羽を届けてくれた人
聖夜の贈り物
2、何かが始まる前
カレンダーのページは最後の一枚になった。
社内では忙しい合間を縫って忘年会の予定が幹事の手によってたてられていた。
仕事の忙しさは変わらないと言うのに、街中の装いが賑やかなせいなのか人の気持ちまでも浮き足立っているように見える。
昼休みの時に出る話題もいつの間にやらおよそ3週間後の事になっていた。
12月24日、恋人との日。
特定の誰かがいなくても、その日だけは異性と過ごすように予定を作ったりする人もいるようだった。
昼休み終了のチャイムが鳴る10分前には、いつも同じ自動販売機でレモンティーを飲むのが日課になっていた。
肩につくかつかないかの髪の毛は、緩いパーマがかかっていて軽やかな印象を受ける。
顔の肌の白さは、ファンデーションのせいではなく手を見ても肌が白いのだと分かる。
「槙田さん」
名を呼ばれて、出てきたカップを手に取りながら顔を上げた。
それは満井だった。
「ん?なに?」
「K社の人覚えてる?」
「まぁ何人かは」
そう答えて静かにカップに口をつけた。
満井は微笑を浮かべたまま、そんな様子を見ていた。そして徐に口を開く。
「じゃあ、遠野君って知ってる?」
「……覚えてるけど、何?」
何かを抑えたような声で槙田 日花里は訊ねた。
「昨日打ち合わせ終わってから飲みに行ったんだけど、槙田さんの交際関係について聞かれたよ。男のね」
「……あ、そう」
それは満井からすれば、どこか怒っているような顔に見えたかもしれない。
その後、日花里は口を噤んでしまったから。
本当は、予想もしていなかった返答に日花里は言葉が浮かばなかっただけなのだ。
その戸惑いがそんな日花里を見せたのかもしれない。
部署に戻ってきた満井を見て、苅谷は何かを期待する目で聞いた。
「どうだった?」
それに微笑を浮かべつつも、どこか不可解そうな顔をしている満井は答える。
「いやぁ、あんまり好印象は持てなかったけど。どっちかと言うと、興味なさそうな」
「そっかぁ。槙田さんってどんな人ならいいのかね?」
「さぁー?」
首をかしげた満井だった。
数日経ったある日、調子良くキーボードを打っていた手がふと止まっていた。
「槙田さんの交際関係について聞かれたよ。男のね」
勝手に思い出されていた満井の言葉が日花里の手を止めていた。
「……はぁ。なに、言ってんだか」
自嘲気味に呟かれた言葉だった。
それは誰に対して呟いたものなのか……。
「槙田さん電話です。外線2番に武藤さんから」
突然放たれた台詞にはっと現実に返った日花里は手を伸ばしつつ返事をする。
「あ、はい」
まだ微妙にどきどきする心臓を感じながら、顔は平生のまま電話に出た。
「はい、槙田です」
「槙田さーん、助けて〜〜」
情けない声が一番に聞こえてきて、日花里は正直そのまま受話器を置きたい心境になっていた。
「……。切ってもいいですか?」
口から出るのは愛想のない声。
「え〜〜?そんな冷たいこと言わないでー。実は午後からする分の草案をデスクに置き忘れてきちゃったみたいで」
「じゃあ、同じ部署の人に頼んで届けてもらったらいいじゃないですか」
「それがねー、皆出払ってるみたいでねー。俺も取りに帰る時間ないしさ、昼はK社の次長さんと一緒する約束で」
「で?」
「だから助けてーー」
「……。」
「デスクの右側に青いファイルで、テプラで草案2ってあるのを、届けてもらえませんかぁ?」
それは本当に情けない声だった。
ため息をつきたい気分になりながら、日花里は気が進まない声で言う。
「……わかりました。今度奢ってくださいよ?」
「勿論!お願いします」
「で、今日はどこに出てるんですか?」
「K社。」
「…………え?」
K社に行ったからといって、何かがある訳じゃない。
そうそう彼に会う訳でもない。会ったからと言って何かがどうなる訳でもない。
日花里は気持ちを入れ替えるように椅子から立ち上がりながら、気持ちの読めぬ表情で言葉を口にした。
「気にしすぎは体に悪い」
コートを羽織り、トートバッグを肩からかけた日花里は、自分の歩調でK社へと向かっていた。
今、こうして自分は在るのに、心の中は違う所へと向かっていた。
あの頃は、……今からもう十二年前になる自分は、とても「冴えない」女の子だった。
出来れば思い出したくないくらいに。
中身も見かけも可愛げのない子で、周りを困った気分にさせた事も珍しい事ではなかった。
素直に感情を表に出せる子、思っている事を素直に口に出せる子が、いつも羨ましかった。
自分には到底出来ぬ事を簡単にやってのける友達をいつも憧れの眼差しで見つめていた。
そんな事を、周りの友人は気付いていなかっただろう。
当時の淡い恋心だって、必死に押し隠していて素直な行動には出られなかった。
いつだって勇気のない自分は、自己嫌悪に陥っていた。
それは高校生になっても大学生になっても、変えられないままだった。
変わったのは、見掛けだけ。だけど、他人と接する所が変わっていないのだから、自分という人間は昔と変わらず面白みのない人間なのだ。
だから、誰かに好意を抱いても、それは不安どおりの結果に終わる……。
「……はぁ」
何かを欲しいと思っても、それは必ず手に入らない。
今も昔も変わらない私。変わったのは見掛けが少々。
抜け出せない自分にもがき抜け出られない自分。
きっと、これからも変わらない毎日を送るんだろうな。
それは自分への劣等感だった。
日花里は「遠野敦」の事を知っていた。
会社で初めて見たその時はまだ気付いてはいなかったが、2度目にした時ははっきりと分かっていた。
その瞬間、日花里は青ざめていた。
知る人間。
一番会いたくない人。
彼とは別に親しかったわけでもない。だから、敦が日花里を覚えている事は少ないはずだろう。
そう思っても、日花里の心には恐怖心のような物が微量としても存在していた。
……そうは言っても、会社でチョット見かけるくらいなら、彼も気付かないだろう。
そう自分に言い聞かせて、束の間の安心を得た日花里は到着したK社のビルへと入っていった。
頼まれた物を無事渡すことの出来た日花里は、軽くなったバッグを肩に感じながら1階ロビーへと向かっていた。
腕時計を袖口から外すようにして見てから心の中で一人思う。
もう少しで昼休憩だから、このまま外で食べてから戻ろうかな。
「槙田さん?」
自分に意識を向けていた時、突然降って出た声に驚きのあまり硬直した。
傍から見れば一瞬の間に、心の中で動揺する日花里。
え? この声って、もしかして……。
え? でも、まさか……。
き、気のせい?
空耳かな?
うん、多分、きっとそう……。
「槙田さん」
はっきりと聞こえてきた声に、現実だと言う事を知り、日花里は今耳にしたかのように振り向いた。
そこには、やっぱりそうだった、という表情で笑顔を浮かべている敦がいた。
「……え、と」
言葉に困った日花里が何かを言うより早く、敦は笑顔で口を開いた。
「今日は何でここに?」
その問には何の躊躇いもなく口にする日花里。
「うちの社員に届け物でね。それだけだったから」
これから社に戻るの。
声に出しはしなかったが、そう言葉を続けるための最後の台詞だった。
すると、敦は一瞬、何かを考え込むように目線を左上に向けると、すぐ日花里に顔を向け、目が合った時にはニコリと笑顔になっていた。
「今から戻ったら昼終わっちゃうけど、大丈夫なの?」
「うん、このまま外で済ませて戻るから大丈夫」
「じゃ、一緒してい?」
「……、……うん」
最初の敦の台詞に、日花里は自然と促されるように素直に答えていた。
それを聞いた敦が間髪入れた台詞に、断る言葉を口にする事が日花里にはできなかった。
ただ、うん、としか答えられなかった。
内心必死の日花里ははっと思いついた言葉を口にした。
「あ、でも、会社の人は?」
それに敦は尚笑顔で答える。
「俺は午後からのグループだから、今一人なんだ」
それに、日花里にはもう返す言葉は浮かばなかった。
敦が選んだ店はランチのやっている小さなイタリアレストランだった。
店の入り口も店内もお洒落な装いで、さすがの日花里も半ば心奪われていた。
こういう場所もいいなぁ。
夜に来たら、もっといい感じなんだろうなぁ。
正面に座る敦の眼差しが微笑を浮かべて自分に向けられていることに気付いて、はっとテーブルに置かれた水の入ったグラスに視線を落とした。
日花里の中には、言いようのない不安が渦巻いていた。
何かを言われるんだろうか?
そんな恐怖心が心の中にはあった。
あの後、敦はビルを出てから、ゆっくりと歩きながら日花里に訊ねた。
「何食べるか決めてる?」
「ううん、これといって。何でもいいんだけど……」
「じゃあ、パスタはどう?」
「あ、パスタ食べたい」
という会話で、日花里はこの店に案内された。
男の人が「パスタ」なんて言うのかな?
それって、もろ彼女の影響だよね。しかも、こういうお店って。
……気付いているのかな。
やっぱ、気付いてるのかな……。
……あー、それに何話していいのかわからない……
話す事と言えば、お互いの会社の事か、仕事で顔を合わす男性社員のことだった。
日花里がいつ顔を向けても、敦はずっと微笑を浮かべて目を向けていた。
それにさえ、日花里は戸惑いを感じる。
あの、緊張、するんですけど……。
声に出して決して言えない言葉をひしひしとその身の内に渦巻かせる日花里だった。
敦の手から離れた水のグラスが大分減っている事に気づいた日花里は、それにすっと手を伸ばし各テーブルに置かれているピッチャーを掴むと水を注いだ。
そして、グラスを静かに元の場所に戻すと、ついでに自分のにも注ぎ入れてからピッチャーを置いた。
それから程なくして、注文したものがテーブルに届けられると、それはとても自然な動作で日花里は取り出したフォークを敦へ差し出した。
「ありがとう」
お礼を言って受け取った敦に、ただ静かに笑みを向けると自分の分を取り始めた。
「おいし……!」
パスタをフォークで口に運んで食べてみて、思わず日花里はそう声を出していた。
そして、はっとし敦に目を向けてみれば、目が合った彼はにこりと微笑んでいる。
それに内心慌てた日花里は、反射的に顔を俯かせていた。
そうしてしまった後で、嫌な態度をとってしまったと後悔したが、それよりも、心臓はざわついていた。
どぎまぎする自分の感情を持て余しながら、この時間を過ごしていた。
今までにはなかったこの「時」が、別世界のように感じて仕方なかった……。
食後のコーヒーを飲み終えて、「そろそろ」とごく自然に席を立った二人はそのままレジへと向かうと、財布を手元に先に出した敦が声を放った。
「俺だすよ」
それにはすぐ表情を変えて日花里は言う。
「えっ?いいよ、自分の分は自分で出します」
「でも、今日は俺が」
「誘われたなら考えるけど、今日はそうじゃないでしょう? 私、別にそういう事気にしないから、割り勘でお願いします」
「……はい」
揺らぎようのない意思で言った日花里の言葉に、敦は静かな笑みを浮かべてそう返事をしていた。
敦が進む道を日花里は一緒に歩いて行った。
そして、それが知っている通りに出ると、どこかたどたどしくもある雰囲気でゆっくりと顔を上げながら口を開く。
「あの、じゃ私ここで……」
「あぁ、そっか。……じゃあ、また」
「はい。午後からも頑張ってください」
「ありがとう」
「じゃ、また」
そう言ってから小さく頭を下げ、日花里はその場からゆっくりと歩き出した。
視界の端には、まだその場に立っている敦の姿が映っていても。
「あの、今度」
はっきりと放たれた敦の言葉に、反射的に足を止め振り返っていた。
「……次会った時、飲みに誘っていい?」
その言葉に顔に出ていなくても日花里の中では動揺がはしっていた。
即座には言葉が浮かんではこなかったが、それでも気持ちは他に置かれたまま日花里の頭と口は動いていた。
「……機会があれば……」
それにニコ、と笑顔を見せると、敦は「また」と言ってから社の方へ向かっていった。
それを見てすぐ日花里は向かう方向に体を向けていた。
歩き始めたはずの足取りは数歩歩いた所で止まっていた。
「…………」
通り抜けていく冷たいはずの風が、急に火照った日花里の体には心地よく感じていた。
敦は夢を見ていた。
それは遠い過去の記憶。
目に映る景色も今よりずっと低くて、着ている制服は学ラン。
周りにいる生徒も見知った顔ばかり。この顔ぶれは中学の頃のようだった。
一緒にいるのはいつもと同じ顔。
そんな中、通り過ぎた1組の男女。
それを目にした友人たちは楽しそうな顔で口を開く。
「お、生徒会の山本じゃん」
「横にいるのは噂の堤だし」
「噂?」
「二人は出来てるって言う噂」
「あー、よく一緒にいるの見かけるもんなぁ」
「でも、それだけじゃあ」
「堤さんって、山本といる時は笑顔なんだよなー」
そう言われてみて敦は二人に顔を向けた。
友人の言うとおり確かに堤は笑顔で山本とお喋りをしながら歩いている。
その数日後、集団の中にいる堤を見つけた。
教材を胸に抱いて歩いている姿見て、敦は思った。
……笑ってる方が、可愛いのに。
敦は一人道を歩きながら見た夢を思い出していた。
何であんな夢見たんだろう?
そう考えてみても答えなんて分かるはずもなく、ただ漠然とした不快感を抱きながら、仕事の場に向かっていた。
でも、なんか見覚えのあるような顔だよなぁ。
どこで見たんだったかなぁ。
でも、中学卒業してから堤さんは見かけたこともないしなぁ。
見た夢のことなど、仕事をしていればすぐに忘れてしまっていた。
Y社で行なわれた打ち合わせは3時の休憩に入る前に終わり、エントランスへと向かうと笑顔で話している日花里の姿を見つけた。
途端に敦の顔に微笑が浮かび彼女たちのところへと足を向けた。
日花里の所から数メートル手前の所で足を止めた。日花里がこちらに気付いたからだ。
「こんにちは」
敦が笑顔でそう言うと、「あ」と言う顔をしてすぐ言葉を口にした日花里。
「この前はありがとう」
「いや……」
敦がそう返したところで、一緒にいた女性が日花里に訊ねる。
「どちらの?」
「あ、今技術部がプロジェクト組んでるK社の方」
「ああ」
そこで一旦会話が途切れたのを見て、敦は名を口にする。
「槙田さん」
こちらを振り向いた瞬間に首から下がっている社員証をチェックした。「槙田 日花里」下の名前を目だけで見た。
そして、すぐ向けていた顔は、どこか気後れしているような表情で声を出した。
「ちょっと……」
それだけで通じたようで、日花里は彼女達の所から敦の近くへと歩を進める。
きっと、何か仕事の話だと思ったのだろう。
敦は彼女の表情を見てそう思った。
真っ直ぐと注がれる視線に、微笑を浮かべたまま彼女だけに聞こえるように声を出す。
「仕事大丈夫だったら飲みに行こう。今日」
その台詞を聞いた途端、日花里の表情は固まっていた。
驚きのあまり敦の顔を真っ直ぐに見上げる彼女なのに、敦は笑顔を向けるだけだった。
「次会った時、飲みに誘っていい?」
この間最後に会った時の、最後に交わした言葉。
それを思い出したのか、日花里の固まった表情が解けていくように見えた。
「あ、……何時に?」
か細い声だった。
「えーと、6時半になってもいいんなら、この近くの○○駅」
「……じゃあ、6時半に……」
まだ躊躇った表情だったが、敦はニコリと笑顔を向け言い放つ。
「うん、後でね」
時間が経って言った言葉を取り消されない為に敦はその後に余計なことは言わずその場を去っていった。
言った言葉に二言がないだろう事は分かっていた。
例え軽口であったとしても、それが「約束」なら、彼女はきっと守るだろうと言うことを。
彼女の躊躇いや戸惑いが、ごく自然に掴めてしまう。なぜだか。
敦の思ったとおり、待ち合わせ場所に日花里はいた。
指先を重ねるように握った、冷えた手が胸元で可愛らしく敦の目には見えた。
日花里が顔を向けている方向は、敦がいる所とは違う方向。
敦は日花里の前で足を止めてから笑顔でゆっくりと声をかけた。
「お待たせしました」
敦を見た日花里の目は少しだけ大きく開かれて、ちょっとだけ困ったように微笑した。
一緒にお酒を飲んでいても、話に出る事は変わらなかった。
「同期は、苅谷君と武藤さん。でも武藤さんは3つ上で、気さくな人なんだけど、どっか抜けてたり」
「苅谷君は一緒のチームだから知ってるけど、武藤さんはあまり面識ないかな。同じ歳位の人他にもいたよね。なんか穏やかそうで落ち着いた感じの」
それには一瞬だけ間があってから日花里は答えた。
「満井君は2つ上なんだけど、1期上でなんか親しみやすい人なの。苅谷君も私も普通に君付けで呼んでて。……本当はいけない事なんだけどね」
肩を竦めて笑みを見せる日花里。
「へぇ、満井さんって29歳かぁ。じゃあ、俺の歳わかる?」
「……、え、と、私と、同じ歳、だよね?」
距離をとるかのような上目遣いでそう答えた日花里に、敦は事も無げに言う。
「うん。俺は苅谷君に聞いて知ってたんだけどね、同じ歳だって」
箸を持つ手が一瞬ピクリと動いたような気がした。
敦は、それは都合の良い方に解釈をし、物怖じせずにこりと笑顔を見せた。
「そう言えば、昔の夢見てさ」
料理を口に運びながら敦は言った。それに目を向ける日花里に、敦は話を続ける。
「何故だか中学の時の夢でね」
「……へ、ぇ」
「当時のクラスメート達とくだらないお喋りしてて、それがその時通り過ぎた二人の話になってて」
「誰の?」
日花里の笑顔に敦は言葉を紡ぐ。
「同じ学年のヤツで、生徒会やってた山本というのと、そいつと付き合ってるって言う噂の堤さんっていう子でね」
「ゴホッ。……ごめん、それで?」
「うん、まぁ、それだけの事だったんだけど」
「……遠野クンには、どんな人だったの?その二人って」
「うーん、一種の尊敬の念を抱いていたかな。二人とも同じ歳の割りにしっかりしていたし。堤さんはあまり表情の変えない子で近寄りがたい雰囲気があったから」
「そう、なんだ」
ぎこちない様子に違和感を感じたが敦は気にしないでいた。
それからは又違う話になり敦は笑みを浮かべて日花里との時間を過ごしていた。
「飲み物は?」
残り少なくなっているグラスに、敦はそう訊ねた。
「あ……」
どこか遠慮がちに目を向ける日花里。グラスに目を向けてると、両手を膝の上に乗せ口を開いた。
「ううん、あんまり、飲む方じゃないから」
遠慮がちな笑みに敦はそれ以上勧めたりはしなかった。
その店を出ると、敦はゆっくりと足を進めながら隣にいる日花里に目を向けた。
俯き加減でいるその表情はどこか浮かなさそうに見えた。彼女の小さな口から吐かれる息は白くなって姿を見せる。
「…………」
次の場所を誘いたい気持ちでいるのに、彼女のそんな様子が、敦に踏み切れない状態でいさせた。
……見込みないかな、俺。
チラッと過ぎったその思い。
けれど、それ以上のことは考えないようにして歩いていた。
二人の間に漂う、緊張感。
街中はクリスマスの装いでイルミネーションに輝いているのに。
賑やかな通りを歩いていると言うのに、二人の空気は静かだった。
「あの……」
そんな中、放たれた日花里の声に顔を向けた。
日花里の目は胸元で握られた手に向けられていた。何かの緊張をじっと耐えるような様子に、ほんのりと色づいた頬。それは恥ずかしさでなのか、寒さでなのか敦には判別の仕様がなかった。
けれど、日花里の表情を見ても、「悪い事」ではないように思えた。
次の言葉をじっと待つ敦を、恐る恐ると言った様子で顔を向ける日花里は、どこか目を逸らしがちだった。
「あの、さっきの話なんだけど、本当は」
決して大きくはない声だった。
だけど、敦の耳にははっきりと聞こえてきていた。
しっかりと聞いていた言葉だったのに、違う方向から飛んできた声にそれは阻まれたのだった。
「あ!!槙田さんと遠野君!」
大きな声に二人は反射的に顔を向けた。
そこにいるのは、日花里の同僚、苅谷だった。
「わー、二人だけ?」
「あ、うん」
苅谷の勢いに圧倒されそうになりながらそう答えた敦。
「今から飯でも?」
それには事務的に答える敦。
「いや、出たトコ」
「へー。じゃあ次向かう所はイイトコロなんかな〜」
冷やかし充分のその台詞と苅谷の笑顔に、二人は言葉をなくしている様子だった。
「いいな〜。二人がそんな仲になってたなんて」
「なっ、何言って……!」
日花里の言う言葉に余り耳を傾けない苅谷。
「普段は何をどう言っても、やっぱ女なのよねー。仕事第一で真面目な槙田さんもしらっとした顔して、する事はして」
そこまで言われた時には、日花里はバッグの持った手を振り上げていた。
がすん!というバッグの当たった音がしてすぐ日花里の声が放たれた。
「もう!すぐそういう事言うのやめてよ!」
「いてて。でも、一緒にいるのはそういう事なんでしょ?別に隠さなくても。男女の仲が始まるのなんて時間とか関係ないんだしさ。照れなくても……」
「苅谷君はまた!そんなんじゃないってば!」
「まー、今はそういう事にしておいて」
苅谷の言葉を最後まで待たず日花里は口を開く。
「そんなんじゃない!ただ同じ中学の人でっ、別に……!」
それを聞いて、敦の表情は固まった。そして頭には「?」が浮かぶ。
言葉に困った敦だった。
そこではっとした表情を浮かべた日花里は、敦に目を向けた。
うろたえた、今にも泣きそうな潤んだ瞳に、敦の頭は困惑するばかりだった。
うろたえた表情で地面に目を移すと、キツイ眼差しを苅谷に向けた日花里。
「勝手にして!……帰る!」
バッグを持ち直すと日花里は顔を伏せたままその場を去ってしまった。
何かの感情に固められた彼女の背中を目にして、敦はただため息を吐いた。
正直、凹んだ……。
心の中でそう呟いてから顔を上げると、自然と苅谷と目が合った。
この事態に彼は表情を変えていた。
「あの、ごめん。まさか、あんなに怒るとは思ってなかったから……」
「……いや。ま、ああいう冗談は通じないと言うのが分かったから、お蔭さんで」
「あのさ、槙田さんとは……?」
「今、ホントに何もない。ご期待に添えませんで」
「いや、あの、……申し訳ない」
そう言って微妙に顔を逸らす苅谷を、敦は恨めしそうな顔で見る事しか出来なかった。
街中は意気揚々とクリスマスに向けて華やいでいると言うのに。
さぁ、どうしてくれようか……。
2005.12.23