バレンタイン・プロジェクト


1:ビターチョコレートなバレンタインで


 2月に入って間もない頃、この冬一番の寒さと天気予報で言われたその日も雪がちらほらと降っていた。

冬の空のように心もどんよりとしていた。
いつからだろう。大事な感情をどこかに置いてきてしまったような、心のどこかに穴があいたような感覚になってしまったのは。

今日もまた、いつもと変わらない一日を送っている日菜は、帰宅してぼんやりとソファに座ったままテレビを眺めていた。
この時期のコマーシャルはバレンタイン商品のものばかりで、苦々しい気持ちでため息を吐き出した。楽しくもない、出来ればきて欲しくないイベントが今年もまたやってきたのだと、沈痛な面持ちになる日菜が、ごろんと体を横にした時にインターホンが鳴った。
晩御飯の支度をしている母は忙しそうだ。用を頼む弟も、今日はまだ帰宅していない。
自分が出るしかないと、と日菜は腰を上げた。
 出てみれば、近所に住む1歳下の萌だった。
貸していた漫画を今日は返しにきてくれたようだ。
「面白かったー」
と漫画の話をし、感想を聞き終えたところで違う本を部屋にとりに行く。
玄関に向かいながら紙袋に入れて手渡しところで、萌は思い出したように口を開いた。
「日菜ちゃんは、今年もまたチョコくれないのかなってお兄ちゃんが喚いてるんだけど」
「えー?」
突然の話に、日菜は怪訝な声でそう声をあげた。
萌と兄は2歳違いのキョウダイ。だから、日菜とはどちらも1歳違い。
チョコ云々という話をするほど、萌の兄、蒼生と親しかった覚えも無く、日菜は首を傾げる。

 でも、そう言われる心当たりが無い訳じゃない。そのことを誰かに話したことがないだけで。

「じゃー……、既製品だけど用意しておくよ。でも、蒼生君って甘いものスキじゃなかったっけ?」
「昔はスナック菓子ばかり食べてたけどー、今は分からない。家にいるときって、ソファで転がってテレビ見てるか、食事のときか、部屋にこもってる時しかないからさー。周りの友達は忙しいらしくて、遊ぶ相手いないもんで最近よく家にいるんだよね。なんか邪魔」
「ははは。まぁイライラされてるよりはいいんじゃない?」
「そうだけどねー」
それから他愛の無い話を楽しみ、話題が尽きた頃に萌は帰っていった。

 それが気分転換になり、日菜は自室へと行き、ずっと中断したままの本棚の整理を再開した。中身まで確認して捨てるか取っておくかを判断するから、中々進まないのだ。
どこまでやったのかと思い出しながら棚を見回す。そして手にかけたのは、ひっそりとしまわれている小箱だった。
これは何だったか、と思いながらふたを開けてみると、過去3年間の手帳がしまわれていた。少しだけ懐かしい気持ちになりながら中を開いてみる。
昨年の手帳はまだ記憶に新しい。昨年といっても一月ちょっと前まで使っていたのだから。
社会人1年目で、毎日が必死だった。休日の半分は疲労に倒れていたような気がする。無論、今もまだ1年目なのだが。
4月から新社会人になる蒼生が、次に大変な日々を過ごす事になるのだろう。
一つ上の蒼生より自分が社会人1年先輩になるのかと思うと、少し変な気がした。
短大を出ての社会人なのだから、大学生より早いのは当たり前なのだけど。
 一番下になっている手帳を開き、丁度3年前のこの時期のスケジュールが目に映った。
苦々しい気持ちになった日菜は、それを元のように小箱にしまうと、同じ場所に戻した。
出したくないため息が勝手に口から零れてしまう。
思い出したくもない事を思い出し、そして出てしまうため息。
そんなときの自分の感情にも嫌悪を感じた日菜は、しまったばかりの小箱から3年前の手帳を出すと、勢いよくゴミ箱に放り投げた。
きれいな弧を描いて入ったそれに満足すると、日菜は気持ちを切り替えて続きを始めた。



 バレンタイン前の休日、日菜はショッピングモールに足を伸ばしていた。
華やかにディスプレイされたショップの数々。特設会場には凄い人だかり。
正直、うんざりした気持ちで息を吐いた。
 日菜の勤めている会社では、バレンタインに個人でギフトを贈る事は禁止とされていた。
だが、お茶の時間に皆でつまむ程度のものを一つ買っておこうと思っている。
平日の空いている時間に来たのなら広くも感じないだろうが、この人の中を縫うように歩いていると広い空間の中にいて出口にたどり着かないような気持ちになる。
それも変な話だと思いながら、日菜は目の前にあるウインドウケースを見た。
目線はそのチョコケーキを辿っていたはずなのに、いつのまにか違うどこかを眺めているようだった。


 3年前のバレンタイン、当時付き合っていた彼に用意したチョコレートがあった。
けれど、それは結局不要のものになったのだ。
あのときの事を今思い出しても苦い気分になる。
バレンタイン近くになって、友達が教えてくれた。他の子とも付き合ってるらしいよ、と。
最初はそんな話を信じはしなかった。彼の行動で心の奥では疑問に感じたことも打ち消して知らないフリをしていた。今までと変わらないと思えた彼の態度だったから。
事実が日菜の目に理解されたのは、バレンタイン当日だった。
 チョコを渡そうと思って彼を探していたら、ほかの子と嬉しそうな顔をしている姿を見つけた。プレゼントを受け取って、彼女を抱きしめている彼。
それでようやっとすべてを理解して、日菜は退いた。
 相手の子は、日菜とは違うタイプの子。見た目にも女の子らしい華やかな子。
よくある話だ、と今なら思える。
でも、あの時はそんな事すら思えなかった。
……自分を選んではもらえない寂しさに心が凍るような悲しみを受けていたから。

 その日の帰りだった。
日菜の家に着く前に、蒼生の家がある。その日は珍しく門扉に手をかけて入ろうとしている蒼生と出くわした。
「蒼生君」
それは怖いと取れる口調だっただろう。
蒼生は動きをとめて数秒後に日菜のほうを向いた。
 日菜はぐいっと小さい紙袋を差し出して気迫のある顔で言った。
「これ、始末して。私の代わりに食べちゃって。なんだったら捨てちゃって」
「……、はい」
その気迫に押されたように、固まったまま蒼生は頷き大人しく受け取った。
普段は決してそういう反応を見せるような人ではないのに。と今の日菜はふっと笑みをこぼす。
 それから暫く経ったころ、さすがに日菜も落ち着きを取り戻していた。
浮かない気分は毎朝続いていた。その日の朝も同様だった。学校に向かうために家を出るときも足取りは重かった。
そして、ちょうど家から出てきた蒼生と会い、その時に押し付けたチョコを思い出した。
「あ、の、蒼生君、あのチョコ、って……」
何をどう言えば良いかわからなくて、伝える言葉に困りながらそう綴った。
蒼生は動じることなく、門扉を閉めながら口を開いた。
「うん? ちゃんと消化しておいたよ。チョコも嬉しそうだったと思う」
その台詞の中に見えた蒼生の優しさに、日菜はほっと息を吐いた。
優しく慰められたような気がした。
「……ありがと。なんか、元気ちょっと出たかも」
「来年もっと元気になってたら、またちょーだい」
冗談めかしてそう言った蒼生は後ろ姿のまま手をバイバイと振って行ってしまった。

その時から学校に向かう足取りが少し軽くなった。
あのときの事は、心の中で今も感謝している。
 そんなバレンタインのチョコだったのに、ホワイトデーに蒼生からギフトが届いた。
頼まれたらしい萌が、日菜のところに届けに来たのだ。
それをみて、日菜は申し訳ないような気持ちになったのだが、萌が言った言葉を聞いて素直に受け取る事にした。
「お兄ちゃんが、まぁ曲がりながらも一応もらったから、なんとなく。って」
開けてみた中には、ユニークな商品類の、元気ビタミン剤とされたキャンディだった。
思わず笑ってしまった日菜を見ていた萌は首を傾げていたけれど。

 その翌年のバレンタインは、蒼生宛にチョコを買い、蒼生に渡した。
昨年のお詫びの意味が強かったが、お礼の気持ちもあった。
その時は、笑顔で「サンキュ」と受け取っていた。
大したものじゃない、ありふれたバレンタインのチョコギフトだった。

その後のバレンタインは渡していない。
 幼い頃は、幼稚園のときから小学校低学年のときまで、近所の男の子に配っていた。
その中には蒼生も含まれていた。
高学年になると、友チョコに夢中になっていて、手作りはその為にしていた。
中には本命チョコもあったかもしれない。
けれど、蒼生にあげた記憶はない。

― だから、そんな言うほどチョコをあげたっていう記憶があまりないんだけどなぁ…… ―

現実に戻り、再びチョコ探しを始める。次第に人ごみが気にならないくらい、真剣にチョコを選んでいた。

 ……あの時に言ってくれた台詞は、蒼生の優しさ。
たった一歳の差なのに、与えてもらった優しさがあの時の日菜にも今の日菜にも嬉しいと思っていた。
だから日菜は、蒼生の為にチョコレートを用意しようと思った。




 今年のバレンタインは木曜日だった。
月初めは忙しくて中々定時には帰れなかったが、半ばの今週だったら大丈夫だろうか。
そんな事を考えながら仕事をしていた。
 でも、買ったものの、渡すのが億劫になっているのも心境だった。

 13日、遅くなることも無く帰宅した日菜は、今日のうちに渡そうと心を決めて立った。そして買って用意したチョコを手に持ち蒼生の家に向かった。
 日菜の家から蒼生の家は、歩いて数分も経たないところにある。一つの角を曲がればすぐ蒼生の家が見える。
そこにきたところで家の前に人が経っているのが見えて、自然と足を止めた。
思いつめた顔をして小さな紙袋を大事そうに胸に抱く女性の姿。
途端に日菜は向きを変え早足で家に帰った。
心臓が嫌な音を立てているのにも気づかずに、部屋に上がりベッドの上に転がった。
深く息を吐いて、うつ伏せていたのを仰向けに変える。
片腕をおでこの上にのせ、自分を覆っている不可解な感情に気づきながら、ただ天井を眺めていた。
 そして、その日は結局チョコを渡せなかった。



 翌日、寝起きが悪かった日菜は、身なりを整えるのを急ピッチでし、慌てて家を出て行った。
その日の帰宅は、少しの残業をしてからだったので外は真っ暗だった。
部屋に上がる前に飲み物を飲もうとリビングに行くと、弟が「おかえり」の後に話しかけてきた。
「お姉ちゃん、今日帰りに萌ちゃんのお兄ちゃんに会ったんだけど、お姉ちゃんの事聞いてたよ」
「え?」
「まだ帰ってきてないって言っておいたけど、萌ちゃんと約束でもしてるの?」
「あー、まぁそんなとこ。……やっぱ、行かないとダメって事なのかな」
考え込むような顔をして、日菜は部屋に上がっていった。
階段を上る音と重なるように、心臓の音が聞こえていた。
いつもは寒い寒いと思う部屋なのに、それさえも感じなかった。
 テーブルの上に置きっぱなしのチョコ。
……あの時貰った優しさに救われたことを思い出して、そのチョコを手に持った。
「もっと元気になってたら、またちょーだい」と言った蒼生を思い出し、過去の手帳をやっと捨てられた自分を確認して、蒼生の家に向かった。
 知らず汗ばんでいる手にあるそのチョコは、過去のときのものよりも意味があるような気がした。それがなんなのか、日菜にははっきりと分かってはいなかったけれど。

急ぎ足できた日菜の足が角を曲がったところで一旦止まった。
静かな住宅。今は誰もいない。
一人ほっとして日菜は足を進める。
まるで息をつめるようにして、インターホンを鳴らすために指を伸ばす。
いつもより緊張した指先にあっけらかんと応えるボタンは、普段と変わらずインターホンを鳴らしていた。
 その緊張の理由が日菜自身分からないまま、ただ静かに待った。





 ソファに横になってテレビを見ていた蒼生は、壁にかけてある時計を見て小さく息を吐くと、リモコンに手を伸ばし電源を落とした。
冷蔵庫からペットボトルを一本取りだしてリビングを出て行く。
出て行ったのを見て、母親は口を開いた。
「さっきから行ったり来たり。何落ち着きないんだか」
拭かれた食器を棚に片付けている萌は目だけを天井に向けて黙っていた。
 帰ってきてから、蒼生はずっとその様子を見せていた。
部屋に行ったと思ったら、短い時間でリビングに下りてくる。
テレビをつけて見ているのかと思えば、落ち着かない素振りで新聞を見たり、情報誌を見たり。しっかりと目を通しているふうではなく、閉じたと思ったらテレビを眺め、またすぐ部屋に上がっていく。
 そして、またリビングに戻ってきて、ソファに座った蒼生を見た、母親と萌は鬱陶しいとでもいうかのように息を吐いた。


 萌の記憶の中で、普段のままの兄を見たのは昨日の朝までだった。
昨日の午後、帰宅した萌がリビングで兄を見たときからいつもの様子と違っていた。
リビングテーブルの上に置かれた小さくはない紙袋を力なく見つめていた兄は、やるせないようにため息をついた。そのまま落とされた肩とうな垂れた頭。
余計なことを言ったら、苛立ちをぶつけられそうなので控えめに「ただいま」とだけ言った。
そこでやっと妹が帰宅したことに気づいたみたいで、何か言いたげな目を向けた兄が何も言わず、「……お帰り」とだけ力なく言うとソファから立ち上がった。
一瞬忘れかけた紙袋を手にかけると黙ったまま部屋に上がっていった。
夕飯前には、ダイニングテーブルの真ん中に立派なチョコがお皿の上に盛られて置かれていた。
それは、食べていいよ、というこの家の習慣だった。
夕食後、兄がいない時に「これ、どうしたの?」と母に訊ねたら、「もらったんだけど食べきれないからって蒼生君が置いていったやつよ」と教えてくれた。
「へぇ」
そう返事をしながら、何か引っかかるものを感じた萌だった。


 母親が食器を拭き終わって布巾をかけた時、インターホンが鳴った。
母親はモニターを取って「はーい」と出る。相手が名前だけを言ったところですぐ返答していた。
「はい、ちょっと待ってね」
鳴ったときに、手にしたリモコンを落とした蒼生を横目で見ながら、萌は最後の食器をしまった。
「萌ちゃん、日菜ちゃんよ」
萌が返事をするより早く、再びリモコンを落とす蒼生に、萌は不可解な感情が湧いていた。
直感的に何かを思っただけだったので、深くは気にせず萌は小走りに向かった。
玄関に出ると、普段着とは違う日菜がいた。
「日菜ちゃん」
「やっほー。さっき会社から帰ってきたところ」
「そうなんだ。遅い時間まで大変だね」
「まあ、ね。でも、来月はもっと忙しくなるかも。イヤだなぁ」
「そっかー。でも、今日来てくれなかったら、ちょっと大変だったかも」
ぼそっと呟いた後者のそれは日菜の耳には聞こえなかった。
「え? なに?」
「ううん、なんでもない。しんどいのに来てくれてありがと」
「えー? あ、これ。萌ちゃんの分」
「えー、私の分もあるの? わーい」
「うん、どうぞ。あと、これ蒼生君の分なんだけど……。ふと思ったんだけど、蒼生君って別に私からもらわなくても、チョコに困らない人でしょう?」
「え? いや、そーでもないよ? あーでも最近は疲れてるみたいで甘いものが欲しいってずっと言ってるから。日菜ちゃんがあげたら喜ぶんじゃないかな、うん」
「そうかなー?」
日菜がどうしようかと悩んでいるように持っているチョコを眺めているのを見て、萌は慌てて言った。
「お兄ちゃん呼んでくるから、ちょっと待ってて」
「え? あ、うん」
気が変わらないうちに、という思いもあって、萌は急いで廊下を行く。
そして、足を止めてふーと長く息を吐くと、何もなかったような顔でリビングの扉を開けて声を放った。
「お兄ちゃん、次」
「あ、うん」
すっとぼけた顔をして立った蒼生だったが、途中、じゅうたんの端に足を引っ掛けて転びそうになっていた。「おっと」と声を漏らしながら、壁に手を当て体勢を正しながら玄関先へと急いでいく。
そんな兄の姿を目の端に捉えていた萌は心の中で息を吐きながら、そのときやっと「もしや……」という考えが湧いた。
貰ったチョコが目に入り、その考えはすぐに消えて、いつもの顔に戻って母親に言う。
「おかあさ―ん、これ日菜ちゃんからもらったから一緒に食べよう」
「おー、美味しそう」

 玄関に行くと、朝家の前で見かけた格好のままの日菜がそこにいた。
朝は自分に気づかずに素通りしていった日菜が、今はちゃんと自分に気づき目を向けていた。
それに少しほっとして、自然と頬が緩んだ。
「蒼生君、これ……どうぞ」
少しぎくしゃくした様子で差し出された紙袋。
 こうやって、……蒼生宛のものを直接手渡されたのはどれくらいぶりのことだろう。
そして、少し緊張気味のそれ。
蒼生は嬉しくて笑顔になっていた。
その顔のままそれを受け取った。そっと壊れ物でも扱うかのように。
「ありがとう、日菜ちゃん」
何に驚いたのか、日菜は少し眼を大きく開けて蒼生を見ていた。
「ん?」
日菜のその様子にそう返す蒼生。
それに言葉を返すことはなかった日菜だった。
だが、蒼生に見つめられたその頬が少しずつ紅く染まっていった。
何かを言いたそうに口を開けて、すぐ閉じて目線を下に向けた日菜を蒼生は静かに見つめていた。

きゅっと唇に力を入れたかと思うと、顔を上げて今度こそ日菜は言葉を紡いだ。
「……ありがとう。蒼生君」

あの頃、言いそびれていた言葉を今ようやっと伝えることが出来た。

何の説明もないそれだったのに、蒼生は優しい瞳で微笑んで見せた。
その一瞬、今自分がどこにいるのか見えなくなっていた。
それはほんの一瞬の事で、すぐ我に返りとってつけたように違う言葉を口にする。
「あ、それじゃ帰るね。萌ちゃんにもまたねって言っておいてね」
「うん」
「じゃ」
扉を開けるため背を向ける。言葉のないその時間が、日菜にはなんだかどうしてよいか分からない気持ちになっていた。

扉の外に出たとき、蒼生の呼びかける声が聞こえて顔を向けた。
「よそ宛だったのを引き受けるのは1回きりだよ?」
はっきりと聞こえてきた蒼生の台詞。
力が入っていなかった手から扉はゆっくりと離れていく。
「……え?」
力なくこぼされた日菜の声のあと、その扉は閉まった。
 隔たれたその場所に暫し佇んだままの日菜の口から吐き出される息が白く見える。
思考が止まったままで理解できていない日菜は、ゆっくりと歩き出し家に向かった。
果たす事のできた約束のようなものにほっと肩の力を抜きながら、理解できない台詞に頭はフリーズ状態のまま……


「……帰ったよな?」
貰った紙袋を片手に見つめながらそう声を出す蒼生。
途端にどっと押し寄せてくる何かに、空いた片手を顔に当てながら長いため息を吐いた。
「はー……」
「お兄ちゃん?」
「わあ!!」
一人だと思っていたその空間にいきなり現れた妹の声に心底驚いた蒼生。
「な、なに?」
思わず慌てて返したそれに、萌は他に言いたそうな顔をしながら言った。
「日菜ちゃんは帰ったの?」
「ああ、うん。またねって言ってたよ」
「そうなんだ」
そう答えた萌は他に何も言わず、蒼生の顔を見ることもなく2階の部屋に上がっていった。
 萌が部屋に入った音が聞こえて、蒼生は手に持った紙袋を見つめた。
すぐリビングに向かう方向を眺めてから二階に続く階段に顔を向けると、自分の部屋に向かうため駆け上っていった。
押し寄せてくる感情。声をあげてしまいたい気持ち。
それを必死に押し込めながら。

 そして、ようやっと自分の部屋とリビングを行ったり来たりする蒼生の姿が止んだ。



2013.2.26

 

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