羽を届けてくれた人

聖夜の贈り物


7、言葉の攻防


 休日出勤の土曜日、世間はクリスマスイブで賑わっていた。
それはまるで無関係の事のように日花里は黙々とデスクに向かっている。
だが、その顔が浮かない表情に見える武藤は、丸めた書類を持った手を肩に置きながら彼女の所に足を運んだ。
「今年もクリシミマス?で、そんな暗い顔してるの?」
上から落ちてきた声に、日花里は驚いた表情をして見上げた。
おどけた顔で見下ろしている武藤に、笑顔を浮かべて口を開いた。
「武藤さん……。風邪ひいたみたいで少ししんどいだけですよ」
「ここのところ忙しそうだったもんなぁ。じゃあ今日は早めに帰った方がいいね」
「年末年始にこじらせたら最悪ですもんね」
 笑顔を作り日花里は言葉を口にしていた。
武藤がこの部署を去った後、進めていた筈の手を止めて動きを止めた数秒後、ため息を吐いた。

  心がしんどい。……だから身体もしんどくなる。
  ……後悔するくらいなら、始めからしなければいいのに。
  でも、今はこんな思いでも、時間が経てばきっとどうって事無くなる……。
  きっと、それだけの、……想いだと思うから。

そしてまた口から出るため息は、辛くて苦しい思いが込められていた。
 仕事をしている間、幾度も頭に同じ事が浮かんでいた。
その度に苦しいと思う胸の痛みに背けたくなりながらも身動きが取れないでいた。

  遠野君だって、きっともう違う子誘ってるよ……。
  都合よく目の前に現れたのが私で、目新しかったから興味引かれただけ。
  ……仕事、しよう……。
  また、すぐ何もない毎日がやってくる。
  私には、それが丁度いい……。

自分が選んでした事を、今になっても後悔をしていた。
それでいいと自分自身が願ったのに。

  仕事をさっさと終わらせて、さっさと家に帰ろう。
  それが一番いいや……。

 その後、休憩などで一人でいる間も、ずっと浮かない顔をして遠いどこかを眺めていた。
その様子のおかしさに、さすがにいつものメンバーも気付いているらしく表情を見る限り心配しているのが分かるくらいだった。
 周りをそんな風に振り回してしまっている自分に、思わず自嘲気味に笑みを溢してしまった。

  それでいい、と何度も思ってるのに、なんで私はこんな気持ちのままいるんだろう。
  ばかよね、私……。

そしてまたため息を零した。


 その日のやるべき仕事を終え、帰り支度も終えた日花里は1階ロビーに下りた。
後はそのまま真っ直ぐ家に帰るだけなのだが、ゆっくりと足を止めた。
 まだ家に帰る気になれなかった。
今日は3時の休憩をとる時間もなく働いた。
だから、いつも飲んでいるレモンティーを口にしていない。

  寒い中帰る前に、レモンティーを飲んで体温めようかな。
  どーせ気分もうかないままだし。

奥にあるしソファにコートを置くと、自動販売機へと行き飲み物を買った。
バッグを横に置き、カップをテーブルに置いてから、重い身体を放り出すように腰を下ろす。
そして、膝に置いた肘。その手で顔を覆った。
出るのはため息だけ。
「はーーー。……クリスマス、イブ、か……。今年も、サンタさんのプレゼントなんて届かない、か。……って、27にもなって何言ってんだ、私」
前屈みにしていた上半身を起こし、背もたれに寄りかかり宙をぼんやりと眺めた。
 すると、無意識に敦の顔を思い出していた。
それと連鎖してすぐ思い出すのは「鍵」。
そしてズキン、と痛む胸。
同じそれらを何度と繰り返しながらも、苦しく感じる心臓は時間が経つごとに増しているような気がする。
「……怒ってるかな。でも、そんな事なくて、胸撫で下ろしてるかも」
独り言の後に訪れたのは静寂。
音を奏でているのは、そのフロアにある時計の秒針の音と日花里の心臓の音だった。
そして、耳に届いてきた風を受けて振動する扉の音で、外は風があって寒いのだと知る。
「……帰ろうか」
珍しく多い独り言。
日花里は重い腰をあげると会社の外に向かって歩き出した。
 風圧で重い扉を開けると、顔には冷たい風がぶつかる様に吹いてきた。
「さむ……っ」
思わず出る声。
身を竦めながら扉の外に出る。外はもう薄暗かった。

  あー……、寒いなぁ。
  なんか、家に帰りたい気分でもないなぁ。
  ……武藤さん、……仕事、してるかな。電話、してみようかな……。

足はゆっくり外の道を歩いている。
ぼんやりとしながら、顔をバッグに向けていく中、道路脇に停めた車を背に電灯の下に一人の男性の姿が視界の端に見えた。
 それでもバッグの中に手を入れて携帯電話を探している。

  誰か、待ってるのかな。
  今日は、イブだもんねぇ……。

ようやっと携帯電話を手に掴んだ頃、視界の端に見えた男性は会社の方に向かって歩いていた。

  うちの、誰かのカレシかな……。

そんな事を考えながらも、手は動いていた。
携帯を開き画面を眺める。何の着信もない画面だった。
指を動かしボタンを押そうとした時、強い力で腕を掴まれたかと思うと、強引にそちらを向かせられるかのように引っ張られた。
「?!」
驚きのあまり声も出ず、ただ目だけを向けていた。
 突如として目の前に現れた彼。
あの男性は見知らぬ人ではなかったのだ。また他の女性社員を待っていた訳でもなかった。
いつものスーツ姿とは違う、私服姿の敦が日花里を真っ直ぐと見つめながら立っている。
「念の為に聞くけど、それ、俺にかけようとしてたんじゃないよな?」
その質問に言葉が声にならなかった。
今の敦はやけに威圧感あがって、違うと言う言葉を口に出せなかった。
「と……、な、んで……」
搾り出したようにやっと出た声。
「それはこっちが言いたい台詞です」
そうきっぱりと言った彼の顔は笑ってはいたけど、目は全く笑っていない。
それどころか、真摯な瞳を真っ直ぐに向けてくる。
 日花里の心の中は、いろんな思いが駆け巡っていた。
それを言葉にしろと言われても、中々説明できないだろう。
戸惑いをありありと浮かべているのに、彼は全くもって日花里の腕を離そうとはしなかった。
「あ、あの……」
そう何とか声を出した時だった。
「槙田さ……、え?あれ?一緒にいるのって遠野君?」
二人の後方から聞こえてきた声。
それに即座に振り向いたのは敦だった。
その会社の人間の声を耳にした日花里はビクッと固まっていた。
だが、すぐ顔を向け声を放つ。
「え、と、あ、あのね、これは」
苦笑ともいえるそれを浮かべて口にする日花里。
だが、それを遮って敦は強い意志と共に言った。
「仕事終わったってコトだから連れて行くから」
ニコリ。隙のない笑顔で。
「あ、……うん」
返事をした苅谷を見てから、腕を離さないまま車に向かって歩き出して行った。
「あ、あの……」
戸惑ったままの日花里の声に、敦は何も応えない。
ある程度車に近づいた所で、ジャケットの中からキーを出しロック解除をした。
そのまま足を進め、助手席のドアを開け強い口調で言った。
「はい乗って」
「で、でも」
戸惑ったままの声でそう反論を示した。だが、敦はそれを受け入れない。
「話があるなら車で聞くから、乗りなさい」
最後の言葉は強い命令だった。
「は、はい」
その迫力に圧されて、日花里は無条件に従っていた。
それでも戸惑いを隠せないまま座席に座ると、敦は容赦なくドアを閉めた。
 日花里の頭は軽いパニックを起こしていた。
冷静に物を考えられないまま、運転席に座った敦はエンジンをかけ車を発進させた。

  えーと、えーと、な、なんで遠野君が……?
  車で、私服?
  ……あ、そうか。今日お休み……、
  という事は、休日出勤にならなかったんだ……
  あれ?でも、会社の子と……
  だって、本気で私の事を相手になんて……、誰も……。
  ……どこに、行くの?一体。

そこまでを思い、そーっと敦に顔を向けた。
前方を真っ直ぐと見ているその横顔はもしかしたら打ち合わせ中にコーヒーを出しに行った時に見る顔より凛々しいものかもしれない。
それに見惚れてしまっていたほんの一瞬後、敦の顔が自分の方に向いてくるのを見て慌てて俯いた。
奇妙に漂う沈黙。
すぐ前方に顔を戻した敦を横に感じても日花里は動けないでいた。

  話は車で聞くって……。
  話って……?
  ああ、そうか。私が何か言おうとしていたからだ。
  でも、でも、何をどう言えってゆーの?
  なんか、怖い雰囲気で、言いにくい……ですが……。

肩を小さくして膝の上に乗せた腕に力を入れている日花里はずっと俯いたままだった。
そんな様子を運転の合間に敦は目を向けていた。日花里の気付かぬ間に。
 車はずっと走り続けている。大きな通りから走る距離が進むほど小さな通りに。
気がつけば、灯りの少ない道路に辺りは普通の一軒家が道に沿って立ち並んでいる。
車はそのまま走り続ける。緩やかなのぼり坂から始まってその身に強く感じるほどの坂。
 日花里は内心気が気でなかった。

  どこに行くんだろう……?

それさえも訊けぬまま日花里は口を閉じている。
車に乗ってどれくらいの時間が過ぎただろうか。もう三十分くらいは過ぎている。
坂の上に辿り着き、敦は駐車場に車を停めた。
サイドブレーキを引く音が密閉された車内に響いた。
目を向けてみれば、その駐車場は、ヒルズレストラン専用のものだった。
ヒルズと名前がつくくらい、ここは頂に位置している場所で、横から見える窓の外に広がる景色に気付いて日花里の目は奪われた。
その下に広がる街並みの灯りが夜のイルミネーションになって、さながら宝石箱をひっくり返したように煌いている。
目を奪われたままでいると、静かな空間で彼が口を動かすのも分かるようだった。
「……ここ、穴場なんだ」
「……あ」
その敦の台詞で連れて来てくれたのだと知った。だけど、日花里には言葉が上手く紡ぎ出せないでいた。
手に自ずと力が入り、かえって顔は向けることが出来ず頭の中は言葉にならない思いがぐるぐる回る。
 そこに在るのは気まずい沈黙。

  何から言えば……?
  えーと、仕事?本当は忙しいんじゃ?
  なんて言ったら、今日は休みだって言ったって言われるかな……。
  えーと、えーと、……。

「……まぁ、とりあえず、食事に行きましょうか」
そう言った敦はエンジンを切ってドアを開けて外に出た。
動かないままの日花里に、敦は言う。
「レストランの中からも綺麗だよ、夜景」
そう言われて、このまま座っているのは許されないのだと知った。
 冷たい空気が顔を刺していくようだった。
日花里が車を出て、近くまで来るのを待ってから歩き出した敦。
ちょっと前までのようにすぐ横に並ぶ事はできなかった。
ちょっと後ろを歩くようにして進んでいると、いつの間にやら足を止めて日花里が横に来るのを待っていた敦は、腰にそっと腕を回しエスコートするように歩き出した。
 その仕草に日花里の心臓は大きく音をたてていた。

  な、なに……?
  なんで、こんな事、自然に出来ちゃうの?
  ……当たり前の、ことなのかな?
  戸惑っているのは私だけ?

 店に入り通された席は、景色が良く見える窓側の所だった。
敦が言ったとおり、綺麗な景色でずっと見惚れていてしまいそうな……。
 料理が運ばれてくるまでの時間殆どを日花里はそれに費やしていた。
そんな様子を敦は見ながら一人優しく微笑んでいた。
店内は少しざわついているものの、それは心地の良いもので静かと表現しても良いくらいのものだった。
 料理が運ばれてきてからやっと言葉を交わすようになっていた。
「そう言えば、出た所で誰に電話しようとしていたの?」
「え?会社の人……」
それを聞いて数瞬の沈黙があった。
「……そう、会社の人、ね」
その言葉には含みがあるのを感じた。
それに戸惑い日花里の目は泳ぎテーブルの上に落ち着いた。
 聞きたいこと、言いたいこと、何一つ言えないままだ。
「槙田さんって、会社の人に人気あるよね」
さっきの反応で、次に出された台詞は何の繋がりもないものだった。
反対に拍子を抜かれた気持ちになった日花里。
「え?そんな事はないけど?」
「あるよ」
日花里の反応に対し、敦はやけにはっきりと言った。
それに対して少なからずムキになる日花里は言う。
「仕事手伝ってもらうのに、そうやって言ってるだけじゃない?皆調子いいから」
「男性だけで飲みに行った時は必ず話題に出るよ」
「……え?」
「気になる?」
「そりゃあ……」
「じゃあ、話してた事言うから実際の所どうか答えてくれる?」
「え?……う、うん」
うろたえながらも頷くと、敦はにっこりと笑顔を見せた。
「付き合ってる人がいないのが不思議だって。いないって、ホント?」
「……ほんとだよ」
「今まではどうだったの?」
「今までは、……まぁいた事はあったけど」
「けど?」
「え?」
「同じ会社の人とか?」
「えーと、それはなかったと思う……」
「ふーん?社内恋愛は避ける方?」
「まぁ。後々面倒だし」
「だから、誰が好意を示してきても無視してるの?」
「?……そんな奇特な人いないと思うよ?」
「……なんで?」
「なんでって、私可愛くない性格してるし。好まれるような中身じゃないって本人も自覚してるし。私が男でも選ばないと思うから」
至って冷静にそう言っていた日花里だった。
それに敦は手を止めて眺めていた。
「……槙田さんって、一緒にいるとき必ず自分を卑下するような事言うよね」
その台詞に、一瞬日花里は固まった。そしてすぐに頭に血が上ってくる感覚に襲われた。
「別に、そんなんじゃ……っ。客観的に思ってる事を言っただけなんだけど?」
「俺には思い切り主観的に言っているように聞こえたけど?」
「むぅ。遠野君がそういう風に取った事まで私の責任下じゃありません」
「はい、そーですね」
日花里の気が立った声に返すように敦は言った。
それで余計に心の中ではストレスたるものが駆け巡っている。
ムカムカとしながら日花里は料理を口に運ぶ。
「……なんで、俺を避けようとするの?」
料理を口に運びながら、静かな口調で敦は言った。
それに戸惑いを感じならも、日花里は素直に口にした。
先ほどのイラつきが背中を押しているようだった。
「……元々私、学生時代を知っている人と会いたくないの」
「……なんで?」
「イヤなの。自分が全然変わってないような気がして。嫌いな自分のままで、相手から見れば興味本位にネタにされるし。昔の事は思い出したくないから」
何かを吐き出すように言った日花里。

  別にこんな事、言いたい訳じゃないのに。
  言うだけ嫌な気分になるのに。

それに、敦はいつもと変わらない様子で口を開く。
「えーと、気にしすぎじゃない?」
「でも!」
「変わったとか変わってないとか、それは他人が勝手に判断する事で、まぁ人間は変わってないんだから、表現するとしたら、あの頃と何が違うって、成長した、っていう事なんだと思うけど。
俺も説明へただから上手く言葉には出来ていないけど。
そりゃ俺も、一緒にいて堤さんの事思い出したりはするけど、悪い何かを感じる事はないよ?」
それには納得できていない目を向けてくる日花里。
「だって、あの頃の君がいるから、今の君がいるんだろう?
堤さんの笑顔も、槙田さんの笑顔も変わってないよ。
俺が覚えている限り、可愛いまま。
俺が言って聞いてくれるか分からないけど、君は君のままでいい。十分魅力あるから」
彼に言われたその台詞に驚きで目が大きく開かれたのを自分でも感じた。
それを自分で思うのと、人から言われるのとでは、心に受けるものが違った。
心の中に広がっていく。まるで温かいものが体中に広がっていく感じに似ていた。
 その次の瞬間から心が軽くなった。
「…………ありがとう」
それは小さな声だった。でも、届かない大きさではない。
自分の内面に対してお褒めの言葉を頂戴した時は素直にお礼が言えない自分が、今不思議とそう口にしていた。






 彼女に言った事は本心だった。
何故いつも、自分の事を否定するような言葉を口にするのだろう。
彼女自身の気持ちを聞くと、いつもあやふやな事しか返ってこないのだろう。
そう考えていた。
何かを聞こうとしても、彼女ははっきりと答えてくれない。
それならば、少々怒らせた方が、口数が多くなるのではないか?
そう考えた。それは当たりだった訳だが。
人間、自分の意見を真っ向から否定されれば怒りを感じると言うもの。
それで気を惹き付けておいて、自分が思った事を言った。
……ただ、受け流さないで聞いて欲しかった。
 そうは言っても、またいつものように否定する事を言うのかとも思った。
だが、驚いた顔をした彼女が紡いだ言葉は「ありがとう」だった。
それも恥ずかしそうに。
こちらの方が照れてしまいそうになった。
彼女のふとした表情や仕草は妙に心がくすぐられる。
 ……でも、一番訊きたい事はまだ耳に出来ていない。

食後の飲み物を口にしていた。
カップをソーサーに置いた彼女が控えめがちな視線を向けた。
だが、目が合うと何か言いたげな顔をしたまま伏せてしまった。
「なに?」
気になってそう聞いた。
「ううん、なにも?」
「……ないって言う顔じゃないけど?」
「そお?」
「気になるんだけど」
「……、遠野君って、オンナ慣れしてるよね」
何か意味ありげな笑みを浮かべた目で日花里は言った。
「お、オンナ慣れ?」
戸惑いながらオウム返しのように口にすると、彼女はただ笑いを溢していた。

  ……俺、振り回されてる?もしかして。

そう思って日花里に目を向けてみる。
今はもう彼女は、ふっとした顔をしていた。
どこか寂しげな遠い所を眺めているような眼差し。

  女って不思議……。
  ……しかし、オンナ慣れ、ねぇ?

彼女が飲み終えたのを見て自然に言葉を紡いだ。
「では出ましょうか」
「あ、うん」
 店の外に出てから、そのまま車に乗り込んだ。
外は時間が経つごとに冷え込んでいた。吐く息も白く、体も自然とすぼめてしまう。
車の中もすっかり冷えている。
とりあえずエンジンをかけたものの、両手は太腿の下に入れて暖めていた。
いつまで経っても走り出そうとしないから不安そうに見上げる日花里に気づいて少し困ったように微笑を浮かべた。
 敦が黙っていても、日花里が口を開く事はない。
車内はずっと沈黙のままだった。
 訊きたい事は色々とあった。
だけど、それをどんな風に切り出そうか迷っていた。
心臓は勝手に騒ぎたてているから、余計に言葉が思いつかない。
そっと目を向けてみれば、彼女は困ったように俯いていた。
「寒いね」
「え?そう?」
「うん。俺全然温もらない」
「……あ、寒い中外に立ってたから?……ごめん」
本当にすまなそうにしている彼女に意味ありげな笑みとともに言った。
「大丈夫だよ、その体で暖めてもらえば」
それを聞いた途端、気まずそうに顔を伏せてしまった。
思わず苦笑する敦。
そしてすぐ訪れる気まずい沈黙。短い時間でも長く感じる。
その静かな中、敦が息を吸って吐いてをし、すぐ声を放った。
「……先週、殆ど俺が、……無理矢理だったから、……それで?」
静かな声だった。それでも、悲しげな声だった。
心臓はざわめきたてているのに。
「……え?……あ、えと……」
明らかに困惑している様子の日花里に、敦は言葉を続ける。
「それで、ずっと怒ってて、今口を利いてくれないの?」
それに日花里の表情に動揺が見えた。
「え、いや、そんなんじゃ……」
「じゃあ何?」
敦ははっきりと訊ねた。
「……何って……」
日花里の手はバッグの持ち手をぎゅっと握り戸惑いを見せていた。
 顔も向けない、目も合わせない日花里を見て、敦はシートに身を預けると息を吐いた。
それにさえ、日花里の体はびくっと反応を見せた。
そんな様子に気付いて、敦は気落ちした表情を向け、口を開いた。
「怒ってるんじゃないなら、怖がられているとか?嫌われてるとか?」
半ば攻めるような言い方にも聞こえただろう。
「え、や、……あの、……」
彼女の動揺が目に見える。
「何?」
それでも敦は強い口調でしかいられなかった。
「あ、そんなんじゃなく、て……」
「じゃ、本当は何?」
「その……」
うろたえたまま顔を伏せている様子に敦は言う。
「俺の事、どんな風に思ってるの?今まで再三訊いたけど」
「ど、どんな風にって……。そんな事、私に聞くような事じゃないでしょ?」
日花里のその反応に、敦の感情は激しい何かを見せる。
「それはじゃあ俺の事どうでもいいって事?何とも思ってないって事?」
「だって……、遠野君なら私じゃなくたって、相手なんて他にいるでしょ……?
単に、あの、同級生で懐かしかったから、でしょう?私なんて別に……。
もういい歳なんだし、ちゃんと割り切れるから……、そんなに気にしてもらわなくても」
「それって言い換えたら、俺なんて所詮遊びだったって事?もう近寄るなって?迷惑だって言ってるの?」
彼女からすれば思ってもいなかった台詞だったかもしれない。
「……え?」
他に何も言葉が出ないと言うほど驚いた顔をする日花里を見て、荒いでいた心は急に静まり返った。
今日を最悪な日にしたいんじゃない。
「……言ってみただけだよ。分かってるよ。槙田さんがそんな人じゃないって事くらい」
「え?なん……」
不思議そうな顔をした日花里を、笑みを浮かべた目で見つめると敦は言う。
「男慣れしていないって言ってたから、その体が」
途端に日花里は顔を伏せてしまった。
「でも、槙田さんからしたら、俺ってサイテーな男じゃん。そんな風に思われてたなんて。
……ちゃんと振られでもしたらまだ諦めつくけど、そっちの方がタチ悪いよ」
手の甲を額にあて顔を隠すようにした敦だった。
もう本当に最低な気分だった。
「だって、……今週、忙しかったでしょ?それこそ、先週の比じゃないくらい。だから金曜日だけじゃなくて土曜日も出勤かもって思って。それ、に、会社の子と、約束、してたでしょ……?だから、私だけじゃなくて……。そう思ったし……」
最後の台詞は弱々しい口調になっていた。
それに顔を向けた敦は、言葉の意味を探りながら口を開いた。
「会社の子……?……もしかして、うちの会社に来た時、給湯室に俺いた?そこでの、こと?」
言いながら頭は動いていた。同僚にも同じ様な事を言われていたから、思い出した。
それには静かに頷いた日花里。
それを見て、敦の心には衝撃に似たものが走った。
参った、と言うように額に手を当て数秒そのままでいた。
様々な思いが体中を駆け巡る。
行き場のない憤り、肩を落としたくなる位の脱力感、他にも色々と。
静かに手を離して日花里に顔を向けると、静かに言葉を口にした。
「それで?……だから、鍵を……?」
それには顔を窓に向け答えてくれなかった。
だけど、手に取るようにわかってしまった。
反対に泣きたい気持ちになった。
「誘ったのは一人だけだよ……。第一、俺の行動とか見てたら、……分かってるだろう?」
「し、知らないよ、そんな事……!大体、別に何かを言われてた訳じゃないし、そんな私なんて……。分かんないよ、どう思われてるなんて、どうして分かるの?」
震えた声で普段よりも早口にそう言った彼女は手に力を入れて目を下に向けていた。
その姿に胸を打たれて、敦は言った。
「……それは、ごめんなさい」
そんな言葉を言われるなんて思っていなかったのか、日花里はただ驚いた顔を向けた。
それでも敦は声を放つ。
「じゃあ、さ、前の、夜は槙田さんにとってどーいう?」
無意識に目は縋るように彼女を見つめていただろう。
本当にそんな気持ちだったから。
「この歳になれば、一夜の過ち位、……ね。時期もあるし、……会社の子でも、イブだけ誰かと過ごすように頑張ってみたりとかさ」
「だから俺もそうだと?」
敦のその問に日花里は答えない。
頬杖をついて明後日の方向にため息を吐いた敦。
「じゃなければ、槙田さんからすれば、俺はそういう対象でしかないと?」
「え?なに?」
そう言って目を向けた彼女は意味が分かっていないようだった。
「……確かに俺、強引だったかもしれないけど、過ちとかそんな風には……」
はっとしたような顔で日花里は敦を見つめていた。
そんな彼女に、敦は目を向ける。
何か言いたげな、不安そうな顔を向けてくる彼女を見ると、それまで確実に浮かんでいたはずの言葉がどこかへ消えてしまった。

  彼女は無防備だ。
  そんな顔を見せられて、……男がどうなるかなんて考えてない……。

心の中と体の中で湧き上がるモノに、敦はぐっと堪えを見せる。
 今ここで衝動に負けて動いてしまえば、また同じ事を繰り返すだけだ、と理性が言っている。
「男にだって、イブは特別な日に変わりないよ?」
「……」
掠れそうになりながら言った台詞だったが、彼女は何も答えなかった。

  どうしようか。
  きっと何を言っても彼女は曖昧な事しか言ってくれないかな。
  ここは、思い切って勝負に出てみようか……。

「次は、どうする?」
次に向かう場所は?
そう、期待を込めて聞いた台詞だった。
「……っ、意地悪!もう!いじわるいじわる!なんで、いつも私にばかり訊いてくるの!
いつも訊いてくるだけなの?!」
初めて聞いた、感情的に出た言葉。もしかしたら、次には泣き出してしまうのではないかと思うくらいのそれ。

  あ〜〜、撃沈。

「分かりました。家に送ります。ごめん」
半ば投げやりだったかもしれない。その言い方は。
ぐっと何かを飲み込んだように口を閉じて、手に力を入れ俯いてしまった日花里に、諦めたように小さく息を吐いた。
サイドブレーキを下ろし車をゆっくりと発進させた。
 車の中は沈黙しかなかった。
最初は俯いていた日花里だったが、次第に外の景色に目を向けているようだった。
入っていた力が抜けているように見えた。
 何か言葉をかけようと思うのだが、気の利いた言葉が頭に浮かばない。
参ったな、と思いながらハンドルを握っている。

  諦めなくちゃいけないのかもしれない……。

そう思った時だった。
 ポツリと、日花里が声を放った。
「……夜景の見えるトコで、まだ飲みたいな」
「え?いいの?」
思わずそう聞き返していた。後で思えば、なんと気の回らない言葉なのか。
「うん……」
彼女はそうはっきりと返事をした。
思わず手を上げて歓喜の声を上げてしまいたい心境に駆られたが、そこは必死に押さえ冷静を保っているように見せた。
そして、運転を続けながら考える。

  ……そういう意味に、捉えてよいのでしょうか?

2006.1.28

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