羽を届けてくれた人
聖夜の贈り物
3、纏いのない時間T
日花里は、敦と顔を合わす機会があっても、彼の前で立ち止まるような事はなかった。
それは、視線を向けていた日花里に気付く前に敦から視線を外して、目を向けない事は自然の事のように。
だから、敦が日花里に気づいた時には、もう日花里は違う方に視線を注いでいるのだ。
話しかける余裕などないかのように。
打ち合わせの時に、一度だけ日花里がコーヒーを運んだ事があった。
打ち合わせ中だったので顔を合わす事はなかったが、日花里がカップを置いた時、ただ一言「ありがとう」と言った敦だった。
それに日花里が何か言葉を返すことはなかったが。
プロジェクトチームの結構な人数で飲みに行った事もあった。
そこに日花里はいたが、決して他の人間の所に行こうとはしなかった。
そう、敦の近くへ寄る事はなかった。
……何を言えっていうの?
何も、言う事なんてないよ。
それに、怖くて近寄れない。
怖くて顔を合わすことできない。
怖くて、……聞けない。
重いため息を吐くと、日花里は手をおでこにあて重い表情を俯かせた。
あー、ダメだ。やっぱり休憩しよう。
気分が切り替わらない自分に疲れ気味の息を吐くと、気が向かない様子で椅子から立ち上がり、お気に入りのあるレモンティーのある自動販売機へと歩いて行った。
考えないようにしても、頭の中には勝手に彼らの言葉が浮かんでくる。
「槙田さんの交際関係について聞かれたよ。男のね」
「うん。俺は苅谷君に聞いて知ってたんだけどね、同じ歳だって」
「一種の尊敬の念を抱いていたかな。二人とも同じ歳の割りにしっかりしていたし。
堤さんはあまり表情の変えない子で近寄りがたい雰囲気があったから」
「はーーーっ」
勝手に出てしまうため息。気持ちと頭の重さは一向に軽くならないでいた。
じとっとした気分のまま小銭を投入しボタンを押す。
カップが落ちてきて中身が注がれるまでの間、頭の中は違う事を考える。
……気付いていない。気付いてない、多分。
「勝手にして!……帰る!」
あーっ、私って、ホント、ばか。
27にもなって、何してんの? 遠野君が悪い訳じゃないのに……。
……そう、悪いのは苅谷君! あんのあほたれがっ!
そこではっと我に返り、出来上がったレモンティーに手を伸ばした。
口をつけるにはまだ熱いそれ。
日花里は小さくため息をしてから、ベンチに腰を下ろした。
そして、冷めるようにとカップに息を吹き当てながら、心の中で呪文のように呟く日花里。
単なる気まぐれ。
遠野君は気付いていない。知らない。
お誘いも全部、一時の迷い。
次会った時には、もうなんでもない……。
……そうだ、もう、忘れてしまおう。
まるで独りよがりの、勝手な思い込み。
それで、日花里は何事もない日常へと戻る事を決めたのだった。
それから、日花里は至って普段通りの自分を務めた。
苅谷と顔を合わせると、こちらは何ともない顔をしているのに、彼の方が戸惑った顔をする。日花里はそれには何も触れる事はせず、用事がない限り声をかける事はなかった。
その様子を分かっているのか、苅谷は敦の事を日花里に話題で出す事はなくいた。
「まきちゃーん、何か最近機嫌悪そうー」
廊下を歩く日花里を見つけて丸めた書類を片手に武藤は声をかけた。
「え? そうでもないつもりなんですけどねー」
「その割には顔が暗いけど?」
「うう、実は花の金曜日に仕事が終わらないんですよー」
「うわー」
「実はまだ終わりが見えていなくて」
「あらー……」
「……そりゃ顔も暗くなるって言うもんですよね」
「はいー。……この間のお礼に晩飯でも奢ろうかと思ったけど、無理だね」
「無理ですね。口惜しいですけど」
「しゃあない。連中だけで我慢するか」
「まぁ、私の分もっ楽しんできてください」
「まぁ、恨みのこもった言い方ねぇ」
「いえいえ。こうなったのも自己責任ですから」
ため息混じりにそう台詞を言って日花里は肩を落とした。
他にひと気のなくなった部屋で、休み事無くキーボードを叩いている日花里の目は、横の書類とパソコンの画面を行き来していた。
こんな風に仕事に打ち込んでいる時は集中しているので余計なことは考えないですんだ。
ずっと動かしていた手を止め、マウスを握り動かす。
「……終わった……」
パソコンの電源を切ると、他のものの後片付けに入る。デスクの上を綺麗に片付けて部屋の戸締りの確認をすると、引き出しから小荷物を取り出し部屋の明かりを消しロッカー室へと向かった。
集中力を解いた頭はどこかくらくらしているようだった。
いつもより重い肩を感じながら、帰り支度を進める日花里。そこへ携帯電話の着信が鳴り響きだした。
しんどい気持ちでサブディスプレイを見れば、それは苅谷だった。
深くため息をしたい気分になった。
名前を見ただけでこの感情。それでも、日花里は堪えて電話に出た。
「はい、もしもし」
「もしもーし、今日居残ってるってー?」
お酒を飲んで機嫌が良くなっている声だった。
それを耳にするだけでもやるせない気持ちになるのは何故だろう。
「そーよ」
やっぱり口に出る声は機嫌の悪いもの。
それに怖気ついた気配が、電話の向こうからした。
それに気を使って、日花里は少し明るい口調で言う。
「で、なに?どーせ今日もいつものメンバーで飲んでるんでしょう?」
「ええ、まぁ。まだ仕事してんの?」
「んー、さっき終わって、今帰り支度」
いつもと変わらない様子に、苅谷は安心したのか普段通りの調子で言ってきた。
「あっ。じゃあさ、今から来いよ」
「えー?やだ」
「いや、今K社の人も一緒でさ」
自然と声が低くなる日花里。
「それで?」
「えーと、槙田さんの同級生も酔っ払ってるし、今から来いよー」
勝手に音をたてた心臓を放ったらかしにして日花里は言う。
「イヤだ、しんどい」
それには数秒の間があり、急に低姿勢で言ってきた苅谷だった。
「来て下さい、お願いします」
「えーーー?」
「……お願いします」
珍しい反応に日花里は、それまであったつんけんした気持ちが沈んでいった。
「……はぁ。そこに武藤君いる?」
「うん?いるよ。変わろうか?」
「ううん、いい。この間のお礼で、その場奢ってもらおうと思っただけ。伝えておいてくれる?」
「はい、分かりました。伝えておきます。じゃ」
「うん、じゃあ後でね」
そう言って通話を切ってから日花里は声を漏らした。
「あ。場所聞くの忘れた。……まぁ駅の方出てからかけたらいいか」
店で和気藹々とやっている苅谷たち。
電話を切って数分後、思い出したかのように苅谷が声を出した。
「あ、俺場所言ってねーや」
どうするのと言わんばかりの周囲からの視線。
「まぁ、後で電話かかってくるでしょ」
頬杖をついて横目で眺めていた満井が口を開く。
「迎えに行った方がいいんじゃないか?暗い道あるし」
「えー、最近の態度怖くてー」
それを聞いてなのか、武藤が口を開いた。
「じゃ俺行ってくるよ。電話では帰り支度だったんだろ?」
「そう言ってたよ」
「今から会社の方向かえば会えるでしょ。電話もあるしね」
そう言って立ち上がり、もう行こうと準備をしている武藤がいた。
日花里が駅の近くに辿り着いた時、電話をしようと携帯を手に持った所で、こちらに向かって来ている武藤の姿に気がついた。
武藤はもう前から気付いていたようで、真っ直ぐと日花里の方に歩いてくる。
真っ直ぐと目を向けている事に気付いて、武藤はふっと笑みを向け小さく手を上げてきた。
「よく分かったねー」
目の前にまでやって来た武藤に日花里は少々驚きがちな顔で言った。
「うん、俺の推測どおりだった」
「誰来てるの?」
「えーとね、刈谷君と満井君と、あとK社の同じ年代の子達3人かな」
「……え?女性私だけ?もしかして」
「もしかしなくても、そう」
「ええ〜?やっぱり帰ってい?私」
「んー、じゃあ俺とどっかにいこっか」
軽快な笑顔で言った武藤に、一瞬驚いた顔をした日花里だったが、すぐいつもの表情になって声を出した。
「そんな事言って。寒いから早く行こう」
「はい、…はい」
いたずらが失敗したような顔を日花里の後ろでしていた武藤だった。
「どーする?次の場所行く?」
そう訊ねた満井の後方には、次の場所に向かおうとしている者がいた。
真っ直ぐと目を向けられた日花里は、何かを堪えながら眼差しを向け無理矢理作った笑顔で言う。
「……うーん、今日は疲れてるから帰るね?」
「うん。で、遠野君は?」
「……帰ります」
くぐもった声でそう答えた敦は、後ろから日花里の肩に顔を置いていた。
日花里の方は、どうしたものかと扱いに困ってる様子で、それを見ている満井はかける言葉をなくしている様子だった。
「じゃ、じゃあ、帰るから」
戸惑いながら満井に言うと、その後方にいる人たちに日花里は言葉を放った。
「お疲れ様でしたー。また来週にー」
一斉に返ってくる声。
「はーい」
「遠野の事、お願いしますねー」
「はーい……」
自然と語尾の小さくなっていく声なのに、彼らは次の場所へと歩き出して行った。
お願い、って……。
非常に困っているんですけどね……。
そんな文句が誰かに届いている訳でもなく、日花里は様子を窺うように肩に乗っている敦に目を向けた。
完璧、出来上がってる、よね……。
「遠野君?大丈夫?歩ける?」
「んー……、槙田さん、どこ行くの?」
「駅。他の人は3次会行ったけど、私帰るから」
「うん。俺も」
「じゃ、駅向かうよ?歩ける?」
「うん」
ふら付く敦の腕に手を伸ばすと、ゆっくりと歩き始めた。
「あー、くらくらする」
「そりゃあねぇ?」
「こんなに飲んだの、いつぶりかなー」
「はいはい」
敦の言葉よりも、ふら付く体を駅の方に向かわせる事に神経を向けている。
駅に着いた頃には寒さなどどこかへ消えていた。
「遠野君、東町だったよね。△△駅からタクシーで帰れる?」
「えーと、違うー」
「えっ?」
「今、□□駅すぐ近くのアパートに住んでる」
「じゃあ、駅から一人で帰れるね?」
「んー……、……送って」
「送ってって……。普通、オンナの言う台詞……」
「えー?ダメなのー?」
幾分大きくなった声に慌てるように日花里は言う。
「もう分かったから。□□駅ね?」
「そー」
日花里は大きく深いため息を吐いた。
残業で疲労困憊の体で、何でこんな目に……。
やっとの思いで辿り着いた□□駅。
腰に回されている腕など全く気にもせず、日花里は敦を支えるのに必死だった。
「着いたよ。家どこ?ここから一人では……」
「無理―」
「……だろうね」
ため息混じりに言った言葉。
敦が住んでいるアパートは本当に駅の近くだった。
2階の角部屋、そこの扉の前に辿り着いた時には日花里の息はあがっていた。
「えー、と、鍵は、どこだったけ」
ふらつく体で鍵を探す敦を横に、やっと使命を果たした気持ちになっている日花里。
敦が鍵を差し込んで回した時、顔を上げて口を開いた。
「家族の人は?じゃ、私ここで」
方向を変え始めていた日花里の腕を、敦は掴み引き寄せた。思わず声が出た。
「わあ」
「だめ。お茶、お茶飲んでいって」
「なっ……。おうちの人いるでしょう……?!」
そう言っても敦は腕を離さず、そのままの状態で扉を開け中に入っていく。
「ちょっ!遠野君!」
扉が閉まりきった所で敦は笑顔で言った。
「大丈夫。一人暮らしだから」
「……え?」
「……俺の事、嫌い?」
それはまるで捨てられた子犬のようだった。
「き、嫌いって……。何、言ってんだか……」
内心、途方にくれそうな気持ちになっていた。
そんな日花里を置き去りにして、靴を脱ぎ玄関マットの上に座りだした敦は顔を向け言う。
「あがっていってよ」
「〜〜〜。もう帰らないと終電行っちゃうから」
心の中では、大いに困惑しているのに、表面上は笑顔を取り繕う。
「ふーん」
「ふーんって……。あの、帰るからね?」
「・・・」
「あの、遠野君?」
「はい、ばいばい」
酔っ払ってる敦の手は、指先が下に向いて横に動かされた。
その反応に何か腑に落ちないものを感じたが、それでも帰ろうと扉を開ける。
「じゃあまたね。ちゃんと布団に入って寝なよ?」
「はーい」
静かに扉を閉めると、日花里は敦の事を気にしながらも歩き出した。
廊下は物音一つせず静まり返っている。
1メートルを過ぎた頃、全く音がしない事に改めて気付いた日花里は足を止めた。
「……?」
鍵の閉まる音が全く聞こえてこなかった。
扉を閉めているとき、横になっていく姿が見えていたような?
それらに気付いてしまった日花里は、一瞬悩み来た道を戻った。
やはり鍵が閉められていない事を確認すると、扉を開けながら声を出す。
「遠野君?鍵閉めないと……」
……やっぱり。
玄関先で横になったまま寝ている姿を見て、日花里は玄関に入り扉から手を離した。
「遠野君、こんな所で寝てたら風邪ひくよ。遠野君!」
声を上げてもピクリともしない。
敦の傍らに膝をつけると体を揺すって声をかける。
「遠野君?こんな所で寝たらダメだよ、遠野君ってば」
「ん〜〜、しんどい」
全く動く気のない敦。
「ダメだってば!ほら起きて!」
「ん〜〜」
「ほらっ遠野君!」
「んーーっ」
ようやっと動き出した敦に、少しばかりほっとした日花里だった。
だが、次の瞬間、敦の手は日花里に伸ばされぐいっと引き寄せられていた。
「!!」
驚きのあまり声も出なかった。
「……あったかい」
「なっ、ちょっ、遠野君!寝ぼけてないで」
慌てて離れようとしても、酔っ払っている男の力に敵う筈がなく日花里が腕に込める力は徒労に終わる。
「ん〜〜、ヒーターつけて」
「……。」
「スエットとって」
「は?」
「水ちょうだーい」
「あーはいはい」
幾分憤りを感じながらも、やっと緩んだ腕から身を起こして靴を脱いであがった。
手短な所の電気をつけヒーターのスイッチを入れたその部屋は、男の人の割にはそれほど散らかっていない1ルームだった。ベッドの上にはパジャマにしているスエットが置いてある。仕事が終わって帰ってくる部屋。次の日の仕事の為に時間を過ごす部屋。
そんな様子が見て取れるほどの様。
相変わらず玄関先で横になったままの敦を見て、日花里は大きなため息を吐いた……。
どうにか自分で服を着替えさせ、冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを注いだコップを渡すと日花里は腕時計に目を向けた。
今から急げば終電に間に合うかな……。最悪タクシーで……。
その時間に考えを頭に過ぎらせる。
だから、気付かなかった。ベッドに上半身を預けた格好で水を飲んでいた敦が目の前に来ていたなんて。
日花里からすれば、突然だった。腕時計をしている左腕をぐいっと掴まれたのは。
「……!」
驚いた眼差しを真っ直ぐに向けた。
「俺の事、どう思う?」
突如として言われたその台詞に、日花里は瞠目した。
だが、よく見れば、彼の顔は酔っ払っているそれだった。
何を戸惑うことがあるのかと自分に言って冷静さを取り戻し、日花里は言葉を零した。
「どう思うって、遠野君は遠野君でしょう。もういいから、早く寝なさい」
「……やだ」
「・・・。」
子供じゃあるまいし。率直にそう思っていた。
「あ、何その顔」
あれ?そんなにはっきりと顔に出てたのかな?
「……携帯とって。背広のポッケ入ってるから」
「……はいはい」
どこか投げやりな気分になりながらその場を立ち、ハンガーにかけたスーツの所に行った。
ポケットの中に入っていた携帯電話を手に取り敦の方に振り向けば、もうベッドの端に座っている。
……謀られた?
そう思いつつも、何もないような顔で携帯電話を手渡す。
「はい、どーぞ」
「どーもありがと。で、番号は?」
「は?」
「槙田さんの携帯番号。及びアドレス」
「……。遠野君、眠いんでしょう?早く布団に入って寝たら?」
何事もなかったかのように言った日花里に、敦はむうっとした顔で言う。
「1次会の時もそうやって話はぐらかしたよね。教えてもらえない訳?」
それにあぐっ、と口を閉じた日花里。
1次会が終わって外に出た時、いつの間にやら横に来ていた敦は訊ねてきたのだ。
番号教えて、と。
だが、日花里は何も聞いていなかったという顔であっさりと他の話を口にした。
2次会、○○だって。行くの?と。
それは確かにあからさまにし過ぎたかもしれない。
でも、考えるより先に頭と口はそう動いていたのだ。
「なんで黙ってるの? この間だって、同じ中学なんて事ずっと黙ってて……」
触れられたくない話題に、日花里は遮るように声を出した。
「あーはいはい、番号ね、番号は」
バッグの中から携帯電話を取り出し、自分のプロフィールを画面に出すと敦に差し出した。
敦はそれを手に取り、自分のに入れていく。
「えーと」
入れ終えたヤツをちゃんと見直しまでしているようだった。
「はい」
笑顔で差し出された日花里の携帯。
「……」
そこに取りに行くことに躊躇いを感じながら、全く動こうとしない敦の様子に日花里は腰をあげた。その手が携帯に届き敦の手に動きが見えなくて安心した日花里だったのに、次の瞬間には敦の片手に掴まれていた。
「?!」
一瞬にして日花里の体は硬直し心臓が飛び上がったような気がした。
そのまま腕をグイッと引っ張られ日花里の体はベッドの上に移動されていた。
その途端、心臓はけたたましく鳴り出し日花里は言葉を発する事さえ出来なくなっていた。
圧し掛かってくる重みに動かせないでいる。
「槙田さん、あったかい……」
それは小さな声で聞こえてきた。だけど、動きの見られない敦に、そーっと目を向けてみた。
「・・・。」
彼は眠っていた。
まぁ、目はもう虚ろだったし……。
どきっとして損した……。っていうか、どうしたらいいの?これ?
深いため息と共に日花里の体から力が抜けた。
薄靄がかかったような浅い眠りなのに、そこは大分心地よく感じた。
いつもと違う温かさに、満たされているような感覚になっていた。
重たい目を開け重みを感じる自分の腕を見てみれば、女性の眠っている姿が。
落ち着いた寝息。
それは間違いなく日花里に見えた。
……夢。
まだ寝てよう……。
何かに促されるように瞼を閉じ、その心地よさに身を任せた。
まだ現実に戻りたくないという思いで。
「遠野君、まだ寝てるの?」
ふわふわする意識の中でそう声が聞こえてきた。
まだ夢の中だと思いながら、敦は答える。
「んー、もうちょっと……。味噌汁、のみてー」
「味噌汁?」
「作ってー。あと出し巻き卵とご飯―」
「はいはい」
敦の耳に届いたのは呆れた様な声だった。
でも、それすら今の敦には心地よくて酒の残った気だるい体に流されるように又意識を手放した。
どれだけの時間が過ぎたのか、敦には判別の仕様がない。
大分ましになった体のだるさ。
沈むような眠気も大分軽くなり、気付くように目が覚めた。
そして、鼻に届くのは懐かしいような匂い。ほっと安心するような温かい香りだった。
それは味噌汁の匂い。
いい匂い……。
それの心地よさに目を閉じてみて、お腹が反応する。
こんな感じも久しく感じていない。
だが、敦の頭に沈黙にも似た疑問が過ぎり、現実に返った様に体を起こした。
台所に見えるは、昨日の服装のままの日花里の後ろ姿。
……え?!
布団を掴み上げ自分の身なりを確かめる。
いつもパジャマにしているスエット姿。
「……」
敦は顔を伏せ、頭をガシガシと両手で掻いたかと思うと抱え込んだ。
彼女が自分を避けがちだと言うのは分かっていた。
つい数週間前にあった期待感なるものは、今はもうすっかり消え失せていた。
彼らが言う「落ちない」という言葉が時折頭の中を回っていたりした。
あれから、お互いのメンバーで飲みに行ったりした事が何回かあったが、彼女は全く近寄る事すらせず、避けているのは見て取れた。
いつも武藤の傍か、そうでなければ、満井の横にいた。
何も気にしていないと言う様子でいつも笑っていた。
昨日、残業だと話を聞いて、「呼ばないの?」と言ったのは敦だった。
武藤はそれを聞いても、少し考えるフリをしただけで応える事はなかった。
それは、近づけないようにしているようにも見えて、敵愾心に似たものを抱いた瞬間だった。
その後、彼女は武藤に付き添うようにしてその場所にやって来た。
その姿に、正直「面白くない」感情を抱いた。彼女の横にいるのは当然と言うその様子に。
それで酒を煽って、いつもより多い量だった。
店を出た所では、すかさず彼女の所へ行った。
だけど、彼女の態度は相変わらずで。
2次会の場所でも、彼女の横にいるのは変わらず武藤だった。
すっかり酔っ払ってふらっとしている所に、やっと声をかけてくれたのだ。
「大分酔ってるみたいだけど、大丈夫?」
「……大丈夫、じゃない……」
そう言って、彼女の肩に頭を乗せた。多分、それから、彼女から離れなかった。
俺、情けねー。
何やってんだよ……?!
携帯電話を取ってもらって、番号とアドレスを聞いたのも覚えている。
教えてもらってから再び睡魔が押し寄せてきたのだ。
「できたよー、味噌汁と出し巻き卵とご飯と」
そう言いながら敦の元へとやって来た日花里に、どんな顔をして良いのか分からないまま顔を向け声を放った。
「あ、はい」
「二日酔いはどう?」
「え、ちょっとあるけど、昼が過ぎれば治まるくらい」
「そう。ご飯食べれる?」
「え、あ、……うん」
「そこのテーブルに用意したらいい?」
「うん」
その返事を聞くと、すぐに日花里は用意を始めた。
動く日花里に、敦は言葉をかける。
「あの、俺、夕べ……」
「あー、うん。玄関まで送って一度は帰ろうとしたんだけど、マットの上で寝てしまって中々起きてくれなかったから、必死に起こして。で、水飲ませて、ヒーターつけて。
寝たのはいいけど、私の腕離してくれなかったからね、今ここにいるんだよ?」
「あ、はい……。すみません……」
敦の食事をテーブルに用意し終えると、日花里は一緒に食べる事無く帰って行った。
一人になった敦は、両手を合わせ「いただきます」と言うと味噌汁に手を伸ばした。
「うめー」
思わず溢す声。
久しぶりに飲む味噌汁は余計な力が抜け安心した気持ちになる。
他に作ってくれたたき物も美味しかった。
暇を持て余すようにテレビを眺めている敦の頭の中は違う事を考えていた。
日花里の様子が変わったのは、苅谷に言った言葉がきっかけだった。
「そんなんじゃない!ただ同じ中学の人でっ、別に……!」
同じ中学、だって言ってたな……。
同じ中学、ねぇ?学年に同じ名前の子いたか?
……転校生、とか?
そう言えば、夕べもそれに触れられたくないで話逸らしていたような?
……中学、か。
敦は立ち上がると、ようやっと服を着替えた。
必要な物をポケットに入れ、家を後にした。
電車に乗り、もう何ヶ月と帰っていない「家」に向かった。
駅も家までの道のりも殆ど変わっていない。
家に辿り着くと、一度だけインターホンを鳴らしてから扉を開けた。
玄関に向かってくる足音に向かって声を放つ。
「ちーす」
「あら、珍しい。里帰りなんて」
姿を現したその人物に愛想笑いを浮かべながら言う。
「ちょっと探し物をね」
「お昼は?用意しようか?」
「空いてないからいいですよ。じゃ、部屋にあがるんで」
「はーい」
そう返事をするとその人物は奥の方へと戻っていった。
居慣れた筈の階段を上がり、前は自分の部屋であった所へと向かった。
押入れを探す事、数十分。ようやっと目当てのものが見つかり、先ほどの人物が入れてくれたコーヒーを片手にページを捲っていった。
おー、懐かしいなぁ。
卒業アルバムなんて滅多に見ないからなー。
懐かしい顔がずらり……。
……こいつも、今何してるんだろうなぁ。
並ぶ顔を順々に見ていく敦。
それらはとても懐かしくて、当初の目的を忘れてしまいそうなほどだった。
お。堤さんじゃん。
メガネで髪結んで真面目な様子がなんとも。
ページを捲ろうとして、目に入った名前に手が止まった。
そこには見覚えのある名前があった。――日花里、の名が。
日花里?
堤、日花里?
え? 堤 日花里。
日花里って、そうある名前じゃない、よな?
でも、よく、見てみれば、この顔は……。
見た目で受ける雰囲気は変わるものの、顔は日花里だった。
……えーーー?!
2006.1.1
加筆2006.1.3