時の雫-紡がれていく想い

零度の距離 -2


§9

 食堂へ向かう彼との間には微妙な緊張感が漂っていて、いつもは出ているはずの会話が出てこなかった。
食堂に入って券売機に向かっている時にようやっと言葉が生まれた。
「何に、する?」
少し躊躇うような彼の台詞に、何だかくすぐったさを感じて微笑を浮かべてしまった。
それでも頭は彼の言った台詞について考える。
あんまり食堂で食べたりはしないので、正直どんなメニューが並んでいるのかは知らなかった。特に食べたいものもないし、何でも良かったんだけど、そう言えばきっと困らせてしまうから。頭に浮かんだものを、……というか知っているメニューを言った。
「え、とね、ハーフ定食」
「じゃあ買ってくるから席取っといて」
彼の優しい笑顔に素直に頷いてお互いその場を離れたんだ。
 適当に空いている席に座って、数秒間があってから息を深く吐いていた。
それはまるで、体の中にある緊張を吐き出すように。
必死で普通を装っているつもりだけど、本当の所は体中に力が入っている。
慣れないこの展開。このシチュエーション。
学食で男子と二人きりって、もしかしたら初めての事かもしれない。
いつもはお弁当か購買のパンで、教室か生徒会室でしか食べないから。
 改めて周りを眺めてみた。それぞれがそれぞれの時間を過ごしている昼休みの光景だった。初めて知ったような空間に慣れない何かを感じる。
それが何なのかよく分からなくて小さくため息を吐いていた。
そしてすぐ居心地の悪い何かを感じて目を向けた。
そこには急に顔を向けた私に驚いた生徒がぱっと目を逸らしていた。
「?」
反対側を向いても、違う生徒に同じ事をされた。
「??」
辺りをざっと見回してみて気がついた。
何だか、すっごい注目を浴びてる。
なんでだろう?
いつもは来ない私がこんな所に来たから珍しく思われているのかな?
そんな事を思ってみた。だけど、自分の中で流そうとしているのに周りから浴びせられる視線は痛くなる一方だった。
思わず身を小さくしていた私だった。
「お待たせ」
ぎゅっと固まっている間に彼がこの場に来た。
思わずほっとして顔を上げた……。
ちょっと動揺したような彼の顔を見たのはほんの一瞬。すぐに彼はトレーを目の前に置いてくれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
私がそう言った後、彼は頬杖をついているだけで手を動かそうとしなかった。
「あの、……遠慮しないで食べてね?」
「あ、うん」
と言って開封に動いた彼を見て私は箸を手に持った。
お弁当箱の蓋を開けた彼は中身を見て手を止めていた。
気にしないようにと思いながら、普通を装いながら箸を動かしている私。
何もない空気のはずなのに、いつもよりぎこちない空気を感じるのはどうしてだろう。
 ぱんっと手を合わして「いただきます」と言った彼に、ほんの一瞬だけ意外なものを感じたけどすぐ嬉しさで言っていた。
「どうぞ」
最初は会話がなかったけど、ふと話しかけてくれたのは彼。
「女子一人分にしては……」
「あ、多めに作ってるんだ。サンドイッチにすると、周りが欲しがるから」
「……周り……」
「うん、男子ってサンドイッチ好きだよね。小学校の時も中学の時も、サンドイッチを持っていくと必ず頂戴って強引に取っていくんだよ。で、自分の分が殆ど無くなっちゃって辛い思いをした事があったから」
「……」
彼はそれに返答せずに黙り込んでしまった。どうしたんだろう。
「量、足りる?」
「あ、うん。十分」
にこり、と笑顔で答えてくれて又会話がなくなった。
 相変わらず周りの空気は異様だった。
私たちの周りに座る生徒はいなく、別世界のように感じるくらい。
彼の顔を見る分には、彼の方は何も思っていないようにも見える。
そんな事を気にしているのは私だけ?
慣れない場所のせいなのか、慣れないシチェーションのせいなのか、それとも……。
 黙々と食事をしている中、違う空気をまとった人が歩いてきていた。
トレーを持って鼻歌交じり。その人は全く私には気づいていないようで、目先の空いている席だけを見て彼に声をかけていた。
「隣空いてる?」
「空いてるよ」
彼は表情を変えずにそう答えていた。
すると、訊いた方である谷折君はそのまま席に着き、何かに気づいたように顔を上げて私を視界に入れた。そこでやっと私に気づいたらしく驚いた顔をしていた。
その驚いた顔のまま彼を見る。だけど、彼は何も答えず静かに食事を取っている。
谷折君は目の前に置いた定食を見ると誘惑に負けて箸を取ったという様子だった。
変にそんな仕草が可愛い。谷折君という人は。
 彼は谷折君に話しかける事無く食べてる。谷折君の方も何も気にした様子は見せずに食べてる。それは、彼の食べているサンドイッチに気づくまでの間だった。
それまであった静けさが嘘の様に賑やかになった。
谷折君はまるでムードメーカーのよう。あっという間にこの空間に話題が上る。
サンドイッチの話になって流れで参加種目の話になって、私が出ていたバスケの話になった。本当は触れて欲しくなかった話だったのに、その試合を谷折君は見ていたそうで。
変に褒められてなんか恥かしかった。褒められるような内容でもないのに。
二人と言葉を交わしながら、私はさっきまでのぎこちなく感じていたのが嘘の様に和やかになっていた。話をするときは自然と彼に目を向けていたし、普通に笑顔で視線を向けていたような気がする。
引力でもあるような、不思議な感覚だった。
頭で何かを考えられなくて、ただその空間を私は幸せだと感じていた。
 そんな中、突然と取れるくらいに谷折君が言った。
「あ!お茶がない!……瀧野お茶くれー」
「は?」
「喋ったら喉渇いた」
まるでわがままなお子さまの物言いだった。呆れ顔になった瀧野くん。
彼はそのまま私に聞いた。
「春日も飲む?」
「あ、飲む」
予想していなかった彼の台詞に思わずそのまま答えてしまった。
それを聞いた彼はそのまま席を立ちお茶を取りに行ってしまった。
その時にはっと思った。あ、私が行けば良かったって。
いつもこういう時に気が利かない私。
そして一人で軽い自己嫌悪に陥る。

 彼が離れてから、それを確認するように振り向いて見た谷折君は、笑顔を向けてきたと思ったら、突然とも言える話をしてきた。
「こうして二人が一緒にいるの見るとさ、噂はホントなのかなーって思うよね」
その意味が分からなかった。
頭の中がフル回転する。
噂を言われて頭に浮かんだのは松内さんのことだった。でも、谷折君が言っているそれは違う事のようだった。それで引き続き頭は考える。他に噂と言えば?
思考を巡らせる事に気を取られて、気がつけば俯いていた。
そして、光を得たかのように思い出した。
痴漢から助けてくれた彼。それが元で噂が流れた。二人は付き合ってるのかって。……そう、谷折君も以前聞いてきた事があった。亮太と一緒にいる時、体操服姿の時。
再び言葉を変えて同じ事を言ってきた谷折君にはっとして顔を上げた。
「事の真相を聞かれても、あいつは何も答えないしね。……春日さんも」
その台詞に心ははっとした。でも、谷折君が私を見ようとしたのを見て、すぐ顔を伏せた。表情を見られたくなくて。
……そして、思った。何で私はこんな行動をとったんだろう。
言葉をまだ続けると思っていたのに、谷折君は何も言わなかった。それを不思議に思って顔を上げた。
微笑を浮かべてはいたけど、何か言いたげな顔だった。
反抗的心理も加わって可愛くなく言った私。
「……なに?」
それに全く怯む事無く谷折君は微笑を浮かべた目を真っ直ぐと向けて言う。
「ううん、春日さん、他の奴には手厳しいのにアイツには割と優しいよね?」
そんな風に不躾に訊いてくる人を私は知らない。
驚きで目が大きくなった。例えそんな事を思ったとしても普通聞けないことのはず。
だけど、谷折君はもっと訊いてくる。
「それはなんで?」
どんな答えを求めて訊いてくるんだろう、この人は。
私に心に怒りのようなものが込み上がっていた。
「それは、私が瀧野くんには頭が上がらないって言うのがあるから」
それ以外の理由なんてない。強い意志と共にそう言った。
だけど、谷折君は全く動じない。私の言っている事を受け取ろうとはしない。
頬杖を突いたままにっこりと言葉を返してくる。
「ん?なんで?」
そう訊かれて、正直答えに困った。あんまり、深くを考えた事なかったから。
「え、いや、その、痴漢に助けられた事が数回、解らない問題教えてもらった事も数回あって……、だから……」
「……あいつがねー。見掛けほど優しくない奴、のはずなんだけどなぁ。やっぱ春日さんには違うんだ」
まるで私には特別なんだと言っているようなその台詞に、戸惑った。
慣れない感覚に、どう反応をして良いのかも分からなかった。
谷折君の行動は抜け目がないように思えた。
だって、今だって彼の居場所を確認している。お茶を持ってこちらに向かって来ている瀧野くんを。
戸惑いつつも、私の頭は谷折君を見ていた。
「そうしてる春日さん、フツーの女の子って感じがする。なんかかわいー」
 そして言われた、思ってもいない台詞。驚いて思わず口にしていた。
「な、なに、言って……」
「んー、素直な感想。そのギャップが良いのかもね。普段はピシッとしててカッコいいし」
「も、もう、そういう話はいいから……」
これ以上自分の事に触れられたくない。そんな思いで。
自分の感情にも戸惑う中、彼は構わずに言ってきた。
「じゃあ、話を変えて、……結構さ、知っているのに気付いてないフリするよね?春日さんって」
突然の話に、私はただ驚いて目を向けた。
その時見た意地悪な笑み。余裕綽々の、頬杖をしたままの谷折君。
こんな人に自分を量られたくない。怒りに似た思いが湧きあがる。
これ以上、聞かれても答えるつもりはない。そんな気持ちで笑顔を返した。
それは多分、生徒会の仕事の時に向ける笑顔と同じもの。
 こじ開けられてたまるもんか。
そう、思った。
 戻ってきた彼の姿が目に映っていた。
無意識に私は思っていた。

 私はただ…………
彼が向けてくれる笑顔や仕草が嬉しくて……。
彼との時間が楽しくて……。

何も言葉が浮かんでこなくてただ顔を伏せた。
谷折君に伝えられる言葉は、今の私には何もなかった。


私だけの中に在るものを、必死に隠しているものを晒されたくなかった。



束の間忘れていたはずのもやもやが再び襲ってきていた。
彼らと別れてから、私の中は全てと言っていいくらいにそれに覆われていた。
 何かを考えている頭なのに、何を考えているのか分からない。
心は沈んでしまって、意味不明に谷折君が言っていた事と瀧野くんの顔がちらついている。そして、松内さんの事も。
生徒会の仕事をしているけど、もう殆ど落ち着いてきた。あとは最後の確認と最後の試合が終わるのを待つだけ。
なので、頬杖をつきたそがれていた。空に浮かぶ雲はひつじ雲、秋の空だった。
後席に入るメンバーが話している内容は耳に入ってきていた。
予定よりも早い時間に終わるため、何か余興をしろって。
で、何も案が浮かばないから、亮太は私に振ってくる。
だから、取りあえず頭に浮かんだ事を返してみる。
「リレーとかでいいんじゃない?自由参加型で1位の人のクラスに点追加で」
「はい、決定。野口―、ソフトの試合が終わり次第放送かけて」
「はい。参加者は本部に来てもらったらいいですか?」
「おう。じゃ、俺と藤田とでライン引きでもするかな。藤田―」
「はーい」
言ってみたら早いものでもう全てが決まって決行されていた。
そして、私の目には彼の姿が映っていた。
眺める距離でソフトボールの試合を見ている瀧野くん。
今いる本部席から彼の所まで結構な距離があるのに、彼だと分かっていた。
その横にいるのは多分谷折君。
 頭の中の時間はずっと止まっていた。
相変わらず同じ事がぐるぐる回っている。
何かを悩んでいるのに、深くを考えられず答えを見つけ出せず、ただ迷っているだけ。
谷折君のあの言葉を思い出して心臓がどきりと嫌な音をたてた。
 そうすると、もうこれ以上考えたくなくて思考を手放した。
それでも変わらず心の中を駆け巡るどんよりとした思い。
それが何故消えないのか、この時の私には分からない。
いつもと明らかに様子の違う私を心配してくれた野口君の勧めで、この場を一旦離れる事にした。気分転換にとジュースを買いに。
それでも気分は晴れないままだった。
 私は何を悩んでいるんだろう?そして、何を迷っているんだろう?
あまりにも心がぐちゃぐちゃになりすぎて整理もつかなかった。
 ジュースを飲み終えて、本部席に戻ろうと足を向けた。
そんな中、向けられている視線に気づき目を向けて、相手を見た途端、戸惑うように足は止まっていく。
それは松内さんだった。彼女の射る様な目は私を困らせる。
どう反応してよいか分からない。それに強気で返す自分もいない。
彼女が私に何を求めているのかも分からない。
けれど、松内さんは態度を変えず口を開いた。
「……2本目のフリースロー、手抜きましたよね」
そういう訳ではなかった。だけど、弁解の言葉は口には出ない。
ただ悲しい気持ちが広がっていく。
そうだと言われたら、……そうだったかもしれない。
彼女に真正面から向かう勇気がなくて、周りの所為にしていたかもしれない。
自分が気づくより先に、彼女がそんなズルイ気持ちに気づいていたのかもしれない。
彼女の声は必死で何かを抑えている声だった。
そんな気持ちに私がさせているという事にも悲しみを感じた。
「可哀想だって、私の事、思ってるんですか!哀れんでるんですか!それとも相手するほどじゃないってバカにしてるんですか?!」
そんな事を言われて怒りが沸いた……、なんて事はなかった。胸が痛かった。
返す言葉は浮かばず、困惑していると彼女は尚怒りをあらわに言ってきた。私の心はどこかに置き去りになったままで、彼女に伝えるものはなかった。
「あなたってそうですよね!誰にでも笑顔振りまいて皆にいい顔して!いろんな人と噂があって、はっきりしなくて。私そんな人に負けたなんて思いたくない!」

負けるも何も、私は最初から彼女から逃げていた。負けたと表現するのは私の方で彼女じゃない。だけど、彼女はそうは思わない。
彼女が何を持ってそう判断するかは、「彼の態度」でだから……。
そして、私は彼女に正面から向かい合おうとはしていなかったから。
「……何も、負けたなんて……」
噴き出す気持ちをばねにして、松内さんは今までより強い眼差しで言葉を放った。
「瀧野先輩の事どう思ってるんですか!」
「どう、って……」
必ず聞かれるそれ。
私は触れたくなくて、奥底に隠そうと必死になっているそれ。

「えぇと、俺は春日にとって、どうなのかな、と思って」
以前、本人からもそう聞かれたことがあった。あの時はそういう意味なんだとは思わずに。
いさちゃんにも「どう思っているの?」と聞かれた。

言葉にしたくない気持ち。ただそれが心にはあった。
避けるように、口にしてしまえば何かが襲ってくるという不安。
見ないように見ないように必死で逸らしてきたもの。

「そういう態度ずる過ぎます」
毅然とした態度でそう言ってくる松内さんに、返す言葉が浮かばす困惑するばかりだった。
「そう、言われても……」
「先輩の事、何も思っていないなら、もう近づかないでください。もし、そうでないなら、私とリレー勝負して下さい」
真っ直ぐな瞳だった。思わず何も言えなくなった。
彼女に気持ちに返せるものは、私には何も持ち合わせていないけど……。
けど、それとは別に頭に浮かぶ事実に口を動かした。
「……勝負したって、選ぶのは瀧野くんだよ?」
「分かってます。それでも、気持ちが納まらないんです。……自分でもどうしようも出来ないくらい。あなたを見てると、いてもたってもいられなくなる」
その時、初めて松内さんの弱い心が見えた気がした。
折れそうになるのを必死で耐えて空を目指す樹のような。
彼女は彼女で必死にあがいているんだろう。
逃げようとばかりする私とは違って。
だから私は彼女に羨望を抱いたのかもしれない……。
本当だったら、いつもの私だったら、そういう勝負を受けるような事はしなかった。でも、一身に気持ちを向けてくる彼女だから、これ以上情けない自分のままでいたくなくて言っていた。
「1回だけ、ね。50メートルと100メートルどっちがいい?」
「100メートルでお願いします」
「わかった。私の方で本部に出しておくから、また後でね」
「はい」
そう言った松内さんの顔は、意を決したような表情をしていた。

私の心は置き去りにされたような、……まるでどこかに浮かんだままのような、捕らえようのない感情に湧いていた。
本部に戻って競技参加の旨を亮太に伝えた。
それにぽつりと言葉を漏らした亮太。
「……珍しい事もあるもんだな」
それに何かを返そうとはしなかった。
自分でも正直理由が分からなかった。
この競技で彼女と勝負して何になるのだろう。私の中では。
又胸が痛むだけではないのだろうか?
高校に入ってからは、何も練習なんてしていない陸上競技。
現役だったあの頃はもう遠い昔のように感じるのに。
 ……私は何のために走る?
こんな気持ちのまま。
 でも、ちゃんと走らなければ、今度こそ松内さんは怒るだろう。
傷つける事になるだろう。



「春日ちゃん?」
様子を伺うような、そのいさちゃんの声に私ははっと我に返った。
「あ、どうしたの?」
「そっちこそ。私はリレーに強制参加なんだけどね」
「あー、リレー……。あの、いさちゃん、……」
「……どうしたの?」
いつもの私らしくない様子に、いさちゃんは心配している表情を浮かべていた。
 私は多分、縋るような目を向けていたと思う。
「……はっきりしない態度が、……ずるいって、……私周りにそう思われてるのかな」
「だ、れが、言ったの?」
今にも泣きそうな私に、いさちゃんはそう訊ねた。
「……うん」
答えようとしない私に、いさちゃんは浮かんだ名を口にした。
「松内さんに言われたの?」
言い当てられたそれに思わず俯いてしまった。それを肯定と取ったみたいだった。
「あの子は自分に向けられないものが春日ちゃんには向けられてるから、そう思うだけで……」
「……あの子が瀧野くんに本気なのは見てて分かる。だけど、その余波を私に当てられても、正直困る」
「え?」
突如言った台詞にいさちゃんは戸惑っているみたいだった。
そうだろうと思う。今までそんな言葉を吐いた事、今までになかったから。
だけど、今の私はおかしい。いつもの私じゃない。
心の中で何かが音を立てて壊れていきそうなくらいおかしくなってた。
「私が瀧野くんは優しいって言うと、周りは'特別だから'って言う。本人にもそう言われた。
皆が私は何て返すんだろうって様子を伺ってるのも知ってる。
だから尚更何も言えなくなる。怖くなって前にも後ろにも動けなくなる。
突然何処かに一人で放り出されたような感じになって堪らなく不安になる。
どうしたらいいのか分からなくなって、そう思う自分が嫌で。嫌いな自分の事を反対にいい風に言ってもらうと、どこが?って思ってしまう。そんな風に思ってしまう自分もいや。嫌いな自分をたとえ好きだと言われたとしても、受け止められない。……心の中がたまらなく苦しくなるよ」
「春日ちゃん……」
「自分の気持ちに胸を張れるあの子が羨ましいよ。私は自分の気持ちに自信ない……」
潤んだ瞳を隠すように顔を伏せた。
多分、いさちゃんはそんな私を見て、動揺しているだろう。
だけど、いさちゃんはいつも言葉をくれる。
「自信があるのが大事なんじゃなくて、自分がどう思ってるかが大事だよ?すぐ難しく考えすぎるのが悪い所だよ。人って考えすぎると身動き取れなくなるんだよ」
「……あとね、谷折君に、知っているのに気付いていないフリするよねって言われた」
「……え?」
「なんか凄い責められてる気分になって、どう返事していいか分からなくなった。でも、谷折君がそう思ってるくらいなんだから、瀧野くんはもっと、思ってるよね?こいつは……、とかさ。今もう本当は嫌われてるかもしれないよね。谷折君だって松内さんの言うように私の事を思ってるかもしれない」
「大丈夫だよ、そんなつもりで言ったんじゃないよ、きっと。自分の気持ちに素直になったらいいだけだよ。たとえそれがどんな答えでも他の人が文句言う権利はないんだから。谷折君はただ、春日ちゃんがどう思ってるか、知りたいだけなんだと思うよ?」
私は「ほんとに?」という表情でいさちゃんをじっと見つめた。
それにいさちゃんは笑顔を浮かべて言ってくれた。
「うん。とりあえず、自分の事が先でしょ。周りの人間の事は後でいいんだから」
「……うん、なんか少し気が楽になった」
「さっきも言ったけど、一番大事なのは自分がどう思っているか、だよ?もっと簡単に考えてね。いい?周りは関係ないんだから」
「……うん」
いさちゃんは念を押すようにそう言った。
 自分がどう思っているか。
その台詞はまるで呪文のように私の心の中に染み込んでいった。



 バスケの試合が終わってからずっと下ろしていた髪を、手で簡単にまとめると後ろ一本にして髪ゴムで結んだ。
髪をまとめるだけで身も心も引き締められて、それが少し気持ちよく感じたりする。
こうやってこの位置に立つと、静寂と喧騒がハッキリ分かれているのを感じる事が出来る。
その中間に自分の身があるような気がして、不思議な感覚は、とても懐かしいものだった。
 一瞬、そこに立っている理由が分からなくなって、自分の思う方にふと顔を向けた。


鬱蒼とした気持ちのまま競技は始まっていく。
そして、あっという間に順番がきてスタートラインに立っていた。
視界の端に、松内さんの真剣な顔が映る。

彼女を目にすると、なぜか後ずさりをしてしまう。
恐怖に近いものを感じてしまい、素直に何かを思うことが出来ずにいた。
彼女が彼を思う気持ちは、あまりにも自分と違いすぎて、それが申し訳ない気持ちにさせるんだろう。
だって、彼の優しさに甘んじている私を彼女はその強い眼差しで責めているような気がして。
今の生温いお湯のような関係でいたいと思う弱さを、彼女は許さない。
 彼女は、真正面から聞いてきた。
どう思っているのか、と。
今までも、彼の優しさを認識してからも、そんな彼に抱く感情にも戸惑っている自分に気付いてからも、言葉にした事はなかった。考えないようにしていた。
いつだって、その話題に触れないようにしていた。


そして、すぐに彼の顔が浮かんだ。
多分、彼もこの競技に目を向けているだろう。
嫌だと思う自分の姿を彼には見せたくない。そんな思いが突如浮かんだ。
それでも、「でも……」と浮かぶ思い。
必死に逃げようとする心。
それは何から逃げようとしているんだろう。
彼の事を思うと怖かった。彼に取り巻くいろんな事象が襲ってくるような気がして。
……でも、それを認めずにいても、現実襲ってきていた。
ただ、認める勇気がもてなかっただけで。
事象に立ち向かう度胸も持てず、傷つく事を恐れて逃げていた。
 ……彼の事が本当は好きだから。
私は、それを認めると山の様に襲ってくるであろう事を予想していたんだ。過去の事もそう、彼を想う子達の事もそう。


 瀧野くんの親友をずっと好きだった。
まともに話した事はなかったけれど、本当に好きだったと思う。
……それはとても有名な話だったから、その頃を知る人物に、瀧野くんと一緒にいる所を見られるのが嫌だと思ってた。
 だって、きっと、何かを、言われるから。

それが瀧野くんに向けられるのは、嫌だと思った。
自分に向けられるのなら、それは仕方がないと諦めがつく。

 もし、最初に好きになったのが、辻谷君ではなく瀧野くんだったら……
何度、そう思っただろう。そしたら、今こんな考えを抱いていなかったかもしれない。
でも、現実ではない事をいくら考えても、気分は滅入るばかり。

 なぜ、こんなにぐだぐだ考えるようになったのだろう―


 最初から彼の存在は特別だった。
だがそれは異性としてのものじゃない。
 偶発的に起きた出来事に、戸惑うことなく何度も助けてくれた。
危険な目にあった後の心に癒すように入ってきたのは、彼の温もりと、言葉だけではない優しさだった。
その後に続いていた恐怖心にも、彼は気遣いを見せ何度も助けてくれた。

……そうだ、あの夏の夜。
本当は男として見るようになっていた……。
それから、無意識に彼を中心として景色を見るようになっていた。
今まで見ていた世界が違う表情を見せ、違う自分が姿を見せ始めていた。
それまでは、自分が女の子だと意識した事もなかったのに。
彼を前にすると、無意識に女の子になってた。
いつだって、彼の姿を無意識に探していた。そして彼の存在を求めていた。
 そして、否定できない感情に本当は気付いていた……。

気がつけばレース開始の音は鳴っていた。そう気づいた時点で出遅れていた。
……だけど、今は自分の気持ちを受け入れる。
今まで怖くて言葉には出来なかった想い。
その気持ちは嘘じゃないと伝えたいから、余計なしがらみは忘れて前だけを向いて走ろう。
もう後は余計なことを考えずひたすら走った。
やる気を出した途端、体は勝手にあの頃よりも真剣に動いていた。
陸上部だったあの頃が、どれだけ手を抜いていたのか分かる。
過去の想い人にだって。

ぐんぐん前に進む体とは裏腹に体の中は悲鳴をあげていた。
それでも、自分に負けない為に必死で走った。ゴールして暫く経ってから一位なのだと知った。

あがった息と力が抜けていくような感覚のする体。
だけど、気分は晴れ晴れとして気持ち良かった。
今までの闇が吹き飛んだように。
体の苦しさに目を閉じながらも心の中で思う。
……そうか、好きなんだ。彼が。
認めるのが怖かっただけで。

心に受け入れた途端、今まで怖かったものが変化した。それは大事な物のように。
大事に大事にポケットに仕舞っていたキーホルダーのように。

とうの昔に生まれていた気持ち。
この時知った。
なかったことには出来ないんだと。
どんなに足掻いて見せても。

初めて認めた気持ちに、穏やかな気持ちで目を瞑った。
これからは違う自分であるように、と祈って。

そして、気づかされた事に感謝した。


2006.11.03


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