オアシス


3話 心と言葉の挟間〜追想〜

 弟の郁郎に、徹との事でとやかく言われた事で、電話で話はするものの、会う事はしなくなっていた。
一花にとっては意味の分かっていない事でも、ただの難くせであったとしても、郁郎に言われてはさすがに姉としては気が引ける。
 結局は、一花は郁郎の姉であり、徹は郁郎の友達であるのだから。
郁郎抜きでの関わりを持っている訳ではなかったから。
長女の一花はそう思ったのだった。
だから、徹から電話があり、食事の誘いを受けても仕事を口実に断っていた。

「はぁ……」
仕事の合間に漏れてしまったため息に、思わずはっとした一花。
 どうもここのところ、調子が悪いわけではないのだがぱっとしない。
心が閑散としている。潤いが不十分というか。
アイディアが煮詰まったという様子で、ペンをこつこつと机にぶつける一花の姿を見て、他の社員達は俄かに不安そうな顔を浮かべた。
 そこへ空気華やかに男性が訪れた。
物怖じしない雰囲気で顔には笑みを浮かべ辺りを見回すと、役職が席を外しているのを見て真っ直ぐと一花の所へ歩いていく。
「よ。秋山、浮かない顔してんなぁ」
部屋に通る明るいはっきりとした声。
 一花は持っていたペンを離し机の上に転がすと、気の乗らない様子で頬杖をついた。
数秒の沈黙の後、今気付いたとでも言うように冴えない表情のまま目だけを向け口にした。
「……ああ、神崎か」
「……、ああって、お前……」
小さく息を吐いてから椅子に背を預けると、気だるい様子で口を開く。
「で何?こんな所で油売ってていい訳?」
「お前、そういう言い方はあんまりだろ」
「ん?」
何が?とでも言うように一花は返す。
「ようやっと、こっちに落ち着く事になったから歓迎会で飲みになど」
「普通、歓迎会って言うのは、当人が主催するものじゃないでしょーが」
「ま、そうだけどね」
「……ま、いいわ。とりあえず発起してあげましょ。参加するかは別として」
「なんじゃそれは」
「私も忙しいという事よ」
「なんだ?ちょっと俺が不在の間に新しい男でも出来たか?」
堂々とそう言った神崎の言葉に、その場に居た社員が注目した。
それを知ってか知らずか、一花は大仰にため息をつくと声を出した。
「なんでそれに神崎が絡んでくるんのよ。誤解されるからやめてよね」
「なんだなんだ、やけに冷たいね」
「前からこうですが?」
「そうだったかなぁ?」
「そうです。勝手に都合よく解釈しないで下さい」
「いい加減、ちょっとはこっち見てくれてもいいんじゃない?」
「……」
その台詞に一花は冷たい目を向ける。
「見てみたけど?」
神崎はがくっとうな垂れた。
 一花はその会話は頭の中でさらっと流し、神崎のリクエストどおり歓迎会の段取りをつけた。それを行なう日、一花の仕事はすぐに片付くようなものではなく、他の社員が周りにいない時間に机に向かっていた。
行なわれている酒宴が
たけなわ
であろう頃、電子書類に貼り付けるデータを保存している場所を思い出して声を漏らした。
「……あ、しまった。家のパソコンだわ」
本当にしまったという表情で片手をこめかみに当てた。数秒の沈黙の後、諦めたように息を吐くと一人呟く。
「仕方がない。帰るか」
そうして時計を眺めれば、もうそろそろ2次会へと話が出ている頃だった。
一花は気にとめる表情をする事もなく会社を出る支度をした。
 ビルの地下に行き、車に乗り込む。
今日は飲み会であるというのに、一花は車で通勤していた。
最初から酒を口にする気はなかった、という事だろうか。
途中で行く気になった時は、一旦帰宅してから向かおうとしていたのかもしれない。
 日は沈み、連なった車のテールランプが残像を残して動いていくからボーダー状に見える。そして、フロントガラスに音をたて当たっていく雫を目にして、一花はポツリと言った。
「梅雨入りか……」
その雨は短い時間の間に激しい降りにと変わっていった。

 マンションの地下駐車場に車を停め、濡れずにして一花は部屋へと行く。
エレベーターを降り、自分の部屋に体を向け歩き始めて、前方に顔を向け映った光景に一花は驚きの表情を浮かべた。
突然降り始めた雨に当たったであろうずぶ濡れの姿で徹が立っていた。
背を壁に預け、体を支えるように前に出された足。前髪からは雫が滴り落ちている。
身に着けているのは私服だった。
 そう言えば、今日は土曜日。徹の会社は休日だった。
もしかして、と、一花の頭にある考えが浮かぶ。でも、それを打ち消して徹の顔を見た。
 今まで見た事のない暗い表情。くすんだ目。
一花は胸が痛くなるのを感じながら声を出した。
「徹ちゃん?」
その声にビクッという反応をした徹は、そっと静かに顔を向けた。
何の言葉を発する事はなく、ただじっと見つめてくるだけ。
距離がなくなった所で一花は足を止め、そして又名を呼んだ。
「徹ちゃん?」
ただ、傷ついた顔で、縋るように目を向けてくるだけの徹に一花は困惑した。
そしてすぐ頭の中に考えが浮かぶ。
 仕事で何かあったか、彼女と何か揉めたか。
元気のない徹を見て、一花の体は動いていた。
家の鍵を出し開錠すると、徹の腕を掴み強引に中に入れた。
「雨に濡れたままじゃ風邪ひくから。ダメよ、自分の事大事にしないと」
玄関に入り鍵を閉めると、一花は急ぎ靴を脱ぐ。
そこに小さな弱々しい声が届いた。
「……うん……」
それを聞いて胸が掴まれる様な痛みを感じたが、一花は平生を装いつつも急いだ様子でタオルを取りに行く。
そしてすぐ徹の所に行き、頭にかけてやった。
「とりあえずこれで拭いて。今お風呂用意するから」
そう言った後の行動は早かった。
バスルームに行きお風呂の準備をすると、キッチンに行き温かいお茶の用意。そして、リビングに行くと、新しいバスタオルとパジャマを出してきた。
「はいこれ、タオルと着替えね。下着はお風呂入っている間に先に乾燥機にかけるから。パジャマは私のだけど男物だし大きさは大丈夫」
そう説明をしながらバスケットに入れ、次は温かいお茶を入れ徹に差し出した。
「はい、コレ飲んでお風呂に入る」
「……はい」
 そして、乾燥機を回し、その場所からキッチンに出た所で、動きを止めた。
「……ふー」
おでこに手をあて息を吐くと、思い出したように呟く。
「あ、パソコン。仕事の続きしなくっちゃ」

そして、何事もなかったかのように奥の部屋へと向かった。
とりあえず済ませてしまおうとしているものはすぐ終わる内容のものだった。
そして、済ませ終えた一花の手は、行き場をなくしたように動きを止めた。
 頭に浮かぶのは徹のことだった。
あんな様子は見た事がない。傷ついたあの顔を見た瞬間、胸に痛みが走ったかと思った。
郁郎の事を気にして、徹と会うのを避けていた事が悔やまれる。
 ちゃんと話を聞いてあげていたら、あんな顔をさせずに済んだかもしれないのに。
そんな思いが頭を過ぎる。
「ああ、もう……。郁郎のばか」
ぼんやりと思いながら、そう呟いた数分後、ぼうっとしている一花の携帯が鳴った。
我に返り、ディスプレィを見れば神崎からの着信だった。
「はいはい?」
大体の内容は分かっているのだが。
「ああ、居残って仕事はしてたけど?……ううん、やめとく」
二次会、三次会への出席を聞かれてそうはっきりと答えた。
電話をしながら、目の端には風呂から出てきた徹の姿に気付いた。あえて気づいた様子を見せる事はせず、一花は電話を続ける。
「私自身の都合よ。……それはご想像にお任せするけど。じゃ又」
相手の言葉を待たずに電話を切るとマナーモードにした。
「一花さん?あの、お風呂ありがとう」
元気がない声でそう言った徹に、辛さに苦笑してしまう自分を必死に堪えながら一花は言った。
「ちゃんと体温まった?」
「うん」
不安げで幼子のような表情をしている徹を目にして、一花はふっと笑みを浮かべた。

「何が飲みたい?ビールもあるよ。あと梅酒。普通にお茶も色々とあるけど」
「じゃあ……、梅酒、貰おうかな」
「うん、じゃちょっと待っていてね」
にこ、と笑顔でそう言うと、徹は小さく頷いた。
 キッチンでお気に入りの小さなグラスを出し、おつまみも用意しながら色々と思う。


  ああ、本当に落ち込んでるな……。
  しんどそうだし、口数も少ないし。


トレーに乗せ、一瞬の躊躇いの後、意を決したように気持ちを固めると、普段どおりの自分で徹の元へと戻った。
「はい、どーぞ。私が好きな梅酒だから、徹ちゃんの口に合うか分からないけど」
「ありがとう。いただきます」
そう言ってから静かに口に運び、梅酒を一口だけ飲み数秒してから言った。
「あ、結構いける。口当たりが良くて、なんか落ち着くかも」
「でしょう?お替りあるからねー」
「うん」
変わらない一花の笑顔に、徹は幾分安心したようだった。少しずつ口数が増えていった。
それでもやはり暗い表情は消えなかったが。
 例え少しでも徹に元気が戻ったのを見て、一花は少しだけでもほっとしていた。
人間誰しも落ち込むときはあるけど、徹のそれを見ると一花までも気分が滅入ってしまうのを感じた。だから、少しでも何かの力になれるならなってあげたいとも思う。それでも、自分からは何があったとかは聞かないのだけど。
「一花さん、お仕事大変、だよね。いつも遅そうだし……」
「うーん、帰宅は決して早い方じゃないけどねー。でもとりあえず、大変とは思ってないかな。慣れない頃は大変だったけど」
「疲れてるのに、ごめんね」
申し訳なさそうな顔を俯かせて徹は言った。
「徹ちゃんだから、いいよ」
「……本当は用事とかあったんじゃあないかな、とか思ったり。週末だし、カレと約束なんて……」
「カレ、ねぇ」
頬杖をついて斜め上を眺めながら一花は呟くように言った。
「電話してたでしょう?男の人だと思ったんだけど」
「ああ、あれは会社の同僚で、そんなんじゃないよ。周りの何人かはそう勘違いしている人もいるかもしれないけど、アレに限ってはねぇ」
「ふぅん?」
「徹ちゃんも誤解されないようにね」
「え?何が?」
「彼女にね。いくら友達の姉と言えども。徹ちゃんがお姉さんに思っていてもね」
「別に俺は、……そんな……」
困った顔になって、そう言葉を紡いだ徹。それからは彼の口からは言葉が出てこなかった。
それを見て一花はふっと笑みを溢し、口を開く。
「そんな話はいっか。テレビでもつけよ」
一掃するかのように空気を変えた。
徹は向けていた顔を戻し、口を閉じる。一花はテレビをつけ関心をそちらに向けた。




 一花が知る限り、郁郎と徹の付き合いは、高校で一緒になってからだった。
大学に行ってからも付き合いが薄れる事はなくずっと続いているようだ。

 一花が初めて徹と顔を合わせたのは家ではなく、仕事を終えての帰宅途中でだった。
 今の職場に来る前は、まだ家を出ていなかったから。
平日のとある日、弟の郁郎と偶然会った。
つまらなさそうな顔で佇むようにいる郁郎に声をかけた。
「あれー?いくちゃーん?こんなとこで何してんのー?」
公衆の面前でそんな呼び方をすれば嫌がるのを分かっていて呼んだ。
「ぅげ。なんでこんな所にいるんだよ?」
思い切り嫌そうな顔で答えた郁郎に一花はあっさりと言う。
「そりゃ仕事帰りだもん。通るよ」
「どーでもいいけど、外でそんな風に呼ぶなよ」
嫌そうな顔で言った郁郎に一花は呆れた顔で言う。
「なにかっこつけてんのよ、この間も振られた人が」
「ぅぐっ……!」
片思いの人に玉砕したらしい弟はそう言っただけで大きなダメージを受けたみたいだった。
だけど、必死の強がりを見せる弟。
「うるせーよ!ほっとけ」
「ふーん。ほっといていいのね?」
「え」
「本当にほっといていいのね?」
「え?なに……?」
「良い訳なのね?」
「……う、ごめんなさい」
「よろしい」
一花がそういう態度に出ると、郁郎は最後まで強気にいる事は出来ない。
一花の恐ろしさを身に沁みてよく分かっているからか、強気に出られると弱いからか。
弟を、今も変わらず懐柔している事を確認して、満足顔を浮かべた一花は言う。
「で、今日はコンパにでも行くわけ?」
「ちげーよ。友達と待ち合わせしてるだけだよ」
それは心外だ、とでも言うような郁郎に疑わしい眼差しを向ける一花。
「待ち合わせ、ねぇ?」
じろり、と頭の先から足の先までを見渡す姉に、たじろぎつつ言う郁郎。
「な、なんだよ?」
「……まぁ、コンパに行くにしては浮かない顔だもんね」
「だから違うって……」
まだ疑うのかとでも言いたげに声を出した郁郎。
 そんな感じで姉弟の会話をしていたら、恐る恐ると言った感じで声が割り込んできた。
「あのー……、すみません」
その人物に顔を向けた郁郎ははっと表情を変えて口を開いた。
「あ、悪い徹」
郁郎が待ち合わせていた友人に目を向けて見た一花ははっと口を噤んだ。
高校生のこの年代に言ってはいけない台詞だとわかっているのだが、頭は勝手に動いていた。可愛い!こんな子が弟だったら絶対メロメロになってた!愛くるしいはっきりとした瞳。形の良い好感の持てる顔のつくり。絶対将来有望!と。
「え?かの、じょ?」
たどたどしく一花を差して言う徹に、一花は嬉しさと恥ずかしさの混ざったような驚いた顔をし、郁郎は心底嫌そうな顔をした。
「姉貴だよ6つ上の」
「え?!6歳上?全然そんな風に見えない」
「お世辞はいーって」
何かを投げやるように言った郁郎。その時の徹は本当に驚いた顔をしていた。
郁郎の隣で一花は徹に笑顔を向けながら口を開く。
「ありがとー。郁郎には勿体無い友達ね」
「え?いえ、そんな……」
頬をほんのりと染めてそう口にした徹。
自分の弟では見られない可愛い反応に一花は微笑ましくなって自然と顔は笑顔になっていた。
それを見た所為か、徹の顔は尚赤くなった。
 数えるくらいの言葉を交わしてから一花は笑顔で手を振って二人と別れた。

つられるように笑顔で手を振っていた徹に郁郎は面白く無さそうに言った。
「俺んち来た時に何度か見てるだろ?今更……」
「え?今が初めてだよ?」
「え?そうだったけ?」
「うん。もう一人のお姉さんは何度か会ってるけど」
「あー、そうだったか」
「6つ上かー。きれいなお姉さんだな」
「まー……、それは認めよう」
そこは少し誇らしげに頷いた郁郎だった。
それを見て徹は意味ありげな笑みを向けた。
「ふぅん?」
「な、なんだよ?」
「別に?」
「気になるだろ、言えよ」
「じゃあ言うけど、お前上のお姉さん人に見せるの嫌がってるだろ?」
「え?そりゃ、自分の姉貴なんて……」
「餌にされたくないからだ」
「なっ……、べ、別に俺は……」
「どもってるぞ?」
「……っぐ」
そんな郁郎を見て徹は楽しそうに笑いをこぼしていた。


 それから休日の日に秋山家に遊びに来ることも増えて、一花と徹はいつも笑顔で挨拶を交わしていた。
家族が大体揃っている休日に郁郎が友達を家に招きいれる事は珍しい事だった。
平日の、家にまだ誰も帰宅していないような時間帯ならまだしも。
だから、一花は素直に思った。徹とは本当に仲が良いのだと。
時には夕飯を食べていく事があったし(それは母が強引に進めたのだが)、泊まりに来た事も何度かある。
泊まりに来た時は、兄弟揃って一緒にトランプをして遊んだ事もあった。大体次女が「遊ぼうよー」と言い出すからだ。
だが、一花と徹の距離は、今のようなものではなかった。
やはり、一花は年上、姉である分、気を張っていたからだろう。
 二人の間には見えない垣根が確固として存在していた。

 そして、二人が高校を卒業し、晴れて大学生となった。
その頃、一花は社会人として基礎を固め終え、戦力として使われだした頃だった。
 仕事場の付き合いで飲みに出ていた夜、二次会で向かったとある店で、郁郎がいない数人で居た徹の姿を見つけた。
「あれ?徹君?」
素面の時なら、そんな場所で声をかけに行くことなどしなかったはずだった。
しかし、その場での飲み会が楽しくなかったのと、アルコールの強い押しがあった所為か、一花は何も気にする事無くそこのテーブルに行ったのだ。
「あ、……」
呼ばれた声に顔を上げて、一花を見た途端徹は言葉を失っていた。
 徹が言葉を口に出すより早く、周りの友人が色めき立ったように声を出し合った。
「えー?なに?保住の知り合い?」
「まじで?こんなキレイなお姉さんと?」
「お前、どういった関係の人なんだよ」
次々に飛んでくる言葉に徹は声を出した。
「あ……、秋山のお姉さんだよ」
郁郎の名前を聞いた途端、彼らの表情は変わった。
それを見て一花は思った。家でもやんちゃな弟は、きっと外でもやんちゃなのだろうと。
「え?!この人が?」
「話に聞いていたのと全然違うぞ?」
「あのー……、声かけちゃ、悪かった、かな?」
申し訳なさそうな表情になって一花がそう言うと、全員が慌てて首を横に振った。
「いえいえ、良かったらこの席どーぞ」
と一人が荷物の山になっている椅子を手で差すと、他の人間は慌てて荷物をどかした。
救いを求めるように徹に目を向けた一花。
徹の方が申し訳なさそうな顔をして言った。
「あの、お姉さんさえ良かったら……」
「あ、じゃあ徹君の隣がいいなぁ」
とにっこり笑顔で一花が言うと、友人達は急いで徹の横を空けた。
「どーぞどーぞ」
徹は俯きがちで少し固まっているように見えた。
嬉しそうな笑顔でその椅子に腰を下ろすと、矢継ぎ早に質問が飛んできた。
思わず答えに窮する一花に、徹は声を出す。
「後が怖いぞ?この人の弟は秋山だから」
「あ、……う」
郁郎の名前が出ると、皆微かに動揺を見せた。
「そうだよなぁ、こんなお姉さんだったらそりゃあいつも話しに出さないよな」
「家には絶対呼んでくれないしな」
その会話に一花は首をかしげていた。
「お姉さん、この中でだったら誰が好みですか?」
期待に満ちた目で一人がそう言った。
それに徹は内心ぎょっとしたが、今この場に郁郎が居る訳ではないので何も言わないでいた。
「あー、やっぱり徹君かな」
その一花の台詞に一番驚いたのは徹だった。テーブルを眺めていた目が大きくなっていた。
「可愛くてねー、顔も好みなのよー。郁郎と変わってくれないかなぁ。郁郎じゃちっとも可愛くなくて、最近は憎たらしさに輪がかかってきてるから」
「あ、弟……」
思わず口から漏れる拍子抜けの声。それでも徹の顔はほんのりと赤く染まっていた。
 その日は、こんなに二人で話したのは初めてというくらいいろんな事を話した。
一花も徹も楽しかった、この時間が。

 それからどれだけの日にちが過ぎたのか記憶にはないが、久しぶりに仕事が早くに終わって珍しい時間に家にいた時、バイトを終えた郁郎が家に帰ってきた。
「あれ?お姉、珍しいね」
「うん、奇跡的に今日は早く終わったから」
お互いがリビングに居ながら、それぞれの生活に動いていた。
「そういや、飲みに行った店で徹とばったり会ったって?」
「あ、うん、……徹君、気を悪くしてなかった?実はずっと気になってたんだけど」
「いやぁ?意外と面白い人で楽しかったって言ってたけど」
「……そう」
それから暫しの沈黙の後、郁郎が向こうを眺めながら言った。
「……あと、一花姉と付き合いたいって言ってる」
「は?」
唐突な台詞に間抜けにも一花の口からはそうとしか声が出なかった。
何とも言えない表情で郁郎は見つめている。その目には不安が見え隠れしていた。
「あんたの友達よね?」
お茶を口に運びながら郁郎は平然を装って言っていた。
「そうだよ」
「素直に無理でしょ。6歳差はつらいものがある」
「うん」
「せめて後3,4歳若かったらまだどうにか」
「そんなのありえないし」
「分かってるよ、言ってみただけでしょ」
 それから疎遠になると普通は思うのだが、徹は違ったようだった。
その後も徹は試験前に泊まりに来て郁郎と一緒に勉強をしていた事もあった。
夜食を持って部屋に行けば、郁郎は風呂に入っている時で、一花は内心どうしたものかと思った。
だが、徹は笑顔でお礼を言い、ぎこちなさは少しもなかった。
「一花お姉さん、この問題解けません?」
そう訊かれて素直にノートを覗き込む一花。
「徹君、さすがにこれは無理でしょー。もう現役でもないし、それに分野も違うのに」
「あ、やっぱり」
「分かってて言ったでしょ」
「えへ」
一花にとって、徹は可愛かった。
まるでもう一人弟が増えたみたいに。

 そして、郁郎と徹の付き合いが長くなり深くなれば、一花はいつのまにか「徹ちゃん」と呼ぶようになっていた。実の弟の事はちゃん付けで呼んだりはしないのに。
 思わず「徹ちゃん」と初めて口にした時、徹は一つも嫌な顔をしなかった。
それでついそれが定着してしまい、後になって郁郎に言われた。
「なんで、徹‘ちゃん’?」
「つい。可愛いもんで」
「……は。鬼だね」
「は?なんで?」
それに郁郎は冷たい目を向けただけで何も答えなかった。

 郁郎が徹を家に連れてくると、それなりに賑わって一花も楽しかった。
それは多分、一花が家を出るまで続いていた。
一花が家を出たのは、会社を変えたからだった。家からは通勤できない距離だから。
仕事も忙しく、正月と5月の連休、それと盆休みくらいにしか帰郷は出来なかった。
それでも休みに家に帰れば、一度は徹が姿を見せていた。
 日常の生活の中で、一花は深くを考えたりはしない。
それは長所でもあり短所でもあった。
 ゆったりとした頃に、徹の姿を見る。それがあるだけで、一花の心は潤った。
砂漠のように心が渇ききっていても、徹を目にするだけで自然と癒されていた。
だから、徹という存在があるだけで何の不満も持たなかった。




 テレビを見ながら、言葉を交わすことはあった。だが、徹の空気は沈んだまま変わらない。下手をすれば、三角座りをして両膝を抱え込んでしまうのでは、と思うほど。
だけど、帰ると言う言葉は一切口にしない。
 多分、一人になりたくないのだろう、と一花はぼんやり思った。
話を聞いて欲しいのかとも考える。だが、徹から何かを話す訳でもない。聞いてみようかとも思ったりはするのだが、口にした瞬間、傷に壊れてしまうのではないかと思うくらいに、徹は普段と様子が違っていた。
それに昔何かで郁郎から聞いた事がある気がした。徹は傷つきやすい、と。
だから、尚の事一花は何も言えないでいた。
 時計を眺めれば、日付は変わっていないけど遅い時刻。
「……」
一花は沈黙に身を寄せながら思いを廻らす。そして、徹を目にして、一花は声を出した。
「この部屋に布団敷くから泊まっていく?遅いし明日休日だからいいよ」
ほんの数秒動きがなかった徹。だが、遅くもなく早くもない動作で顔を上げると、瞳を揺らしながら声を出した。
「……いい?」
「徹ちゃんだから。……一人になりたくない時もあるでしょ。私は構わないよ」
「……ありがとう」
ただ、徹はそうぽつりと言った。

「布団に横になってていいよ」
敷いた布団を指して一花は言った。徹が大分しんどそうだったからだ。
精神的な疲労も重なって、梅酒に酔っているようだった。
徹は素直にその言葉に従い、横になると何かを吐き出すように息を長く吐いた。
片腕を、目を隠すように顔に置いている。
一花は静かにテーブルの上の物を片付けていた。
「……仕事の事で……」
背中からそう声が聞こえてきて、一花は手を止めた。
「……ずっと落ち込んでて、……」
「うん」
「仕事で忙しいの分かっていたんだけど、どうしても一花さんの顔が見たくなって……。辛くて仕方なくて……、一花さんの顔しか浮かばなかったんだ……」
一花の胸に、切ないような、痛くて苦しいものがきゅうっと塊になって押し込んでくるような衝撃を受けた。
いた堪れない気持ちにもなったが、そうっと手を伸ばし、徹の頭に静かに置いた。
「よく耐えたね。耐えられた人は、もっと強くなれるよ。大丈夫」
よしよしと頭を撫で、最後に優しくそうっと撫でてから手を離した。
 それは隠す事のない一花の徹への素直な気持ちだった。
包み込みたいと心に感じた。だから、それを現した。そのまんまの徹を心に受け入れた。
それが今の一花に出来ることだった。

徹の肩が微かに震えているような気がした。
「……」
一花は静かにその場を立つと、テーブルの上にあった物を置いたトレーを持ちキッチンへと向かう。
 リビングはテレビの音だけが流れている。
徹は目を腕で隠したまま動かなかった。

片付けを終えた後、さっきの格好と何も変わっていない徹に声をかけた。
お風呂入ってくるから、と。だけど、ぴくりとも動きは見られなかった。


  ……さっきのが悪かったかな。
  子供相手みたいな言い方だったかな。余計傷ついたかな……。


そう思いながら一花は風呂に入り、すっきりとしない心のままあがった。
脱衣所で髪を乾かして一本に束ねると、そこから出た。
 仰向け状態のまま体勢を変えていない徹だったが、腕は顔の横に落ちている。
どうやら眠っているみたいだった。
それに幾分ほっとした自分がいた。一花はそれを感じながらも、足元に置いていたかけ布団をそっとかけてやった。
たったそれだけの感触に徹の体が動きを見せた。眠そうな目を開けて、ぼんやりとした表情で声を出した。
「……れ?俺寝てた……?」
「ん。いいよ、そのまま寝てて。私ももう少ししたら寝るから」
「……うん、ありがと」
そう口にした後、徹はうつらうつらと目を閉じていった。
それを見た一花は、リビングの電気を消し隣の部屋と移る。
寝る前にも机に向かい、広げっぱなしの仕事の紙に目を通す。
この休日中にしてしまう事の確認。月曜からしなくていけない事の確認だった。
 新たに内容で発見した一花は鉛筆を手に取り何かを書き込んでいく。
そうして気が済んだ所で筆記具を仕舞った。
「……本当は迷惑、だよね……?」
後ろから聞こえてきた徹の声に、一花の手は止まった。
すっかりもう寝ているかと思った徹にそんな台詞が飛んでくるとは思いもよらなかった。
「……本当に迷惑だと思っていたら、以前に突き放してるよ。家に上げたりもしないでしょ?」
「……」
隣の部屋の闇の中からは何の表情も読み取れなかった。
呼吸を整えるように小さく息を吐いて、一花は声を出した。
「反対に徹ちゃんに嫌な思いさせてるんじゃないかなぁと思ったりするんだけどね。名前は変わらずちゃん付けで、郁郎の姉だから平気で年上ぶるし、久しぶりにそれも偶然に会ったもんだからつい抱きついちゃったし」
「……嫌じゃないよ。ちゃん付けで呼ばれるのも抱きつかれるのも。一花さんだったら嫌じゃないよ……」
「ありがと。こっちも電気消すね」
「うん」
そして自分のベッドに入った。
 もそもそと布団を捲り上げて中に入る。部屋の中は闇。他に音もなく静けさだけがこの場を支配しているようだった。
「……最初に徹ちゃんを見た時から、気に入っていてね。弟みたいに可愛くて。でも郁郎をそんな風に可愛いと思った事はないんだけどね」
「でも弟みたいなんだよね?」
「うーん、それもまたニュアンスが違うと……。自分で言っておいて何だけど。……元気のない時に会うと、不思議と元気が出るし、生活に疲れて荒廃した時でも、心は潤されるし。存在に癒されると言うか。なんていうのかな」
そこで一旦口を閉じても徹は黙って聞いているようだった。
だから一花は言葉を続ける。
「……都市という砂漠の中にある、オアシス、みたいな、感じかな」
「……オアシス……」
「……うん、そう。まさしくそんな感じ。私の中で徹ちゃんは特別だから」
微かな物音で徹が寝返りをうったのが分かった。そして、先ほどとは違う流れで声が聞こえてきた。
「……それなら、嬉しいかも。俺も一花さんの事、そんな感じだから」
「……え、あ、ありがと……」
予想外の言葉に一花は照れを感じていた。
なんだか恥かしくなってしまって、次に言おうと思っていた事を忘れてしまった。

闇の中からポツリと零れるように声が届いてきた。
「一花さんは最初から大人の人で、まるで手が届かない憧れの人だった……」
「……徹ちゃんはこれからいろんな事をもっと吸収してもっと素敵な男性になるよ。すぐ私の事なんて追い越しちゃうよ」
「……うん、頑張るよ」
「でも、無理しないで、そのまんまでいいよ、背伸びなんてしなくたって、すぐ成長しちゃうから。それに、そのまんまの徹ちゃんが私は好きだから」
「……一花さん……」
「ん?なに?」
「僕もそのまんまの一花さんが、……一花さんだから好きなんだ」
「あ、ありがと……」
内容は違えど、徹の口からそんな言葉が出てきて、一花はなんだか嬉しいけれど恥かしい気持ちになった。

 これから始まる、6歳下の徹。
一花の歳ではもうこの頃のような始まりはないけれど、きっと年月を経て成長を増せばもっと同じ位置に立っていろんな事を語り合えるようになれるだろう。
そんな日が来るのを待つのも楽しいかもしれない。
今の徹も、一花には全て受け入れられているのだけど、徹からすれば向けている目線は違うのだろう。きっと一花が思っているより気にしているかもしれない。
 けれど一花は思う。


  徹ちゃんに関しては、いつの徹ちゃんでも許せちゃうんだろうなぁ、私。
  私といる時は、無理とかして欲しくないんだけど。
  それも失礼な話かしら。


たとえ徹にとっての存在価値が、「お姉さん」というだけのものであっても、それは別に構わないと思っていた。最初から一花は6つ上の姉であったのだから。
それを当然のように受け止めていたし、受け入れていた。
 徹は一花にとってオアシスだったから。それは何ものにも変わらない筈のものだと一花は思っていたから。
だから、何も望みはしない。全ての事に。


2006.7.29