オアシス


1話 日常の合間

「チーフ、今晩飲みに行くんですけど、一緒にどうですかー?」
あともう少しで就業時間を終える女性社員は、気分はもうアフターに入っている様子で一花に言った。
それにチラリと目を向けてから再び机上の書類に目を落とし、肘を突いた手でペンを動かしながら口を開く。
「んー、今日は先約が入ってるから。可愛い弟とね」
「仲いいんですねぇ」
それには感心したように言葉を漏らした女性社員に、ほんの少し困り顔を見せつつ笑顔を向けた。


  ほんとの弟は何の仕事をしているかも知らないんだけどね。


一人心の中で苦笑交じりに言うと机に目を落とした。
末っ子の可愛い弟なる存在は、歳が近い次女に懐いているように一花には思う。
弟の郁郎から直接連絡が来るのは本当に数えるくらいだった。


  まぁ、家を出ればそんなものなのかもしれないけど。
歳が離れていて、その間にいればこういうものかもしれない、のかな。
 ……それとも実は嫌われていたり、とか?


そんな事を思った一花は眉根を寄せて考え込んでいた。
はっと我に返り、とりあえず浮かんだ考えを打ち消してはみる。けれど、拭えない不安に視界の端に目を泳がせた。
 一人百面相をしている姿を見て、声をかけた女性はきょとんとした顔をしていた。


 本日の仕事に終止符を打った一花は、帰り支度を終えてビルのエレベーターへと向かって歩いていた。乗り場前には上司である男性が立っている。
「宮田部長、お疲れ様です」
にこりと笑顔で声をかけた。
名前を呼ばれて振り返った部長・宮田は、ああ君か、という顔をしてから口を開いた。
「お疲れ。企画の方は順調に進んでるかい?」
「はい、私の中の進行どおりには、ですが」
「秋山君の進行じゃ、他の人間がアップアップしてるんだろうなぁ」
「えぇ?そんな事はないと思うんですけど。今回は教育の為にじっくりと時間を作ってるんですよ?」
「若手の育成頼むよ」
「はい、努力は致します」
「うーん、あまり芳しくない答えだなあ」
「いえいえ」
到着したエレベーターにそこで乗り込み、一花はロビーフロアのボタンを押した。
「宮田部長は地下で宜しかったですか?」
「ああ」
その返事に地下駐車場のボタンを押し、扉は閉まっていった。
「そう言えば、神埼が暫くしたらこっちに戻ってくるみたいだよ」
「……。神崎がですか」
「君と同期になるんだったかな」
「どうでしたっけ?」
「おいおい」
「入社した頃の記憶って曖昧なんですよね。気がついたら居たっていう感じなんです」
「神崎がか?」
「はい」
「俺はてっきり二人は付き合っているのかと思ったんだけどなぁ」
ため息を漏らすように言ったそれに、一花は一笑した。
「はは。ありえませんよ」
全くもって気がない様子に宮田は軽く肩を竦めていたが、一花は気付いていないフリをした。
「お似合いだとも思うんだがなぁ」
「仕事上見ていれば、ですよ。仕事場では、神崎は良きパートナー兼好敵手ですから」
「好敵手……、そうきたか」
「ええ」
そうにっこりと一花は笑みを向け、この話題を断ち切らした。
エレベーターの到着階がロビーフロアを指したところで一花は言う。
「今日はここですので、宮田部長、お先に失礼します」
「はい、おつかれさん」
エレベーターから降りた一花は、宮田に向かい一礼をする。そこで扉が閉まった。
「……。あれ?なんで今日車は?」
独り言のように言った宮田の言葉は宙に舞うだけだった。


 いつもは車通勤。
今日に限っては徒歩及び交通機関を利用しての通勤だった。
 ビルを出た一花は行きつけの店へと一人で向かう。
女性が一人で気軽に行ける居酒屋。そこはお洒落な店内になっているが、一見では入店ができない店でもあった。
そこの店に辿り着く前にある交差点で待っている徹をすぐ見つけた。
 一花はにっこりと笑顔になると、ある程度近づいた所で声をかけた。
「徹ちゃん、お待たせ」
「あ、一花さんお疲れ様」
一花の笑顔に笑顔で返す徹。それ一つにも彼独特の雰囲気が放たれていて、一花は自然と心和んだ笑顔になっていた。
 一日の疲れが癒されるかのような、この一瞬。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いえ?そんなに時間経ってないよ」
そんな事は気にはしていない様子で徹が言うと、優しげな笑みを一花は向ける。
 偶然会って食事をした日から、今回は3回目だった。
店に入り、一花はカウンターの奥の席に進みながら、店長に挨拶をした。
「店長、こんばんは。今日は大事な知り合い連れて来たから」
「あ、一花さん、いらっしゃい。珍しいねぇお連れさんだなんて」
「ふふ、そうだったけ?」
笑みを浮かべながら言った一花。それに店長は笑みを向け口を噤んだ。
「ここはね、紹介がないと来れない所なのよ。そして、店長さんに気に入って貰った人だけ一人で来れる様になるの。だから、ここに来る人は皆常連さんという訳」
「へぇ。中々厳しいのれんなんだ」
「そうそう」
出てくる料理も一品モノでも皆女性好みの食材と盛り付けだった。でも、客の殆どが女性という訳でもない。
「一花さんはどんな人に紹介してもらったの?」
「えーと、仕事関係の人。もう寿退社された方だけど」
寿退社。その言葉だけで女性だというのが分かる。
徹が口をつけたグラスを戻したのを目の端で捉えてから一花は話を振る。
「会社の方はどう?ようやっとちょっとは慣れた頃かなっていう時期よね」
「あ、うん。毎日家と会社の往復って感じだけどね」
徹の表情が少し締まったのを見た。
それだけで新入社員として今頑張っているのだと分かる。
 将来が楽しみな時期。そう、周りにとっては。

「あ、そうだ。私って、郁郎から嫌われてたりとかする……?」
ふと思い出した一花はそう声に出しながら段々と不安になり小声になっていった。
徹から動きが消え、大きな瞳が真っ直ぐに一花に向けられた。
「会社の子と兄弟の話しになった時、兄弟の中で歳離れてるし、郁郎は私より妹の方がいいのかなぁ〜とか思っちゃって」
「えぇと、それってばどういう意味で?」
「郁郎が懐いているのは妹の方に?かなぁって。私ってば実はあんまり好かれてない、とか」
「一花さんの思い込みだよ、きっと」
「……そうかなぁ」
ぽつりと呟いた一花を見て徹はくしゃりと笑みを浮かべた。
「郁郎なりに一花お姉さんの事は大事に思ってるよ」
「うーん?」
「郁郎と親友の俺が言うんだから間違いないよ。それとも僕の言う事信用できない?」
じっとその大きな目で見つめられて、一花ははっとなり慌てて言う。
「ううん、できます。信用します」
それに徹はにこっと笑んだ。
 それで一花は内心思う。


  あー、私、徹ちゃんの真っ直ぐな目に弱いのよね〜。


「郁郎いわく、下のお姉さんはどうしても放っておけないんだって。だけど手を焼くばかりなんだけどって昔言ってた」
「へー。そう言えば、そんな感じよねー。あの二人が一緒にいると。どっちが上なんだろうって思ったことあったっけ」
「それもあって、一花お姉さんの事は、姉としてしっかり見てるって。やっぱり一番のお姉さんだから覆る事のない存在だって言ってたな」
「へー、初耳ですよ」
久しく見ていない郁郎の顔を思い浮かべながら、誰に言うでもなくそう口にした。
「僕も捉え方としては、郁郎のそれとおんなじかな」
にこり。と笑顔でそう言われた。
一花は自然の流れで、笑顔で答える。
「ありがとー」
傍から見れば、笑顔のままの徹。でも、微妙に笑顔の種類が変わっている事に直感的に捕らえた一花。でも、何が違うのかまでは分からない。
 その不可解な思いを流し込むようにビールを流し込んでいく。
そうしている間に、徹はカウンターの前方をぼんやりと眺めていた。

 カバンに入れたままの携帯電話が鳴り始めた。グラスを置き、一花はそれを取り出してディスプレイ画面を見て相手を確認した。
「ちょっとごめんね」
申し訳ないと言う表情を向け、徹の笑顔を見てから電話に出た。
「もしもし?」
受話口から聞こえてくるのは女性の声。
「はい、遠慮します。いいえ、ちっとも。いえ、大丈夫です。それじゃあ又明日仕事場で」
一花にしては無愛想に言うと電話を切ってから見つめた。
「……余計なお世話だっての」
小声ではあったが、その不満な声は徹の耳にしっかりと入っただろう。
「どうしたの?」
怪訝を浮かべた瞳で訊いてくる徹に、一花は我に返り言う。
「あ、ちょっとね会社の女の子が余計な事を言ってくるから……」
何事もなかったフリをして言うはずのものが、口にすれば怒りが湧き出てくるようだった。
「一花さん?」
「何でもないんです。はい。……こんな事でカリカリするなんてカルシウム不足かな?」
そう言って一花はチーズの料理と魚の料理を一品ずつ注文した。
 それでも不満げにため息をついた一花の横顔を眺め、徹はそっと口を開く。
「時期、5月の連休だけど帰郷する?」
「んー、今年は帰らないかなー。仕事が入りそうな感じだし。親からも電話があったけど、仕事じゃ帰るに帰れないし」
その表情は大して迷っている様子でもなかった。
「徹ちゃんは?」
それを聞いた時の一花は、先程までは暗い顔をしていた様子は見えず、明るい表情だ。
「んー、来たばかりの頃は帰る気でいたけど、今はもういいかなって感じで」
徹にしては少々あっけらかんと答えた様子に一花は無意識に聞き返していた。
「そうなの?」
「ん。仕事に疲れてへばってると思う」
前方を眺めながら言った徹に一花は言う。
「まだ若いのに何言ってるの。私が言うならともかく」
すると、徹は顔を向けて言った。
「一花さんだってまだこれからでしょ?」
その台詞に一花は首をかしげ冷めた様子で言う。
「うーん、そう言ってくれるのは君だけよ。もーこの歳になるとね〜」
「大丈夫だよ、十分若いから。どう見たって俺と6つも離れているようには見えない」
「しー!しー!歳の数は言わない言わない」
あまりにも一花にしては慌てた様子にきょとんとしながら徹は言った。
「え?ごめん?」
「もー、年齢の事言われると胸がずきずき……」
身に染みるというように胸を両手で押さえ少々大げさに口にした。
それを一笑するように徹は言う。
「もう気にしすぎだって」
強い口調の徹に、本当にそうなのかも、と思えることが出来た一花はそれでも言ってみる。
「そっかなぁ?」
顔を傾けて、どこか甘えるような仕草に、徹は笑顔を向けた。
「そうだって。一緒にいたって、別に年齢感じる事ないし」
「うーん?でも、明らかに私の方が歳くってるよ。ああ、若さが欲しい……」
「また。そんな事ばかり口にしてると、口から老けてくよ?」
呆れたように徹がそう言うと、一花は慌てて口を両手で塞いだ。
「ぶっ……」
思わず噴出してしまった徹。
一花は頬を赤くして抗議の声を上げた。

 日中の
せわしなさが、この時間は嘘のように消えている。
まるでこのひと時が本当の世界で、それまでは泡沫の夢のようにさえ感じられた。

他にも他愛のない事を喋りあっている間も、目の端に徹を映すと一花の顔からはふっと笑みが零れた。
 彼の仕草も、喋り方も、彼の雰囲気も可愛くてたまらないと思う。
多分、あの頃より今の方がそう強く思っているのではないだろうか。
自分の事ながら一花はそう思った。


そう思うこと自体、もうおばさんだからなのだと思うのよ……。


今更ながら自分の年齢にため息を吐きたくなっていた。
仕事をしていてこんな事を考えたりはしなかったのに。


  ……疲れてるのかな。やっぱり。
  若さ維持の為にジムでも通おうかなぁ。


きっと、それを徹が聞いたら一笑して一花が明るくなる事を言ってくれるのだろうけど。
一花の口は強く噤んだままだった。


 そう、一花はあくまで
「友達の姉」としうえなのだ。
その事実は一花の中で確固として存在している。あの頃から変わらずに。

 一花にとって徹は不思議な力を持つ子だった。
彼の雰囲気も笑顔も声もが、一花の心を和らげる事ができる。
ただ、癒しの存在なのだ。一花の心の。

 あの頃から。


 こんな風に隣に座ってゆっくりと一緒にお酒を飲む日が来るとは思ってはなかった。
最初の頃は。

 昔を思い出して一花はぼんやりと思う。


  徹ちゃんも、大人になったのねぇ……。

大事な弟の、大事な友達。
大事だと思うのは、血の繋がりでかしら。キョウダイだし似たもん持ってるだろうしねぇ。


隣にいる徹が自分を見つめている事に気付いていない一花は心地よいアルコールの酔いに心をまどろませていた。
彼女だけが感じる、ささやかな幸せな時間……。


2006.7.21