羽を届けてくれた人

聖夜の贈り物


4、纏いのない時間U


耳に届いた携帯電話の着信音に、日花里は手を伸ばした。
今日は仕事を終え自宅で夕食をとっていて、ダイニングテーブルに一人だった。
≪Eメール 1件≫のサブディスプレイに、中をあけて確認する。
手が一瞬止まり、日花里はゆっくり息を吐く。

≪From遠野クン
 Sub(無題)
 寒いねーσ(^-^;)
 ようやっとお宅との打ち合わせ終わったよー≫

「……。」
すぐに返事の文面が出てこない。

  何て返そう……。

とりあえず携帯を畳み、横に置くと食事を続ける。
つけたテレビの音は聞こえるけれども、一人の食卓は静かだった。
10分ほどして食べ終わると、再び携帯電話に手を伸ばしメインディスプレイを開けた。

≪TO遠野クン
 Sub Re:
 お仕事お疲れ様(b^-゜)
 寒い帰り道に風邪ひかないようにね。≫

何の変哲もない文章だった。
性格上、届いたメールには返信しないとすっきりしないのだ。
 敦から初めて届いたメールは、あの後の、月曜日だった。
≪昨日?は迷惑かけてごめん。
ご飯美味しかった。ありがとう。
遠野
0X0−……≫
何の問題もないメールに日花里はほっと胸を撫で下ろしていた。
別に何かがあった訳じゃない。
だから、何も気にする必要はないはずなのに。

  彼は、気付いていないはず……。
  気付いていたら、きっと連絡なんてしてこないもの。
  きっと、私の事なんて、知らない、から……。

 日花里は、何もない毎日を送るのだと思っていた。


その数日後、その日もいつもと変わらない一日を送っていた。
昼休憩の時、ポケットに入れていた携帯が振動で着信を伝えた。
なにげなく見てみれば、ここ一日に何度かメールをくれる敦だった。
メインディスプレイをメール受信一覧のまま眺めている。
「……」
数秒躊躇った後、内容を開けてみる。

≪今日はそちらに訪問です(^-^)/
 直帰なので帰り一緒にどうですか?≫

夕食のお誘いだった。
日花里は無言のまま画面を見つめている。

  飲みに行こうってことよね。
  ……武藤君か満井君も一緒よね?
  打ち合わせに来るんだから……

≪TO遠野クン
 Sub Re:
 OKです。ロビーで時間潰して待ってます。≫

それを送信すると、携帯を元の場所に仕舞いいつものように時間を過ごしていった。
仕事をしていれば、滅多な事がない限り余計なことは考えないでいた。
仕事をしている時が、一番気が紛れて楽なのかもしれない。
 定時を過ぎた頃、パソコンでの仕事を終え電源を消すと、デスクの上をそのままに椅子から立ち上がりパーティションの向こうに行き、ホワイトボードを眺める。
そこには各部屋の使用概要等が書いてある。今日使われている部屋を確認すると、外に出て行った。
向かっていたとある会議室から、苅谷が丁度出てきていた。
苅谷は日花里に気がつくと、いつもの調子で声を出した。
「よぉ」
「まだかかってるの?」
「うーん、あと1時間くらいかなぁ。本当はもっと時間かかりそうだったのをK社の人が頑張ってくれてるから」
「ふーん」
何の表情も浮かべずそう口にした日花里に、今思い出したように苅谷は訊いてきた。
「そう言えばさ、この間飲み会の後って、二人で帰ったんだろ?」
「ああ。すごく酔ってたからね」
「あの後、どうした?」
日花里はそう言った苅谷に目を向けた。彼の目は軽薄な期待に満ちた色をしているように見えた。
日花里は目を細め至極冷たく言った。
「好きなように思ってたら?」
それに苅谷は口を噤みそれ以上何も言えなくなった。
 それを置き去りにするくらいの気持ちで日花里は元いた部屋へと戻っていく。
椅子に座ると同時に、デスクのファイル入れの中に置かれている書類に手を伸ばす。
今日、終わらせなくてはいけないものがまだ残っている。

  どっちが先に終わるかな……?

ふとそんな事を思って、日花里の口には笑みが零れていた。

 それから30分が過ぎた頃、日花里は書類をまとめ上司のデスクに置くと片付けに入った。今日はまだ他に残業している社員がいる。
挨拶を交わしてから静かにロッカー室へと向かう。
 帰り支度を終えて、1階のロビーに。
辺りを見渡すも、見知った顔はいない。途中にある自動販売機でホットレモンティーを買うとそれを持って、端に位置するソファーに腰を下ろした。
そこは出入り口からは一番遠い場所。だから、寒い空気が一番こない所だ。
そして、カバンの中から雑誌を取り出し膝の上で広げると目を落とした。
時折、人がここを流れていく。
目は雑誌に向けていても、耳はその音を拾っていく。
だが、日花里が待つ人はまだ現れていない。
静寂の中に身を置き、誰かを待つその時間は、何故だか居心地よく感じた。

  こんな感じ久しぶりかも。
  待たせるより、待つ方が性に合ってるかも。

それは多分短い時間だった。
あまりにも居心地がよくて、時間を忘れていた。
だから、近づいて来ていた足音に気がついたのは、本当にすぐそこで足を止めた音を聞いた時だった。
 雑誌から目を放し、そこに目を向けてみれば、微笑んでいる敦が優しい瞳で日花里を見つめていた。
それに思わず目を奪われてしまうかのような感覚に陥った。
それと同時に勝手に心臓は音をたてていた。
だがすぐ我に返り広げていた雑誌を閉じると笑顔で言葉を放つ。
「お疲れ様。終わったの?」
それに敦は笑顔で口を開いた。
「うん。槙田さんは大丈夫?」
「うん。今日の仕事はちゃんと終わったから」
「じゃ、行こうか」
そう言って出入り口の方に体を向けた敦を見て、反射的に雑誌をカバンに仕舞いその場を立った。飲み終えていた紙コップを手に持つと日花里は歩き始まる。
それを見て敦は歩を進めて行った。
途中のゴミ箱にコップを捨て、敦の後ろを行ったところで日花里は気づいた。

  あれ?他の、人たちは?

敦に無意識に目を向ける日花里。
すぐ敦はその視線に気づき笑顔で言う。
「何か食べたい物ある?」
「え?これと言って特に……」
「じゃあ、焼き鳥とかどう?」
「あ、焼き鳥好き」
心の中では戸惑いが生じているのに。日花里はそれを表に出せないで、敦の言葉に素直に答えていた。

  あれって、二人でっていう事?
  あ、でも、今こうしてるって事は、そういう、こと、だよね?
  ……どうしよう。

それを表に出す事は、日花里には憚られた。
それでも、何かに救いを求めるように敦に目を向けていた。
だが、敦はいつもと変わらぬ様子で日花里の隣を歩いている。
そこにこの前の、ひどく酔っていたときの姿は見えない。

  きっと、知らない。
  遠野君は、昔の事なんて知らない。
  気にしないでおこう。

それはまるで自分に暗示をかけるかのように日花里は心の中で思っていた。


 二人はカウンターの席に肩を並べて座っている。
最初に頼んだ飲み物はもう届いていて、今は頼む物を決めているようだった。しきりに日花里はお品書きを見つめている。
「遠野君、サラダも食べる?」
「あれば食べるよ」
「じゃあ、この大根サラダはどう?」
「それ、美味しいって評判の一品」
「じゃあ、これ。あとはー、遠野君のおススメでお願いします」
「嫌いなものとかない?」
「うん。何でも好き」
 そして、敦が注文したものを口にした日花里は、素直に笑顔になって言っていた。
「うん、おいしい」
それに敦は笑顔を浮かべていた。
その笑顔に気付いた日花里だったが、気づいていないフリをしつつ食べ物の方に目を向けた。ただでさえ、慣れないこのシチュエーションに心臓は落ち着かないままだったから。
食事が中盤に差し掛かった頃、手はグラスにかけたまま敦が言った。
「この間はマジでごめんね」
その台詞に日花里の胸は勝手にドキッと声を上げていた。
「え?う、ううん。一人暮らしなんだね」
「うん。兄貴が結婚して親と同居した時に家を出たんだ」
「そうなんだ。それで彼女と同棲、してたりとか?」

  だって、調味料見たら、女が持ち込むような物があったし……。

「してないよ」
「へー?」
自分が思っていた事と相反する返事に、疑いの眼でそう言っていた。
「何、その目?してないよ、ホントに」
「はいはい」
受け流すような日花里の口調。
「してないって」
意外にしつこく言ってくる敦に、冷静とも言える位にさらりと口にする。
「私、別に否定していないよ?」
「……そーだけど」
平生なフリをしてみせる日花里。
その中の心臓は決して静かではなかったのに。
 だからなのか、いつもの飲み会の時よりアルコールを飲んでしまったのは。


「顔赤いけど、大丈夫?」
「うん……、ごめん、ちょっと飲みすぎたみたい。いつもは酔うまで飲まないんだけど」
足元がおぼつかない様子で目もとろんとしているのが自分でもよくわかるほどだった。
「荷物持つよ」
「あ、ありがと」
持っていたカバンに手を伸ばしてくれたのを見て、日花里は素直にそう言った。
敦はすぐ隣を歩く。いつでも支えられるように気を配ってくれているのが分かる。
「今年は冷えが厳しいね」
「んー、そうだね。風邪ひかないようにしないとね。今日も寒いし、そろそろ……」
自分の酔い加減に、見計らったように日花里は言った。
それに続く言葉は何なのか分かるはず。
だけど、分からなかったのか、聞かなかったフリをしたのか、敦は視線を外し違う方向に向けた。
「俺と一緒にいるのはつまらない?」
思ってもいなかった台詞。心には戸惑いとも言えるそれが広がった。
「……そういう事は、ないけど……」
心の中に浮かぶ感情が確かにあった。
だけど、日花里にそれを言葉にして声に出す事は躊躇われた。
だから、いつものように交わせなかった。
「そんなに酔って一人で帰れるの?」
何かを探り出そうとするような敦の問だった。
言葉の意味だけを言っているのではない様な気がした。
「んー……」
だけど、今の日花里にこれ以上の事は考えられない。
頭が考える事を拒否しているようだった。
何かを誤魔化すように、首をかしげて目を擦る日花里。
その足はふらついていた。そのまま看板に当たりそうになったのを敦は腕で抱きすくめるようにして回避させた。
「危ないよ」
「ん……」
 敦の腕は優しい感触だった。思わず、そのまま身を任せてしまいたいほどに。
必死の抵抗を試みるわずかな理性があったのに、今の日花里にはもがき出せない。
日花里はごく自然に敦の胸に、ポスンと顔を置いた。
頭の中で分かっている事に、日花里の感情は知らないフリをする。
下ろされたそのままの腕の状態で、敦から放たれた言葉。
「俺の事どう思う?」
「んー……、じゃあ、私の事、どう思う?」
「俺が先に聞いてるのに、それってズルくない?」
「んー?そんな事ないよ」
誤魔化そうとするその気持ちに彼は気付いているのだろうか。
「じゃあ、質問を変える。武藤さんっていう人、槙田さんの彼氏?」
「武藤さん?なんで?違うよ?」
なんでそう質問されるのか分からなかった。
「じゃあ、満井さん?」
「違うー」
「まさか、苅谷君とか?」
「絶対ありえない」
「あの、結婚してたり、とか?」
「は?」
「いるの?いないの?」
強い口調の敦。それに苛立つように言った。
「もう!しつこいな。いないよ」
「そう」
安心したような声に、面白くない気持ちになって日花里は言う。
「人の事ばかり聞いて。遠野君は彼女くらいるでしょ」
いるはず。そう思っているのに、敦の言葉は違った。
「いないよ」
思っていたよりはっきり言ったそれに、どこか苛立ちを感じながら日花里は返す。
「嘘ばっかり」
「嘘って……。槙田さんこそ俺に何か隠してない?」
突然そんな事を問われ、尚不機嫌な気持ちになった。
「ない」
ぷいっと横に顔を逸らせて言った。
心の中にも、この場にも漂う静寂に、普段よりも素直に言葉が出た。
「……だって、遠野君にとって私って、'槙田さん'だもん」
ずっと胸に痞えていた言葉だった。
きっと、彼には分からない事だろう。分からない事だって分かっているのに。
……だからなのだろう。すぐに彼が反応できなかったのは。
「な、に?」
その声に、「やはり」と思う心。拗ねた気持ちになっても、顔を向けずにはいられなかった。
戸惑ったような彼の顔。一瞬、ピクリと動いたように見えた彼の体。

  これ以上は、やめよう……。
  きっと、良くない。

「……なんでもない」
そう無理矢理紡ぎだした言葉を置き去りにするかのようにその場から歩き出した。
早くこの場から逃げ出したいような気持ちになって。
なんでだか、自分が凄く惨めのように感じた。下手すれば涙が浮かびそうになるくらい。
 急ぎ足で横に来た敦が、自分を見つめているのが分かった。
それだけでさえ、心の中に普段抑えている気持ちが湧き出るのを感じる。
こんな気持ち、感じたくないのに。
だけど、彼から飛んできた言葉は、日花里を攻める。
「24日って、過ごす相手いるの?」
他の女性なら喜ぶその台詞なのに、日花里は怒りを感じた。ピタ。と止まった日花里の足。
「もう!遠野君!そういう事ばっかり聞かないで」
くるっと振り向いて言ったその顔は、明らかに不機嫌なものなのに。
だけど、敦はうろたえる事無くきっぱりと言った。
「だって気になるから」
「な、な、……」
悪びれもしない敦の反応。言葉にならない感情に、口をパクパクと動かしている日花里。
なのに、彼は笑顔で訊いてきた。
「で、どうなの?」
油断すれば抜け道がなくなりそうな気配のそれを振り払うように声を上げた。
「し、仕事!休日出勤」
「ほんとー?」
「ホントです!」
「ふぅん」
納得していないような彼の声。
「……、何?」
自然と警戒心が出て日花里はそう口にしていた。
「ううん。とりあえずさ、もう1軒行っていい?」
にこ。と笑顔の敦。
それに日花里は素になって言った。
「どうぞ?私は帰るし……」
最後まで言い終えていないのに、腕を掴むと歩き出す彼は心意を含めて言ってきた。
「そんな事、させません」
しっかりと掴まれた腕。力強く進む敦に日花里は声を上げる。
「な!ちょ!ちょっと!遠野君!は、放して!」
「放しませーん」
彼はこの声を聞き入れてはくれなかった。




 次の場所へ行き、「もうお酒は飲まない」という日花里に、「これ美味しいよ?」と言ってオーダーしたのを置くと、好奇心には勝てないようで素直に口にしていた。
実際、彼女好みでどれも美味しいものをチョイスしたのだが。
先程よりも口数が多くなり、今までのどの時よりも楽しそうにお喋りをする彼女の姿が見られた。Y社の彼らからは、彼女の酔った姿というのはあまり目にした事がないという話だった。
「大丈夫。身の程は分かってるから」
「身の程?」
「そう。身の程。私、可愛くないもの」
「?そんな事ないよ?」
「いーのっ。まぁ、見た目の事はさておいて」
「置いとくの?」
「そう!こればっかりは置いておかないと」
「ほう」
「だってねー、自分でも可愛くないと思うもん。感情乏しいし、言う事可愛くないしねー」
「んー、よく気がつくし優しいと思うけど。俺は」
「そういう事じゃなくて、……でも優しくもないけど」
「女性って好き嫌いで仕事する人いるけど、相手によって態度変えたりとか。でも槙田さんそういうのないでしょ」
「うんー。自分ではそういう心構えでしているつもりだけど、でもそれは本人の中だけであって、実際は全くないって事もないと思うのよ。見る人が変われば、感じる事って様々だから」
「まー、それは否めない事実だよね」
「うん。可愛くない性格してるし、それが傍目から分かるのか、皆遠巻きだしね」
「……。」
実際は違うのだが、自分の為にも言わない方が得策と判断した敦。
「よしよし、かわいいかわいい」
しゅん、と俯きがちな日花里の頭を撫でながらそう言った。
だが、返ってきた言葉は予想にしていないものだった。
「……遠野君だって、私なんて、ホントはどーでもいいんだよ」
真意を謀りかねてすぐにはコメントが出来なかった。
「え?そんな事、ないけど?」
「気休めはいいの」
「いや、そんなつもりは」
「そういうのって良くないんだよ?変に相手を誤解させるし、それって凄い酷なんだから」
「う、うーん?」
「過去に何度いたい思いをした事か」
ため息混じりに言った日花里に、敦は平然と言った。
「それは男に見る目が無かったんだって」
「……また、そういう事を言うー。もういいの」
ぷいっと顔を横に向けた日花里に、敦は参ったように息を吐いた。

  コレは中々頑な……。
  彼らが「落ちない」って言った本当の意味が分かったような気がするな。

「槙田さん、俺の事どんな男だと思ってるの?」
「ほぇ?」
「ねぇ教えてよ」
「えーと、どんな?」
様子を窺うようにちらっと目を向けた日花里。
「そう」
「そーだなぁ、女性への気遣いが上手くて油断ならないというか」
「それだけ聞いたら印象悪いじゃん」
「あれ?おかしいな?」
日花里のその言葉に敦は額をテーブルに当てて声を放った。
「え〜?俺印象悪いの?」
「あはは。悪くない悪くない」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「じゃあ、いいけど」
単純かもしれないが、日花里がそうだと言うのならそう思うことにした。
「そうなの?」
「槙田さんがいう事ならね」
顔を上げ真っ直ぐと目を向けて言った。
「……はぁ」
ため息をつかれて敦は拍子抜けだった。

 その場所を出る頃には、うつらうつらと瞼を閉じそうになっている日花里だった。
気がつけば肩に日花里の頭が置かれている。
「槙田さん?」
「ご、めん……」
そう言って閉じられた瞳に、敦の心臓がどきりと音をたてた。

  えーと、えーと、どうしたものか……。

「もう出ようか?」
「……ん」
目は瞑られたまま聞こえた声だった。
とりあえずコートを羽織らせ促すように店を出た。
その間も支えるようにして傍に立つ敦に寄りかかる日花里はずっと眠そうにしている。
 飲ませすぎた事に反省しながら、声をかける。
「送ろうか?大丈夫?歩ける?」
「……ん」
外に出て自分の身を道路際に置いた。片腕には日花里を支えながら。
見える車に目を向けながらタクシーが来るのを待つ。
「家どこ?○○小学校の近くだった?」
「……う」
「え?なに?」
身を屈めた次の瞬間に滑り落ちるように日花里の体が胸の中に収まった。
慌てて受け止めながらも、敦の心臓は高鳴っていた。
これに戸惑いながらも、視界には向かってくるタクシーが見える。焦りながらも片手を上げタクシーを止めた。
開いた扉に日花里を歩ませ先に乗せてから自分も乗った。途端に日花里は身を任せてくる。
とりあえず、地元の駅名を言い向かってもらった。
寄りかかったままの日花里は眠っている。
場所を聞こうにも彼女は眠っている。いくら起こしても訊ねても答えてくれない。
困り果てながら、心の中では色々な思いが駆け巡る。そのせいで汗が浮かんでくるのではないかというくらいに。

  もう一度だけ、訊いてみよう。
  これでダメだったら……。

「槙田さん?場所どこ?」
「……ん」
揺すられて瞼をピクリとするもそれ以上は動きを見せない日花里。
「槙田さん?」
「……寝かせて」
それを言うのもしんどそうに出した声。敦の腕を抱き枕にする様に腕を回して寄り添うと再び静かになってしまった。
敦の体に力が入る。

  あーうー。
  据え膳……、でも、望んでるのはこういう形じゃなくて……。
  あーでも起きないし。
  ……あー、寝かせるのにホテル入って耐えられるか?
  うわー、俺自信ないよー。
  でも、いつまでもこのままじゃ……。

「すみません、そこの通りで停めて下さい」
タクシーから降りても日花里はべったりと敦にくっ付いていた。

  が、頑張れ、俺……。



 濡れた髪をタオルで乾かしている敦はベッドの端に腰掛けていた。
幾分ライトを落とした室内だった。音もない静かな中、タオルで髪をこする音だけがする。
 不意に手を止め、多少躊躇いつつも後方へと体を向けていく敦。
そこ、ベッドの上にはバスロープ姿の日花里がすやすやと眠っている。
「……はぁ」
重いため息だった。
 ホテルの部屋に入って目を開けた日花里にバスロープを渡し、自分はシャワーに入った。
必死で自分に言い聞かせながら出てきた時には、彼女はもう眠っていたが。
 元の場所に体を戻し、また勝手にため息が零れる。

  とっとと寝てしまおう……。

心の中でそう思うとその場から立ち掛け布団を捲り開けた。
そして、日花里の元へと行きその状態のまま抱き上げると捲りあけた場所に下ろし寝かせた。自分も布団の中に入り、頭の下で両手を組んで天井を見上げた。

  とは言っても、寝れない……。

 それからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
日花里の動く気配がし、顔を向けみたがまだ眠っている様子だった。
気のせいかと思い顔を元に戻そうかと思った時、日花里はよろよろと体を起こした。
「どうしたの?」
何かを思うより先に声が出た。
「……お茶、欲しくて」
「お茶ね。チョット待って」
「うん」
冷蔵庫の中からペットボトルのお茶を出し蓋を開けてから渡した。
それを日花里はゆっくりと少しずつ飲んでいった。
「……ありがとう」
そう言って立っていた敦に手渡した日花里はパタンと横になった。
蓋をしてヘッドボードに置くと元いた場所に戻った。
 横になってから日花里に目を向けると、片腕を目の上に置き息を長く細く吐いている。
「大丈夫?」
「ぐらぐらする……」
か細い声でそう聞こえてきた後、こちらの方を向いて横向いた。
「ちょっとはマシになった?」
平生を装いながらそう訊ねた。
すると、見上げるような眼差しを敦に向け微笑みながら言った。
「うん」
ただそれだけのリアクションだったのに、やけに可愛くて体に力が入った。
「遠野君?」
「え?あ、なに?」
はっと我に返って目を向けてみれば、日花里の頭がすぐそこにあった。
呼ばれて返事をし見つめていても彼女は何を言う訳でもなかった。
彼女は体を寄せてきて胸元に頭を置いた。
「あったかい。今だけでいいからこの場所貸して……」
瞬間心臓が大きく飛び跳ねたような気がした。
「今だけ?」
「……だって、遠野くんだったらクリスマスイブも一緒に過ごす女の人、いるでしょ……」
それはさも当たり前の事のように。
敦は内心戸惑った。
「槙田さん?俺の事、そんなに好きじゃないの?」
「……そんなこと、ない……」
「24日、夜予定入ってる?」
「……残業にならなければ何も」
「じゃあ空けといて。俺とさ、一緒に」
敦の温もりに目を閉じた日花里は力のない声で返事した。
「……考えとく……」
彼女はそのまま眠りに落ちていった。
 初めて見る、無邪気な寝顔だった。
それはまるで不思議な感覚だった。
どの彼女も日花里に違いないのに、まるで今初めて逢ったような感覚。だけど、どこかが懐かしく感じ一緒にいるのが居心地良かった。
彼女に惹かれてやまない敦の心。
今、ドキドキとわめき立てていた。
彼女はこんなにすぐ傍にいるのに、手を伸ばしてしまえば泡沫の様に消えてしまいそうな、そんな不安が、今の敦を抑制していた。

 「私なんて、ほんとはどーでもいいんだよ」

あの台詞が、頭から離れなかった。

  なんで、あんな事を言うんだろう……?

眠れない夜が過ぎていこうとしていた。
日花里の気持ちが見え隠れしたこの日、自分の引き返せない気持ちに気付いた。

  さぁ、これからどう攻めようか……。
2006.1.7

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