二人のじかん

プロローグ なんて事はない日常のヒトコマ

 その日もいつもと変わらずに練習を終えると、先輩たちがシャワーを浴び終わるのを待って、最後に1年生がシャワーを浴びる。そして、部室でいつものように着替えてからの帰宅だった。
 笠井康平はクラブメイトたちと途中で別れて、自転車置き場へと向かう。
徒歩で通うには距離があり、でも交通機関を使う程でもなく、バスに乗るには路線がない康平の家からでは、自転車が最適な交通手段だった。
自転車通学するには事前に届けが必要で、康平は入学式当日に申請を済ませていた。
学園の中でも、自転車通学は数少ない方だった。
 部活を終えて自転車をいつものペースで漕いでいた。
学校から家までは、慣れた今ではおよそ20分の距離。朝も帰りも一人での通学路。
学校に行けばそれなりの友人がいる。部活でもそれなりに慣れ親しんでいる。
至って普通の男子高校生だ。

ようやっと練習量に体が慣れ最初の頃のようなだるさも感じなくなった。

 夏の終わり、夕暮れが以前より早くなってきたと感じながら自転車をこいでいた。
いつもの道を外れて本屋に寄ってからの帰り道だった。
 遠くの方から聞こえてきた声にふと康平は足を止めた。
別に何かがあったわけじゃない。ただ、なんとなく、だ。

目を向ければ、女の子が犬のリードを手に家の門扉で中に向かって呼んでいるようだった。
すぐに嬉しそうな犬の声が聞こえてきた。これから散歩らしい。
どこにでもある日常の場面だ。普通の家庭でよく見られる光景でもある。

 それだけを見て自転車を漕ぎ出した。
どこかで耳にした事のあるような声だな、と思いながら。


 何のためらいもなく道を進み、とあるマンションの自転車置き場へすーいと入っていく。聞きなれた音を立て自転車を止めると、マンションの中へ入っていった。
自分の家の前まで行くと、カバンの中のいつも決まった場所に入れている家の鍵を出して開ける。中に入っても声を出す事もなく康平は戸締りをしリビングへと向かう。
 雑然とした家の中だった。
明かりをつけ荷物を適当にソファの上に置くとベランダの窓を開ける。
それは帰宅したときの一連の動作だった。
電話に目を向ければ、留守録のボタンが点滅している。再生ボタンを押して聞いてみれば父親からのメッセージだった。
『今日の帰りは9時になるから。』
他に入ってない事を確認すると、自分の部屋に行き着替えを済ませた。
そして、キッチンに行き、冷蔵庫を開ける。あまり生活感の感じられないその中から、牛肉を取り出し、野菜室からジャガイモと人参、たまねぎを取り出した。
どうやらカレーを作るらしい。
材料を用意していくその手つきは、うまいと表現するほどのものではないが、手馴れてはいた。鍋で具材を炒めてから水を入れて蓋をする。それから飯の炊く準備をしている。
炊飯器に釜を入れスイッチを押すと、リビングに置いたカバンの所に行く。
テーブルの前に腰を下ろし、ソファからカバンをずり落とすように下に置き中から教科書とノートを出す。そこで宿題を始めた。
 静かな家の中。他に誰もいる様子はなく、康平もなんら変わった様子はなかった。
リビングは整然とされている。
 それから宿題を終えると、荷物を持って部屋に行った。
康平の部屋の中は、生活の中でよく使われる物がちらほらと置きっ放しになっていた。
お世辞に綺麗といえない部屋。けれど、とても散らかっている、とまでは言えない。
机の上で明日の時間割を見ると、それらの教科道具を揃える。そして、その中から選り分けたものを持ってリビングへと戻り、再び腰を下ろした。
教科書を開き、新しいページを広げる。次は予習のようだ。
それらが片付き始めた頃、炊飯器が音を立てた。ご飯が炊けた音だった。
教科書を閉じ、キッチンへと行くと、鍋の蓋を開け中の様子を見た康平の手が数秒止まっていた。複雑な表情を微かに浮かべている。蓋を無造作に戻すと、シンク下の引き出しを開けて、中を見てまた康平の動きが止まった。
「はぁ」
気の重い、ため息が一つ。
鍋の火を止めると、部屋に戻って財布を持ち出掛けて行った。

 近くのスーパーへ行った康平は、カレールーと朝食用の食パンを買っていた。
その店を出て暫く歩いていたところで、ふと、学校帰りに見た女の子のことを思い出した。
 どこかで耳にしたことのある声。なんとなく、どこかで見た事のある顔だった。
少しだけ気になったその事を確かめに、あそこに行ってみようか、という気持ちが少し湧いた。だけど、手には帰ってすぐ入れなくてはいけないカレールーがある。もう日は暮れている。
あの子はきっと今頃、家族団らんの食卓を迎えているのだろう。
 ま、いいや。と康平は一人呟いて家へと帰った。



 朝、起床した康平はとりあえず洗面所に向かう。洗顔を済ませてキッチンへ行き、朝食の準備をする。冷蔵庫を開けて、卵を2個取り出し、又冷蔵庫の中を見渡してから数秒止まった康平は諦めたように扉を閉めた。
トーストと目玉焼き。そして野菜ジュース。それらが用意できた頃に、父親が起きだして来た。
「おはよ」
「おはよ」
鸚鵡返しのように挨拶を返し椅子に座ると父親も椅子に座った。
そして、並べられたお皿を数秒眺めると声を出した。
「今日もベーコンなしか……」
「明日の朝はあるよ」
「……月曜からそう言って、今日は金曜日だぞ」
「買い物には行くんだけど、ベーコンの存在を忘れてるんだよ。ことごとく」
「そうか。4戦中全敗か」
「……うん」

 その日もいつもと変わらない朝だった。
学校に着き、自転車置き場から下駄箱へと向かう。
靴を履き替えている最中に、同じクラスの女子がこちらを向いてひそひそと言葉を交わしていた。
それが別に気になることなく、康平はいた。
外靴を入れ終わったとき、その女子たちは、こう何とも言えない笑みを浮かべて遠慮するように見せながら声をかけてきた。
「ねぇ、笠井君?」
顔を向けると少しほっとした顔で話し出した。
「笠井君って、確かテニス部だよね?」
「そう、だけど」
「あの、瀧野君って彼女いるのか知ってる?」
「……知らない」
その名は同じ1年のテニス部員だった。
夏前の新人戦で3位入賞を果たして2学期の始業式に表彰されていた。
康平は3回戦まで進んだがそこまでだった。
「そっか……。じゃあさ、これ、クラスメートのよしみで渡しといて」
ぱっと差し出されたのは可愛い封筒だった。
「え……」
困惑していると彼女たちは尚言ってきた。
「お願いお願い。同じテニス部だし。ね?こんな事他に頼める人いないしお願い」
康平が困惑して戸惑っていると、無理矢理押し付けるようにして手紙を渡した彼女たちは言葉を放った。
「じゃあお願いねー」
そうして、そのまま去っていった。
まるで嵐が去ったように静かになったその場で暫くの間呆然としていた康平。
手に持たされたそれを視界に移すと、小さく息を吐いてカバンにしまった。
 女子のあの圧倒される空気が苦手だった。


教室に入り荷物を置くと、既に登校し片隅に集まっている友人達の所になんとなく行く。
そして、なんとなく輪に入り振られた話に言葉を放つ。
それは日常の光景だった。


 放課後になると、康平は真っ直ぐに部室へと向かう。
その途中、画材道具を両腕に抱えて歩いている女子生徒に目が止まった。
でもそれはほんの数秒の事で、何もなかったように康平の足は進んでいる。
なんとなく感じた奇妙な違和感に小さく首を傾げる。
頭に神経を向けてみて、浮かんだのは、昨日見かけた女の子。
一致する姿に、昨日の子は同じ学校なのだと知った。

 ―― まぁ、同じ学校の子がそこらにいたって別に不思議じゃない ――


康平は黙々と足を進め部室に辿り着いた。
 開けたロッカーの中に荷物を入れ、しゃがみこんで必要なものを取り出す。
その途中で見慣れないものに気付き持って出してみた。
それは朝に押し付けられた手紙が1通。
その存在をすっかり忘れていた康平は不思議な緊張で固まった。
辺りを確かめないでそれを出してしまった事に不安を感じたのだ。
他のやつがそれに気づき、変に冷やかされたらたまったものじゃない。
 康平は冷や汗を掻く気分で周りに顔を向けた。
幸い誰も気付いていないようだ。
着替え終わった部員はコートに向かっていき、入れ違いに丁度瀧野が入ってきた。
それに安心する気持ちと、これを渡さなくてはいけない奇妙な焦りが湧いた。
瀧野の目は康平の持つそれに気づきはしたが、ふいっと視線を外し、カバンを下ろしロッカーを開けた。
固まったままの康平に、何事もなかったんだ、という暗黙の主張をするかのように瀧野は声を放った。
「着替えないの?」
瀧野のその言葉にふと金縛りが解けたように康平は体を動かした。
「あ、今着替える」
とりあえずその手に持っていた物をロッカーの中の上にある棚に置いて、ささっと着替えた。今すぐに渡すには、気まずさを感じたから。

 ちらっと瀧野を見ると、もう少しで用意が終わるという頃だった。
康平は意を決して、置いた封筒を手に持つと、そろり、と瀧野に向いて声を出した。
「……これ、渡してくれって頼まれて」
その台詞に一瞬動きを止めた瀧野は、康平の手を見ると「ああ」と納得したような顔をすると受け取った。
「頼まれたというより、押し付けられたんだろ?」
「え、あ、まぁ」
瀧野は封筒を裏返して差し出し人の名前を確認すると簡単にカバンの端側に邪魔にならないように仕舞った。
呆気ないそれに、康平は拍子抜けする思いだったが、それ以上余計な事は口にする事も思わないでいた。
頭の片隅で、その現場を見ていたわけではないのに、するどい台詞を返してきた瀧野に隙のなさを感じていたが、とりあえず、余計な荷物が減って良かったと思った。

 二人は同じ頃合に用意が終わったので一緒に部室を出た。
出た所で女子テニス部の一人がのんびりと立っているのが視界に映った。
その人の雰囲気で1年ではない事が分かる。3年はもう引退しているので2年だろう。
こちらを見たその人が「あ」という少し嬉しそうな笑みを浮かべたのを見て、康平の顔が「ん?」と微かに動いた。
後ろで部室の戸を閉めた瀧野が前方に体を向けた時に、その人は声を出して寄ってきた。
「瀧野ちゃん、これ言ってたCD」
「あ、ありがとうございます。ゆっくりでも良かったんですよ?」
瀧野が足を止めて会話を始めたのを耳にして、康平はゆっくりと歩き出し一人コートに向かった。
卒がなく対応する瀧野の様子と、好意を見せないようにしても見えている女子部の先輩。
そんな目の前で見た様子なのに、康平には遠い向こうのことのように感じていた。
そう、自分はいつだって、そんな世界の主人公にはなりえない、と思っているから。



 授業中、ラスト10分で小テストをしていた。
全問やり終えた康平は、シャープペンを持っていた手を止めたとき、ふと数日前のことを思い出していた。
手紙を押し付けられた翌日、かの女子にこそっと訊かれた。渡してくれた?と。
だから淡々と答えた。渡した、と。
他にも何か聞きたそうにしていたが、康平はあえてその場から離れた。
あまり余計なことを話したくはなかったからだ。
 その後は何も訊かれないし、あの後どうなったとかいう事は耳に聞こえてこなかった。
女子テニス部の先輩、最近、瀧野に機会があれば話しかけている、相田の事を頭に浮かべて、ぼんやりと思う。

―― あんな綺麗な人に好意を抱かれても、表情を崩さない瀧野って、案外侮れないんじゃないか?
……ま、おれには関係ないことだ。 ――


 午前中の授業が終わり昼食と突入した。
購買にパンを買いに行く康平は席を立ちドアへと向かう。
真っ直ぐ向かっている康平と、そこへ曲がってきたクラスメート女子とがぶつかりそうになった。慌てて足を止めたが、女子は康平の腕に軽い衝撃を与えるくらいにぶつかった。
「あ、ごめん」
ぶつけた鼻を押さえながらそう謝った女子に、康平は反射的に言葉を返す。
「あ、いや」
そして、その女子の顔を正視して驚きに手を止めた。
女子の方は構わずにそのまま急いだ様子で教室を出て行った。
「同じクラス……」
あの日に学校帰りに見かけたあの子は同じクラスだった。
今まで全く気付いていなかった。
気付いてみて、今思い返せば、何かの時に何度か見かけているかもしれない。

 康平はクラスの女子の顔もあんまり覚えていない。
必要最小限のことだけに記憶力を使っている。

 購買に足を再び動かし、何とも言えない思いに駆られている。
全く気づかなかった自分に呆れる思いもあるのだけど。


康平は少し足取りが軽くなっているのに気付いていた。
 あの日康平が彼女を見かけたことは、きっと彼女は知らない。
今までだって、同じクラスでも取り立て会話をしたことは無い。
康平はいつも同じ人間といるだけで、日常生活に支障がないように当たり障りなく過ごしているのだから。

それでも、いつもと同じはずの一日が、ちょっとだけ違うように感じた。

一方的な、何のことはない、日常的なひとコマなのだけど。

2009.3.29

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