時の雫-風に乗って君に届けば
§7 二人の隙間に潜むもの
Episode 2 /6
学園祭２日目。
今、美音は途方もなく困っていた。
目の前にいるのは、妙な盛り上がりを見せるバスケ部員6名だった。
その中でも一番目立っているのは、両手を掲げて誇らしげに喜んでいるバスケ部新部長の片岡。
美音は口を挟む余地もなく、呆然と立ち尽くしていた。
そんな美音のことなどお構いなしで、周りにいるバスケ部員は無責任にあおっている。
彼らがこんなにも盛り上がっている理由は、クッキーのクジにあった。
彼らのテーブルに注文品を運んだのは美音だった。
それらをテーブルに置いて奥へ戻ろうとした美音の手を、片岡は掴んで自信ありげな笑顔で言い放ったのだ。
「当たりなら春日さんとキスね」
「え、な……」
突然の台詞に美音は困惑した。
そんな中、掴まれた腕を振り払いたい衝動に駆られたのだが、それを実行するより先に片岡はすっと手を外すと、目の前で余裕綽々とクッキーを食べて中を見た。
「はい、当たりー。俺くじ運いいから」
確かに片岡が食べたクッキーの中から当たりの赤い紙が見えていた。
それから、美音に口を挟む余地を与えられていない。
美音は今とてつもなく危ういのだということは分かっていた。
片岡はそれなりに人気があるのを美音は知っている。
バスケ部の片岡なら、「してもいい」と思う子はいるだろう。
生徒会に書類を持ってくる彼の態度は好感が持てるものだったし、別に嫌いだと思ったことはない。
だが、これとそれとは別ものだ。
美音はこういう相手の気持ちを無視したやり方は大嫌いだった。
なのに、彼等は美音の意思を無視して話を進めていく。いつどこでとか。
心の中には、底知れぬ不安と、行き場のない憤りが、混沌として渦を巻き始めていた。まるで、自分がここに存在しないかのように。
この様子に心配した同じクラスの実行委員でもある阿部が美音のところへやってきた。
「春日？どした？」
今までと違う空気の介入にはっと我に返った。
そして、美音は大きく息を吸うと、彼らに向かって声を放った。
勝手に盛り上がっている彼らの耳に声が届くように。
「じゃあ！条件だすから！実行委員の阿部君が立会人ね！」
「うん、何？」
片岡は笑顔で聞く。その他のメンバーも注目した。
「４組の瀧野君にテニスで勝負して勝ったらね！！」
「うん、わかった」
彼は笑顔でそう返事をしたのだ。
それを聞くや否や美音は踵を返して奥へと引っ込んだ。
落ち着くためにお茶を一杯飲んで息を深く吐いた。
そこへ立会いした阿部がやってきて小声で訊ねた。
「大丈夫か？」
「あぁ、うん。大丈夫、……大丈夫だから」
自分にも言い聞かすように言い、美音は落ち着かすように胸に手を当てた。
「でも、テニス部の瀧野にテニスで勝負っていうのも後で文句言われたりしないか？」
「片岡君のあの笑顔見たでしょ？分かってないのか、余程自信があるのか知らないけど、負けたからって文句言って来るような人でもないでしょ」
ふう、と息を吐いて顔を上に上げた美音。
「大丈夫。瀧野君が負ける事はないし、あんな願い事を言った片岡君に文句なんか言わせない」
「はい」
美音のきっぱりとした声に阿部は頷くしか出来なかった。
美音がそう言うと、本当に出来る気がするから不思議だ。
美音は気を取り直して、自分の役割に戻っていった。
クラスの当番を終え、休憩時間に美音はのんびりと生徒会室に向かっていた。
途中、２年５組の催し会場の前を通った時に、前に協力した心理テストを思い出し寄って行く事にした。
大きな用紙にきれいな絵が描かれており問題が書いてある。
[この扉の向こうに椅子があります。そこには誰が座っていますか]…バレー部倉内君・佐々木さん
心理結果が知りたい人は、冊子買ってね
とまで書いてある。勿論、美音が答えたのもあった。
生徒会春日さん・黒 内藤君、赤 足立先輩、…あとは冊子買ってね
一通り見て回ったところに、美音に協力をお願いに来ていた子がいた。
「あ、春日さん、これ協力してくれてありがとー。おかげで売り上げが好調ですー」
「えー？私のは関係ないでしょ」
「そんなことないよー。協力してくれたお礼に冊子プレゼント。他の人には有料なんだけど」
「えー？いいの？」
「うん、協力者にはプレゼントさせて頂いてます」
「ありがとー」
後でゆっくり見よう、と生徒会室に持って行き自分の机に置いた。
そして、そのまま学園祭１日目の、実行委員記入の書類に目を通し始めた。
学年毎にまとめて集計を出すのが生徒会の仕事でもある。
美音の担当は２年実行委員だけなのだが、学園祭が終わった頃には、快と丈斗担当の各部活の分まで手伝うことになるだろうから、こうやって空き時間に済ませている。
そして何枚目かで４組の書類が出てきた。圭史の字だ。
美音の手は無意識に止まっていた。
……あの時、頭に圭史の顔が浮かんだ。
仕事に対する態度には好感を持っていたが、異性となれば美音は片岡に近づきたいとは全く思わなかった。腕を握られて、美音には嫌悪感しか沸かなかった。
美音の意思を無視して話を進めていく光景に、憤りを感じながらも身の危険を感じていた。
もしかしたらこのまま向こうの都合の良いように全て持っていかれるかもしれない、と。
美音の心は恐怖に駆られた。嫌な汗が額に浮かび始めていた。
そして足元が宙に浮かんでいるような錯覚を受けて辺りが真っ暗になっていくような気さえし始めていた。
無意識に、何かに救いを求め始めたとき、はっと圭史の顔が頭に浮かんだのだ。
そして、すぐ阿部がやって来て声を放ち、美音は我に返ったのだ。
阻止するために条件を出さなくては。
そう思った美音の口から出たのは、圭史とテニスで試合をして勝ったら。
美音は深くため息をついた。
「……瀧野くん、ごめん……、また、迷惑かけちゃう」
生徒会室で一人、呟かれたそれは誰の耳にも届きはしないのに、言わないではいられなかった。
秋空の下、クラスの催し物の当番で圭史は友人たちといた。
この時間帯、客の入りが途切れて、時間を持て余しているといった感じだった。
ぼんやりと人の流れを眺めている所に、谷折が向かっているのを目の端に捉えた。
そして顔を向けた頃には、もうすぐそこまで来ていた。
「おーい、なんかご指名だよ。お前じゃないと駄目なんだって。今行けるかー？」
それを聞いて、圭史は池田に顔を向けると、彼は気にした風でもなく言った。
「暇だし、抜けても大丈夫だよ」
「んじゃ行って来る」
椅子から立ち上がって谷折が立っている所に行き、一緒にテニスコートの方へ向かいながら口を開いた。
「で、なんだって？」
「バスケ部の片岡がお前と試合したいんだってさ。男で残念だったな」
「それはどーでもいいけど、俺と試合してなんだって言うんだろな」
「なんか、春日さんの出した条件が何とか言ってたけどなぁ。クリアしてどーとか。えらいやる気みたいだけど」
「……ふーん」
その話で、全てとはいかないまでも、大体のことは理解した圭史だ。
嫌な「お願い」を言われて、それを阻止してほしいと託されたのだと。
テニスコートに行くと５人ほど一度は見た事のある連中がいた。
雰囲気的に全員バスケ部のようだった。
その中に一人に、特に見覚えのある顔がいた。
学園祭の企画段階で、部の催しの話をするのに頻繁に美音の所へ行っていた男。
圭史が仕事の事で美音と話している時、彼が通りかかったら必ず邪魔をするようにして美音に話しかけていた。だから顔は覚えていた。
今その男がテニスラケットを持って、さも余裕だと言うようにくるくる回して遊んでいる。
そいつがバスケ部長の片岡なのだと圭史は察した。
「的当てとミニゲームとあるけど、どっち？」
特に笑顔を向けることなく、圭史は片岡に声をかけた。
その愛想の無さに横で谷折はぎょっとしていたが、圭史は気にすることなく返事を待つ。
「テニスで試合したらって言われたから、ミニゲームかな。立会人の阿部くんが来たら始めたいんだけど」
同じ実行委員だから阿部の事は知っている。
まだ姿が見えないのを確認すると、圭史は片岡たちに言った。
「じゃ、阿部が来るまで、サービスで端のコートで練習どうぞ」
「あ、さんきゅ」
それを聞いて、圭史はベンチにどさっと音を立てて座った。
その横に谷折が座り、腕と足を組んだ圭史に顔を向け、頬杖をつきながら口を開いた。
「練習サービスなんて、お優しいのね。愛想悪いけど」
「……２−１喫茶のウリ知ってるか？」
「女の子が皆超可愛いこと」
それに圭史は無言で谷折を横目で見た。
圭史の沈黙なる攻めに、谷折は顔を明後日の方向に向け素知らぬ顔を浮かべた。
１０分が経過した頃、阿部が姿を現したのを目にして、圭史はベンチから立つと片岡のいるテニスコートへと向かっていく。
「阿部が来たけど、まだ練習する？」
丁度練習相手からボールを手に受けながら片岡はそれに笑顔で答えた。
「ああ、後もう少しよろしく」
それを聞いて圭史はベンチに戻った。
谷折は、「ふぅーん」と言う表情でそんな圭史を眺めている。
その横には阿部が不安そうな顔で立っていた。
「春日の出した条件なんだって？」
片岡に向けていた表情とは違う、いつもの柔らかな顔で圭史は阿部に聞いていた。
阿部は不安な様子を浮かべたまま、口を開く。
「あー、俺も最初から聞いていた訳じゃないから何を言われたのか分からないんだけどさ。なんか春日はかなり参ったような顔をしていたよ」
「……だろうなぁ。その顔目に浮かぶよ。で、その当人は？」
「今空き時間でクラスの方にはいないから、他の子に言い残してきた。今からするって」
「……、あいつって、春日に気ぃあるんだろ？」
目は片岡に向けて圭史はそう言った。
阿部は少し考え込んでから口を開いた。
「そうなのかなぁ。何を言われたのか春日にいくら聞いても何も答えないからなぁ、判別の仕様が無いよ」
それまで黙って聞いていた谷折が二人の間で口を開いた。
「前に話してたの聞いたことあるわ。次はあの子を落とすんだって。
その時は誰の事言ってるのか分からなかったけど、今思えば春日さんの事だったんだな。そういう事を平気で言えるなんて大した奴だな、あいつ。
……で、さっきから言ってる条件って何？」
そんな谷折を圭史は横目でチロリと見ただけだった。
条件の事を阿部から教えてもらうと、谷折は「はー…」と納得して声を出していた。
「これで万が一負けでもしたら責任重大だな、おまえ」
そんな谷折の言葉に圭史はため息混じりに言う。
「そん時はテニス部退部だな」
腕を組んで「うーん」と考え込んでから、はっとした顔を上げ谷折は声を出した。
「それは困る！お前何練習サービスしてんだよ」
圭史は呆れを見せた笑顔で言葉を紡ぐ。
「それくらいの練習で勝てるわけないだろ」
余裕の言葉に谷折は素直に頷いた。
「ごもっとも」
コートに対面して立っている二人の視界には、いつの間にやらギャラリーが増えていた。その３分の２は女子だった。
片岡は気にしている風でもなく笑顔で口にする。
「勿論、手加減してくれるよな？」
それに圭史は飄々と言ってのけた。
「春日が俺に任せたと言う事は、手加減なしだろ。でもハンデはやるよ」
サーブは全て片岡から。片岡のコートエリアは三分の二。
片岡は３点、圭史は５点、先に先取した方の勝ち。それを３ゲーム行うことになった。
その試合振りを見ながら、谷折は口を開く。
「あいつって人の良さそうな顔してるけど、試合すると全然別人なんだよな。
人の裏ついた時は密かに口の端笑ってるし。日頃のストレスをテニスで発散させてるのではないかと俺は思うんだ」
「で、今片岡を相手している瀧野はどう？」
「めっちゃ冷たい表情で、それが怖い。相手に点を与えないところはさすがと言うべきか当然と言うべきか。あいつも少しは手ぇ抜いてやったらいいのに」
「いや、それをされるとかえってこっちが不安になるから」
「そぉ？」
谷折の予想通り、試合は圭史の圧勝で終了した。
ラケットを肩に置いて、圭史はネット近くまで歩いている。
片岡はラケットを杖代わりにして大きく肩で息をしながら台詞を吐いた。
「せっかく、キスできると、思ったのに、なぁ」
「テニス部の俺に勝ったら、と言われてる時点で嫌がられてるのが明白だろ」
圭史はあっさりと冷たく言い放った。
「じゃ、おつかれ」
と最後に言い放ち、ラケットを谷折に手渡してからコートを出た。
コートを囲うフェンスの端にあるベンチには、途中から様子を見に来ていた美音が一人で座っている。その顔に浮かべている安心した笑顔。
それを目にするだけで、圭史こそ穏やかな微笑みを浮かべている。
圭史は彼女の前に辿り着くと、見上げるようにしてしゃがみ、笑顔で訊ねていた。
「キスできるのってアイツが勝った場合にだけ？」
「う、うん」
少し目を大きく開きながら答えた美音の言葉だった。
「残念」
圭史は微笑みを向けたまま、そう口にすると、その場をゆっくりと立ちコートの中に戻って行く。
フェンスの出入り口からコートに入る時、圭史はそっと美音に顔を向けた。
美音は何ともいえない表情で顔を真っ赤にさせている。
圭史の視線に気づいたのか、ふと目を向けた。
目が合った事に気づくと、尚恥ずかしそうな顔をして俯いてしまった。
そんな様子を見て、圭史はふっと笑みを零した。