羽を届けてくれた人
聖夜の贈り物
1、始まりの頃
初めて知ったのはいつか? と問われれば、はっきりと答えられない。
「彼女」に気がついた時にはもう知っていたから。
遠野 敦は春には完成予定の合同プロジェクトの参加メンバーの一員だった。
今日もまた打ち合わせが行われる予定になっている。
その場所は、共同会社のY社でだった。
他のメンバーは先に向かっているだろう。
敦が一人でここへ向かっているのは、他社との取引を済ませていたからだった。
そして今、見慣れぬ場所にただ一人で来ていた敦は、どこから来たのかさえ分からなくなって思考能力を失いかけていた。迫り来る時間に焦りさえ浮かんでいる。
今回の会議は、今までのよりも重要な話にあたるというのに。
あー、やべー……
心の中の焦りで暑くもないのに汗が浮かんできているような感覚だった。
誰か人が通らないだろうか。そう思った時、視界の端に、記憶に残っている女性が見えた。
あ。
そう思った次の瞬間には、敦はもう彼女のもとへと向かい声を放っていた。
「すみません、第17会議室にはどう向かえばいいんでしょうか?」
「……」
彼女はじっと敦を見つめた。
自分は彼女の事を覚えているが、彼女はそうでないのかもしれない。
そう言えば、彼女を見るときはいつもプロジェクトで人数の多い時だった。
彼女からすれば、取引のある会社のその他大勢の中の一人。
そんな相手の顔を覚えているか?と問えば、覚えられている事は少ないだろう。
「あ、僕、遠野と言います。え、と」
「はい、K社の方ですよね。今日行なわれる会議室はこっちです」
にこりと笑顔で言い、進む方に手を指し伸ばすと歩き出した彼女の後ろをついて行く敦。
その後ろ姿をじっと眺めながら一人思う。
あ、一応覚えられてた。……良かった。
そして、彼女の後ろ姿から目が放せない自分に気がついた。
あれ……?なんか既視感。
それについて深くを考えようとした時、進むのを止めた彼女に、敦の足も自然と止まった。後ろにじっと立ったままの敦に、彼女は振り返り笑顔で言った。
「ここがそうですよ。遠野クン」
その笑顔がやけに印象に残った。まるで自分の事を知っていたかのような。
だが、そう名前を呼ばれたのは自分が先に名前を言ったからだと思った。
「あ、はい」
敦のその声を聞くと、彼女は向かうべく方向へすいっと歩いて行った。
彼女がこのプランに直接的に関わっていないのは分かっていた。
こちらに訪問した時、コーヒーを会議中に入れに来てくれる女性社員の中で彼女の姿を目にしていた。だから、所属部署が違うのが分かる。 そして、先ほど彼女に声をかけながら敦は社員証を確認し、名前を見たのだった。
総務部管理課の槙田さん。下の名前までは見れなかったけど。
でも、他にどこかで見たような……?
まぁ、気のせい、だよなぁ?
本日の会議が終わっても、室内でバラバラとしていた。
同じ年代と固まって軽口に花を咲かせていたり、相手先の上司と今後の話をしていたり、それぞれが何かの所用を帯びていた。
「今日、お茶運んでくれた人は、この前の人とは違ってたよね?」
K社の一人が、相手企業のY社の一人にそう話をしていた。
「えーと、この間って言うと誰だったかな? おい、武藤覚えてる?」
「ああ、この間は槙田さんでしょ。今日のは斉藤さん」
「女性社員の水準高いよねー。いやあ実に羨ましい」
「うーん、管理課は特別かな。お堅いのか何かはよく分からないけど、どんな男性に迫られても落ちない人や、いつも興味無さそうな人とか。男性にはキツイ人とか様々だよ」
「へぇ。今日の斉藤さんて言う人はどれに当たるの?」
手に持ったコーヒーを口に運びながら敦は聞いた。
「興味ないってやつかな」
「じゃあ槙田さんていう人は?」
「ああ、彼女は落ちないってやつ」
「ふうん」
「ん?なんだよ、遠野」
「え?」
それこそ何だよ、という表情をした敦にK社の一人は言う。
「いつもはあまり関心示さない遠野が聞いてくるなんて」
その台詞に反対に聞き返す敦。
「珍しいか?」
「珍しい」
「あれ?遠野、アドバイザーのアノ子は?」
その問には少々嫌な顔をした敦。
「トウの昔にふられてるよ。っていうか、どんだけ前の話だと思ってるんだよ」
「え?そうだったけ?」
「そうだよ、こいつ仕事仕事で放ったらかしでさ」
放っておけば会話の中心になりそうだったので、敦は渋い顔をして言う。
「いーだろ、その話はもう」
「へーへー」
Y社の苅谷は思い出したように言う。
「でも、うちの社員で誰かいたら協力するよ。上手くいくかは別として」
それに続けて、強調するようにY社の満井は言葉を続ける。
「別として。うちの女性社員って一癖二癖あるのばっかりだから」
「そーかもなぁ。槙田さんも黙って立っていれば、なぁ」
「あー、それは言えるかも。掴みどころがないしな」
「うん、彼女の心だけは読めん」
彼らの話に、敦はコーヒーに口をつけながら聞いていた。
「あんまり浮いた話聞かないよなぁ」
「そうだよなぁ。実はもう結婚とかしてたら驚きだよな」
「ははは。実はひもがいたりとかして?」
敦はそう話している二人に顔を向けてみて、そろー、っと静かに背を向けだした。
そして耳に届いてくる声。
「男にせっせと貢いでいたりとか?」
明らかに違う声が彼らの後ろから飛んできた。
それに二人は気付く様子もなく面白そうに言う。
「そんな事も実はあったりとかしてー」
「実際そんなんだったら驚きだよなー」
「ほんとねー。苅谷君と満井君にそんな風に思われていたなんて私も驚きだわー」
Y社の二人はその声を背にぎょっとした顔になった。
それを見ていたK社員は、そろ〜と顔を背けていった。とてもタイミングの悪い場面に。
「ま、槙田さん……、いつからそこに?」
「うーん、いつからだったかなー?いつからだと思う?」
「え、えーと、実はひもがいたり……」
「うーん、ちょっと違うかな」
「い、いつから?」
槙田はにこり。と笑顔を向けると、次にはきりっとした表情で口を開いた。
「そんな事より!会議の必要品リスト忘れないで出してよ」
「はい、後で出します」
萎縮している二人の気配が、その場にいた連中には充分に感じられていた。
敦も様子を窺うように目をそーっと向けてみた。
静かに目線を上げていき、それは槙田の視線とぶつかった。
まるで最初から敦を見ていたようなその目に、不思議な印象を受けた。
一瞬だけ何かを言おうと口を開けたように見えたのだが、すぐにそれは閉じられた。
同じ社員の二人に顔を向けると、それはなかったかのように言葉を口にした槙田。
「いくら冗談でも適当な事ばっかり言ってると、そのうち飼い犬に手を噛まれるような事になるよ」
そう言った後で二人に向けた視線はどこか威圧感があった。
「はひ」
それから、彼女はこのプロジェクトの諸雑務も担当しているようで、以前よりも槙田の姿を度々見かけるようになっていた。
案件が整った事もあり、親睦会をかねて飲み会が開かれた。
そこにいる人間は会議中に見た顔ばかりだった。
敦は仲間内と席に着き開式の間は適当に過ごしていた。
「おい、遠野」
「ん?」
賑やかな中、横に座っている一人に名を呼ばれ、声が聞こえやすいように顔を寄せた。
「アノ子、結構ちらちら見てるぞ」
「アノ子?」
「槙田さん」
そう言われて、敦の心臓は小さくてもドキッと鳴った。
それだけを言った同じK社の友人は、何もなかったようにタバコを吸いだしていた。
敦もビールを手に取り口に運びながら、そっと槙田の方に目を向けてみた。
目が合ったのは一瞬だけで、すぐに槙田は背ける様に隣の人物に顔を向けていた。
それからちらちらと送られてくる彼女の視線に、敦は悪い気はしなかった。
飲み会も中盤を過ぎようとしている頃、一度席を外した敦が戻ってくるともうその席は他の人が座っていた。
そして、視界に入った槙田の隣が空いているのを見て、敦は一瞬躊躇したが結局そこへと向かった。
空いていたそこに腰を下ろしたのに気づいた槙田は何気なく顔を向けたようだった。
敦はすぐ槙田の視線に気づき、自分も目を向け目が合った瞬間に声を出した。
「ども」
「……こんばんは」
横に座ったからといって、すぐに会話が出来るようなものでもなかった。
敦一人だけが感じているのだろうか。この微妙な重苦しい空気は。
何かに困惑しているような、今一歩が踏み出せないようなこの雰囲気。
それでもお互いが無造作に知らないフリをしているこの場を、敦は何かの仮面を装いつつ声をかけてみた。
「あ、いつも美味しいお茶と気配り、ありがとうゴザイマス」
「あ、いえ。何かあったらいつでも直ぐに言って下さい」
「うん」
視線は横に流しながら小さく頭を下げた槙田に、敦は真っ直ぐと目を向けたまま返事をした。
そして、一瞬間を置いてから敦は言葉を紡ぐ。
「社員証見た時に総務部ってあったから、今日は別かとも思っていたんだけど」
「私もそう思っていたんだけど、今日、出るように上司から言われて」
「そっかぁ」
そう口にして、コースターに置かれたままのグラスを手元に置き、瓶ビールに手を伸ばしたところで槙田が声を出し手を伸ばした。
「あ、します」
自然とビールにかけられていた敦の手は外れ、グラスに注がれるビールに視線を向けた。
そして、注ぎ終わったのを見てから、槙田に眼差しを向けると笑顔で言った。
「ありがとう」
それに一瞬恥ずかしそうな表情を浮かべたが、すぐにっこりとした優しい笑みを槙田は敦に返していた。
それはまだ11月のことだった。
2005.12.22