二人のじかん

chapter4 どんより雲の切れ間 中編

 何事も無く年が明け、また練習が始まった。
冷え込みが又厳しくなったと感じながら、自動販売機に向かってコートを後にする。
 校内にはホットドリンクは無い。練習が休憩に入ったときにはその冷たいドリンクで丁度良いのだが、練習が再開する頃には冷えを感じるようになった。
そろそろ温かいお茶を水筒に入れて持ってこようか、と考えながら康平は歩いていた。

 離れの校舎、――そこは美術室がある棟で、康平が自動販売機からの帰りに迂回して通る校舎だ。――から本校舎へ繋がっている1階の渡り廊下を大きな荷物を小さい体で抱えて危なっかしく歩いている和花の姿があった。
 今日も自主活動かな、とぼんやり思いながら足を進める康平は、見れば見るほどよろよろしている様子に、「そろそろ転ぶのではないか」と思い始めていた。
その予想は短い時間で結果を見ることになった。
 和花は何かに足を躓き両手に持っていたダンボールを派手に転がした。
荷物が重いことを主張する大きな鈍い音がそこらに響いていた。
見事に中身はばらまかれて和花は倒れたままびくりとも動かなかった。
 その光景に驚いた康平は近づくと身を屈んで声をかけた。
「大丈夫? 無事?」
手が微かにぴく、と動いたと思うと、すぐがばっと頭を上げた和花。
目が合った彼女はすぐさま俯き、か細い声を出した。
「うん、一応、無事だと思う……」
立ち上がるのを手助けるように和花の片腕を掴み引っ張りあげた。
 辺りを見渡すと、本や冊子などが転がっている。
コレは派手にやったなぁ、と心の中で呟く康平は、和花には何も言わず、とりあえず違う方向を向いたままのダンボールを正しい形で置くと、それらを拾い始めていった。
そして、気がつけば、視界の端に黙々と拾っていく和花の姿が見えた。

 ―― きっと、今、物凄く恥ずかしさを感じているんだろうな……。俺でもこれは恥ずかしいと思う ――

「よりにもよって」の瞬間を見られた人間が居た彼女を気の毒に思いながら、言葉を声に出さなかった。
 康平が見た、全てのものを仕舞い終えてから、和花に振り向いた。
はっと顔を上げ、康平と目が合った和花は、顔を赤くすると目線を下向ける。
……その所作に、康平の胸が少し高鳴った。
「……えー、それ、運ぶよ。どこ?」
少ない言葉だった。
「……あ、りがと。図書室、なんだ」
「オーケ」
返事をしてすぐダンボールを持ち上げる康平はマイペースそのままに図書室へと足を運ぶ。

 荷物を置いた康平は一人で図書室を出て、無意識にテニスコートへ足を向けていた康平。
数秒してから、手ぶらなまま戻っていた事に気づいた。
その足をくるっと方向を変え自動販売機に向かう。
到着したところで、「あ、そうだ」と呟きもう一本買った。
 自動販売機からの帰り道に、今日もまた一人のとき必ず通る道を歩いていく。
いつもは気にしながらも、あえて視線を真っ直ぐに向けないようにしていた窓に、今は顔を向け歩き寄って行った。
その距離が一メートル手前位になったとき、勢いよく窓ががらりと開いたので、康平は驚いて動きが止まった。
「笠井君! さっきはありがとう!」
勢いを感じるその声に、一瞬ぽかんとなった康平だったが、珍しく笑顔になり言葉を返していた。……和花の表情が必死に見えたから。
「いえ、どーいたしまして」
今度は和花が一瞬止まっていた。
「あ、どーぞ、これ」
窓の桟に、買ったばかりのジュースをぽんと置き、康平は余計な事は何も語らずにその場を後にした。
 一人歩く康平の口から、可笑しそうな笑い声が小さく零れていた。


 グラウンドに出ると、外からのトレーニングに女子部員が帰ってきていた。
今から休憩のようだ。
グループの中からふらりと出るように、校舎の方へ向かう一人を目にした。その後で人物を認識する。相田だった。
 また何かを聞かれたらイヤだな、と内心思いつつ歩を進める。
すると、どこからともなく現れた男子テニス部員のとある先輩が、相田に声をかけていた。
自分が視界に入らずに済んでよかった、と思いつつ、ん?と気付く何か。
その時はそれ以上余計な事を考えずに、とりあえずテニスコートに戻った。
 同じ1年生部員でも数個のグループがあった。
最初の頃は学校別のグループが、クラスごとに。それが今では関係なく個性でのグループになっていた。
康平はその場の雰囲気で差し障りなくいるタイプだった。
ふと視線を移した先に、タオルを頭からかぶった瀧野がフェンスを背に俯いているのが見えた。
その横の、開いたスペースに行き、すとんと腰を下ろす。
買ってきたドリンクを開けて飲んでいても、瀧野は微動だにしなかった。
「起きてる?」
「起きてるよ」
くぐもった声で返事をした瀧野は、タオルを外すと顔を出した。
「戻って来る時に見かけたんだけど、……」
頭に思い出した光景をそこまで言って康平は不意に口を噤んだ。
瀧野は真っ直ぐにこちらを見ている。
ここ最近の瀧野の様子から見るに、今こんな事を言っても意味はなさないばかりか、別の意味で不愉快にさせてしまうかもしれない。
――そう考えた。
続きを言わない康平に、瀧野は静かに聞く。
「誰を?」
「……相田先輩。あの人、本当美人だよね。いつみてもそう思うんだけど」
「……ああ。まぁ、そうかな」
自分の彼女が褒められているのに、彼の様子は淡々としたものだった。
目は下方を眺めながらも、その目は何も映していない様な気がした。
だから、康平は思う。そういうことなのかもしれない。と。
「……笠井って、彼女いたっけ?」
「ううん」
「そっか」
「なんで?」
珍しい瀧野からの問いに、康平はそう聞き返していた。
「……フツーはどうなのかな、とか、思ってさ」
一瞬にして、頭の中で瀧野が言わんとしていることを思考しおおよその事柄を導き出した康平は言葉を口にする。“彼女がいる普通。”が分からなくなっている瀧野に。
「……うまくいってない、とか?」
「うーん。別にそんな風にも思わないんだけど、なんていうかなぁ、こう不満があるわけでもないんだけど……。俺って冷たいのかな」
「いやぁ、それはどうか分からないけど、俺が見て思うのは、大人しくしているやつだ、と」
「……うーん」
瀧野を向いている康平の目に、先程目にした先輩が戻ってきたのが見えた。
「まぁ、続きは違う場所でいつでも聞くよ。空き缶捨ててくる」
「おう」
そう返事をした瀧野がため息をついているのが背中から聞こえていた。
大分何かに参っているらしい様子、その珍しい姿に、康平は空を仰ぎ見た。


 今日の練習が終わり、片付けの当番だった康平は着替えの早い部員がばらばらと帰りだした頃に部室に向かった。
中に入ったときには、殆どの部員が着替え終わり、出て行こうとしていた頃だった。
ロッカーの扉を開け、カバンを外に出したところでその場にいた谷折に話しかけられた。
「最近、瀧野の奴ちょっと暗くない?」
手を止めて体を起こし、谷折を見る。
彼の表情はいたって普通だった。
「……まぁ、暗いといえば暗いかもしれない」
「うーん。三村先輩さ、最近瀧野にきつくない?」
「……少しばかり」
そう答えながら、相田と一緒に歩いていた姿が思い出された。
その人こそ、今日の休憩時間に見たとある先輩の姿だった。
「それで今暗いのかな」
「……多分、俺が勝手に思うに、違うと思う」
「なんで?」
「……なんとなく」
「ふーん。そう言えば、休憩時間のたびにジュース買いに行ってるけど、買うだけにしては時間かかってるよね?なんで?」
心臓がドキッとした。だけど、顔には出ず、康平は淡々と答える。
「他のクラブの子と喋ったりとかしてるから。谷折は、友達と会っても素通りするか?」
「いんや。それこそ確保して無理矢理にでも言葉を交わす」
「はは」
谷折らしい返答に一人ほっとした。

 康平が部室を後にした頃、女子部員たちがぞろぞろと帰りだし始めた。
同じ時間に練習が終わっても、帰りだす時間は大きく違った。
男子部員は、先輩たちが終わってから帰りの準備に入る。
だから、その時間のずれで、2年の相田は1年の瀧野に接する機会が多かったのかもしれない。
 ……もし、和花と同じ部活だったら?
ふと、そんな事を考えた康平は、その場面を色々と考えてみた。
だがすぐ思考を停める。

 ―― そんな事を考えても無意味でしかない。 ――


 学校を出てペダルを漕いでいると、顔にぶつかっていく冷たい風で寒さを特に実感する。
今日は父親が残業で遅くなる。晩御飯もいらないと言っていたことを思い出し、駅の方に向かった。その近くにラーメン屋があり、営業中であることを確認すると自転車を降りる。
今日当たりならそんなに学校の人間は来ていないだろうと思いながら中に入った。
お客の姿は僅かほど。知っている人がいない事に少しだけ安堵しながら奥のテーブルに座った。丁度入ってくる客を正面にする場所だ。
しょうゆラーメンとチャーハンを注文した康平は、何もする気にならず、頬杖を突いたままぼんやりとしている。
 それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。
注文したものが目の前に運ばれ、その美味しそうな様子に嬉々として割り箸を持ち割ろうと指を動かした。
その時、扉が開き暖簾をくぐって入ってきた客の姿が目に入ってきた。
パシッと良い音がして箸が割れたとき、お互いが目を合わせた。
「あ、笠井」
それは瀧野だった。
「あ」
思わず声を漏らした康平は、瀧野の顔を見てからラーメンを見つめた。

この場面で、別々の席に座るのはとても不自然に思えた。でも、康平が声をかけるより先に、瀧野が言った。
「そこいい?」
「うん」
「塩ラーメンとチャーハン下さい」
瀧野は座る前に注文をしていた。
食べていない相手が向かいにいるのに、自分だけ食べるというこの微妙な気まずさに、康平は手を動かせないでいた。
そして、横にあるチャーハンを見て、康平は口を開いた。
「あ、じゃあ、このチャーハン先食べたら?」
「え?いいよ」
「後から来るの貰うし。……じゃないと、食べづらい」
「ああ。じゃあ貰うよ。さんきゅ」
「……うん」
康平の台詞に微笑した瀧野を見て、見透かされたかな、と思いつつ、どんぶりに手を持っていく康平だった。

「笠井は運動の後の食事?」
不意に振られた話に康平ははっと意識が戻った。今ひどく無意識だった。
「え?あ、晩飯」
「ふうん。俺も。今日は両親が出かけてるからさ」
「寒い日はラーメンが美味しいよな」
「うん。思い出したら食べたくなって」
「うん、分かる分かる」
その後、少しの沈黙があった。
 康平は休憩時間のことを思い出し、深くを考えずに口に出した。
「彼女に、冷たいとか言われたん?」
「いや、言われた事は無いけど、思われてるんじゃないかな、とかは思ったりする」
「うーん。でも、見てると、……見てるって言っても、そんなに気にしてじーっと見てる訳じゃないけど、先輩は今でも瀧野のこと好きってのは分かるよ」
「……ん」
顔はチャーハンに俯かせたまま、瀧野はそう声を出した。
「あれして、これしてってよく言われて疲れてるとか?」
「いや、そういうのはないな。そういう事は言われた事無い、な。雰囲気的に、こーしてほしいんだろうなぁ、と感じたりする事はあるけど」
「……もう嫌いになったとか?」
「うーん、嫌いになった、とかじゃないんだよな」
「ふむ。倦怠期?」
「はー」
ため息をつく瀧野。それを眺めながらもぐもぐと口を動かしている康平だった。

「……なぁ、失恋ってどういう時に言うもん?」
手はレンゲを持ったまま止めていた。その瀧野が不意に言った言葉に、康平は口の中のものを危うく吹き出してしまいそうになった。
「えー、えと、振られたときとか、決定的な何かがあって相手を諦める気になったときとか……?」
「そー、……だよな」
沈んだ空気を纏う瀧野だった。そんな様子に、余計なことを聞いてはいけない気がした。
それは相手のことを思ったのか、防衛本能だったのか……。
 康平はふと、もしかして、と思った。
だけど、そんな事聞けやしない。
 そして、瀧野が注文した分のチャーハンが届いて、手前に持ってくる。
レンゲを持ち、浮かんだ気持ちを誤魔化すように口にバクバクと放り入れた。
きっと、思い違いだと自分に言い聞かせて。

 食べ終わった二人は一緒に店を出た。
あれから他に特別な話はしなかった。
「じゃあまたな」
と言葉を交わして二人は別々の道に足を進める。

ゆらりゆらりとペダルを漕いでいた足を止め、ふと見えなくなった瀧野を振り返る。
勿論そこに姿は無い。
 ずっと沈んだままの瀧野。

 ―― きっと、瀧野は誰かに話を聞いてもらいたかったんだろうな ――

そんな事をぼんやりと思った。
そして何かを思うと康平は「よしっ」と一声発して、ペダルを思い切り漕いで帰った。
明日、瀧野に会ったときにかける言葉を心に決めて。



2010.4.7

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