時の雫-other/辻谷聡 高2

迂闊な一言



高校に入って最初の一年が終わり春休みに入っていた。
のどかな陽気を感じる空気の中、聡は部屋の中にいた。
今日は久々に圭史が遊びに来ている。
この春の日の、気持ちの良い天気とは正反対に、圭史は何やら浮かない様子だった。
「はー」
らしくない深いため息に自然と訊ねてしまう。
「どうした?ため息なんかして」
「あー……、うちのバカ弟がさ、本当駄目なやつで」
幾度と聞いている圭史の弟の話に、表情を変えることなく言う聡。
「ああ、弟君ね」
「誰もまだ食べていない貰ったケーキを一人で食べちまいやがって」
「……」
普通に聞いていたらなんの珍しくもない台詞なのかもしれないが、聡にとっては意外なものだった。なので、あえて聞いてみる。
「甘いもの、苦手だったよな?」
「それがさ、どこぞに売っているやつじゃなくて、手作りのなんだよ。甘さ控えめで俺が唯一美味しく食べられるやつでさ。最初に貰ったとき、無理矢理母親に口に入れられて食べたらすんごく美味しくて」
「へー」
「それをあのバカが美味しいからって全部食べやがった。他のでも、自分が食べたやつでも残ってたら好きに食べやがる」
「ふーん、甘やかされて育ってんなぁ」
「全くだ」
憤慨している表情でそう言葉を吐き出した圭史。
「また作ってもらうよう頼んだら?」
「……無理」
「なんで?」
「直接の知り合いじゃないから」
そう言うと、圭史は聡のベッドにポスンと顔を落とした。そして、堪らずといった様子で声を上げた。
「……あー!くそ!しめてやればよかった。腹立つ」
「ほんと、弟に対しては過激だな」
「だって俺、弟にだけは腹立つから」
「おう、その話はよく聞いてる。っていうかさ、彼女に頼んだ方が早いんじゃない?」
普通に思った事を言ってみただけだった。だが圭史の反応は違った。
思い切り素の顔になっていた。
「……あー、別れました」
「あ、そう……」
次の言葉が続かない状況に陥ってしまった事に少々の気まずさを感じながら聡はそうとだけ言った。

 ― 別れた事よりもケーキ食えなかった方を根に持ってるのか…… ―

口に出せないそれを心の中でだけ呟いて、沈んでいる圭史を盗み見た聡だった。
「ん?なに?」
視線に気づきそう言った圭史。
「いやぁ、……どんだけもった?」
「えーと、3、4ヶ月くらい?」
「ふぅん。一体どういう女ならいいわけ?」
そう訊ねたら、殊の外圭史はじっと目を向けてきた。
「……なに?」
怪訝に、少し低い声でそう訊ねていた。
「お前がそう言うか?」
内心、どきりと嫌な音が響いたが、普通を装って聡は言う。
「俺はけいが女だったら彼女にしてたよ」
「いねーよ、そんな女」
「だろうな。だからいないっていう事だろ」
「ふーん」
「そっちは?」
「俺は、……理想が高すぎるのかなー?」
「じゃ、しゃーねぇな」
「あーあ」
ため息交じりのそれに聡はあえて知らないフリをした。





――「一体どういう女ならいいわけ?」そう言って反対に言われたのは、「お前がそう言うか?」だった。

「……ふう」
思い出して知らずため息が零れていた。

 ― あれは言うべきではなかったか…… ―

圭史の反応を見て後でそう後悔した。

 基本的に日常生活でもそういうことを考えた事がない。
理想の女はこうだとか、体型はこんなだとか。そりゃ胸はないよりある方がいいとかそういう事は男として思いはするけど、別に他については興味が湧かなかった。
なぜなら、……いつも自身についてくる話題の女といえばただ一人だったから。
正直、見かけで言えば、グレードは高く好きだといわれて嫌な気はしない。
ストレートの、真っ黒ではないけど綺麗な髪。人をひきつける瞳。身長は標準で細すぎる事もなく、人づてに聞いた話ではある程度のスポーツも勉学も出来るのだと。
だけど、何の接点もなく話した事もなければ、どういう考えの持ち主なのかもよく知らない。話が合うのか合わないのかなんて事も知らないのに……。





 始業式、クラス編成を見た後、新教室へと向かっていた。
途中、樹と会い一緒に向かう。2年では違うクラスになった。
 なんとなくで教室の前で足を止め立ち話をしていたところに飄々と川口がやってくるのが見え、聡の顔は自然と表情が重くなっていた。
川口は、聡の予想通りの行動でこちらに向かってくると、―聡からすれば嫌な―笑顔をにかっと向け口を開いた。
「よ。春休みはどうだった?」
「別に至ってフツーだったよ」
「あの子と会ったりとか、告白されたりとか、デートしたりとか」
「何にもねぇよ」
荒げたい声を必死で押さえ込みそう言った。その返事を聞いて気がすんだのか、川口は早々に去っていった。川口なりの確認項目らしい。
「……はぁ」
川口が去った後に必ず出るため息。
そんな聡の横で樹は呆れた声で言った。
「ほんと、命知らずだよなー。あのヒト」
「あいつはなぁ、死んでも治らないんだろうな」
「いやいや。俺ら同じ小学校の連中の間では、春日にたてつく人間はいないっていう話でな」
「……ああ、そう言えば、同じ小学校って言ってたっけ。で、なんで?」
「だって、ある意味ガキ大将だったもん、春日」
「……元気な子っていうのは何と無く知ってるけど」
「それはもう大変元気。一緒にいる人間が大きく変わるくらい。あ、いい意味で影響を受けるっていうことね。そして俺らのボスだったから。なのに不思議と男子から人気あるんだよなぁ。あの外見と付き合いやすいのがうけるのか」
「ふーん。そう言えば、俺の周りでも結構人気があるみたいだったな。見た目と違って気が強そうできっちりした性格のように見えたけど」
「うん、まぁそんな感じかな。ちょっとくらい話したりとかはしたんだろ?」
「全くない」
嘘偽りなく聡はきっぱりと言った。それに少し戸惑った様子の樹。
「え?本気で?」
「本気で言ってるよ」
「……へー」
それは以外、とでも言う様な樹の反応に横目を向ける聡。
「……なんだよ」
「いやぁ、そういうもんなのかなと思ってさ」
「そういうもん?」
「うん、まぁ春日のことだったら俺よりタカのほうがよく知ってるよ」
「ふーん?……戸山、ね」
なぜそういう話になるのかよくは分からない。
タカという呼ばれているのが知っている中では戸山だけなのを思い出して言っていた。
「ああ見えてタカは春日のストッパーだからな。俗に言う幼馴染だし」
「ふーん。まぁ、春日が普通の女どもとは違うっていうのは知ってはいるけど」
「……どこらへんで?」
そう問われて聡は窺うように樹をじっと見た。そして数秒後、力を抜くと声を漏らした。
「まぁ、橋本だったら話してもいいか。別に……」


それは中2の3学期。一日の授業が終わって掃除の時間のことだった。
 自分が担当する場所の清掃を終えて教室に向って歩いていた。
2年のクラスだけ別館にあり、下駄箱もその出入り口付近に置かれていた。丁度その場所は中庭と呼ばれているスペースでもあった。
 そのスペースを、7組が掃除担当だった。
角を曲がればその場所に出るというところで、感情的な女子の声が飛んできた。
「……っ、迷惑かけるようなこと言わないでよ!人の顔見れば同じ事ばっかり!好きな人がいて何がおかしいわけ?!別に普通でしょう!あんたたちだっているくせに!」
その初めて聞いた感情的な声とその台詞に、思わず足を止めていた。
そこから動けなくなっていた。
今この場面に自分が現れれば、最悪な空気になることだけは目に見えてわかる。
まるで息を潜むように立っていた。他の連中はそのまま通り過ぎて行ってしまったが。
その女子に対峙しているのは同じ掃除班の男子共らしかった。
何かを言っているがこっちの耳にまでは届いてこない。
だが、その女子の声は良く通る声だからはっきりと聞こえる。
「そう言う事自体、辻谷君に迷惑かけてるんだからやめてよ!」
感情的になって下手をすれば涙声に変化しそうな声だった。
 最初に耳に届いた声でも、台詞の内容からしても、声の主が誰なのか大方予想はついていた。だけど、それを確認する為に覗き見る事は出来なかった。
それに胸がえぐられたような心境になって、今自分はどうすればよいのか考える事を失念した。
そんな風に言われているとは思っていなかったからだ。
他の女子が誰かを好きだという話を目にするとき、凄く浮ついている。幸せそうな顔をして何もなくても楽しそうだったり。好き勝手な事を言って想像を膨らませていたり。
今ここで耳にしたことははっきりと言って、衝撃だった。
彼女の余裕ない感情的な声。
「……」
なんて言うのか言葉が出てこない。
 本人さえもが周りに振り回されているんだ、と聡はその時思った。
耳にしたそれらの台詞は、他の女子だったら聞くことはないものだろうという事は分かる。
 そんな風に思われているなんて、―どんな風に思われているかも想像した事はないが―思ってもいなかった。ただ、漠然と思っていたものより重くてしっかりしていた事に胸が痛くなったのを覚えている……。


「でも、なんで俺なんだろう……」
「えー?そういうのってなんで、っていう理由なんてあってないようなもんだろ?深く考えるもんじゃないでしょー」
「まぁ、そう言われちゃそうなんだけどさ」
でも……、と言葉を続けようと思ったのを飲み込む。これは言うべきものじゃないから。
「どんなきっかけで、なんて本人じゃないと分からないしさ」
「でも、春日を見かける事があると、益々そう感じるんだよな」
遠い何処かを眺めた後、また聡は話し出した。


放課後の各部が活動を行っている時間、職員室での用事を終えた聡は廊下を出たところでかすかに足を止めた。
前方にとある教師と話をしている美音を見つけたからだ。
丁度美音は背を向けている格好になるので気づく事はなかった。
だから、聡も余計な事は考えずにその場を通り過ぎようと足を進めた。
そんな中で耳に届いてくる美音の声。
「ハッキリどうという訳じゃないんですが、将来は語学留学して自分の言葉で翻訳して感じる世界を広げたいんです。絵本とかを翻訳して、子供の感じる世界を広げるのもいいですね。同じ意味を言うのにでも、日本語だと色んな表現があるじゃないですか。どれ使うかによって大分ニュアンスが変わってくるし」
それに対して教師が何かを言っていた。美音はほんのり浮かべた笑顔のままためらうことなく言っていた。
「だから、大学は外国語大学目指すんです。高校は出来れば公立で。あまり親に負担掛けたくないですから」
迷うことなく言っていたその台詞にはっとする思いと共に焦りに似たものを感じたのを覚えている。
あの時も今も、先のことなんて考えられていない。自分が何をしたいか、何を目指すか、何てことも全く考えがつかない。だから、はっきりとそう言える彼女が自分とは違う場所の人間のように感じて、身近に感じるなんてことはなかった。
それと同時に感じる、自分への不甲斐無さ、というのだろうか。
半ば悔しくて泣きたいような気持ちになったのを今でも覚えている。


「俺って、自慢にもならんけど、これがしたいっていうことないもん」
「んー、それはおいおい探せばいいんじゃないの?ある人間はいるということで、ない人間の方が多数だって。まぁ、春日は努力家だからね」
「ふーん、じゃあ今も頑張ってるんかな」
「そうだと思うよ」
「だからさ、尚思うわけよ。なんで俺?って」
「それはー、本人じゃないと分からない理由でしょ。まぁ、ああ見えて、春日は出来ない人間の事を出来るなんて事を思ったりしないよ。評価厳しいから」
「だからわかんねーんだよ、……俺より」
そこまで言って樹の顔を見て口を閉じた。
「ん?何?」
「……なんでもねー」
「そう?」
少しばかり不服そうな顔をして、聡は小さく息を吐いた。


 樹と別れて教室に向かった聡は、ふと戸山貴洋の姿を見かけて、考えるより先に声を放っていた。
「なぁ戸山」
「お?なに?」
珍しい、とでも言うような顔を向けた貴洋。
聡は言葉を続ける。
「あの子、……春日ってどこの高校?」
数瞬の間を置いて貴洋は静かに答えた。
「南藤」
「……へぇ」
その学校名を聞いて、聡は静かになっていた。
どこの学校かとも予想はつかなかった。だけど、その名を聞くとは思っていなかった。
「……頑張ってんだな」
と思うと同時にまったく別のことを思う。
南藤高校には、親友―圭史―が行っている。
「……そっか」
一人、何かを感じそれを受け入れるようにポツリと声を漏らす聡だった。





 橋本が春日の人を見る目が「評価厳しいから」と言ったのを聞いてまたいつものように思った。
「なんで俺を?」って。
周りだって、相手が春日だからあんなに騒ぎ立てていたんだろう。……川口はともかく。
「だからわかんねーんだよ、……俺より」
言いかけてやめた台詞。
――「……俺よりあいつの方が」
……そう思ったんだ。そして、今までもそう思っていたんだ。
それが正直な気持ちだった。
だから、何も言えなかった。何も出来なかった。

あの後、今まで誰も聞いてこなかったことを橋本は訊いてきた。
「でさ、辻谷って、本当のところはどう思ってたわけ?」
「……うーん」
今更のような、まぁ聞かれて当然の事なのに、自分の気持ちを聞かれたことなんて今まで一度もなかったと知った。
本人からさえもなかったこと。
「迷惑なだけ?嫌いな方だった?」
確かに周りの冷やかしは正直迷惑に感じたけれど。だからと言って……。
コレが橋本でなくほかの人間だったら絶対に答えていなかっただろう。
たとえけいだったとしても。……いや、けいには。
 少しばかり観念したような気持ちになって口を開いた。
多分、もう二度と答えない質問に。
「……まぁ、割と好きだったかな。よくは知らなかったけどさ」





遠くを眺めながら、初めて見せる表情。ほんのり笑顔を浮かべて何かを眩しげに見つめるその瞳はやっと解き放たれた想いのようだった。
「多分、……初恋かな。内緒の話」
「へー。初恋は実らないっていうよなー」
「そうだな。まぁ、そういうもんなんじゃないの?」
「かもね」
 ずっとしまっておこうと思っていた想い。
多分、放たれたのは今だけで、もう二度と開けられる事はないだろう。

逃がした魚は大きかったと後悔する日が来るだろうか。
……いや、多分それはない。と聡は思う。
それよりもこの先思い出す度同じことを思うだろう。
――「なんで俺?」
――「俺より……」
今は横にいない親友を思い出して聡はふっと息を漏らす。
あの子のことを思い出して、連鎖するようにいつも思い出すのはいつも同じ顔。

 ― けい、元気でやってるかな…… ―

 春休みにも会ったばかりだというのに、いつもそう感じてしまう。


「あの子と付き合う奴は並大抵の奴では無理だと思うし」
「ん?恐ろしいもんね、春日」
「……いや、そういう意味ではなくて。周りからの障害大きそうだしなぁ。付き合う男は苦労すんだろうなぁっていう話だよ」
「あー……、そうかもね〜」
向こうの教室の窓から見える空を眺めて聡はふっと笑みを零した。
心の中で、秘めていた、自分の本当の気持ちに手を振りながら。
 これからどんな未来が待っているのかと、少しだけ期待して。


2007.11.01
あとがき


  素材:工房雪月華 タイトル: