羽を届けてくれた人

聖夜の贈り物


6、囚われの夜長


 彼女の身体に触れて、余裕のない自分がいた。
思いやれないまま夢中で貪るように……。
「…………日花里……」
口から彼女の名が零れたのも、無意識だった。
彼女に触れた途端、いつもいるはずの自分が姿を消した。
そして気がついた時には。

  やばっ……!

そう思った次の瞬間に彼女の中で欲望を吐き出し果てていた。
「…………ごめん」
そう言葉を漏らして彼女から離れた。
「……ん」
小さな声が背中から聞こえてくる。

  俺、サイッテー……。

一気に自己嫌悪に陥った。
ベッドの端に腰掛け一人ごそごそと後始末をしている間に、彼女はかけ布団を肩までかけ身を隠していた。
布団の端を捲り敦も中に入っていく。
日花里は顔を伏せたままで微妙な緊張感が何とも気まずかった。
それでも、彼女を見つめていると心臓はドキドキと言っている。
じっと見ていれば、彼女の顔に昔の姿を目にする事もある。けれど、それは敦にはさほど大した事ではなかった。
 ふと、日花里が目を向けた。どこか控えめがちな眼差しに、敦の心にはつい先程までとは違う感情が湧き起こる。
布団の端を握っている日花里の手を、そっと握った。
「白いよね、肌」
「あ、うん。手見ただけで、よく、そう言われる」
コトを終えた後だと言うのに、治まったはずの感情がじわじわと湧き上がってくるのを自分の中に感じる。
 彼女に向かって身を小さく上げた。すると布団もあがったので華奢で白い肩が目に見えた。それに目は勝手にくぎつけになっていた。
触れれば滑らかな感触を奏でるそれに、敦の体内は自分の意思とは無関係に熱くなっていく。
さっきの手は繋いだまま、彼女にぴったりと寄った。
彼女の身体はビクリと反応を示す。
敦はゆっくり顔を近づけていき唇を重ねた。
「さっきは締まり良すぎで。……だからリベンジ」
笑みを浮かべた瞳で見つめそう言うと、最後の言葉に驚いた日花里を組み敷いた敦。
「……ぁ」
戸惑いに声を出そうとした日花里の口を塞ぎキスで攻める。
余計な言葉なんて聞かないために。
 彼女の唇の柔らかさも総てを自分のものにする為に。

熱い疼きに気が遠くなってしまいそうになるのをひしひしと感じながら彼女に愛撫の手を進める。進めたそこが彼女の感覚の場所なら、ピクと反応を示した。
何かを堪えるように漏れる吐息から、声は我慢しているように見える。
首筋にキスを落とせば身体を震わすのに堪えるような様子は変わらなかった。
 なぜもっと求めてくれないんだろう、と思いながらも、敦が日花里を求める気持ちは止まない。
声を押し殺して身を捩る彼女の中心になぞる様に指を入れていく。最初の時のそれよりも執拗に。
それだけで彼女の口から抑えきれない声が漏れた。
それだけで敦はぞくぞくした。今まで感じた事のないこの昂揚感に何もかも任せてしまいたくなった。それから緩慢な動きと大胆な動きとで彼女を攻め立てながらも焦らしていく。
「……ぁん、……っ、んんっ」
耐えられず出たであろう声。息はもう喘いでいるのに。
 彼女の震える腕が少し敦に向かって上げられた。だが、一瞬の躊躇いが見られた後、手を口元に持っていった。てっきり自分に腕を伸ばしてくると思ったのに。
「は、……ぁん……っ」
「気持ちいい?」
「……ん」
休む間なく与え続けるそれらに、彼女は下肢に力をいれ腰はもう浮きかけている。
「……日花里、……どうしてほしい?」
耐えられないと言う様子で目を瞑り、顔を背けた。
「……やっ……」
それに彼女の肩の上に肘を折った腕を置き、熱くずっと主張を続けている自分のそれを押し当てた。そして彼女の耳元で言う。
「どうする?」
静かだけど熱のこもった声に、本当は余裕のない自分に気付く。
彼女は、潤んだ目を縋るように向けた。
……もうそれだけで充分だった。
最初の時に置いたままの、ヘッドボードに置いたゴムを取り装着を終えると、彼女の中へと身を沈めた。一度目の時よりもスムーズなそれにさえ与えられる快感は敦の身を襲う。
思わず零れる声。それは彼女の口からも同じだった。
一度目の失敗を犯さぬようにと、ゆっくりと動いていく。それだけでも、彼女の中は捕まえ様と蠢いてくる。
自分の起こす律動で日花里の口から漏れる嬌声に興奮すら覚える。
「……ぁっ、あっ、ぁん」
今一番可愛い彼女に言わないではいられなかった。
いつもは、逃げてしまいそうになるから。
「……日花里、日花里……。大事にするから、だから、……っ」
そんな想いさえ敦の抽送に刻まれる。彼女を攻め立てるのと同時に自分をも追い詰める。
「……ぁぁあ、……もっ、―――!」
そして訪れた高みへと誘う波に二人は呑まれていった。





 休日のその日の空は厚い雲に覆われていて、見るからに寒そうだった。
折角の休みと言うのに日花里は外に出ようとしなかった。
昼時、感情的でもある声がその家に響いていた。
「ちょっと聞いてるの?!日花里!」
日花里はそう言われても顔を向けようとしないままだった。
「年頃のっ、嫁入り前の女の子が!変な噂たってご縁逃したらどーするの?!」
無言のまま席を立ち食べ終わった物をシンクに運ぶとスポンジに洗剤をつけ洗い始める。
「ただでさえ27にもなって……、浮いた話の一つもないのに!」
食器を洗っている間、ヒステリックな声が右から左へと流れていく。
何も返事をせず茶碗を洗い終わりタオルで手を拭く。
「私一人なんだからちゃんとしてもらわないと困るでしょう!何か言われるの私なのよ!」
「……はいはい」
「ちゃんと聞いてるの?!」
「聞いてます。いい加減出ないと約束の時間に間に合わないんじゃない?」
冷めた目つきで抑揚なく言うとそれ以上は何も言わず自分の部屋へと向かった。
 部屋の戸を閉め中に入ると、崩れ落ちるようにベッドの上に横たわった。
昨日からずっと体がだるい。

  まるで、自分の体じゃないみたい……。

沈んでいこうとする体の重さに任せるように静かに目を閉じた。
 すると、思いはあの時の事へと流されていく。


はっきりとしない意識の中、ただ彼の胸の中で彼の温かさを感じていた。
彼は守るように優しく包み込んでくれていた。
それはすごく安心できて心が満たされるような嬉しさがあった。
日花里の様子に心配して訊ねた彼。
 「大丈夫?」と。
ままならない体に翻弄されたままの日花里は声を出すのもしんどそうだった。
 「……ん。」
そう一言だけ。
朝と言うのには遅い時間にようやっと日花里が目を開けた。
そこには、腕枕をしたまま目を閉じている敦の顔があった。
 「……遠野君?」
掠れてしまいそうな声で呼んだ。
すると彼はすぐに目を開けて微笑みを見せた。そのまま抱き締めるようにもう片方の腕を回してきた。そして聞こえてきた彼の声。
 「やっと起きたの?」と。
その言葉だけで、彼が何度も目を覚ましていたのが分かる。
 すぐに起きる事はせず、布団の中にそのままの状態でゆっくりしていた。
布団も布団の中も部屋中、彼の匂いでいっぱいだった。
夕べの余韻が冷めていないのかと思うほど、頭の中が痺れているような感覚だった。
 その場所は静かだった。
だけど、その沈黙は全く気まずくなく反対に心地良いもので、まるで海の中にいて波にゆらゆらと揺れているような感覚だった。
 そんな中、彼が24日の土曜日の事を訊ねてきた。
それにうつらうつらとしながら答えた。
 「うん、何時に終わるか分からないから……。その日の仕事の進み具合で。」
それを聞いた彼は、そこから少し移動し引き出しに手を伸ばすと日花里の手に小さくてひやりと冷たいものを置いた。
もそもそと布団の中に身を入れて、日花里を、笑みを浮かべた目で見つめながら言った。
 「何時になってもいいよ。家で待ってるから」
手渡されたのは敦の家の鍵。そして、クリスマスイブの約束。


 何も握っていないその手をぎゅうっと握り締めた。
なぜだか、そうせずにはいられなかった。
 ずっと、同じ事が頭の中をぐるぐると回っている。

  あんな風になったの、……初めてだった……。
  いっぱいいっぱいで体中が熱くなって何も分からなくなってた。
  何も考えられなくなって、何されてるとか何を言われてたのかも覚えてない……。
  憶えてるのは、彼の匂いと…………

そして、自分の掌を見つめると、堪らずといった様子で顔をその両手で覆った。

  ……分からない。分からない!
  ……普通の女の子だったら、幸せいっぱいになってるだろうに。
  これからの事に身を躍らせているかもしれない。
  なのに、何で私は、……こんなに怖いんだろう?
  不安になってるんだろう?
  わかんない……

日花里は苦しい思いに襲われて身を硬くした……。

 そして、夜。
リビングで一人、ソファに座りテレビを眺めていた。
別に夢中になって見ていた訳じゃない。気晴らしに見ていた、と言う方が尤もだろうか。
 横に置いていた携帯電話が着信を知らせた。それはEメールの着信音。
無造作に開けて中を見る。

≪From遠野クン
 Sub(無題)
 今日、何してた?≫

メニューボタンを押して返信画面にする。
≪TO遠野クン
 Sub Re:
 ずっとのんびりしてたよ。
 年末は忙しいから、休める時に休んでおかないとね≫
そして送信すると、間もなくしてメールの着信。

≪From遠野クン
 Sub 同感(^-^)/
 月曜から山場になるね≫

  えーと、何て返そう……。

心の中は混沌として気持ちが言葉にならない状態で、すぐに返信の言葉が浮かんでこなかった。それでも、差し障りのない言葉を選んで打つ。

≪TO遠野クン
 Sub (*^-^)b
 それを乗り越えれば正月休み♪
 体調崩す事無く、お互い頑張ろうね
 夜更かしもしないようにねー≫

≪From遠野クン
 Sub はーい(^-^)/
 じゃあ準備して、そろそろ寝ますー≫

≪TO遠野クン
 Sub じゃあ(^-^)ノ~~
 おやすみーまたね≫

≪From遠野クン
 Sub はーい(^-^)/
 おやすみー≫

その最後に届いたメールを読んでから、テレビを消して部屋へと入っていった。
顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。


 その日もいつもと変わらない様子で仕事をしている、つもりだった。
日花里の中では。
社内にある食堂で昼食をとっていた。端の席で今日は一人。
ふと気がつけば、箸を持つ手は止まっていて物思いに耽っている自分。
すぐ我に返り、何もなかったように手を進める。
口の中に入れた物を飲み込んだ後で、自然と目は窓の向こうに止まっていた。
別にそこに何かが見える訳ではないのに。
「…………はぁ」
勝手に出てしまうため息。
ちぐはぐな自分を感じてやるせない気持ちに駆られる。
 どうすれば良いのか、全く分からなかったから……。
「なんかやらかした?」
突然降ってきた声に、心臓が跳ねたのを感じながら慌てて顔を向けた。
「え?別に何も……。なんで?」
驚いた目を向けてそう言った。
そこにいたのは、トレーに食後のコーヒーを持った武藤だった。
「今日は一人?」
「うん。斉藤さん、仕事圧してるから」
「そうなんだ」
日花里の向かいに座った武藤。コーヒーにフレッシュをいれ静かにスプーンでかき混ぜながら口を開いた。
「朝は機嫌良さそうだったのに、今はなんか浮かない顔してるから」
「……。まぁ、確かに今日は仕事の捗りは悪いかもね」
「うーん、アノ日?」
「は?!」
「あ、違う。じゃあ、苅谷君に何か?」
「うーん、至って何も。毎年この時期って、仕事忙しいんだよね。年末年始休む為に」
「まぁね。実際はクリスマスイブとか言っている暇ないよねー」
「そー、だよね。……合同プロジェクトもあるし今年は一際忙しそうだよね」
「そーなんだよねー。先週俺のとこのチームが忙しかったから、今週は苅谷君のとこのチームが忙しくなってると思うよ」
「そっか……」
苅谷のトコのチームと聞いて頭に浮かべるのは敦の顔。
先週は、本当に武藤は毎日の様に遅い時間まで仕事をしていた。チームでの仕事だから一人でするのと勝手が違うという理由もあった。

  ……じゃあ、無理かな……。

「どうしたの?凄く気落ちしてるみたいだけど?」
「え?ほらだって、雑用頼まれるの私だし」
「ああ、そういう理由かぁ」
「そうそう。心配してくださってありがとうございますー」
顔に笑顔を作って日花里はそう言った。
「いえいえ。いつも気になってるだけですから」
自分を心配してくれた武藤の優しさが心を撫でて落ち着かせてくれようとしている気がして、日花里は何だか泣きたい気持ちになっていた。


  なんだろう……。泣きたい気持ちになってる。
  別に何かあった訳じゃないのに。私、変だ……。

その気持ちを引きずったまま、午後の勤務に入っていた。
溢れていきそうなその思いを自分の中にひしひしと感じている。だから、今にも泣きそうな顔をしている事だろう。

もっとも、周りからすれば、浮かない顔をしていても大差ない事だわ……。

そう思う事で、まだ膨れ上がりそうな気持ちを抑え無理矢理何も考えないようにした。
 デスクでの仕事を片付けている時、卓上カレンダーに目を向けてみて何だか気にかかった。

  あれ?なんかあったけ?

それが何なのか思い出せず、暫く見つめながら頭に集中させる。
少し時間がかかっても関連する映像が浮かんでくる……。

  あ、思い出した。
  苅谷君に頼まれてたんだっけ。明日中にって言われた仕様書の製本。

近くにいた人間に仕様書作りに行くと伝えてから引き出しに入れていたフロッピーディスクを取り出してから部署を離れた。
 仕様書を作るのに必要な物が置いてある少人数用の会議室へと向かう。
そしてその静かな空間で一人作業を始めてからどれだけの時間が過ぎたのかと袖口を上げて腕時計を確認する。後10分もすれば3時の休憩時間に入る。

  チャイム鳴る前にいつもの買いに行って、ここでのんびりしようかな。

そんな事を考え、すぐ目の前の業務だけに頭は集中していた。
その静かな場所へ誰か訪れたのかノックの音が響き、日花里ははっと我に返った。
時間にすれば、その間5分くらいの長さ。
「はい、どーぞ?」
ノックをしてから開く気配のないドアにそう声を放った。
そうしてからドアが開き、日花里の目には紙コップを片手に2つ持ったスーツ姿の男性が見えた。その目に入った胸元から顔に向けてみれば、それは敦だった。
「こんちわ」
彼の声を耳にして、彼の姿と笑顔を目にして、日花里の心臓は急に騒がしくなった。
ついさっきまで何もなかった手の動きがスムーズさを欠いた様な緊張が身体を纏った。
ドアを閉め中に入ってくると片手に持っていた書類をテーブルに置いてから、紙コップを一つ差し出してきた彼。
「はい、どーぞ」
「あ、ありがと」
それを受け取ってみれば、ホットレモンティーだった。
 他の人から見れば、他愛もない事。
けど、日花里にとってはそれだけで胸が熱くなるような思いになった。
敦と2人でいる時に、前に1度だけ話しただけの事だった。

  3時の休憩時間は、寒くなるといつもホットレモンティーを飲んでるんだ。
  それが、社内何台かあるうちに、1台しかなくて。

  普通、それくらいの話、男性だったらすぐに忘れてしまうような事なのに。

日花里が言葉に困っていると、敦が口を開いた。
「あと、これ。苅谷君から」
テーブルに置いた書類を再び手にとって差し出した敦に、日花里はやっと声を出せた。
「内線くれたら取りに行ったのに。今、忙しいでしょう?」
それに微笑を浮かべて敦は口にした。
「うん?いいんだ。今煮詰まってて気分転換する時間になったから」
「あれ?ここ……」

  ここの場所がなんで分かったの?

「苅谷君が部署に内線したら槙田さんは仕様書作成に席外してるって言われたから、多分ここだろうって言うんで、俺が来てみた」
「ああ、なるほど……」
納得してそう声を出してから、敦の最後の言葉の意味に気がついた。
 ……相手が君だから僕が。
すると忽ちどんな顔をして良いのか分からなくなって、敦の顔を見られなくなってしまっていた。
敦は自分の分の飲み物に口をつけ、日花里の仕事である書類に目を向けているようだった。
 そして気がついた。
彼との距離が以前より近い事に。
人間同士が近くで立っている時、必ず距離がある。それはお互いの心の現われをあらわしている様なもので、一定以上の距離は保たれていた。
でも今は、醸し出された雰囲気はお互いを引き寄せているようなものに見える。
その事に気がついて、どうしてだか恥ずかしさが襲ってきた。
 それを誤魔化すように顔を逸らしコップに口をつける。
あの時とは違い、今は微かに重い沈黙が居心地悪く感じた。
けれど、無意識のうちに自分の体は彼の所在を求めていた。
日花里の肌は彼の体温を感じているし、鼻腔は彼の匂いに擽られている。
彼に目を向けていなくても、総ての意識は彼に向けられている……。
日花里にはそれはまるで拷問のように感じた。

「今週、始まったばかりなんだよな……」
独り言のように呟かれた敦のそれに、頭の中では昼の時の武藤の言葉が思い出されていた。
 「今週は苅谷君のとこのチームが忙しくなってると思うよ」と。
このプロジェクトメンバーである武藤が、先週忙しかったのは知っている。
毎日殆ど残業続きで、深夜に至った事も何度かあった。
 土曜日、日花里は休日出勤。敦は休みだと言う事を言っていたが、もしかしたら、それはなくなるかもしれない。
そして頭に浮かぶ台詞。
それを一番の正当な理由にして。

  「今週忙しいんだから、土曜日やめておこうか」

口にしようと思って敦に顔を向ける。その視線に気づいてこちらを振り返る彼。
だが、口は全く開かなかった。
台詞は頭の中をぐるぐる回っているのに。
「どうかした?」
そう訊ねてきた彼。
言うには好都合のタイミング。なのに、ちっとも台詞が声に出てこなかった。
「う、ううん。なんでもないよ」
か細くなっていった声。それに含まれるのは躊躇いなのに。
「そう?」
日花里の気持ちとは裏腹に、敦の声は何も気付いていない様子だった。

  ダメだ……。
  ……そうだ、仕事、しなくちゃ。

ぼんやりと頭は今自分がすべき事を思い出し、ゆっくりと身体をテーブルに向けた。
今日はサイドの髪を髪留めで止めていて、いつもより首が出ていた。
服装は大体パンツスーツか、それでなければ膝が余裕に隠れる長さのスカートだった。
今日は珍しくスリットの入ったスカートに柄入りのクリーム色のパンスト。勿論、丈は短くはなく穏やかな雰囲気なモノだった。
 日花里は束になった用紙を手にし中身に目を向けていた。
まだ落ち着かない心臓をひた隠しにして、どうにか平生を装っていた。
気を抜けば、意識総てが彼に向かっていってしまう。
口をきゅっと閉じて本能を押し込めるようにして日花里はそこに立っていた。
 はっと気が着いた時には彼の匂いがふわっと押し寄せてきていた。
その瞬間に、体中に痺れが奔った様になり心臓が大きく声を上げたように感じた。
気が付けば彼の手は、日花里のすぐ横、テーブルに置かれている。だが、彼の胸元は包むように日花里の背に添えられている。
思いもしなかった行動に、日花里はすぐに言葉を紡げなかった。
無意識に顔を俯かせてしまう。緊張のため力が入ってしまう身体。
 でも、ここは社内の会議室、と頭の中に注意の声が響く。
「と、遠野君?あの……」
日花里の戸惑いの後に、包み込むような温もりが覆った。そして放たれる穏やかな口調の声。
「仕事、頑張ってね」
何も変わったことのない言葉なのに、顔が赤くなっていくような感覚が日花里を襲った。
「あ、うん、ありがとう……」
やっとの思いでそう言った。見た目はいつもと変わりがないように見えても。
その状態のまま身動きの取れなくなっている日花里の耳に、敦が紙コップを手に取りそのままこの会議室を出て行く音が届いた。
 再び訪れた、一人だけの静かな空間に、体中の力が抜けていったような気がした。

  心臓が……っ、緊張で汗が……、……。
  もう……、あたし、おかしい……!

堪らず顔を両手で覆った日花里は、泣きそうな気持ちに襲われていた。


 二日後、仕事をする社員の顔が厳しい表情になってきた頃、一本の電話が日花里の元に来た。外線と言われたそれに、片手で受けながら片手は書類を持ち顔はパソコンの画面を追っていた。
「はい、総務部管理課、槙田です」
「すみません、本当に申し訳ないんですが、あの仕様書、届けてもらえないでしょうか……」
弱々しい語調、本当に頼りない声が受話器の向こうから聞こえてきた。
日花里の眉がピクリとだけ動いた。それ以外は何も変わらず仕事をしている。
「どなた様ですか?」
強い口調だった。あの仕様書、と口にする辺り、相手は分かってはいるのに。
「はい、苅谷です……。本当に申し訳ないと思ってます」
「へぇ?」
「忙しいのは分かってます。ですが!無理を承知でお願いします!」
聞こえてくるのは必死な声だった。
感情的に怒鳴り散らしたいと思う気持ちを抑えて、その反動で出る低い声が言葉を綴る。
「……何時までに?」
「午前中に何とか」
目だけを時計に向けた。
1時までにやり終えなくてはいけない仕事があった。

  この仕事をどうにか10時50分までに終わらせて、
11時45分に戻ってくれば、どうにか間に合う、……かな。

「分かりました。11時15分には届けるようにします。えーと、K社ですよね?」
「はい、そーです」
「じゃあ、受付通すのにK社のどなた様宛で?」
「え、と、遠野君で。一番話が早いと思うから」
「……分かりました。会えずに届けた後は、念の為携帯の方に連絡入れますから」
「分かりました。お願いします」
「……本当に分かってるんでしょうね?」
「……はい。まっこと申し訳ありません」
「はい、じゃあ届けますので」
「はい」
それから尚一層の集中力で仕事を終わらせると、ほぼ予定通りの時刻にK社へと向かった。
十数分にK社の受付を済また日花里は言われた場所へと向かう。
他社の中はあまり落ち着かない。各部屋へと続く廊下も通り過ぎる人も自分を異物として目をくれているようで……。
エレベーターから言われた階で降り、奥に続く廊下へと足を進める。
 この知らない場所に彼はいる。
それが、日花里の心にどんな思いを引き寄せるのか。
途中、給湯室のドア口に肩を寄りかからせている男性社員の後ろ姿を目にした。
その形に日花里の心臓はドキッとなった。それは間違いなく敦だったから。
 彼着付けなのだから、この頼まれ物は彼に渡しても良いだろう。
その方が早い。と頭の中で考えるのと同時に心も動いていた。
ざわつく心臓を胸に彼に向かう足と、言葉を考える頭。
その静かな廊下に、そこからの声が日花里の耳に届いてくる。
「今週は超多忙だから」
敦の声だった。それに返すように女性社員の声が中から聞こえてくる。
「それをこなすのが遠野さんの役目じゃないですかー」
「まぁそうだけどさ」
「だから今週夕食行きましょうよー。明後日とか明々後日とか」
「はは、考えとくよ。でも、そんな時間取れないと思うけどね。仕事おしてるから」
「いーえ、信じて待ってますよー。……で、お茶8つで良かったんでしたっけ?」
「……6つ。」
給湯室に向けられていた筈の日花里の足はその廊下をまっすぐに向かった。
そして、目的の部屋の扉をノックする。
中からの返事を聞いてドアを開けて挨拶の言葉を口にする。
中にいるのは殆ど見知った人間ばかりだった。
K社の人間とも笑顔で言葉を交わしてから、この場にいる苅谷に目的を果たし終えると、再び彼らは笑顔で声をかけてくれた。
「良かったらこのまま一緒にいて、お昼もどうですか?」
「そうさせて頂けたら、私としても光栄なんですけど、生憎急ぎの仕事が入ってるので、すぐ戻らないといけないんです」
「そうですか。それは残念。今遠野は席外してるし、あいつも残念がると思うけど」
思いもよらず敦の名前が出て、日花里はただ無言のままにこり。と笑顔だけで応えた。
それを横目で眺めていた苅谷は冷や汗を浮かべたような顔をしていたが、日花里以外気付いていなかった様だった。
 苅谷の顔を見て、頭には違う事が浮かんだ。

  ……鍵、頼んでしまおうか。
  ちょっと以前物を落とした時に、カバンに入っていたみたいでとか何とか言って。
  ……無理、あるか。
  それにあんまり他の人に知られたくないしな。
  ……諦めるか。

一瞬だけ迷ったように目を伏せて、すぐいつもの表情を浮かべた。
それはきっとその場にいる人間は気付いていないだろう。
日花里の躊躇いや動揺は小さすぎて気付きにくいのだ。
 笑顔のまま挨拶を交わし部屋を出て、1階に早足で日花里は向かった。少しでも早く自社に戻るために。
俄かに緊張を見せていた体も、給湯室に彼の姿がないのを知ると静かになった。
反対に冷たく重いものが底から沸き上がってくるようだった。
行きにあったあの感情が今では嘘のように姿を消していた。
 自分が知らない所での敦の会話を知った瞬間、日花里の視界は狭く暗くなった。
それは誰のせいでもない。そんな事はよく分かっている。
ショックを受けたのは一瞬。
その直後、心を襲ったのは言いようのない後悔と自己嫌悪。まるでそれは絶望にも似た……。
日花里はひたすら歩いた。必死に歩いて、自分を保つ為に忘れてしまおうとした。

  あたしは、ただの同級生……。
  単に、懐かしんで感傷に浸るための存在。
  それはただの暇潰しで、お遊びでしかない。
  自分の都合の良いように考えちゃいけない……。
  それで、散々今まで痛い思いをしてきたでしょ?
  ……割り切ろう。
  期待するような歳じゃない。もう、そんな歳じゃない……。

歩きながら日花里の手は力強く握られていた。
それは気持ちを抑えるためか、痛みに耐えるためか……。




「え?来てもう帰ったって?」
部屋に戻ってきて苅谷の隣に腰を下ろした敦は驚きの声でそう言った。
勝手に肩は落ちてしまう。
「うん、今時間ないみたいで。金曜は休みなんだけど、その代わり土曜出勤なくらい忙しいからさ」
「あー、そんな話してたっけ」
諦めた表情で頬杖をつく敦を何とも言えない顔で眺めている苅谷。
 あれ?いつそんな話してったけ?俺
と内心思っている苅谷だった。
 今日のY社との昼食に向かう中、1階ロビーで会った同僚の田中に声をかけられた。
「よ。見たぞ。庶務課の飯島さんに誘われたじゃん」
「……?……ああ、お茶頼みに行った時のね。あんなの社交辞令だろ」
それは何の事もないように言った敦に、笑顔と共に言う。
「いやぁあれは違うだろー。他のヤツが見たってそう思うぞ?」
「んー?あんまり深い事気にしないからさ。まぁいいじゃんその話は」
「反応薄いな」
「まぁ本音言うと彼女には興味ない」
「きついやっちゃな」
「そーよ?」
悪びれもなく言い切った敦を傍にいた苅谷は眺めていた。
「そーいや、遠野」
聞いていた同じプロジェクトチームの澤が口を開いた。
「なに?」
「あの人とはどうなってんだ?」
「どの人?」
澤の問に田中が聞き返した。
「今こいつが気に入っている人」
「へぇ?いんの」
素っ頓狂な声で言った田中だった。
「そうなんだよ。結構可愛くてな。フリーなのが不思議なくらい。お前先週の飲み会も二人で帰っていったろ?何かしらあったんじゃないのかよ?」
「んー?」
澤の問に敦は笑みを浮かべるだけで何も言葉を発しない。
それに澤と田中の二人は意味ありげに目を細めて声を漏らした。
「怪しい……」
だが敦は素知らぬ顔で言うだけだ。
「さぁね」
それに一人で首を捻る苅谷がいた。


 残業で会社に居残っている間、ふとした時に頭に過ぎるのは彼女の顔。
素直な欲求に従うようにポケットから携帯電話を取り出し画面に目を向ける。
「……」
だが、今週は忙しいと聞いている。
今まだ会社で仕事をしているかもしれない。
もしかしたら、集中しているところかもしれない。
そんな時に着信で気を逸らしてしまうのは気が引ける。
もし帰宅していたとしても、あれだけ忙しそうにしているのなら、もう疲れて休みに入っているかもしれない。
本当は彼女の声を聞きたいけれど、今は我慢する事にした。

彼女の事を思う度に、心の中には切なくて胸が締め付けられる気持ちとぽっと温かくなる気持ちが生まれた。まるで、その度に新しい命のようなものが生まれ出てくるかのような、そんな新鮮にも似たものだった。
 異性との出逢いには、本当の所もう諦めていた。
以前付き合っていた子とも、何となくで相手に押されるまま付き合い始めたようなものだった。その自然と進められるままその女性とはいた。別に目新しい何かを欲しがっていた訳でもないしその女性に何かを求めていた訳じゃない。
それはそれで上手くいっていると思っていたのだ。
だがその女性は去ってしまった。
……今ならその理由が分かるような気がする。なんとなくだが。

  不思議だなぁ。
  人に惹かれるって。

そんな事を思いつつ、携帯電話をポケットにしまった。
暗闇に濡れた窓を見つめる。社内の暖かさで窓は白く曇っていて、外のネオンがぼやけて見えるだけだった。

  今こうして同じ世界に彼女がいると思うだけで、頑張ろうと言う気になれる。
  なんとなく幸せな気分になる……。

心の中でひっそりと思い、そしてまた仕事に取り掛かっていった。


 翌日の木曜日、敦の方は金曜日が休日出勤となっていた。
今週も先が見えて来たその日もバリバリと仕事をこなしていた。
忙しいだけあって、帰宅時間は深夜に及んだ。
綿のように疲れた身体を引きずるようにして家に辿り着かせた。

  あ、郵便受け……

早く横になって休みたいと思う重たい体で真っ直ぐ進もうとしていた足を横に向け郵便受けを開けた。ろくに中身を確かめもせず入っているものを手に取る。
それさえもだるいと言うように腕を下ろしたら、カシャンと金属の冷たい音がそこに響いた。
「?」
それが何なのか思い付きもせず不思議に思いながら顔を向けた。
 目に映ったそれを認識して、敦の思考の全てが一瞬止まった。
「……」
重い身体をゆっくりとしゃがませ空いた手をそれに伸ばした。
指先に感じる冷たい感触が、現実だと告げている。
その状態のまま、ぼんやりと眺めた。
どれだけ見つめてもその姿は変わらない。
変わらない事に、諦めたようにがくりとうな垂れた。
身体にこれ以上力が入らない気がする。
それでも声に出さずにはいられない。
「……嘘だろ、おい」
 彼女に渡したはずの、合鍵がそこにはあったのだから。

  ちょっとこれは、さすがにキツイんだけど……。
2006.1.21

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