時の雫-風そよぐ青空の下で

二人きりの時間


 合間の休憩時間、フェンスに腰を預け地に座っている圭史は、ぼんやりとグランドの方を眺めていた。
周りで同じく寛いでいる部員達は穏やかに雑談をしていた。
それに参加する事もなく目に映る風景に心を預けている。
 そこに制服姿で行き交う生徒の姿は見えない。
見えるのはユニフォーム姿の体育会系部活の練習風景のみだった。
 今はもう春休み。
だけど、圭史は日常と変わらず毎日登校していた。
テニス部の練習があるから。
 春休みに入り数日、彼女の姿は目にしていない。
「……はぁ」
勝手に零れるため息にさえ、今はもう気にも留めていない。
「……い、おーい、瀧野」
谷折の自分を呼ぶ声に我に返った圭史は、面倒だというように顔を向けた。
「……なんだよ、その顔は……」
思わずそう口にした谷折だった。
「……別に」
気力なしに言ったそれに谷折は浅いため息を吐いた。
「部内対抗やれってさ。対戦一緒に考えてよ」
「はいよ」
重い腰を上げ圭史は谷折と部室へと向かう。
 部室へ向かう途中にも、校舎の方に目を向けている圭史。
そんな様子に谷折は呆れたように口を開く。
「お前ね、そんなに見つめたって春日さんはいないんだから」
「……」
その台詞を耳にして、わずかに動きを止めた圭史だったが何事もなかったように足を進めていた。
二人の間に沈黙が漂って数秒後、圭史は谷折の首に腕を回すと力を入れながら言った。
「うるせーんだよ、分かってるよ。余計なお世話だ」
無視しようとしたが、それでは虫が治まらなかったらしい。
「あいてててて。離してくれー」
谷折の声に尚腕に力を入れた圭史だった……。


 夜、風呂から上がり濡れた頭をタオルでガシガシと拭っていた。
いつもと変わらない行動の中、頭はここ数日ずっと同じ事を考えている。
 春休みという会わない時間が増す毎に、苛立って落ち着かない感情に支配されていく。
最後に会ったのは終業式。
あの時、本当に通じた想いに嬉しくて次いつ会えるかなんて事考えていなかった。
今振り返れば、確かめておけば良かった、と強く思う。
 と、言えども、自分の方は毎日部活。長い時は午前から夕方までびっしり練習があったりする。ゆっくり会う暇もない事は分かっている。

 ― ……けど、けどなぁ、限界というものが……。……俺、この間からずっと限界を感じる事ばっかのような気がする…… ―

たまらずため息を吐き、洗面所から出た。
ハーフズボンにTシャツという格好のまま肩にはタオルをかけて廊下を歩く。
そして、視界に電話が見えて、ふと足を止めた。
「……」
考え付いた行動に、自然と心音は大きく鳴った。
静かに電話機に体を向けてぐっと手に力を入れる。
「圭史―?出たのー?」
「あ、うん。今出た」
突然飛んできた母の声に、咄嗟に何もなかったような顔して返事をしていた。
 母が目の前に出てきた今更、もう電話に手をかけることは出来なくなっていた。
母親がいる前で彼女に電話するのは無理な話だった。
何を聞かれるかたまったもんじゃない。
何かを諦めたようにゆっくりと階段を上り、又小さくため息を吐いた……。


その日もいつもと変わらず部室に行き練習着に着替えてから、椅子に座ってぼんやりと窓の外を眺めていた。
 良い天気だった。春独特の匂いが風に乗って部室の中を充満していく。
1年前もこういう感じであっただろうに、圭史の心は明らかにあの頃と違っていた。
 あの頃の、どこか穴が空いた様な淋しい感情はなかった。
ただ、今は、彼女に会いたくて仕方がない、そんな気持ちだった。

「そう言えば、春日さん見たよ」
思い出したように言ってきた笠井の声に圭史は顔を向けた。
「今日?」
「そう。自転車置きに行く途中、……あれは、そうだったと思うけど。教員室に向かってた」
「へえ? …………」
そう言ったきり、頬杖をついて何かを考え込んだ様子を見せてから、圭史はその場を立ち上がり扉へと向かう。
「集合時間には戻ってくるから」
「へーい」
何も気にした様子を見せずに笠井はそう返事をした。
扉が閉まった音を耳にして笠井はいなくなった扉に目を向ける。そして浮かんでいるのは笑顔だった。

 終業式に上履きを持って帰らなくてはいけないので、春休みの今履き替える靴はない。
中庭を通って生徒会室がある校舎まで行き、出入り口のところで靴を脱いで中に入っていった。何度と通った廊下を進み、生徒会室へと向かう。
 生徒会室の扉は風通しが良いように開け広がれていた。
それで誰かがいるであろう事が予想される。
圭史は自然に微笑を浮かべてそこへと向かう。中が見える位置で足を止めると、ファイルを山積みにした机に向かった美音が真面目な顔で書類を眺めていた。
 圭史は開いた扉でノックをした。
それに顔を向けた美音は、圭史を見て「あ……」という表情を浮かべた。
「一人?」
にこやかに聞く圭史に、美音ははにかみ笑顔で言う。
「うん。春休み中に引継ぎの仕事終わらせておこうと思って」
「……入っていい?」
「うん、どーぞ」
美音のその言葉を聞いてから、圭史は中に入り隣の椅子に座った。
美音はページを捲り、目を落としている。
そんな彼女を隣で上半身を預けるように頬杖をつきながら眺める圭史。
彼の顔は凄く穏やかだった。

「……そんなに見られてたら、落ち着かないんですけど……」
参った表情で俯いている美音は目を瞑ってそう口にした。
圭史は笑顔のまま言う。
「気にしなくていいよ」
「いや、あの、それ……無理だから」
困った表情を浮かべる美音。
それに幸せそうな笑みを浮かべると、体を起こし圭史は言う。
「お昼もいる?」
「うん、いると思う」
「じゃあ、ここで一緒に昼とっていい?」
「うん」
「じゃ、またその時に来ます」
「はい」
圭史の台詞に笑顔で返事をした美音。圭史は納得したような様子でその場所を後にした。
そして、また一人になった美音だったが、安心したように息を吐いた。
 正直、あれだけ見られている中、一人で仕事をするのは落ち着かなかったから。

圭史は春休みも毎日練習で学校に来ていた。ずっとテニス漬けで美音もまともに圭史と会っていなかった。
ここ数日、美音も学校に来ていたのだけど、練習している圭史の前には姿を見せなかったし、来ている事も伝えていない。

 ― なんで、いるの分かったんだろ? ―

そんな事をぼんやりと思いながらも、美音は書類を仕分けていった。


 コンコン。と生徒会室のドアがノックされて、美音は我に返っていた。
ずっと仕事に没頭していたようだ。時間の事も頭になかった。
ドアを開けて入ってきたのは圭史だった。
美音の様子を見て、半ば呆れたように圭史は口を開いた。
「……ずっと、やってたの?」
「うん。もう昼だったんだね。全然気がつかなかった」
書類の上に重石を載せると、生徒会室の窓を開けた。
昼間は暖かく心地よい風が入ってくる。
「今日はお茶係がいないから、自分で煎れるとしますか」
窓の前から棚に移動して美音はそう言った。

 ― そう言えば、お茶を煎れて貰うの初めてかも? ―

「春休みは何して過ごしてるの?」
美音の動いている姿を眺めながら圭史は微笑みながら聞いた。
「空いている時間は殆どバイト行ってるか、こうして生徒会室来てるかかな。来週1週間は塾の春期講習で、そうこうしてるうちにもう始業式と入学式が来るんだよね」
「塾?なんて行ってたっけ?」
「ううん。長期休みだけ、塾の短期講習に行こうと思って。あんまり塾って好きじゃないんだよね」
「へー。俺は変わらずずっと練習に追われてるからなー。……あ」
「何?」
「えーと、明後日もバイト、だったりする?」
「今日明日は夕方からだけど、明後日は入ってないよ?どして?」
「さっき聞いた知らせで明後日は、練習が午前中だけになったから」
「そうなんだー。珍しいね」
声音に変化はなく素直に思った事を言った様子の美音に、内心ガクッとなっている圭史だった。
頬杖をついて眺めながら、圭史は細めになりつつも言葉を口にする。
「……それで、その日の午後一緒にどうかなー?と」
「え?……あ、うん。……」
頬に赤みが差したのを見て圭史の顔に笑みが浮かんだ。
「映画、見に行く?何か面白そうなのある?」
「うーん、興味が湧いたのはなかったかなぁ?」
「じゃあ、うち来る?」
「え?あ、うん」
数瞬間が合って答えた美音の顔はどこかうろたえている様にも見えた。
それに心がくすぐったい気持ちになる圭史。そして内心思う。

 ― 部屋の掃除、しておかないと ―


「お前、明日部活か?」
2階に上がり自分の部屋に向かう途中で、弟の部屋に寄った。
「あ、うん。午後から夕方まで」
「ふうん。……5時くらいまで帰ってくんなよ」
「え?!」
「帰ってきたら容赦ないからな」
「え?!!」
広司の反論を聞かず、圭史はドアを閉めて部屋に戻っていった。
部屋に残された広司はうろたえた表情のまま呟く。
「な、なに?っていうか、あの様子は本気だ……」

 そして、その翌日、約束の日。
部活から急いで帰宅した圭史は慌てて昼食をとると部屋に上がって服を着替えた。
部屋の掃除は昨日に済ませているので取立てすることはない。
窓を開けて、外からの風を顔に受けるとほうっと穏やかな気持ちになった。
 約束の時間まではまだある。
ベッドの上に仰向けになり、足を組み両腕を頭の下に置いた。

 あれは丁度1年前だっただろうか。
練習を終えて帰宅し、玄関にあった見慣れない靴を見て家に上がれば、目の前に現れたのは美音だった。挨拶をしてくれた彼女に、まともに顔を向ける事も目を合わせる事も出来ず適当な言葉を口にしただけだった。
彼女が手作りのケーキを届けてくれたのだと後から母に聞いた。
惜しくもそれは弟に全部食べられてしまって味は見られなかった。腹が立ったので背中に蹴りを入れてやったのだが。
 あの頃は、こんな風に部屋で彼女を待つ日がこようとは想像もしていなかった。
母親同士と家の距離は近いのに、お互いの距離は遠かったあの頃。
全ての事を諦めていたあの頃は、今までと変わらない生活がこれからも続くのだと信じて疑わなかった。
何かを少しでも期待すれば破れた時の痛手が大きいから、何も抱かないようにしていたのだ。頑張る事を拒否し、彼女が視線を注いでくれる事なんてないと思っていたのだから。

横になって回想に耽っていたはずだったのに、あまりの気持ちの良さにうとうとしていたみたいだった。
鳴り響いたインターホンにはっと目を覚ました圭史は、すぐさま身を起こし1階に下りていった。いつもの所作よりは早い動きで玄関の戸を開ける。
そこには思い浮べたとおり、美音が立っていた。
 はにかんだその顔を見て、圭史の顔には柔らかい微笑が浮かぶ。
「どうぞ、あがって」
「うん。お邪魔します」
膝丈の大きい幅の白いプリーツのスカートに柔らかく優しい色合いの水色のハイネックプルオーバーに上はブルゾンを羽織っている。
玄関に入った所で、手に持っている紙袋を差し出してどこか控えめがちな笑顔で言った美音。
「これ、チョコケーキ焼いてきたんだ。もうカットはしてあるから」
「あ、ありがと。用意して持ってくから先部屋に上がってて」
「うん」
ダイニングの方に圭史が入って行ったのを見て、美音は靴を脱いで上がり2階へと向かった。
 トレーにグラスを置き、受け取った紙袋を開けていった。
「あ、いい匂い」
コレは圭史が好きな匂いだった。嬉しくて鼻歌が零れそうになりながら食器を出し用意をして、片手にとはトレー、もう片手にはペットボトルを持ち2階に上がる。
階段を上りきり廊下を覗けば、奥にある圭史の部屋が見える。
 インターホンが鳴って1階に下りた時に戸を開けて行ったので、先に部屋に入った美音は開けている状態にしている。
そして廊下を進んで行けば、部屋に腰を下ろしている美音の顔が見えてくる。
 何か考えるように視線を上に向けて、くるっと下に向けた美音はひょこっとベッドの下を覗き込むように顔を下ろした。
見ていたのはほんの数秒。すぐ顔を上げた美音は気が済んだ表情を浮かべていた。
 部屋に入りながら、思わず圭史は目を細めて口に出していた。
「なーにをしてるのかな?一体」
「え?あー、……ちょっといつものクセで」
誤魔化し笑いを浮かべて言った美音。
その台詞に片眉を上げてしまう圭史。

 ― いつものクセとは一体? ―

そう思いつつもトレーを下ろしグラスに飲み物を注ぐ。
「これ、美味しそう。匂いも」
「あ、これね、ウイスキーボンボン好きだって言ってたから、洋酒入れたんだけどね。大人なケーキ初めて作ったからちょっと味にはあまり自信ないんだけど」
「へー嬉しいよ」
素直に言った言葉に、美音は恥ずかしそうな微笑を浮かべて目線を伏せた。
そんな仕草に、圭史は心がくすぐられるような何とも言えない気持ちに襲われる。
 他愛もないそんな事さえ今の圭史には幸せを感じるひと時だった。
 取り合えず、ゲームをする事にし、ゲームソフトの中から美音が選び取ったのはぷよぷよだった。ムキになって攻撃を試みる姿に圭史は笑みを浮かべる。
どれくらいの時間、やっていたのか分からないが、置きっ放しになっている美音のケーキに気がついてコントローラーを置いた。
「ちょっと休憩」
そう言ってから圭史はフォークを手に持ち、ケーキを口に運ぶ。
チョコの程よい甘さとしっとりとする洋酒の味が広がっていく。

 ― これは、中々 ―

視界の端では、美音が一口目を口に入れたところだった。
そして、次の瞬間、美音の動きがぴた。と止まった。
「……ごめん、洋酒入れすぎてたみたい……」
「あー、うん。でも、俺には丁度良いけど……、こういう味好きだから」
「そう?それなら良かったけど……」
気が進まない様子で二口目を運んでいる。
 圭史が食べ終わった頃、美音の動きが無いのに気付きそーっと顔を向けてみた。

 ― あ、やっぱり…… ―

美音のその様子を目にして、圭史は心の中で呟いていた。
 ケーキは半分も食べていないところで、背にもたれていたベッドに顔をうつ伏していた。
多分、酔いが回っているのだろう。
以前にウィスキーボンボンを数個食べて、とろんとした顔になっていた事があった。
「大丈夫?」
「顔が、ぽわーとする……。頭も心なしかくらくらするような……」

― ……やっぱり ―

「お茶飲む?」
「んー?いー」
そう返事をして顔を向けた美音。
予想通り頬は赤くなっていて目はとろんとしている。
 表情に出ていなくとも圭史の心拍数はあがっていた。視界に映るベッドを意識的に外して見ないようにしながら美音だけを見る。
「瀧野くんは、平気?」
「え?うん、俺は別に……」
「えー?なんでー?」
心なしか、いつもとキャラが違うような……?
それにさえどぎまぎしながら、圭史は目を向ける。
「なんで、と、言われても……」
「えー?おかしくなぁい?」
「えーと、美音が体質的にアルコールに弱いだけだと思うよ」
「んー?そうなのかなぁ」
「うん、そう」
圭史が押し切るようにそう言うと、美音は首をかしげる。そんな仕草にも圭史の心は反応してしまって、心拍数は上がるばかりだった。
「あー、頭くらくらする……」
そう言うと、ベッドの端に頭が落ち、そのままずり落ちるように圭史の腕にぽすんと落ちてきた。
「あ、ごめん……」
視線が定まらない様子で言った美音が頼りなげに頭をどかそうとしたのを見て圭史は言葉を紡ぐ。
「いいよ、そのままで」
「……ん」
圭史の言葉を聞いて、寄りかかるように目を閉じた美音。
声は平生を装ってはいたが、鼓動は鳴り響いたままだった。
 頭の片隅から邪な考えが湧き上がろうとするのを理性で圧し止め、どうにか気持ちを誤魔化すように開けたままの窓を眺めた。
外は良い天気だった。青空が広がっていて時折見える雲さえ清々しい。

 ― あー、別に遊園地とかでも良かったかな。こんなに天気いいんだったら ―

そんな事をぼんやりと思ってみても、体の神経は全部美音が寄りかかっている腕に集中している気がした。

 ― 天国だけど、地獄だ…… ―

ぼやくように目を天井に向けて心の中で呟いた圭史。
彼女の顔に目を向けると、うとうとと気持ち良さそうに眠っているみたいだ。
そんな様子に、数瞬の沈黙の後、一人でバカみたいだな、とでも言うように小さくため息をつき、そっと腕を動かして美音の頭を自分の胸元に抱き寄せた。
 1年前とは違って、今はこんな風に二人きりの時間の感じる事が出来るのだから、何を辛く思う事があるだろうか。
圭史はそう考えると、腕の中にいる美音を優しい目で見つめた。
 頭の中に、過去の事が甦っていく。
最初に思い出したのは5月のとある日。
一人で遅くまで居残って練習をしていた日だった。校門に出た所で走ってきた美音が段差に躓いて激しい勢いで転びそうになった時、辛うじて圭史は抱きとめて難を逃させたのだ。
 その後に、見せられたあの顔。
縋るような目。潤んだ目。声だって聞いた事のない、守ってあげたくなるような声で。

 ― あれで完璧オチたな…… ―

思わずぐれたくなるような気持ちで細めた目を横に向けた。
 あの翌日に見た、美音の姿が可愛くて。
緩みそうな顔を必死で抑えていたあの時。
ついこの間の事のようにも感じるし、もう大分昔のようにも感じる。

 ― 普段は結構強がってるんだけど、時折見せるうろたえた姿がなぁ……。そのギャップにだってやられるんだよなぁ ―

 ……そうでなければ、雨の日に傘がないのに自分のを貸したりなんて出来ないだろう。
谷折には「いーのかよ?」と突っ込まれたが、それを既に予想していた圭史は平然と答えた。「部室に置き傘あるから」と。
実際には無く、その日は濡れて帰ったのだが。その事実はいまだ誰にもばれていない。

1年の時、頭が濡れたままなのに拭きもせずに歩く彼女を見ても、足が動かなかった。この手に綺麗なタオルを持っていたのに。あの距離は容易く近づけないものだったのだ。

2年になってから、確実に距離は縮まっていった。多分、本人達が気づく前から。
だから、彼女の事には動きを見せるようになっていたんだろう。

 美音に目を向けて動きがないのを見ると、微かに腕に力を入れた。

 ― ……そう言えば、前にもこんな事があったな。……そうだ。夏の合宿の時、……夜だ。あの時、勇気を出して言ったなぁ。言葉は届いてなかったみたいだけど……。今聞いたらどんな反応するだろ?……多分、怒るかな? ―

「寝てる?」
そっと声をかけてみた。
「んーん」
それでもどこかくぐもった声は、まだアルコールに酔っているのだと分かるものだった。
それでも、あの時口にしたはずの言葉を今又口にする勇気は出なかった。
たった一度の出来心で、この現実を壊しては立ち直りようがない。

 ― あれはもう昔のコトだからもう考えないでおこう。聡の事は ―

 再び美音に目を向けて、そっと頭を撫でてみる。
すると、尚預けるように頭を寄り添わす美音。
自然と笑みが零れて、圭史は口を開いた。
「……俺の事、名前で呼んでみてよ」
自然と眼差しは和らいでしまっていた。本当はずっと耳にしてみたかったから。
美音は顔を上げると、にっこり笑顔で言った。
「瀧野くん。」
「……」
思わず沈黙してしまう圭史。
苗字じゃなくて。と言いたいのに、その笑顔に言葉が口に出ない。
それでも耳にしたいという欲求は消えず、耐えつつも声を出す。
「えーと、名前、で」
「?」
きょとん、と首を傾げるその仕草にも圭史はくらくらと倒れてしまい心境に駆られる。
それと同時に思う。

 ― この姿を他のヤツには見せたくねー ―

 そう、だから名前で呼ぶのは意味がある。特別な意味。自分達の仲は特別なのだから、と他の人間を近づけない為の……。
「……まだ、無理ですか……?」
それはどこか不安げな声だった。まるで、傷つきたくないけど相手を計ってしまうわがままだけど、臆病な心が見えているかのような。
「あー、……え、と、なんて呼んだらいい?」
圭史の台詞と様子で言っている事を理解したらしい美音は、はにかんだ笑顔でそう訊ねた。
「え。えーと、圭史、とか、けい、とか……」
「……。じゃあ、けいくん」
そう言われた瞬間、圭史の頭の中は別世界へと変わったように感じた。
「…………―――――」
身体の内から圧し出てこうとするあらゆる感情を感じた圭史は、緩む口を隠すように顔を横に向けた。

 ― やばい。……やばい。これは結構、クル ―

「あ、あの……」
不安な美音の声。圭史のその反応の意味が分からずうろたえている様子だった。
それにさえ圭史は刺激されてしまう。堪えきれずそのままぎゅっと抱き締めた。
突然の事に反応できない美音は襲う圧迫感に身を任せるだけ。
「……早く、それに慣れて」
ポツリと言った台詞。何も飾らない思ったそのままの気持ちだった。
「…………うん」
小さいけれど、返事をした美音の声。
きっと、気持ちは通じてるのだと信じて。

 抱き締めているのが心地よくて一向に腕を離せないでいた。
けれど、そのままでまだ暫くいたいと思う気持ちと、やはり考えてしまう邪な気持ちとの間で迷う圭史の表情は渋いものになっていた。
それでも、手すら動かすことの出来ない自分。

 ― あー……、俺の意気地なし…… ―

そして行き着く思い。
身動きの取れない自分。諦めを抱きつつも、せめてもの期待にと美音に目を向けた。

「…………」
そして無言になってしまう圭史。頭の中には何も言葉が浮かばない。

美音は無防備に眠りに落ちていた。安心しきったような、全てを任せたような表情で。

 ― ……襲ったろか ―

沸々と心に広がる、例えようのない感情に流されるかのように目を細めた圭史だった。
……もう、これは全部諦めるしかない。
そう心の中で呟いて。
 美音の体を横にさせ、自分の膝に頭を乗せた格好で、圭史は一人雑念を払うかのようにゲームに勤しんだ。


「うー、なんか頭が微妙に痛い……」
「あー、ケーキの洋酒で二日酔い?」
「うーん? 私、ケーキ食べた後からずっと寝てた?もしかして」
「…………」
それには無言で視線を向けた圭史。
「え、えと?」
それに戸惑いを見せる美音。不安な表情を浮かべながら尚口にする。
「あの、私、もしかして、絡んだりとか、した?」
「……」
無言のままグラスにジュースを入れる圭史。
そして、ペットボトルを置いてから顔を向け笑顔で言った。
「けいくんって呼んでくれてたよ」
「!!」
途端に顔を赤くさせる美音。
それに素知らぬ顔をして笑顔のまま言う。
「寄り掛かってきたからずっと抱き締めてたんだけど。誰かは気持ち良さそうに寝てたみたいだけど?」
「!!!」
これ以上に無いくらい顔を真っ赤にさせた美音。

 ― 次の機会は意気地を出そう ―

こそっとそんな事を思い、チラリ、と美音に目を向けると、すっかり小さくなっている姿があった。
恥ずかしそうな真っ赤な顔。それは十分、圭史の心をくすぐる。
「残りのケーキ食べる?」
意地悪な気持ちでそう聞いてみる。
美音は必死に顔を横に振って口を開く。
「あ、あの、食べて?私、もういいし……」
「そ?美味しいのにいいの?」
「う、うん。じ、自分の為に作ったんじゃないし……」
そして数秒の沈黙があり、目を向けると、目が合った美音は顔を又赤く染めた。
それを目にした圭史は満足そうな笑みを浮かべて言う。抱きとめるように両手を軽く広げて。
「記憶の無い時間のリプレイ、しようか?」
どこか意地悪な口調、下心に細めた目。
必死で顔を横に振る美音の顔はこれ以上にないくらい真っ赤に染まっていた。
 それがどういう意味で言ったのか、美音に通じている様子。
まるっきり分かっていない、という訳ではないようだ。

だけど、まだ機は熟していない。

 ― まぁ、お楽しみは急がず慌てず、ということで ―

 美音には顔を見せないところで一人ほくそ笑む圭史の姿があった。
まだ春は始まったばかりだから……。

2006.3.25