしさが込みあがってきてどう反応してよいか分からないのが素直な所だった。
それを知ってか、徹の顔はにこにこと笑顔で満たされている。
「徹ちゃんにそんな事言われちゃうと真に受けちゃうよ……」
ぽつりとそう溢した一花は、照れ隠しに視線を逸らしていた。
「へへ」
嬉しそうに笑みを溢す徹だった。
そのまま鍋に目を向けてやり過ごすように器に入れている一花を見て、徹の顔が俄かに素になっていた。口元には一瞬の躊躇いが見えたが、すぐ口が開いた。
「じゃあ……、話を変えよう。あの人、神崎さんて言う人、一花さんと何かあるの?」
「……え?あれは、周りが勝手に騒いで誤解しているだけの人物だよ?」
全く頭にない事に、一花の顔はきょとんとしている。
それを見て、徹は笑顔になり口を開く。
「一花さんって、どこにいっても騒がれちゃうよね」
「うーん?そうなのかなぁ?自分では気にしてないからなんとも……」
「一花さんが学生だった時の男友達は、実は皆必死だったんだって。だから、隙あらば郁郎に聞いていたんだって。一花さんの交際情報を」
「ええ?そうだったの?初めて聞いたそんな話……」
「俺らが高校の時、お弁当届けに来た事あったでしょ?」
「うん。その後大変だったのよー。郁郎に散々怒られて」
「うん、すんごい注目浴びてて、誰のお姉さんだって凄い騒ぎだったからねー。残念にも俺はその話だけを聞いたもんで、どんな人なのか分からなかった」
「うーん。時に年上って重宝されるのよね」
斜め上を見上げながらそう言った一花。
それを聞いて徹は小さな声で言った。
「まぁそれだけじゃないとは思うけど」
それは一花の耳に届いていないようだった。
「それから郁郎ってばうるさく言うようになっちゃって。忘れ物しても学校には届けに来るな、とか。外で会っても声はかけるな、とか。そのくせ妹の方だったらいいって言うんだから可笑しな話よね」
「まぁ郁郎なりの予防策だったんだと思うよ」
「んー?」
意味が分かっていない様子の一花の表情だった。
 それからふと目を向けた時、徹は視線を落として何かを考え込んでいるようだった。
「どうしたの?」
深くを考える事無く一花は聞いた。
それに徹はすぐ顔を上げ、いつもの表情で答える。
「あの神崎さんていう人、ハンサムだよね」
それに一花は無表情に沈黙した。
「一花さん?」
「あ、……ハンサム、なのかねぇ。周りの子の言い方を聞いていたら、そういう事なのかな。考えた事なかったから。私はあんまり範囲外については何も思わないもんで」
「結構シビアと言うか何と言うか……。そうかぁ、あの人は一花さんの好みの枠には当てはまらないんだ」
「まぁ、そういう事ね」
「一花さんがカッコイイとかって思う人ってどんな人?」
「うーん?そうねぇ……」
「過去にいた?」
「あー……、いた。一人いた。高校の時の、1コ上の先輩。私の人生ではそれくらいよ」
「へー」
他愛ないお喋り。緩やかに流れる時間。穏やかな心。
一花は何とも言えない幸せに包まれていた。
徹から紡ぎだされる言葉たちに深い何かを考える事はなく、又自分の中で生じる気持ちに心を傾ける事もなく、平穏な日常が今も変わらず続いているんだと信じて。

 食事を終え片付けをして一人キッチンに立って洗い物をしている一花が、リビングに顔を向けた時、徹は横になっていた。
濡れている手をタオルで拭ってからリビングに行き、そのまま奥の部屋に進む。
クローゼットを開けて薄手のかけ布団を取り出すと、それを徹にかけてやった。
徹は横向きになったまま静かだった。
テレビを眺めているうちに日頃の疲れで眠ってしまったのだろう。
 徹の寝顔を眺めていると、言葉にならない感情が湧いてくる。
温かい何かが胸の中に広がるような感じだった。
それを感じながらも一花の目は徹を映している。昔のよりも男っぽさが彼の表情にあった。
一花はそっと手を伸ばし、額にかかった前髪を流すように優しく撫でた。
いつの間にこんなに成長してしまったんだろう、という親心にも似た思いが湧いた。
温かい徹の頭に何とも言えない感情が広がる。
不意に湧きあがった思いを打ち消すように自嘲気味に笑みを浮かべると、その場を立ちキッチンへと向かった。


  下の歳の子から見れば、5,6歳差は何でもない事の様に思えるかもしれないけど。
  ……これが、男女反対だったら、思うほど何でもない事なのかもしれない。
  女の、この歳で特別に付き合うという事は、それなりにいろんな事を考えてしまう。
  例え、言葉に出さなくても、頭の中では色々と計算が働いてしまう。
  社会人になりたての、このくらいの年頃は、そんな打算とかなくて、この先の事なんてあんまり考えないだろうし……。
  ズレは、どうしても生じてしまうだろうから。
  若い子と付き合うには、私には覚悟も度胸もない……。
  ……なんて、何を考えてるんだろう。私ってば。


けれど、徹の存在を同じ空間に感じて、徹の意識がそこになくとも、一花の心には穏やかなものが流れていた。今が在ればそれでいい。そう自分に言葉を向けて。

徹の手はすいっと動き、一花が手を乗せた部分に重ねるように置き、くしゃっと髪を握った。目は瞑っていても、どこかつらそうな表情だった。
リビングに背を向けて立っている一花には、知り得ようのない事だった。




「ふぅ……」
浮かない表情をしている一花の口からため息が零れていた。
肘をついている腕で、手に額を乗せ目を伏せた。
漂うのは沈黙ばかりで新しい動きさえ見えない。
 頭の中にはいくら考えても仕方のない事がぐるぐると回っていた。
前までそんな事はなかったのに。
「どうしたんですか?難しい顔して」
料理一品を一花の前に出しながら霽月の店主は訊いた。
一花はグラスに手を伸ばしながら口を開く。
「うーん。別に何かがあった訳じゃないんだけど、……こう心境的に」
先程と変わらない表情のまま言った一花だった。
 ぼんやりとしたまま料理を口に運ぶ一花の姿は時間と戯れている様に見えた。


  あー、ダメだなぁ……。
  最近、一緒にいるのが楽しくて仕方がない。
  楽しいから次を期待してしまう気持ちがある。
  今の幸せになれて来たら又新しい次を望んでしまう自分がいる。
  ちょっと、近づきすぎたかなぁ……。やばいなぁ……。


そう思ったところで、頭に徹の顔が浮かんだ。最近見せる笑顔は以前より目を奪われてしまう。


  ああああ〜〜。……たまんないなぁ。


つい先ほどまで考えていた事は一瞬にしてどこかへ飛んでいってしまった。
 考える事は無駄だったとでも言うように、がっくりと頭を下げ沈黙した。


  まぁ、いいや……。


 店の戸が開く音がし、店主は顔を向けると笑顔で挨拶をした。そして、一花に顔を向けると変わらぬ表情のまま言った。
「いらっしゃいましたよ」
「え?」
その声に、何の事だろうと顔を上げた一花は、店主が視線で指す方に目を向けた。
「一花さん」
そこにいたのは笑顔でやってきた徹だった。
スーツ姿のメガネをかけた、仕事帰りの格好だった。
「あ、……れ?」
今日、約束してたっけ?そんな言葉が顔にありありと書いてあるようだった。
徹はそれを理解しているのか笑顔のまま、隣に向かいながら言った。
「もしかしたら、いるかなぁと思って寄ってみたんだ」
「大当たりだね」
「うん。仕事終わって帰ってる最中に閃いてね。一花さん今日歩き?」
「ううん、車」
「え?」
徹の驚いた顔を見ると、一花は楽しそうに笑みを浮かべて言った。
「ふふ。だから会社に置いてきた。帰りは歩きよ」
「あ、そっか。……びっくりした」
胸を撫で下ろす様子を見て、嬉しそうな笑みを浮かべた一花だった。
 椅子に座りカバンを置くと、数秒考え込んでから徹は言った。
「じゃ、帰り、俺が運転して送っていこうか?」
「え?」
「なので、今度家庭の味ご馳走して下さい。飢えてるんです」
その台詞に一瞬驚いた表情をした一花だったか、すぐ笑顔になって言った。
「いいよ、大して美味しくもないけど、私が作ったので良ければ」
「充分。じゃ、今日はウーロン茶にしようっと。すみません、ウーロン茶でお願いします」
店主に向かってそう笑顔で言っている徹の横顔を、一花は穏やかな微笑で眺めていた。
甘んじてそれを受け入れてしまっている自分を感じながらも、何故かいつものように言葉を切り返せないでいる自分を最近の不調のせいにして口を噤んだ。
 眩しいものを見るかのような一花の瞳に誰か気づいただろうか。


 気持ち良い位のほろ酔いで店を出た。外は小雨が降っていて、傘を差そうか悩んでいたら、自分の傘を差した徹が覆い掛けてくれた。それでも、自分のを差そうか悩んでいた。
「行こう」
そう言って徹は一花の背に回した手をそっと促すように軽く押した。
そのまま一花は腕を下ろし素直に足を進めた。
雨が降り、傘を差しているだけで、周りとはシャットアウトされているような気分になる。
隣にいる徹の肩が、男性のものに見えてしまって何だか苦しく感じた。


  なんだろう?
  淋しいんだろうか?それとも飢えてるんだろうか?
  だとしたら、……嫌だな。


思わず切なく苦しくなった胸に、一花は息をこぼした。
今自分がしている表情を徹に見られたくないと思いながら。

 隣を歩く徹は、通りすがりにあった店に目を向け一花に言った。
「あ、この店いい感じ」
その声に顔をあげて言う一花。
「え?」
「ほら、あそこ」
指差した方向に素直に顔を向けた。
途端、一花の表情が複雑に揺れた。困惑に染まった顔に一花自身気付いてはいるが回避する余地はなかった。
「うん、まぁいい感じの店よ」
「知ってるんだ」
「うん、……」
口が重くなると同時に、一花の表情も翳っていた。
そして、それが合図の様に、一花の心の中は曇っていった。
何かに囚われていく心は、殻にこもるかのように急速に沈んでいった。
そんな一花の様子を徹も感じているのか、一花の歩調に合わせて歩くばかりだった。
いつもの明るい声は発せられていなかった。
一花の瞳は違うどこかを見つめているようでもあった。


  不調な時って、嫌な事が重なるもんよね……。


 徹が指した店は、一花が良く知っていた店だった。
今はもう足を運ぶ事もない所。もう思い出に変わっているはずの場所。
なのに、徹に示された時、一花の心に動揺が奔っていた。
 それさえも偶然なのに、拭いきれないものが確実に生じている。
一花の胸は静かにも息苦しさを感じていた。

 大して言葉を交わす事無く、二人は進んでいた。
徹は一花が足を進める方向に上手く歩調を合わせていた。
そして、少しだけ長く時間を感じ始めた頃に、一花の車が止まっている駐車場に着いた。
そのビルは、日中に一花が仕事をしているオフィスがある所だった。
車の鍵を手渡してから一花はいつもより沈んだ笑顔で言った。
「ごめんね、よろしく」
徹はただ静かに笑顔を向けただけだった。

 車の中に流れるのはラジオの音だけだった。
勝手に耳に入ってくるDJの話に徹は一花にも問を投げた。
「何となくで付き合ったりとかした事ある?」
「んー、そりゃあ、この歳になれば数える位はあるかも。……でも後で後悔する。一緒にいればいるほど、一緒にいるのが嫌になったりとかするし、それに体が一番正直だしね」
そう言ってくすりと微笑した一花はいつもと違うように見えた。でも、一花の目線は前方に向けたまま。
運転をしながら、徹はそんな一花にちらりと目を向けていた。
「今は付き合ってないの?」
「今はねー、そんな気にもなれないし。と言っても、たとえ付き合いたいって言っても相手がいる事だから私一人が言ってても意味ないんだけどね」
「郁郎が来た時に話を聞いていたんだけど、……お見合いするの?」
その台詞に思考が一瞬止まった。けど、すぐ頭は動き一花は口を開いた。
郁郎が母親に持って行けと手渡された紙袋の中には、確かにお見合いの写真等が入った封筒が仕舞われていたのだから。
「母上が好きで寄越すだけだよ。結婚がしたいんなら、とっくにしてると思うんだけどなぁ。まぁ世話好きな人ってどこにでもいるからね。本当は妹の方に持って来たんだろうけど、もう結婚してるもんだから、じゃあお姉さんの方にって回ってきただけなのよ、きっとね」
ため息交じりで言った言葉に、徹は低くないトーンで言った。
「うーん、一花さんだったらかなりお声がかかってると思うよ?」
「どうだろー。でも、こういう事は縁の問題だと思うから」
「……そうだね」
真面目な顔をしている徹の横顔を見た一花は、冗談めかして訊いた。
「ん?何?徹ちゃんは結婚、考えてるの?相手、どんな子?」
すると忽ち徹の頬は赤くなってうろたえぶりを表に出しながら言った。
「え?あ、その、俺はそういう事じゃなくて……」
そんな反応に一花は静かに笑みを浮かべると視界に広がる夜の景色を眺めながら言う。
「……そうだよね。徹ちゃんの歳じゃ結婚なんてまだ実感湧かないでしょ。私もそんなだったから」
徹は静かな空気をただ寄せながら口を開いた。
「でも、そういうのって相手にも寄るんじゃないの?この人だったら結婚したいとか」
「あー、……そう、かもね。そうなのかもしれないな」
まるで自分に言ったような台詞だった。一花の目は遠い空を眺めていた。真っ暗で何も見えない空なのに。
静かでいて重い雰囲気を持った一花の表情に、徹は瞳を翳らせていた。
そして、訪れた沈黙に、徹はハンドルを握りながら訊いた。
「どうしたの?何かあった?……それとも、俺が何か嫌な事言った?」
隠そうとして、それでも声に出る不安がその台詞にはあった。
それを感じ取った一花ははっと気づき口を開く。
「あ、ごめん。そんなんじゃないんだけど……。ただちょっと」
「ちょっと?」
その台詞には続きを気にしながらも、言いたくなかったら言わなくてもいいよ、という徹の思いやりが入っていた。一花にはそれが分かっていた。
「自分の若い頃を思い出しちゃって、ちょっと反省というか」
「うん、……反省できる人は強い人だよ。弱い人は、流してなかった事にして知らないフリをするんだ。その点、一花さんは大人だよね。歳を重ねていても大人じゃない人はたくさんいるのにね」
そう言い終えてから、顔を向けてにこりと笑顔を見せた徹だった。
 一花の顔に笑顔が戻ってきた。
自然と滲み出る様な笑顔だった。
 小さな灯が燈った様な温かさを心に感じた一花は、花が咲き誇るような笑顔になっていた。
「徹ちゃん、ありがとう。何だか心が軽くなった……」
運転する徹の横顔に、照れが混じったような笑みが浮かんでいた。
それを目にしてから、一花は顔を正面に向け、呟くように言葉を口にした。
「本当に、郁郎の友達に勿体無いくらいの人ね」
「それは大丈夫だよ。俺ら結構支えあって生きてますから。タイプは違えど」
「ふふ。……いつも、こんな私につき合わせちゃってごめんね……」
赤信号で車は止まり、こちらに顔を向けた徹に気配で気づいた一花はそっと顔を向けた。
何か言いたげな徹の表情だったが、一花はただ静かに微笑を浮かべた。
 まるでそのまま遥か彼方へと想いを綴っているかのような微笑だった。
その他に一花の口から言葉が紡ぎだされる事はなかった。
 徹の表情が怪訝に染まる。だが、運転に気を取られその場は過ぎていった。
確実に分かる事は、一花の中に何かの塊が存在しているという事だった。


2006.9.30