2話 束の間の安穏
5月の連休がもう半分は過ぎたという頃、空はどんより雲で覆われていて、レジャー地に出かけるには心許無い天候だった。
結局、言ったとおり帰郷する事無く居た徹は、今日は珍しく生活圏外に出ていた。
服装はまだ若い格好で、髪の毛も学生時代と大差ないスタイル。前髪も分けていない。
途中すれ違う女子学生がちらほらと視線を向けていた。
徹には関心のないことだったが。
何となく、といった感じでここまでやってきたものの、徹の足はとあるマンションの前で止まっていた。顔を伏せた様子から何かを躊躇っているのがわかる。
ふと視線を感じて顔を上げれば、ここの住人であろう婦人が怪訝そうな顔を向けていた。
徹が顔を向けたのを見て、慌ててその場を去っていったが。
他に人はいないこの場所で、徹はマンションを見上げる。
落ち着かせるように息を吐くと静かにマンションの中に入って行った。
エレベーターの中で一人だと言うのに、どこか所在無さげな様子だった。
左右に分かれる部屋。番号を確かめるととある方向に歩き出し、そして足を止めた。
その部屋の表札を見るも、何も書かれていない。
「…………」
手に携帯電話を持つと、それをじっと見つめた。不安の色が隠せない瞳に何か揺れるものがあった。
それから数秒後か、それとも数分後か。
正確な時間の経過は分からなかったけれど、徹ははっと顔を上げた。
扉の向こうで玄関に人がいる音がしたからだ。
そしてすぐ鍵の開く音がし扉が開いた。
「あ……」
思わず出てしまう声に、中からも声が飛んできた。
「え?あ、わ!と、徹ちゃん……」
仕事のある日ではない一花の姿がそこにはあった。
真っ直ぐな髪は一つに括られていて、七部袖のパーカにハーフパンツ。
それだけでも彼女の華やかさは漂う。
不意に零れる笑顔と共に、自信なさそうな声で徹は口にした。
「遊びに……」
「あ。徹ちゃん、あのコンビニ行ってジュースと適当にお菓子買ってきてくれない?丁度行こうとしていた所でね。お願いしていいかな」
「うん」
「ごめんね。マンション出て左にあるから」
「左ね、うん」
徹は笑顔で向かっていった。
徹の背中を見送った後、一花は中に入り扉を閉めるとピタリと動きを止めた。
ここで会う前の、そのまんまの徹の格好だった。今日はメガネもかけていない。だから、あの大きな瞳がいつもより近くに感じる。結構きりっとした眉。小さくはない口だって形は良く口端は上がっている。だから、一際笑顔に見える。変わったのは昔より男らしさがその雰囲気にあるという事だろうか。
そしてすぐ我に返り部屋の中に入っていく一花。
「部屋の中、片付けなくっちゃ。早く早く」
びっくりした心臓を気持ちの中で向こうに押しやって慌しく動いていく一花だった。
慌てて片付けて、仕舞うものがなくなった頃にインターホンが鳴った。
「徹ちゃん、帰ってきた」
そう口に出しながら玄関へと走り、「はいはい」と言いながら扉を開ける。
コンビニのビニール袋をぶら下げた徹ははにかんだ笑顔で立っていた。
一花は笑顔で中に促す。
「どーぞどーぞ入って。散らかってるけど」
「お邪魔します」
先に徹を上がらせて、一花は扉の鍵を閉めて靴を揃える。
そして中に入れば、徹はリビングで惚けた様な表情をして眺めていた。
「そんなにまじまじと見られたら……」
片付け損なった所がばれるから。とは口には出せない。
「あ、ごめん……」
恥ずかしそうに言った徹。それだけでくらくらっと倒れてしまいたい心境になる。
ああ、私ってば本当徹ちゃんに弱いなぁ。
こっちが本当の弟だっら、やばかっただろうなぁ。ブラコン確実?みたいな……。
と、一人の世界に入りかけたところで、はっと我に返った一花。
というか、秋山家でこの顔は産まれてこない、か。
一花のこの部屋は、1LDK。奥にリビング。その横に洋間がある。
洋間の奥にはベッドが置いてあるが、カーテンで仕切られていて見えないようになっている。
残り半分は長机にパソコン機器類や本棚には一花の仕事に関係する本がずらりと並んでいる。中にはファイルも色々。家でする仕事用スペースといったところだ。
リビングはガラステーブル、二人がけ用のソファ。シンプルなデザインのクッション。無駄な物はないが一花の雰囲気同様、洗練された雰囲気があった。寛ぎの空間を大事にしているのが見て取れる。さすが職業柄というべきか。
テーブルの上には、家の平面見取り図が広げられていた。
それには鉛筆で薄めに書かれた一花の文字……。
それを見て、徹は申し訳無さそうに言う。
「お仕事中だった?」
「え?大丈夫よ。いつもそこに広げてるだけだから。アイデアが浮かんだらすぐ書き込めるように。さっきもそこに座ってテレビ見ていただけだし」
何も気にした風でもなく一花は笑顔で言った。
まだ何かを気にした表情をしている徹を見て変わらない笑顔で一花は言う。
「お昼まだでしょ?作るから一緒に食べよう?スパゲッティナポリタンだけどいい?」
そこでようやっとほっとした笑顔になった徹。
「うん、ありがとう」
内心、くらくらきているのを必死で表に出さないようにしながら笑顔を返した。
だから、その笑顔が弱いんだって……。
一人だけなら一品で終わっていただろう。
今は徹が居るから、他にサラダとスープも用意した。
自分の部屋でこうしてテーブルに向かい合って食事を取る事に、恥ずかしさによる小さな抵抗を感じながらも冷静に努めた。
「一花さん、美味しい」
素直な笑顔で素直にそう言われると、嬉しいけれど照れを感じる。
そんな自分に、もう擦れた大人であることを認識し表情に苦笑が混じる。
「ん、ありがと。そうは言っても大した料理でもないんだけどね」
「十分だよ」
「料理はあんまり好きじゃなくて。必要に迫られてするくらいで」
「そうなの?」
「そうそう。妹の方が料理ダメだったからねぇ。そんな子が今じゃお母さんなんだもんねぇ」
しみじみと言う一花に、徹は思わず笑いをこぼした。
「ええ?何?」
「え?いや、まるで一花さんがお母さんみたい」
「ええ?それはないでしょー」
「はは、ごめん」
笑いをこぼしながら食事をしている最中、インターホンが鳴った。
「休日に来る人なんて勧誘かなぁ」
フォークを器に置きながらそう口にした一花を見て、徹はもう動きながら言った。
「あ、じゃあ出てくるよ」
「あ、ありがとー」
元々家に来る様な人間などいない。一花はそう思っていたから。
覗き穴で相手を確認した徹は、若い男性だという事は分かった。
少々むっとした顔で扉を開け、相手の顔を確認するべく目を向ける。
そして、徹は心底はっとした。
「何で徹がここにいるんだ?!」
徹を見るなり開口一番そう声を発した相手。
「え?……あ、その、い、郁郎……」
思わずどもってしまう徹。相手の気迫に圧されたからだろうか。
一花も徹も、まさか弟の郁郎だとは思っていなかった。
そして、郁郎も、姉の所に来て親友の徹がいるとは夢にも思っていなかっただろう。
郁郎にしてはすごい剣幕で玄関に入り扉を閉めると、中に向かって声を放った。
「一花姉!どういう事?!これ!」
けたたましい空気だと言うのに、一花はのんびりとやって来て相変わらずな口調で言った。
「あらまぁ、郁郎だったの。季節外れの台風でもくるかしらねぇ」
「一花姉!!」
今にも毛が逆立ちそうな気配の郁郎だったが、一花は全く動じる気配がない。
反対に郁郎の後ろに立つ徹の方がうろたえている様子だった。
「まぁとりあえずこっちに座りなさい。徹ちゃんも座って食べて」
笑みなく言った一花の言葉に二人は大人しく従っていた。
新しいコップにジュースを注ぐと郁郎の前に差し出す一花。
「コレでも飲みなさい」
「そんな事より説明をしてよ!説明を!」
勢い余ればテーブルに拳をぶつけそうなほど郁郎は気迫があった。
隣ではらはらとする徹だったが、一花はびくともせず顔は笑顔を浮かべつつも空気は鋭く冷たいそれで言葉を放った。
「飲みなさい。聞こえないの?」
「……は、はい」
途端に身を縮めた郁郎。徹は様子を窺うように横目でチロリと見ていた。
コップを口につけると、ごくごくと勢い良く全てを飲み干してしまった郁郎は、長い息を吐いてから落ち着いた様子で一花に目を向けた。
すると、一花はにこっと笑顔で口を開く。
「徹ちゃんの会社、こっちなのよ?聞いていたでしょう?」
それを聞いてはっとした顔をした郁郎。そしてすぐ徹にきっとした顔を向けた。
徹はすでに反対方向を向いている。
「郁郎」
顔には見えないが、声には威圧感がある。郁郎は大人しく答える。
「……はい、地元を離れる事は聞いてました」
「徹ちゃんとは偶然会ったのよ。先月の、仕事での移動中に。私が打ち合わせで行った所が、徹ちゃんの会社の近くでね。丁度徹ちゃんが昼で外に出てた時だったから。それで今日は遊びに来てくれてたのよ。何か異論でもありますか」
「……ありません」
すっかり肩を小さくしてテーブルの上に視線を落としている郁郎。
そんな様子の弟を見て、一花は思わず笑っていた。
それに意表をつかれた様子で顔を向ける二人。
「ほんと、郁っておばかよねぇ。相変わらず、あははは」
「相変わらずって……。俺、ほんとに驚いて……」
「二人の様子が面白かった」
とお腹に手を当てて笑い続ける一花に二人は唖然となった。
「……一花さん……」
ふとテーブルに目を向けて視界に入ったスパゲッティに郁郎はあっけらかんと言った。
「あ、徹、それ頂戴」
「え?やだよ」
即座に器を両手に持って除ける徹。
「一花姉―、俺の分」
「ある訳ないでしょ」
「腹減ったんだけどー」
「じゃあ今から作るから待ってなさい。私のサラダとスープは食べていいから」
「はーい」
大人しく一花の食べかけを食べ始めた郁郎。先ほどの剣幕はどこへ行ったという感じだった。
徹も食事を再開した。
フォークの音だけが聞こえる二人の間で、郁郎が言葉を放った。
「……本当に偶然?」
徹はフォークを動かしながら声を出した。
「偶然だよ」
「そう」
二人の様子だけ見れば、そんな会話など無いかのように見える。
尤もキッチンに立っている一花に、この光景は目に入っていないのだが。
出来た料理を郁郎の元に運びながら一花は口にする。
「で、珍しくこんな所までどうしたっていうの?」
餌を前にした犬のように落ち着きをなくした郁郎は、手を動かしながら口も動かす。
「今回の休みは帰らないって言う一花姉の様子見て来いって親に言われた」
「ふーん」
「あと、頼まれたのも色々と持たされて持って来た。玄関のところ置いてある」
「そう」
少し参った様子で自分の頭を撫でた一花の表情が翳っていた事に徹は気付いていた。
その後、久々に会ったという郁郎と徹は話しに盛り上がっていた。
その様子を壊す事無く、一花は机に向かい仕事をしている。
耳に入ってくるのは、二人の楽しそうな声。この光景も一花からすれば久しぶりの事だった。
一花はふと郁郎に顔を向けると何気なく聞いた。
「郁、後どうするの?」
たったそれだけの言葉でも、兄弟だけあって意味は通じるようだった。
「泊まって明日帰ろうと思ってんだけど」
仕事でいなかったらこの弟はどうしたんだろう、何て事を思いながら一花は手を動かしていた。
「あ、徹の所で泊めてよ」
「え?俺ン所狭いよ?一花お姉さんの所に比べるとかなりだけど」
「いいよ、寝れれば」
「じゃいいよ」
それを聞いて、一花は徹に顔を向け笑顔で言った。
「ごめんね、よろしく」
「はい」
笑顔で返す徹。郁郎はそんな様子を、ジュースを飲みながら眺めていた。
夜、静まり返った部屋の中、一花は仕事を進めていた。
夕方までの賑やかさが今では嘘のように。
だが、普段はいつもこうなのだから、特に感じる事はなかった。
一花の手は深夜に及んでからやっと止まった。
「……もうこんな時間か」
時計を見てそう呟いた後、ようやっと片付けに取り掛かった。
そして寝る支度を整えると、戸締りの確認をしてベッドに入った。
ヘッドボードには数々の、家族や友人達の写真が飾られていた。
毎日のクセでそれらを眺めるとスタンドの電気をつけ部屋の電気を消して眠りに入っていくのだった。
翌日、仕事の時よりはゆっくりした時間に起床した一花は、のんびりと一日を過ごしだす。
カーテンを開けて空を眺めれば、昨日よりは天気が良い。雲の切れ間から陽が差しているのが見える。この光景が、一花は好きだった。
そして、のんびりとした時間を過ごしていた昼前時、インターホンが鳴った。
郁郎か、徹と二人か、それくらいしか思っていない一花は変わらない表情で出た。
扉を開けた先にいるのは郁郎が一人。
それを見ると、気を使う事無く開けた扉を郁郎に預けた。
中に入っていく一花の後ろを行くように郁郎は玄関を上がる。
「盆休みには帰るようにするから。お母さん達には宜しく言っておいて」
「うん。昼にはここ出て行くけどさ」
「うん?あんたもごくろうさんよねぇ。行かず後家の娘の様子見に来させられて」
「好きで結婚しないくせに何言ってんだよ」
「結婚ねぇ。一人じゃ結婚なんて出来ませんわよ」
「今更じゃん」
「今更、ねぇ。まぁ、どうでもいいけど」
気にするものではない、と、言いたげに一花は言葉を放った。
何気ない会話、のはずだった。一花にとってはそう思っていた。
だが、いつもと比べて弟の様子がおかしい。
何かを孕んだ目で射る様に見つめてくる。堪えようとして堪えきれない何かを一花は空気で感じ取った。
「なに?」
怪訝な顔になって一花は問うた。
すると郁郎はやり切れなさそうに息を吐くと、視線を向こうに向けながら声を出した。
「一体どうして徹と付き合い持ってんの?」
「……」
昨日とは打って変わった様子に、一花の頭は、今日の穏やかな時間から切り替わるように動き出す。
一花の言葉を待たず郁郎は言葉を続ける。
「家にだって上げてるし」
「……。なんなの?誰もあんたの友達取ろうなんてしてないよ」
けれど、郁郎の表情は変わらない。
「……」
「それが気に食わないわけ?」
「一花姉、何も考えなしに徹と出かけたりしてんじゃないよな?」
一花の問に答える事もなく郁郎は言った。
「……。ただ仕事終わってから晩御飯食べに行っただけじゃない。あんた何言ってんの?」
「……」
郁郎はずっと不機嫌な顔をしたままだ。
「同郷のよしみで、あんたの昔からの仲の良い友達だから、独り身でこっちに来た所偶然に逢ったからの理由でしょうが」
「……理由ね」
ひねくれた態度でこちらを真っ直ぐ見ずに言った台詞に、一花は内心ムカッときた。
子供の独占欲や嫉妬なんてばかばかしい。率直にそう思った。
「あんたの友達だから付き合うなって言ってんの?私はそれに従えば言い訳?」
年上の立場からそう口にするものの、言葉の端端に感情の高ぶりが見える。
「ばっかじゃねぇの?!誰もそんな事言ってないじゃん!」
「じゃあ何なのよ、はっきり言いなさいよ。ぐだぐだ言われるの一番腹立つのよ!」
思わず荒立つ声。
「じゃあ聞くけど!一花姉の態度は何だっていうんだよ!」
「はぁ?!」
この時ばかりは弟の言っている意味が分からない。
「全然親切にはならない!」
「……?」
全く持って意味が通じない。一花は眉を寄せる。
「別に存外にしているつもりはないし、素直な話、あんたよりも可愛いと思ってるよ」
「あのなぁ、あいつを何だと思ってんだよ!一花姉は!」
「あんたの友達でしょうが。一体何なのよ、あんたは」
「俺の事はいいんだよ!ばっかじゃねぇの!」
表情を引きつらせながら一花は口を開く。
「だったら何だっていう訳?!あんたいい加減にしなさいよ!」
「俺は弟で、徹は俺の友達なんだよ!」
「んなこたぁ分かってるっての!」
「何が分かってんだよ!ばかじゃん!」
「……あんた、その台詞3回言ったね」
心底怒りに燃えた顔をした一花は、その直後郁郎の腹に拳をお見舞いした。見事に決まったレバーに郁郎は一瞬息が止まるかと思った。
「馬鹿というヤツが馬鹿なのよ。訳分からない事言うヤツはとっとと帰れ」
つい先ほどまで声を荒げていたとは思えない冷たい台詞。
「…………ぐっ……。一花姉の、分からず、屋……」
苦しみながらも憎まれ口を吐く郁郎に、呆れた一花はため息を吐いた。
冷蔵庫から紙袋を出すとようやっと痛みから立ち上がってきた郁郎に押し付けた。
「新幹線で開けなさい」
それを受け取った郁郎は不満タラタラの顔で一花を見つめる。
何よ、という顔でギロリと睨みつける一花。
郁郎は、くっ、という表情で受け取った紙袋を握ると玄関に急いで向かいながら声を放った。
「一花姉のあんぽんたん!後で泣かされても知らないからなー!」
そのまま足を止める事も振り返る事もなく郁郎は去ってしまった。
「…………」
それを呆然と眺めつつ立ち尽くしてしまった一花。
「お前は喧嘩に負けた小学生か。……でも、とりあえず馬鹿という言葉は言わない方がいいと学習はしたみたいだけど」
訳が分からず、一花は参ったようにため息を吐いた。
一体どうしたというんだろう、うちの馬鹿な弟は。
新幹線の席に着いてから、手に持った紙袋の存在に気付いた郁郎は、まだ痛い感じのする腹をさすりながら中身を確認した。
一花の手作りのサンドイッチが缶コーヒーと共に入っている。
高校時代も母の代わりにお弁当を作ってくれた事もあった。その頃は姉に作って貰った弁当なんて恥かしくて持って行きたいとは思わなかったのだが。
それでもサンドイッチは好物だった。周りのヤツも羨ましがる一品だ。
姉の作るサンドイッチは確かに美味しいし、本当は嫌じゃなかった。
今食べても美味しい姉のサンドイッチ。それを口に入れながら、郁郎は泣きたい気持ちで呟いた。
「うう、一花姉のばかたれー。……くそぅ、徹のヤツ……」
そして、その翌日、昼まで寝ていた郁郎は、リビングに行き片手に新聞を持ってソファに向かっていた。それを目にした母親は声をかける。
「随分ゆっくりねぇ」
「さすがに疲れたよ。慣れない所に行ったら」
「お姉ちゃんは元気にしてた?」
「うん。行ったら家でも仕事してたよ。あ、盆は帰ってくるって」
「そう。あの子、忙しいのねー」
「自分で選んだ仕事だから、やりがいあるんじゃないの?」
「そうなのかしらねぇ。年齢的には落ち着いてもいい頃なんだけど、なんかそういう話聞かなかった?」
「んー、結婚する気なんてないみたいだったけど?特定の相手もいないみたいだし」
「そう……」
「別にいいじゃん、一花姉まで嫁に行ったら親父の奴肩落とすどころじゃすまないよ?」
「それもそうねぇ」
郁郎の言葉に納得したらしい母親はそれ以上余計な事は口にしなくなった。
穏やかな笑みを浮かべて郁郎はソファの前に来た。
ふとすれば、いつもの平穏な一日の始まり。
片方の手に持っていた携帯電話がメールの着信を知らせ、まだ寝ぼけ眼のままそれを確かめた。
メールを見た途端、郁郎の目は見開かれ、手にしていた筈の新聞はばさりと音をたてて落ちた。
「…………と、徹のあほたれーーー!」
泣きたい気持ちになりながらも郁郎はそう叫ばずにはいられなかった。
その叫びは誰の元にも届かない。
2006.7.21