web拍手 お礼SS

その13 −−− 大学生の5月 樹より

 新緑の季節、樹は軽快な気分で駅の構内に上がりホームにある蕎麦屋に入った。
一人で遅めの昼食を取り、満足して店を出てベンチに座る。
空は快晴でこうして眺めているだけでも気分が良かった。
 春から付き合う事ができた彼女とも円満で不満を口にする事もなく毎日を送っている。
一つ大きなことがうまくいっていると、他の事も幸せだと思えてしまうのは自分だけだろうか。
 そんな平穏なひと時……。


「うわ、樹」
嫌そうに口にされた自分の名前だった。その声は女性。
どこか聞き覚えがあるな、と思いながら、声の主に顔を向けた。
顔を見てもすぐには思い出せなかった。どこかで見た事ある……。と。
そして、重なるのは知っていたはずの一つの顔だった。
「あ、春日美音、……さん」
取ってつけたように「さん」を口にしたのは、フルネームをいい終えたところで、彼女の顔がピクと動いたからだ。あれは、気に障ったことを示すもの。
「何してんの?」
「何って、学校行くとこだよ。おたくは?」
「私はここで待ち合わせ〜」
「普通待ち合わせって改札口じゃないの?」
「改札口で待ち合わせしてると、変なのが来たりするからホームになったんだ」
「ふーん」
「しっかし、本当久しぶりだよね。5年、ぶり、くらい?」
「そうだったけ?」
「そうそう。中1の時にタカの家で会ったくらいだし」
「そうだった?」
「そうそう。樹ってどこの高校行ってたんだっけ?」
「野田高だよ」
「……ふーん」
途端に表情がつまらなさそうになったのを見て、樹は引っかかりを感じた。
「そっちはどこ?」
「ん?私、南藤」
「げっ」
「何よ、げって」
「だって、……無理だとは分かりながらも一度は夢見る南藤じゃん」
「ふーん、そうなの?」
「そうなのって……。俺の彼女、南藤諦めて桜女行ったんだもん」
「へーって、樹、彼女いんの?!しかも、桜女の子で?」
とても意外そうな顔をする美音に、樹は「心外だ」という顔をした。
「どんな子どんな子?」
「どんな子って……」
「どーせ樹の事だから、写真とか持ち歩いてるんでしょ。財布か定期入れとかに」
「……ううっ」
どうしてこうも行動パターンを読まれるのか。昔からこの彼女はこうだった。
「ほら早く出しなよ」
昔もこうやって何かにつけてはせっつかれていた様な……。
抵抗する気もごまかす気も出ない樹は、大人しく定期入れに入れている写真を差し出した。
「……」
何か言いたげな目を向けてくる美音。言いたいことは分かっている。
やっぱり定期入れにか。
美音の目は明らかにそう言っていた。
それには何も口にせず、写真を見るのをじっと横で見ていた。
写真に写っている彼女を見た美音の顔が忽ち変わっていった。
「うわー、可愛い!雰囲気も可愛い感じ。まぁ、よくこんな可愛い子捕まえたもんだね」
「捕まえた……。うーん、捕まえた、んだろうなぁ。よくうまくいったもんだと思うけど」
「へー?年下?」
「ううん。同じ歳。同じ中学の子だから」
「へー。まぁー、この樹のでれっとした顔……。本当しまりの無い顔して、まぁ」
「それについては放っておいてくれ」
「あー自覚はあるのね」
本当にこの人は、ああ言えばこう言う……。
顔には出さずに、心の中で思う樹。


 不意に高校時代のとある話を思い出した。
思わず美音を窺ってしまう樹。何をどう話していいのか。というか、こんな話をしたら殴られる可能性の方が大きいかもしれない。話をする時点で覚悟が必要だ……。
「何よ?」
怪訝な顔でそう聞いてきた美音。
思い切り思っていたことが顔に出ていたみたいだ。
「いやぁ、高校時代に春日たちと同じ中学のやつらに聞いた話があって」
そう言っただけで、美音の顔からすうっと表情が消えた。
「それで?」
冷たい声。思っていたのと違う美音の反応。
それに内心冷や汗を掻く樹。口に出してしまった以上、言わざるを得ない。今更やめれば、そちらの方が被害が大きく出る。
「いや、俺さ、高1のとき同じクラスだったんだ」
「ふぅん」
誰と?と聞いてこない。
美音の目は写真に向いていた。気の無い声に、どう判断してよいか分からない樹。
「で、後から話聞いてさー」
へらっとだらしない笑みを向けてしまっていた。
それにもしらけた様子の美音に、冷や汗が滝のように出ている気がした。
「で、結局どうなったん?辻谷と」
心の中は言い知れぬ恐怖だった。だけど、結局はそこまで言ってしまう。
聞いたら痛い思いをすると分かっているのに聞かずにはいられない。
「……」
美音は何一つ表情を変えなかった。眺めていた写真をついっと樹に返す。
「はい、ありがと」
「あ、いやいや」
返してもらったそれをいそいそと元の場所に戻した。
「どうなった、ってねぇ……」
そう口にした美音は空を遠く眺めていた。
そんな様子のまま言葉を紡ぐ。
「どうなるも何もないんだけどね。男子はすぐそうやってからかってくるけど。どーせ樹だって、その話聞いて、辻谷君に余計な事言ったんでしょ」
少し非難をしている目と、呆れたような口調だった。
樹の心は小さく「ぎく」と鳴った。否定は出来ずに顔だけが引きつった。
「はぁ……。人ってさ、こう、幻の様なものに憧れる時ってあるんだよ。私には過去のそれがそうだった訳で。結果的に、辻谷君には迷惑かけてしまって申し訳ないとは思ってるけど。それに、……何がどう転んでいても、私とじゃうまくはいかなかったよ。結局は駄目になっていたはず。……私じゃね」
そう言った美音の瞳は、何かを見つめていた。あの頃の彼女には決して目にしなかった様子だ。
どこか物憂げな、それでも穏やかそうにも見える、不思議な様子。
 急に美音はこちらを振り向いて真っ直ぐに訊いてきた。
「分かる?そういうの」
不意に向けられた、その強い眼差しに「う、うん」と頷く事しかできなかった。
軽々しく聞いてしまった事に後悔した。自分の浅はかさに軽く失望した瞬間だった。
思わず俯いてしまっていた自分に、美音は「仕方ないなぁ」という顔をしてぽんぽんと肩を叩いてきた。
「そんな顔しないでよ。樹ってば、すぐそういうのに引きずられるの相変わらずだね。一番に彼女大事にしないと誤解されるよ」
「そ、それは、大丈夫だと、思います。多分」
そこでなぜ彼女の話が繋がるのか分からなかったが、とりあえずそう答えておいた。
あてられたように美音は何とも言えない顔で答える。
「そーですか」
そこへ電車が到着するアナウンスが流れた。
「電車、乗るんでしょ?」
その美音の言葉に樹は普通に答えた。
「ううん、この次の電車」
「えー?そうなの?」
どこか嫌そうな表情だった。


到着した電車が発車した後。
「しかし、昔の姿しか見ていないと、急に今の姿見てもすぐには誰だか分からないなぁ」
「そぉ?髪型が違うだけとかじゃないの?」
「いやぁ、それだけでもないと思うけど……。うーん?」
それが何なのかははっきりと分からず、首を傾げていた。
その視界の端に、こちらへと進んで来ていた足が不意に躊躇いながら止まったのを見た。
顔を上げて見れば、中々の男前。やわらかい雰囲気。細身には見えるけど筋力のついた体躯。その彼が、躊躇った表情でこちらを見ている。
美音は背後にいる彼に気づく事はなく笑顔で話している。
「樹も昔はちんちくりんだったのにねぇ」
「……それは、かなり放っておいて下さい……」
「あははは」
そうした時、困っていた様子で立ったままだった彼は、呆れを押し潰したような表情をしてから口を開いた。
「美音」
その一声で、美音ははっとした顔をすると即座に振り向き笑顔を向けていた。
「ごめん、お待たせ」
その彼がそう言うと、美音の笑顔は増している。
「ううん」
それでも彼の表情は晴れない様子で、目線はちらりと樹を見てから言っていた。
「そちらは?」
慣れない空気に無言で考え込む樹だった。
「あ、これ、同じ小学校の子」
……“これ”。
その扱い方に言葉に出来ない反抗を感じてしまうのは自分だけだろうか。
「中学は別だったんだけどね。ここで偶然会ったんだ。昔はよくタカと一緒に振り回して遊んでたんだ」
自覚はあったんかいな。一人心の中で呟く樹。
「そう」
やわらかい笑顔で答えた彼は、先ほどより大分和やかな表情をしている。
 そこで樹は気づいた。少なからず、目の前の一緒にいる男に不安になったんだと。
うーん、どんな男でも不安になるんだなぁ。


 彼と一緒に並ぶ美音の姿は一際違って見えた。昔のあの乱暴者だったのが嘘の様に。
「春日も人のこと言えない顔してるって」
それに美音は少し見開いた目をした。そして、すぐその意味が分かったようで頬を朱に染めた。
過去の分の腹いせをするように、樹は意地悪い笑みを浮かべると言い放った。
「そっちこそ、彼氏泣かすような真似するなよー」
「なっ?!」
「いつも泣かされてます」
「……もう!」
「あはは」
そう笑いつつも、彼の瞳は優しい色を燈していた。美音を見つめる目だけを見ても、想いがいっぱいなのだと分かる。
 ちゃんといい男捕まえてんじゃん。抜かりなく。
二人に挨拶をしてから、その場に到着した電車に乗り込み、樹はふっと笑みを零した。


「今日の夜、紗彩ちゃんに電話しよーっと」
今日もルンルンで樹は学校へと向う。


 
相変わらずの美音?それとも?(月の猫)