二人のじかん

chapter5 慣れないものへの……

  昨日が始業式だった。
今日からすぐ午後の授業も始まる。
少しだけ、気だるさを抱きつつ、朝の冷えた空気を肌に感じながら下駄箱に向かっていた。
自転車通学なので、体は十分に温まっていた。体が冷える前に教室に入るだろう。
 もし一番乗りだったら、暖房のスイッチを入れて教室が暖まるまでの時間を震えながら待たなければならない。
誰か来ているといいな、と思いつつ康平は足を進める。
 残りひとつの角を曲がれば下駄箱だった。
そこに誰かがいるとは思っておらず、康平はすいっと行く。
そして、正面にぱっと現れた女生徒に反射神経の良さで足を止めた。
一瞬小さく息を呑んで、何事も無かったのだと判断すると、安心したように息を吐いた。
「おはよう」
どことなく、機嫌の良さそうな声に聞こえた。向けられたボールを返すような気持ちで挨拶を返した。
「おはよ」
そうしてから、相手の顔をその時やっと見た。
 まっすぐと自分を見上げている相手は、康平の目線に気づくとニコッ。と笑顔を向けた。
康平の体中に、小さくも電流が駆け巡っていく。
朝の静かな空間に響いていく、和花が小走りに駆けていく音だけがあった。
その不思議な感覚から我に返ったときには、もう笑顔を向けた和花はいなくなっていた。
 いつもと違う自分の体に違和感を抱きつつも、靴を履き替えた康平は教室に向かう。

教室の扉の前で、ふと足が止まった。和花の顔を思い出した康平の手に躊躇いが生じた。
でもそれは数秒の事で、ぴくっと小さく動きを見せると、いつもよりは力のこもった指で扉を開けた。
だが、その中に彼女の姿は無く、いつもと変わらない教室の様子だった。
「……?」
 康平が和花の存在に気づいてから、この時間に会ったことはなかった。
けれど、それ以上のことは考えず、康平は席に向かう。


 いつもと変わらない時間を過ごし、今はもう昼休みになっていた。
学食で昼食を終えた康平は、余った時間を持て余しながら廊下を歩いていた。
そして、目に付いたのは康平にとっては珍しい光景。
 窓を開けてはいなかったが、外にある何かを眺めている瀧野がいた。
片肘を桟に乗せて、適度に力を抜いているその姿に、通り過ぎようとしたのを止めて足を向けた。
かける言葉が浮かばないまま、隣に並ぶと、相手を確認するようにちらりと目を向けた瀧野が先に口を開いた。
「よぉ」
「おう。こんな所に一人?」
「うん、まぁ。……クラスの奴らが、しょーもねー噂話してるから出てきたんだけど……。どこ行くあても無く……」
「そっか。……噂話、か。瀧野が出てくるくらいだから、特定人物をしつこくっていう感じ?」
「そ、だな。聞いているこっちは嫌な気分になる。かといって、余計な事言えばうるせぇし」
「ふーん」
そう話す表情を見ても、本当に嫌そうなのが分かるくらいだった。でも、瀧野が感情を露にするのが珍しく感じる。以前、同じような様子を見かけた気がした。
そう思った次の瞬間に、康平の頭には、球技大会でのワンシーンが思い出された。
瀧野のクラスメートたちが声援を送っていたあの場面……。
「ああ、生徒会のアノヒト」
「……」
康平の口から出た台詞は、何かを深く思って出たものではなく、ただポロリと口からこぼれたものだった。
耳に届いていないはずはない声の大きさだった。何事も無い今の流れだった。
 瀧野は何も言わない。
康平にはそれが、何かを語る沈黙に思えた。
「アノヒトは男女問わずファンがいるらしいね。……でも、敵もその分潜んでそうだけど」
「……そー、かもな」
そう言った後、瀧野の目が元の位置に戻っていた。
ついさっきまで顔に出ていた表情は、今はもう見えなくなっていた。

ふと、その目に何かを捉えたらしい。少し沈んだように感じたのは康平の気のせいだろうか。
その視線の先を辿ってみると、一人の男子と楽しげに話している相田がいた。
相手はちょうど後ろ姿なので、誰かは分からない。
でも、どこかで見た事あるような……。とぼんやり思う康平。
 その瀧野の様子は、やきもちを焼いているようにも見えない。
客観的に見ても瀧野の彼女は美人だと思う康平は、ちらりと瀧野の顔を様子見る。
「……美人」
ぽつりと零した瀧野のそれに、心臓がどきっと鳴った。心の中の呟きが口から駄々漏れだったのかと焦った。
「…………、いいわけないよな……」
それは本当に独り言に思えた。
自分が知らずに声に出していたのではなかったのだと安心しつつも、その台詞に、台詞の真意に血の気が引く思いをした。
聞いてはいけないものを耳にしてしまったような、心もとない気分になった。
 そして、まるで横に康平がいるのを忘れているような、重々しく吐き出されたため息に、康平は身が凍る思いをした……。


 放課後になり、普段の学校生活となんら変わらないリズムで部活に出ていた。
いつもと変わらない練習メニュー。変わっていないクラブメイト達。
なのに、康平の目には、瀧野のまとっている空気がいつもより重く沈んでいるように見えた。普段より人を寄せ付けないバリアが2割り増しで見えるようだ、と一人呟く康平は、この休憩時間、いつものように自動販売機からのんびりと歩いていた。

 ― いつもと違って見えると言っても、何かを言えるほど親しいわけでもないしなぁ。
あからさまに、どうした?なんて聞けないし。聞かれても困るだろうし。第一俺が訊ねても気のきいた言葉も言えないしな。頼りないからな、俺。自分で言うのもなんだけど ―

歩きなれた道を無意識に歩いていく。
声に出さない言葉を呟きながら行く康平の目に景色は映っていなかった。

 ― 変な事口にしてしまったら、その瞬間に分厚い壁がすごい音を立てて落ちてきそうな感じするもんな。人を寄せ付けない、壁が。普段の瀧野からじゃ何考えてるのか分からない顔だけど、たまにぼそっと吐き出されるアレは本音が込められていて、対応に困るな……。
……あれは、本当に独り言か? 俺に言ってんじゃないよな?
俺に言ってんだとしたら、無反応の俺って感じ悪いよな? ……独り言、だよな? ―

珍しくいろんなことを考え込んでいる康平は、今ではすっかり自分に対して不安を覚え始めていた。そして、深みにはまろうとしていた頃、康平にしては予想だにしない事が起こった。

「かっさいっくん!」
「うっわあ!」

いつものように装い、通り過ぎる道、その場所のはずだった。
だけど、今日は思考に没頭していて、現地点に気づいていなかったのだ。
……そこへ、勢い良く扉が開いた瞬間に飛んできた声に心底驚いた。
 激しく鳴り響く心音に意識が持っていかれそうになるのをぐっと堪え、うろたえながら相手を見た。
その様子に、相手は申し訳なさそうに「あ、ごめん……」と控えめな声を出していた。
反射的に康平は申し訳ない気持ちになり、言葉を放つ。
「次はもう少し控えめでお願いします」
その台詞に、沈ませ表情をぱっと消して和花は笑いながら返事をした。
「はい」
それにほっとした康平は場をつなぐように言葉を紡ぐ。
「3学期始まって早々に部活?」
「うん、今日はミーティングで召集命令かかってるから」
「へー。テニス部は殆ど毎日召集命令だけど」
「ははは。運動部は大変そうだよね」
「まぁ、そう言われるとそうなのかもしれないけど。俺からすると、ずっと同じ姿勢で集中している方が大変そうに思えるけど」
「そうなんだ。人それぞれだね」
「そうだね」
康平がそう答えると、和花はニコニコとしたままそこにいた。
特に次の言葉が出てこなく、康平は内心焦った。
時間が経てばもっとこの沈黙が重く、気まずいものになるんじゃないかと思って。
「あ。そうだった、そうだった」
何かを思い出した様子の和花は、近くからひょいと何かを手に取った。
そして、康平に元気よく差し出した。
「はい。これ、どうぞ」
「え? え……?」
差し出されたものを見て一言目を発し、次に和花の顔を見て二言目を発した。
差し出されたそれは、どこぞのショップの小さいビニールバッグ、商品を購入して入れてもらう袋だった。
「あ、中身はお母さんの作った新作クッキー。美味しいよ。」
「え? いいの?」
「うん」
「でも……」
「笠井君は、美味しいって言ってくれたから」
にっこりと満面の笑顔で和花に言われて、その手に素直に受け取った。
「……ありがと」
前にも一度、こうしてクッキーをもらったのに。今日も? と、続いて出そうとした台詞は口には出なかった。
強く勧めるようにして「美味しいよ。」と言われ、余計なものは表に出してはいけないような気がした。
目の前にある彼女の笑顔が見ていたくて。


 まだ春は遠いのに、暖かい風が康平をなでていくように感じていた。
普段には無い、心臓の高鳴る音に流されてしまいそうになるのをどうにか堪え、康平は練習場所へと戻った。
普段には無い、違うものを持っているときほど、平常であるようにと努める自分が少し滑稽な感じもした。
 この手に持っているものを第3者に何気なく訊ねられても、今はうまく切り返せないような予感が今の康平を緊張に包んでいる。
 コートの隅に置いてある自分の荷物の中に隠すように置くと、持っていたドリンクを勢いよく飲んだ。のどを潤すとたまっていた何かを吐き出すように息を吐き、背をフェンスに預けた……

 不意に康平の脳裏に浮かんだ、まっすぐに向けられる和花の笑顔に、胸が小さくドキッと音を立てた。
それ以上起ころうとする何かを抑え込むように康平は額に指を当て、細く長く息を吐いた。


 それでも、心の中にうねりがあった。
何も考え無い様にしようとしても、気がつけば同じことを考えてしまっている。
同じことを幾度も繰り返しているうち、何かに縋りたいような気持ちになってくる。
 ふとすれば、みっともない事をしでかすのではないかという不安が心を占領しそうになっていた。

何をそんなにうろたえているんだろう。たかがクッキーの一つや二つ。
そう頭の片隅にある理性が言ってるのに、ちっとも落ち着かない。
「……なぁ、お礼にクッキーもらうのって、どうだと思う?」
だから、いつもと変わらぬ様子を見せる瀧野に聞いていた。
他の部員はそれぞれ賑やかに喋りながら片付けていたから。
この場所だけ静かな二人に気づくものはいないだろうと思って。
微妙に賑やかな心音をうるさくも感じながら聞いたそれ。
 康平の問いに顔を向ける事はせず、手を動かしながら瀧野は普段と変わらない様子で口を開いた。それが、康平には救われたような気持ちになる。
「んー、シチェーションにも寄るけど、まぁ、好意のあるお礼、かな」
「え?!」
返答に驚いて変な声を上げた康平はすぐにはっと我に返り顔を伏せ、せかせかとほうきを持つ手を動かしていた。
 そんな康平を見た瀧野は意外な様子に片眉を上げたが、すぐふっと微笑して元の仕事に戻っていた。

 ― しまった。……余計に落ち着かなくなった ―

それはなんてことの無い出来事のはずなのに。と思いながら息を吐く康平。
いつもより賑やかな心音も、今の自分自身も、今の康平には不可解な現象だった。

 彼女の笑顔と好意が、勿体無いような気がして……。



2011.7.8

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