時の雫-之紀 栞1
Chapter2 ただ、それだけで
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同じクラスになったことはないけれど、部活が同じテニス部だったから1年の時から彼の存在を知っていた。
部活の練習で外周を走っているときも、「頑張って」といつも声をかけてくれていた。
1人で用具を腕いっぱいに抱えて運んでいたら、気が付いたらすぐ側にいて、殆どの量を彼が持って一緒に用具室まで運んでくれる事も度々あった。
彼はいつも優しい笑顔で話し掛けてくれた。
ひょうきんなところもあるけど、結構人に気を使う人なんだっていう事は見ていてすぐ分かった。
1年の時からずっと好きだった彼は、いつも優しかった。
私、伊沢 栞は比較的おとなしい部類の人間で、テニス部の中でも、話は聞き役に回る事の方が多かった。
ましてや、テニス部の女の子は、自分の意見を容易く主張出来る強い子が多かったと言う事も要因のひとつ。
人を押しのけてまでして前に出るタイプではなく、どちらかというと損をするタイプで。
そんな中、色々と話を聞いて知っていたのは、テニス部男子の中で人気があるのが、谷折君、瀧野君と峯君の3人だということ。
その中で、いつも谷折君と瀧野君は仲良さそうにしてる。
瀧野君は必要が無い限り女子とは話さないので、私とは殆ど口を聞いたことが無い。それに何かを聞かれたとしても、周りにいる子がここぞとばかりに早く答えていたから。あと、瀧野君が愛想ではない笑顔を向けるのは気の許した相手にだけという事も見ていてわかった。
だって、谷折君には楽しそうに話しながら笑顔になっているから。
一部の女子の中では、じゃれあっている谷折君と瀧野君を見られるのは、すごく幸せなことらしい。普段の様子とは違う二人がとても「良い」らしい。
隠れファンが多いのだと、友達の春日ちゃんが教えてくれた。
彼女のクラスでは、一部のグループが二人のファンなのだそうだ。
時折、休み時間は彼らの話で盛り上がっていると言っていた。
生徒会役員でもある春日美音ちゃんは、1年の時同じクラスで出席番号が前後だったので必然的に一緒にいるようになった。
でも、彼女の事を知っていくに連れ私にとって仲良くしたい人と思うようになった。
私がそう思うくらいだから皆もそう思っているのかもしれない。
実際彼女には友人が多くいた。
女子テニス部の(同じ学年)大半は春日ちゃんと気軽に会話をしている。
1年の時同じクラスだった子や、委員会関係で顔見知りな子や、関係は様々。
春日ちゃんは話しやすい人で、誰からも好かれていた。
人間関係をスムーズに連なっていく事に長けているように思う。
前にそんな話をしたら、春日ちゃんは笑顔で言っていた。
「話しかけてくれるから返すだけだよー。来る者拒まず去るもの追わず主義だし。
ほかの理由としたら知り合い皆と親しく深く付き合おうとしないからかなぁ。
だって女同士っていざこざが絶えないもんね。それに話を聞いてくれる親友がいてくれたらいいから」
そして最後に言ってくれた。
「いつも、いさちゃんが聞いてくれるから充分なのです」
なんか、告白されたみたいに嬉しかった。
春日ちゃんは私のことを「いさちゃん」と呼んでくれる。
春日ちゃんとは、何かあったら家に帰ってから電話で話したり、図書室で会ったりして話をしている。廊下で会ったときも声をかけてくれるし、2組に用事があって来た時も、私が暇そうにしていたら寄ってきてくれる。
でも、その時は、同じクラスの生徒会長でもある橋枝さんに怖い顔で睨まれたりする。
橋枝さんは、春日ちゃんのことを「美音ちゃん」と呼び、自分の事を「薫ちゃん」と名前で呼んでもらっている。春日ちゃんの事が本当すきらしい。私が見ていても分かるくらい。
春日ちゃんもそれを分かっているのか、橋枝さんのいる前では他の子にちょっと距離をおいて接しているみたい。女の独占欲は、怖いものがあるからね。
でも春日ちゃんは、特別な誰かを作ろうとしない。
男女ともに。
男子の間では、それはもうもてているのに、どんな人に告白されても断っているのだと耳にしている。
春日ちゃんは、いつ誰に告白されたとか、という話はしない。
他の子なら嬉しそうに話しそうなものだけど、春日ちゃんは違った。
春日ちゃんのことを知らない子が「気取っている」とか「お高く留まっている」とか口にしたりするらしいけど、それは、僻みで言っているだけ。実際、春日ちゃんは話しやすくてさり気なく人に気を使う人だもの。
春日ちゃんはどんな相手にも嫌な顔ひとつせず接している。差別したりしないし、人の悪口も言わない。
……ただ、歯向かってくる相手には容赦ないけど。
7月のある日、頭痛に我慢ができなくなって保健室へ行った。
保健医に薬をもらって、この時間はベッドで横になって休むことにしたんだけど、あまりの痛みに気を失うようにして眠りに落ちていた。
でもそれは浅い眠りで、薬が効いて痛みが引いたと感じた頃、ふうっと目が覚めた。
静かな保健室に、グラウンドで行われている体育の授業の声が届いてきていた。
そういえば、3、4組が体育だったなぁ、とこの授業が始まる前の休み時間に体操服姿で廊下を歩いていたのを思い出していた。
時計を見ようと起き上がり、ベッドから降り仕切っている白いカーテンを開けたところで、誰かが保健室に入ってきた音が聞こえた。
その人は入って来たきりなぜかそこに立ち止まったまま。
どうしたのだろう、と思ってその場所に顔を出して見れば、体操服姿の谷折君が困った顔で立ち尽くしている。
保健医が見当たらない所を見ると、どこかへ行っているみたいだった。
「谷折君、ど……」
どうしたの?と言おうとしたところで、膝から大量の血が出ているのに気づいて私の頭の中は真っ白になった。
「あ、ちょっと巻き添え食らってバランス崩したら、ハードルの角で切ったみたいなんだ」
恥ずかしそうにそう話してくれた。
体の力が抜けようとするのを必死に堪えながら、谷折君がいる場所へと足を進めた。
「先生席外してるみたいだし、手当て、するね」
「でも、しんどそうな顔してるし、いいよ。自分でするから」
血を見て青くなった私の顔を、具合が悪くて顔色が悪いと思った谷折君が、足を少し引きずって道具が置いてある所へ行こうとするのを見て、私の口と足はもう動いていた。
「私の方はもう大丈夫だから!1年の時、保健委員だったし安心して。はい、ここ座って」
「は、はい」
有無を言わせない迫力に圧倒された様子で、谷折君は言われた椅子に大人しく座った。
私はてきぱきと手を動かせ血を拭取ると、消毒を始めた。
恐る恐るすると余計に痛いので手早くやるのがコツ。
でも、本当痛そうでこちらの顔も歪んでしまう。
傷に沁みてかなり痛いはずなのに、少しも声を出さずに耐えていた。
そんな彼を見て、ああ、強いんだなぁ、と思ってしまう。
ガーゼを当て包帯を巻く。巻きながら、谷折君の視線を感じて、言葉を紡いでいた。
「どうかした?」
目はその個所から放さずに。
「……上手、だな、と、思って」
「そ、かな?」
「うん、きつくも無く緩くも無く絶妙」
「それは良かった」
谷折君の台詞に思わず笑顔になった。
そして使った物を片付けている時、谷折君は太ももの間から椅子に手をついて私の様子を見ている風だった。
「伊沢さん、は、……」
不意に紡がれた言葉に、片付けながら答える。
「なに?」
「あー、……伊沢さんも峯や瀧野に気が、あったりする、のかな?」
何故だか言いにくそうに言った谷折君。
その質問に少し驚きはしたけど、私は変な事を聞くんだなぁと思いながら笑顔で言った。
「ううん。 私、そんな風に思われるような態度してた?」
顔を向けて聞いたら、目が合った谷折君は手元に目を向けて口を開いた。
「え、いや、そういう訳じゃないんだけど。……そっか」
一人納得したように言って、谷折君は目を床に向けて足をぶらぶらしている。
私が片付け終わった頃、谷折君は保健室を後にしようとしていた。
「ちゃんと、病院で診てもらってね」
「うん、ありがとう助かったよ。じゃあ、伊沢さんもお大事に。部活無理しないようにネ」
谷折君の微笑につられる様に私も笑顔になって返した。
「ありがとう。谷折君も」
笑顔のまま、戸を閉めていった。
その短い時間はまるで二人の秘密の共有時間みたいのようで、私にとって大切な宝物のように感じた。
たった些細な出来事だけど、「お大事に」と言われて、少しでも私の事を思いやってくれたのだと嬉しく思った。
それだけの事なのに、私はまた自分の気持ちを認識する。
私はやっぱり彼が好きなんだ。
ただ、私は彼を好きでいることが、幸せな事のように感じていた。
2004.11.5