プロローグ
この都市に来てもう数年とちょっとが過ぎていた。
目前にはゴールデンウィークが迫っている。
仕事の方も軌道に乗って忙しくずっと出ずっぱりだった。
一人の生活にもなれても、やはり時折家族の顔を思い出す。
今頃、何をしているのだろうか、と。
3歳下の妹はとっくに結婚をし幸せな毎日を送っているらしい。
正月に会った時も幸せそうな笑顔を見せていた。
6歳下の弟は今年の春に社会人になった。
一番楽しかったあの頃、余計な事は何も考えずただ毎日を過ごせばよかったあの頃。
今はもう違う形になってしまったけど、何かを思う気持ちは失っていないと思いたい。
そんな事を考えながら、秋山 一花は臨時パーキングに向かって歩いていた。
すらっとした体形にジャケットのように羽織った七部袖のレギュラーシャツ。中はパステルカラー。クロップドパンツにパンプスがクールで出来る女を醸し出している。
シャギーの入った、胸元まである真っ直ぐな髪。前髪も長くサイドへと流す彼女の雰囲気は洗練されているように感じる。
通り過ぎる男性も奪われるように視線を向けていく中で、見るからにまだ初々しい男性会社員数名のうちの一人と一花はすれ違いざまに真っ直ぐと目が合った。
柔らかそうな黒い髪は無難に真ん中で分けられている。度がきつそうには見えないメガネをかけた真面目な印象……。
一花はそれに何かを感じたが、変わらぬ歩調――早足とも言えるそれで歩いていく。
一瞬に頭の中でフラッシュバックのように映像が浮かんだ。
まるで白い光に包まれるようにして過去の事が思い出された。
そして、足を止め頭を動かす。
……つい今見た顔。
後方では、すれ違ってもう数メートル離れた彼らなのに、そのメガネをかけた彼だけは足を止め気にしたように振り返っていた。
一花ははっとした顔で振り向いた。
先に目を向けていた彼と再びしっかりと目が合う。
今度は目を逸らしたりせず、真っ直ぐと見つめたまま一花は声を出した。
「徹ちゃん?」
「やっぱり、一花さん?」
その言葉に破顔一笑し、抱きつくように両手を彼に向け駆け出す。
「きゃあ〜徹ちゃん!」
それに、徹と呼ばれた彼は優しい笑顔で抱きとめるように両腕を広げて一花を待った。
一花は躊躇う事無くそのまま徹に抱きつき喜びの感情のまま声を出す。
「すごい偶然―!久しぶりー!なんでここにいるのー?やっぱり徹ちゃんだー」
「一度にたくさんの事言われても。一花お姉さんも女に磨きかかってるね」
あの頃と変わらない、徹の可愛い笑顔。癒し系で相手を和ませるような天然の魅力。
一花は自然と笑顔が止まらず腕を離し徹の顔を見た。
それを見て、徹は自然に腕を下ろす。
一花の顔にはにこにこと笑顔が絶えず浮かんだままだった。
そこへ、見計らったように取り残されていた彼らは声をかけた。
「あのー、一体どういったご関係で?」
それに一花は「あ」と冷静さを取り戻した。
彼らの問に先に答えたのは徹。
「この人はお姉さんで」
「え?兄弟?」
それには明らかに驚愕している声だった。
それを察して一花は変わらぬ表情のまま言う。
「まぁ、身内みたいな関係なのよ」
「……ああ」
それに彼らは勝手に納得したようだった。
「あ、ごめんね。仕事中なのにね。私も次行かないといけないのに」
そう言いながらショルダーバッグの中に手をいれる。
「連絡先とか……」
この場を離れようとしている一花の姿を見て徹はそう口にしていた。
「あ、うん。……え、とこれじゃない」
一花はショルダーバッグの中に手を入れ、名刺入れから一枚を取り出し目にしてそう言うと、今度はバッグの外ポケットからまた違う名刺を一枚取り出し確認する。
それには一花の携帯電話の番号が書かれている。
「あ、これこれ。私の連絡先。その時出られなくても、後で必ずかけ直すから」
差し出されたその名刺を受け取ると徹は笑顔で言う。
「うん分かった。連絡するから」
「うん、引き止めてごめんね。じゃあね、また」
笑顔で小さく手を上げると、又早足で一花はその場を後にした。
あ、仕事の人と一緒にいる時に、ちゃん付けで呼んじゃった……。
悪かったかな……。ごめんね、徹ちゃん。
車に乗り込みながら一花はふとそんな事を思った。
郷愁に駆られたようにどこか物憂いな気持ちだったのに、ほんの数秒の出来事に心は明るく弾んだような気持ちになっていた。
笑顔はまだ治まらず、一花は上機嫌のまま車を発進させた。
その後、突発的に出来た取引先での打ち合わせを終えて車に乗り込んだ時、タイミングよく携帯電話が鳴った。
「……」
取り出して着信画面を見ると知らない番号。
躊躇う事無く電話に出た。
「はい、秋山でございます」
「一花さん?」
その声に顔と共に声までも笑顔になる。
「うん。あ、あの後何か言われたりしなかった?」
同僚と思える彼らの前で抱きつき名前をちゃん付けで呼んだ事を心密かに気にしていたので、すぐにそう訊ねていた。
「え?ううん」
そんな事は全く気にしていなかったという声音に、幾分安心しながら一花は言う。
「ホント?ごめんね道の往来でつい。悪い事しちゃったんじゃないかなと思って」
「ううん、大丈夫だよ。反対に皆には羨ましがられてたから」
その声の中に喜々としたものを感じ、嬉しく思いながらも一花は言うのだ。
「またまた。……今、電話大丈夫なの?」
「うん、ずれた休憩時間でしてるから。それに色々話聞きたいし、……したいしさ」
「じゃー、晩御飯一緒に行く?奢るよ」
「え?でも」
「いいのいいの。おねーさんは若い子と行けるだけでも嬉しいものなのよ」
「い、一花さん……」
「ふふ。で、いつが都合いい?」
「今日、とかは?」
「うん、大丈夫よ。じゃあ一番分かりやすく今日会った場所にしようか」
「うん、いいよ」
「場所分かる?」
「うん、大丈夫」
そして、約束した時間の今日偶然会った場所に、一花は仕事終えて徒歩で向かった。
時間にはまだゆとりがあるはずだが、腕時計に目を向ける。
「……」
時間を確認した次の瞬間、目は遠い何かを見つめていた。
そして、口元には微笑が浮かぶ。一際優しい表情に、本人も気付いていない。
脚を進めて行く先、もう間近に来ていた今日会った場所に目を向ければ、徹は立っていた。
昼に会った姿格好そのままで、リクルートカバンを腰に当てるように片腕で抱いている。
通行人の邪魔にならないように建物側に身を寄せ、壁を背に添えながら。
彼の学生時代に比べれば、今の彼は地味に見えるだろう。
多分、そう見せているのだろう。
一花は笑みを浮かべるとある程度近づいた所で声を放った。
「徹君、お待たせしました」
そうして、一花に顔を向けた徹は、ほっと安心したような笑顔を向けた。
偶然に会った日。再会をしたこの日。
一花も徹も、信じられない出逢いだった。
カウンター席に並んで座っている二人。店内は静かでゆったりとしてムードが流れている。
「今日は本当ごめんね。つい感極まっちゃって」
「うん、いーよー?俺男だし」
「あはは」
茶目っ気たっぷりに笑う一花に徹は笑みを浮かべる。
一花は頬杖をついたまま、徹をじーっと見つめた。
「な、なに?」
「ん?メガネ、伊達じゃない?」
その台詞のとおり、一花の視線はメガネにいっている。
「ああ、これ?ちょっとは度が入ってるよ。かけなくても不自由ないけど、やっぱ伊達的かな。素顔が結構童顔だしね」
それに一際柔らかい笑顔を浮かべて一花は囁くように言う。
「ん。メガネっていうアイテムって、結構そそられるよね」
はっとした瞳を向け、うろたえた様に目を泳がせた徹の頬は赤みが浮かんでいる。
それに、一花はくしゃりとした笑顔を浮かべ、そして耐え切れず笑いを声に出してしまった。
「あははは」
「い、一花さん……。もしかしてからかったの?」
「違う違う。反応が可愛すぎて思わず。それさえも荒廃した心には癒しになるわー」
徹の台詞に深くを読まず、思ったままを言う一花。
そんな様子を分かっているのか、グラスに手をかけたままの状態で徹は軽くため息をついていた。
「ごめんごめん。もう社会人だもんね。可愛いなんて嫌だよね」
「え?まぁ一花さんだから快く受け止めておくよ」
グラスの氷を鳴らして遊ぶように揺らす徹の目は、違う何かを眺めているようだった。
「ありがとー」
「今、一花さんって一人暮らし、だよね?」
「うん?そうよ。駅からは結構距離ある所なんだけどね」
そう話し出すと、一花はとりあえず場所を説明した。
「徹ちゃんは?」
「俺、会社が案内してくれた単身者用アパートに」
「じゃあ変なことは出来ないよねぇ」
「……まぁ。でも、変な事はなんてないけどさ」
先ほどに比べて、幾分トーンの低い声。
それに気付いてか気付いていないのか、あっさりと返って来る言葉。
「近く来たら遊びに寄りなね。あ、でも、後でカノジョと揉め事の無いようにはしておいてね」
にこり。と一花は笑顔で言ったのだが、徹は何とも言えない静かな微笑を浮かべただけだった。
心の中でそれについて思いながらも、徹の何かを寄せ付けない雰囲気に一花は微笑を浮かべて口を噤んだ。
いつもと違う反応。
余計な事はわざわざ聞かない。
それが一花だったから。
「一人でご飯食べる気にならない時とか、心寂しい時はいつでも連絡くれていいよ」
「いつでも?」
「まー、仕事でどうしても遅くなる時は無理かもしれないけど、他では結構大丈夫よ」
「一花さーん、そんな事言われたら、ほんとにそうしちゃうよ?」
「そうしちゃってよ。私も一人より二人の食卓の方が嬉しいんだから」
「ほんと?」
「ほんとだって」
まだ疑い気味の徹に、大丈夫よとでも言うように一花は変わらぬ笑顔で言う。
すると、徹は安心した表情をしてグラスに口をつけた。
そして、含んだそれを飲み干してから独り言のように呟いた。
「一花さん、アノ頃のままだね」
一花は丁度グラスに口をつけていた。
表情に変化は見えない。だが、視界の端には徹の姿が映っている。
目線を落としたままの、静かな表情をした徹が。
何も動揺を見せる事はなく、目線を手元に落としそっと静かにグラスを置いた。
「そう言えば、最近は郁郎と連絡してる?」
それを言い終えるくらいのところで顔を向け、いつもと変わらない笑みを浮かべた。
最初から流れている、二人の間の時間が今もこの場を包んでいく……。
2006.6.17