時の雫-紡がれていく想い　Story22

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§12

　今日は役員用のネクタイを締めて家を出た。
その日、在校生は休校で、卒業生と生徒会役員、そして実行委員だけが登校だった。
卒業式の朝、いつもよりのんびりとした時間に学校に向かう。
会社員の通勤にもずれた時間だから空いていた。
　駅の改札口に向かっているところで、ふと壁際に立っている同じ学校制服姿の男子を目に入れてすぐ彼だと分かった。
「おはよう」
目が合った瞬間に一緒にそう言っていた。
　いつもと違う朝がなんだか心地よく感じた。
ホームに出たところで、思い出したように言う彼。
「ほんと、伊沢と仲いいよね」
昨日の様子を言っているんだろう。
大好きな友達なので嬉しくなって言っていた。
「うん。いさちゃんは私の憧れでもあって、私が男だったら絶対惚れてたと思う」
そうしたら、ほんの少しの間の後、彼は違う表情を見せた。
「……で、現実女の今は絶対に惚れてるのは誰？」
ちょっと意地悪な目。意地悪な微笑。
その台詞に心臓がどきりと鳴る。ここは正直言っておくべきか……。
普段想っていても素直に口に出す事って中々出来ないから。
いつも、彼から貰うばかりで。
「や、やっぱり、……」
でも、言おうと思った台詞は喉から外に出てこようとしなかった。
まるで何かに閊えたように。
目を一泳ぎさせてそう言う事しか出来なかった。
「いさちゃんかな。あはは」
言えなかった台詞に恥ずかしくて頬が熱くなるのを感じた。
「……立場ないなー俺」
ため息混じりにそう呟いた彼。
ぎくとした私は言葉を紡いだのだけど、到着した電車の音にかき消されてしまった。

「や、だって恥ずかしくて……」


　緩やかな時間はそのまま過ぎていった。
心穏やかで彼といる幸せな時間は、私の心を満たしていく。


腕章が一つ足りないと来た彼と、備品も置いている生徒会室の隣の部屋、書庫室に行った。
棚の上にある箱を取ろうと手を伸ばしたんだけど、背伸びしても届きそうになかった。無理かな、と思っていたけど、本当に無理だったので、椅子を出さなきゃとか思っていたら、そのまま背後から瀧野くんが取ってくれた。
箱を受け取りながら、その目線の角度に思う。
「あ、ありがと。……また、背伸びた？」
「……どうだろ？　４月しか身長計ってないしね」
「４月の時は、もっと目線がここら辺だったような気がするなー。いいなー男子はまだ成長期で」
そう、あの頃はまだ幼さが残っていたような気がするのに、今はもうすっかり男の人だ。
……その後、交わされた会話で尚それを実感したのだけど。
体重の話になって、胸に目を向かれていたときはとても恥ずかしかった。
「んー、やっぱり中学の頃と今では発育が違うしさ、付くべく所に付いてるし気にするものでは」
「……え？」
「胸とか」
どこを見ているんだろうと思って、視線の先を辿ってみれば自分の胸で。
「ひゃああぁ」
と声を出しながら、思わず突き飛ばしてしまった。
だけど、彼は全く余裕で、しゃがみ込んでいる私を見てお腹を抱えて笑ってる。
「もう！……な、なんか、瀧野くんってばキャラ違くない？前からそんなだったっけ？」
それもまた新鮮な彼だった。今までとちょっと違う彼。
「ははは、……いや、多分違う」
「なんで？」
素直にそう聞いたんだ。
「ん、春日限定だから」
普通にそう言われて、言われたこっちが恥ずかしくなった。
顔がとても熱くなって……。心臓がドキドキと騒ぎ出す。
とてもじゃないけど、平静になれないよ。
湧き上がってくるばかりのドキドキに、耐え切れず声を上げながら必死で顔を隠して背を向けた。その笑顔でその台詞なんて。
「きゃーきゃーきゃー。反則技―、それ反則技」
尚、楽しそうにくくくっと笑っているその姿がちょっと憎らしくも思う。
「わ、分かっててやってるでしょ……！」
ちょっとだけ恨むような気持ちで言っても、違う方向に目を向けて彼は素知らぬ顔で言った。
「ん？何が？」
「その顔は分かってるくせに……！」
それにただにっこりと笑顔を向けてくる彼。
「……もう」
どーせ私は彼には適わない。

　一人で腕章をつけようとしたのを見て自然に手を伸ばしてつけてあげた。
彼の腕は決して細いという事はなくて、必要な筋肉がついている太さだった。
それにも彼を感じるといったらどんな顔をするだろう。
安全ピンをつけ終えてそう思ったときだった。
「美音サン」
いつもと違う呼び方に、心はすぐ彼を向いていた。
顔を向けたら、手は彼に握られていてすっと彼が近づいてきた。
それはとても自然の動作に見えて素直に受け入れていた。
そしてすぐに感じる、頬に彼のキス。
触れただけのそれはくすぐったく感じた。
「くすぐったいよ」
嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちでそう声を出した私に、彼の笑顔はとても優しかった。
　その後、彼の視線が私の遠い後ろへと向けられているのに気付いて、呟くように呼んだ。
「瀧野くん？」
すると、彼はすぐ「ん？」と笑顔を向けた。
「どうかした？」
首を傾げて訊いたら、少し躊躇った様子で一言口にしてから、普段と変わらない様子で言った。
「あー……、一緒にいるの今通りすがりに見られたかも。多分、藤田クン」
「んー、じゃあいいや」
この時間を愛しく感じながら、傍にあった彼の腕にポスンと頭を置いた。
そうしたら、彼の空いている腕が私の背にそっと置かれた。
窓から入る日差しも気持ちよくてずっとこうしていたいくらいだった。


　まだ時間は早かったけど、持ち場にいた。
校門を抜けてすぐ入る前庭のところが私の持ち場。
そこへ、藤田君が来たんだ。
明らかにいつもと違う様子だった。
私はてっきり、いつもの調子で独りよがりな事を言ってくるのかと思っていたんだけど。
藤田君の言葉に知らないフリをして答えてみたら、暗い様子のまま聞いてきた。
「俺の事、見てもらえないんですか？」
はっきりと言われたそれに、目を逸らさずまっすぐと向けて思う事を言ったんだ。
「５月の顔合わせの時から、ずっと藤田君は生徒会での後輩とだけ思ってきてるから。それ以上でもそれ以下でもないよ。仕事を真面目にしてる分、野口君の方がまだ特別に思えるかもしれないけどね」
どう足掻かれても、それ以外思えないという事。
「……あの、瀧野って言う人と付き合ってるんですか？　今」
どうしてこうしつこいんだろう、分からないんだろう。
そう思ってしまう。
「そう、だけど？」
「なんで、ですか？」
その理由を聞く意味が分からない。
だけど、ここで曖昧に答えたら意味が無くなってしまうからハッキリ言う。
「私が好きだから。それ以外に理由はないでしょう？　以上説明終わり。早く持ち場に行きなさい」
「……はい」
そうして、藤田君は私がいる場所から去っていった。
「まったく……」
そう言葉を零して一緒に出るため息。
もうこれ以上余計なしんどい思いをさせないで欲しい。そう思いながらだった。

そして、そこに瀧野くんが来たのを目にして顔は勝手に笑顔になっていたんだけども。


　卒業生の保護者が来校する時間の間が仕事の時間だった。
そのピークも過ぎ、殆ど人の姿が見られなくなった頃、瀧野くんは自動販売機に行きジュースを手にしていた。
　ぼーっと校門を眺めていたら、見慣れた人が校門を抜けたところで駆け出してきた。
もう誰だか分かっている。松内さんだ。
あれから何度か手紙を交換して、校内であったときもお喋りをするようになり親しくなった。
「美音せんぱーい！」
と抱きついてくる。可愛い。それを受け止めて、またこの前に貰った手紙のお礼を言う。
「あ、この間はお手紙ありがとね」
「あ、いいえー。友達が手に入れてきたヤツですから。私はいらないですし」
そうまた写真を貰ったんだ。瀧野くんの。
「んー、でも今度お礼するね」
「いーですよー。で、あとどうしたんですか？」
「１枚は部屋に置いてて、小さい方は手帳に」
「そうですかー」
と二人だけだとこの時は思い込んでいたんだ。
「で、何の話？」
不意に飛んできた瀧野くんの声にはっとした。
存在をすっかり忘れていて、話の内容にもはっとした。
汗が浮かんできそうな勢いだった。
松内さんはお母さんに呼ばれて構内に向かっていき、この場は二人きりになってしまった。
説明できない、というよりも恥ずかしくて出来ない。
言葉に迷っていると、何か言いたげではあったけど、空き缶を捨てに行ってしまった彼を見て、私はほっと息を吐いた。

そして一人になり、静かになると、ついさっき話題にした為に現物が見たくなっていた。
その気持ちを抑えようと思って空を見上げてみたんだけど、あまりの良い天気に気分は高揚してしまって気持ちを抑える事はできなかった。
スカートのポケットから生徒手帳を取り出しそっと表表紙を捲る。
そこにはテニスウェアを着た彼の写真。
一人だと思って嬉しさのあまり声を出していた。
「一番凛々しい瀧野くん。テニスしてる姿好きなんだー」
「……どれ」
なのに突然降って出た肩越しの声。
「きゃあああ」
突然の声にあまりにも驚いたのと、とんでもないところを見られたのと、独り言を聞かれたので、声を上げてしまった。
「うお。耳がキーンときた」
それは亮太だった。
「なっ、なっ、……！」
「まぁ落ち着け。とり合えず、写真は見といたから。独り言も聞いておいた」
「～～～っ！け、気配消して、後ろから！悪趣味！」
「気付かなかったのはそっちだろーが。俺は何も悪くない」
無防備だ、と言うように両手を広げてみせる亮太。
あまりの場面を見られてしまった。
黙って近寄ってきてこっそり覗き見るなんて！
そんな憤りを感じていたら、亮太はにっと笑った。
嫌な予感がする……。まさか、とは思うけど。
そんな事を思ったときだった。
その一瞬の隙に、事もあろうに手に持っていた生徒手帳を素早く取り上げると、ほいっと私の後方に投げたんだ。
「ほらよ」
「あっ！！」
顔を慌てて向ければ、それを受け取る瀧野くんがいて……。
私の顔は青ざめたのか、赤くなったのか、……分からない。
「春日、１０分後に講堂入り口に集合な。……瀧野、それが一番凛々しくて好きなんだとよ」
「うきゃー！」
余計なことまで言われてそう叫ぶ事しか出来なかった。
亮太の言葉に、私の生徒手帳を広げようとする彼を見て、必死でそれを取り返そうとしたんだ。だけど、持った手を高く上げられたらいくら頑張っても届かない。
「わーん」
必死で彼の腕を下ろそうと掴んでみてもびくともしない。
高い場所に上げたまま彼は中を見て声を出していた。
「おー」
見られてしまったそれに恥ずかしくて恥ずかしくて……。
「これが一番だったら、今一緒にいる俺は？」
そう訊かれて、同時に朝の恥ずかしい台詞を思い出した。それと、その余裕な態度にも少しばかり腹が立って。……もうとにかく恥ずかしくなったのとごちゃまぜになった私は、声を上げた。
「……知らない！もう行く！！」
　その後暫くは、亮太の顔を見ても瀧野くんの顔を見ても腹が立って、これ見よがしに顔を背けていたんだ。

　何度思い出しても腹が立つ。
そんな事を何度思ったことか。
取り返すことも出来なかった私の生徒手帳。
彼の写真が一枚入っているだけで、見られて困るようなものは何もないけど。

　式を終えて外で卒業生が出てくるのを待っていた。
生徒会の先輩二人が出てきて、言葉と贈り物を渡したんだ。
大学生になる。
ただそれだけの事が、高校に通う私たちよりも遠く、大人になってしまうという気がする。
来年の今頃には、私も同じ立場でいられるんだろうか。
ふと、そんな事を思いながら、轟さんと足立さんを眺めていた。
　……亮太とも、あと１年でお別れか。
良い、仕事の相棒だと、思ってる。
今までいろんな事があった。仕事のフォロー、してもらったり、してあげたり。気持ちのフォローもしてもらった事あったっけ。
……亮太の態度って小憎らしかったり、口が悪かったりするけど、何度と助けてもらった。それはちゃんと分かってる。
だけど、亮太との間に、過去に微妙な空気があったとしても、やはり私は仕事仲間がいいと思ってしまう。
意見をハッキリ言い合って、へんな飾りなくいられるし、合理的に仕事を進められる仲だから。
亮太と私は変わりようがないのだろうな、と思うんだ。
　……だけど、今日のあの余計な行動は腹立つんだけどね。
ホントに、あの男、余計なことしてくれて。
　そう思った頃、私を呼ぶ瀧野くんの声が聞こえて、あからさまに不機嫌な顔を向けたんだ。
だけど、それはすぐ消えうせた。だって、瀧野くんってば凄い格好になってるんだもん。
制服よれよれになっていて、ネクタイもボタンも全部取られている状態。
まるで卒業生みたい。
３年のお姉さまたちに襲われたんだというその格好が、今の私には笑いのつぼにはまった。さすが瀧野くん。
あまりにも面白くておなかを抱えて笑っていたんだ。
なんか本当に面白く感じて。
そうしたら、不機嫌そうな顔をした彼が私の頬を摘んできた。
いい加減、笑い止めって。
だって、そんな情けない格好の瀧野くんって見られないよね。
それが尚笑いを誘うんだ。

　落ち着いてきて、何気ない言葉を交わしていた。
先輩に贈り物渡し終えたよ、とか。知っている中学のときの先輩がいた、とか。
一緒にいる理由がなくても、こうやって自然に一緒にいられるのっていいなぁ、なんて思いつつ卒業生の様子を眺めていたんだ。
　その時も、何気ない会話をしていたんだと思う。
どこかで見た事のある人がこちらに向かって歩いているのが目に入った。
綺麗な感じの落ち着いた雰囲気を持った卒業生……。
どこかで見たことある、という感じを受けて、頭の中ではどこで見たのか思い出そうと働いていた。そして、すぐに思い出したんだ。
　瀧野くんが、前に付き合っていた女性。
心臓が少しだけドクンと嫌な音を立てた。
その人は笑顔だった。だけど、寄せ付けない何かを放っているように感じたんだ。
その、まっすぐに向かってくるのと、こちらに向けられている顔と目に、瀧野くんに用が会って来ているのだと分かる。
瀧野くんにとっては背後の為に気付いていない。
私はなんだかそれ以上、その人と近づきたくなくて声を出していた。
「瀧野くん、後ろ……」
そして振り返った彼がその人の姿を目に入れて、出かかった言葉を飲み込んだのに気付いた。
　気付きたくない些細の事も察してしまうのはなんでだろう……。
きっと、この人の名前を思わず口に出そうとしていたんだろう。
　この時、薄雲にまかれたように、重い気分になっていた。
　この人は振り向いた瀧野くんに何も気にした様子もなくにこりと笑顔を向けていたけど。
「あ、卒業おめでとうございます」
「ありがと」
普段と違う瀧野くんの口調にだって、この人が他の子と違う位置にいるのが分かる。
言葉には何の変哲もないのに。
　数瞬の間が凄く重く感じて、声を出した。
「あの、向こうに……」
行ってるね、と語句を繋げようとしたんだ。
だけど、躊躇ったその一瞬に言われてしまった。
「あ、気にしないで」
はっきりとそう言われ、口を閉じてしまったんだ。
このときの私には、笑顔で「いいですよ、行ってます」とは言えなかった。
なんていうか、既に迫力に圧されていた、というか……。
気を使って離れようと思ったのも本音。だけど、この場にいるのが不安と言うか、怖く感じて……。
少し、瀧野くんが困っているような空気も感じたけど、その人は変わらない笑顔で言葉を放っていた。
「送別会、瀧野ちゃんも来てくれるのよね？」
「はい、行きます」
「良かった。それだけ。じゃあ又後でね」
「あ、はい」
多分、意味はないだろうその笑顔なのに、やけに目に残った。
だけど、返事を聞いたその人が背を向けて、ゆっくりと歩き出したのを見て、こそっと安堵の息を吐いていたんだ。
その次の飛んできたのは、瀧野くんの先輩が呼ぶ声だった。
「瀧野―」
それに返事をした瀧野くんは私に振り向いて言った。
「ちょっと行ってくる」
「うん」
自然に出る笑顔でそう彼に返事をしていたんだ。

　彼がこの場から去った後、もういなくなったと思っていた、さっきの人がこちらを向いて立ち止まっている事に気付いて、私の笑顔は跡形もなく消えていた。
だって、その人は真っ直ぐに私を見ていたから。

その人の視線に動けなくなっていた私を見て、にこりと笑んだその人は再びここへやって来た。
体がいう事を聞かなくなったみたいに固まったのを感じる。
「瀧野ちゃんって、いつも優しいでしょう」
「あ、はい……」
働く事をやめたような自分の体を感じながら声を放っていた。
その人はにこりと笑顔を浮かべると言ったんだ。
「一緒なのかしら？私のときと」
「……」
「知ってる？彼のクセ」
「？」
「……もう寝た？」
その台詞に、何を言うんだろうと顔を向けた。驚きを隠せなかった。
でもその一言で、前の問いが何を言っていたのか分かった。
「一つ教えてあげるなら、彼、うまいわよ。……彼の、初めての人ってどんな人なのかしらね」
クスリ、と笑いながら言ったそれに何も考えられなくなった。
このときの自分が何を思ったか、何も思わなかったのか、それすら分からない。
震えだしそうな手を握り締めて、言った。
「し、失礼します……！」
そう言うのが精一杯だった。踵を返すようにその場から走って去った。
頭の中がクワンクワン言っているようで、自分がまっすぐ走れているのか、それとも歩いているのかも分からなくなってた。
あの人の笑顔と台詞が頭の中を回ってる。
　走りながら目に涙が浮かんできそうになってた。
心の中はぐちゃぐちゃで、時折一瞬にだけ思い出す瀧野くんの顔が、胸に痛みを感じさせた。

　何をどう考えながら、どこの道を歩いたのか覚えていない。
頭の中は同じ事がぐるぐる回っていて、目は何も映していなかった。
　……言われた事は、考えれば分かる事。
だけど、そんな事考えた事なかった。
ただ、瀧野くんと一緒にいるのが嬉しくて。ただ、幸せで。
前に誰と付き合っていてどうしたとか、どこまでの仲だったとか、考えなかった。
目の前に居る彼がそれで全てだったから。
　空にいたのに、地上に突き落とされたようなそんな衝撃だった。
考えたくないのに、頭は勝手に考えてしまう。
心が悲鳴を上げる。なのに、今の私にはどうする事も出来なくて、泣く事もできなくなくて、ただ家に帰っていた。
安心してひとりになれる場所に。
　……なのに、突然後ろから飛んできた声が私の体を呪縛するようだった。
「……春日！」
今、会いたくなかった。
その人を確かめるように足を止め振り向いた。
それはやっぱり瀧野くん。
　どうして？どうしてここに？
そうぼんやりと思ってから、あの人の顔を思い出しはっとする。
不安な事ばかりが頭に浮かぶ。そんな確証は全くないのに。
ここまで走ってきただろう彼は、膝に手を置き乱れた呼吸をしていた。
そんな様子を見たことはなかったけど、今の私には他の何かを考えられなかった。
「何が、あった？」
何が。何かがあったこと前提の、台詞。
言葉が出ない。
「何、言われた？……あの人に」
言われた内容を思い出して、声に出せる言葉なんて出てこなくて目を伏せる事以外できなかった。
何も話したくない。何も言いたくない。
今、彼を見たくない。
あの人の話をしたくない。
「……ごめん」
彼の口から苦しげに吐き出されたその言葉にぴく。と反応した。
「ごめん」
さっきのよりも強くはっきりと言った彼。
「……」
だけど、言葉なんて出ない。
謝ってもらっても困る事だし、瀧野くんが謝る事でもないから。
言葉が出ない理由はそんな事でもないって本当は分かってる。
　でも、思ってしまう。あの人が言った事に、どうして瀧野くんが謝るの？
そういう事じゃないって頭では分かっても、そう思ってしまう心があった。
　何かを言えば、泣いてしまいそうだった。
自分が壊れる、そんな気がして。
それが怖くて何も言えなかった。
　この場が、すごく怖く感じた。
初めて、心が彼を拒否した。

何も紡ぎだされないままの、静かな時間になった。
伸ばされた手にはっと気付いたその時、脳裏に浮かんだのは、瀧野くんとあの人の姿。
そんな場面を見た事はなかったのに、浮かんだ場面に目を背けたくなる。
あの人を触れた事のある手。他の人を触れた事のある手。
咄嗟に、顔を背けて声を放っていた。
「やっ……！」
この時、心も体も全部、彼を拒否してた。
まるで意固地になったような自分を感じながらも、どうしても、何もなかったように、いつものようにはできない。
ただ漂うばかりの沈黙に気付き、ふ、と彼に目を向けはっとした……。
ひどく辛そうで、必死に何かを堪える表情。目は今までに見た事のない悲しみに満ちた色をしていた。
物凄く傷ついているんだと分かる。
だけど、力を抜いて表情を和らげる余裕なんて私にはなくて。
彼を見つめる勇気もなくて。
だけど、何か言わなくちゃ、と思ったから必死の思いで口を開けた。
「……何も、なかった！」
静かに言おうと思ったそれは、心の中に渦巻いているものに負けてしまったけど……。
だめだ。
そう思った私は、落ち着かせようと息を吐いた。
ちょっとの間だけでもいい。悪いものが抜け落ちてくれたら。
とりあえず、この場を過ごせたら……。
……早く一人になりたかった。
「送別会、今日あるんだよね？生徒会もあるんだ。だから、しんどいから家で休んで、それから用意して行くから、…………ごめん、帰るね」
ちゃんと言えただろうか。浮かべて見せた笑顔はちゃんと笑えていただろうか。
彼の反応を待つことなく、その場を走り出し家に帰った。
彼を置き去りにして。

　彼と一緒にいた緊張の時間から解き放たれて、色々な感情がごちゃ混ぜになっていた。頭の中で色んな映像が回っている。それで自分が何を感じているのかどう思っているのかも把握できなかった。
ただ浮かんでくる涙は分かっていたけど。
　家に着いて必死に鍵を開ける。いつもはすんなりしている事が、この時ばかりはじれったく感じた。
自分の部屋に駆け上がり、ようやっとひとりになれてほっとしたら一気に涙が溢れてきた。
弛んだそれは堪えようがなく、ただ身を任せるしかなくて、ひたすら泣いた。
「……うー……」
ぽたぽたと落ちていく涙が何かを訴えているように感じて、胸の痛みは一向に治まらなかった。

　家の中は静かなまま。気がつけば、ベッドを背に天井をぼんやりと眺めていた。
涙はいつの間にか止まっていて濡れていたはずの頬も乾いていた。
帰ってきた時のままの格好だったから、のそりと立ち上がって着替える事にした。
何をしていても頭はぼんやりとして何も考えられなかった。
試験勉強も手につかず、ただぼんやりとしていた。

　頭がようやっと動き出してきたのは、家を出る頃になってからだった。
向かう先は亮太の家が経営する喫茶店。そこで足立さんと轟さんの送別会をする。
　冷たい空気に頬を叩かれながらふっと空を眺めた。
もう暗くなっていて昼間の暖かさが消え失せていた。
そんな中、瀧野くんのあの時の顔が浮かんだ。
何かを思うより早く胸が痛む。

　……傷つけてしまった。
あんな顔をさせてしまったのは、私なんだ……。

その事実だけは分かっていた。そう思うたびに痛む胸。
心はもう余計な事は考えられない状況に陥っていて、それが今の私には丁度良かった。
　頭では分かっている事。考えれば分かる事。
私と付き合う前に、彼が他の子と付き合っていたという事は。
付き合っていれば、それ相応の関係になるって事は。
　私には彼しか見えていなくて、彼の背にあった過去を見てはいなかった。
だから、その現実にショックを受けた。
だけど、それは誰が悪い訳でもない。
辛く、悲しく感じても、仕方のない事なんだから。
けど、あの時の私に、何もないという反応はできなかった。
……彼を、傷つけてしまった。
あんな、顔をさせてしまった。
今はそれに胸が痛む。
　確かに、好きな彼が他の女性に触れたという事実は、私の感情は嫌だというけれど、だからといって、彼と別れるとか、彼が嫌いになるとかはない。
今一番胸が痛むことは、彼を傷つけてしまった事なんだから。
　あの人、瀧野くんの元彼女。相田さんと言った。
……名前を、今思い出した。
あの人の笑顔はなんだか怖かった。マイナスの感情があの中にこもっていて、それは私に向けられていたから。
それは多分、今でも瀧野くんのことが好きだから？
心にわだかまりが残っているから？
だから、敵意をぶつけられた……。
彼を好きという事は、瀧野くんの彼女であるという事は、そういうものひっくるめて全部受け止めなくちゃいけないんだ。
逃げちゃ、いけないんだ。
私が信用すべき人は彼なんだから……。

　それでも、足立さんを見ていると、訊きたくて仕方なかった。
「相田さんって、どんな人ですか？」って。
だけど、その台詞は声に出せなかった。理性が総動員して止めていた。
何回も何回も訊こうと思った。だけど訊けなかった。
それは、してはいけない気がして。
してしまえば、私が負けるような気がして。
自分の中の感情を全て吐き出してしまいたかった。何でもいいから聞いてほしいと思った。
だけど、もう一人の自分が必死で止める。それはしてはいけないって。やめなさいって。
見たくない負の感情が心の中で蠢いてる。
本当に負けてしまいそうになったとき、ポツリと零した私の言葉に、足立さんが静かな笑みを浮かべて静かに言った。
「僕が一番心配していたのは、春日さんがなんでも一人で溜め込むところだよ。……だけど、前に彼を見て安心したんだ。弱い気持ちを見せる事のできる人を見つけられたんだろ？」
その台詞にじわっと涙が浮かびそうになった。慌ててそれを堪えて俯く。
「……はい」
「じゃあ、そんな顔をしてないで、彼に会いに行ったらいいんだよ。ただ会うだけでも違うから」
彼と何かがあったってバレバレだというその台詞に内心はっとする。
「……はい」
足立さんは、それ以上は何も言わなかった。余計な事を聞いたりもしなかった。
亮太が微妙に心配そうな顔をしてこちらを見ているのにも気付いていた。
　……ああ、私、何やってるんだろう。
周りに心配かけて。その心配にも気付いていなかった。

　だけど、どうすればいいのか分からなかった。
足立さんはただ会うだけもいいって言ってたけど、実際は会いになんて行けなかった。
どうやって会いに行こう。
どんな顔して会えばいい？
そして、どうやって声をかける？
……分からなかった。
送別会を後にして、帰路に着いたけど、頭の中は彼のことばかり。
こんなに彼への想いで溢れているのに。
　まるで迷子になった子供のような気持ちで道を歩いていた。
家に行っても、彼はいないだろうけど。
……そう、諦めさせるように思って家に帰ったんだ。

　会いに行こうとは思うのだけど、行動には移せなかった。
なんて意気地がないんだろう……。
そう思っても私は動けずにいたままだった。
電話しようと思っても手が受話器に伸びない。まして、彼から電話がかかってくることもない。
次に会うのは月曜日。期末テスト１日目……。
電車に乗れば、嫌でも彼と会うだろう。
……だけど。
そう思っても迷いは浮かぶ。
このままで良い訳がない。彼は今どんな思いでいるだろう。
でも行けなかった。
矛盾だらけの私の中。
ただ、ただ、彼が好きなだけなのに。
どうして、うまくいかないんだろう。どうして、うまくできないんだろう。

　ずっと堂々巡りの思考の中、バイトを終えて外に出たんだ。
そして、前方に顔を向けて、そこにいる彼に驚いて声を出した。
「……瀧野くん、どうして、ここに……？」
そりゃあ、会いたいとずっと思っていたけど。まさか目の前に現れてくれるなんて思ってもいなかったから……。
「あ、え、と、ノート買いに。それと母親にドーナツ買って来いって頼まれて。だから、会えるかと思って」
嬉しかった。最後の言葉が本当に嬉しかった。
「……あとは、帰るだけ？」
用事は済んだのかな。後は一緒に帰れるのかな。そう思って訊いた。
「あ、うん。春日は？今日は自転車？」
「今日は、バスで来たから……」
「俺、自転車だから後ろ乗りなよ。……嫌じゃなかったら」
その最後の台詞に、あの時の傷ついた瀧野くんの顔が浮かんだ。
きっと、嫌われたんじゃないかと思われていたんだろう。思いっきり、彼を不安にさせていたんだ。
「……嫌じゃ、ないよ。……あの、私」
言わなくちゃ。そんな思いに駆られていた。
違うんだよって。瀧野くんが悪いんじゃないんだよって。
伝えなくちゃいけないって。
だけど、同じバイトの上がり一緒の人が扉から出てきて、それは中断されたんだ。
一緒に帰る？と言われたけど、そんな気も毛頭なく、まるで彼が迎えに来てくれたようなこの状況が嬉しくて笑顔で言っていたんだ。彼が家まで送ってくれるのでって。
その後、彼の自転車の後ろに乗ったんだ。最初、サドルの下に摑まっていたら「腰に掴まっていいよ」って言われて、微妙に緊張した。
彼に触れる事事態がなんだか恥ずかしい。
スピードを出すことなく安全な走りで自転車を漕いでくれている瀧野くんだった。

手から伝わる彼の温もりに、心は囚われる。
昨日のことに。彼のあの時の顔が。
だから、言葉を吐き出した。
「……昨日、ごめんね……」
それに彼からの返答はなかった。
静かな中だから聞こえないという事は無いと思うんだ。
でも、もしかしたら、本当に聞こえていないのかもしれない。
いろんな事を悩んでいるうちに家に到着してしまった。
自転車が止まったのを見てから降りて横に行く。
「ありがとう」
彼から返ってきた反応は静かな微笑みだけ。
いつもと違って元気がなく見えるそれに胸が痛む。
だって、私のせいだから。昨日の、私のせい。
　言わなくちゃ。
そう思って彼を見るのだけど、彼の顔を見るとどうしても言葉が出なかった。
何を言ってよいのか分からなくなった。
まるで気持ちを誤魔化すように自分の足元を見つめた。
また謝ってみても、彼からの反応がなかったら……、怖い。
だけど、心の中には、多分こうしている今の空気も、気まずさが溢れてる。
どうしよう。何をどう話したらいいんだろう。

　彼と別れてから、凄く切なかった。
胸が痛くて会いたくて。でも会いに行けなくて。
自分がどれだけ好きなのかって再認識した。
瀧野くんが会いに来てくれてどんなに嬉しかったか。
会えない時も切なかったのに、会えても切ないなんて。
私、どれだけ好きになってるんだろう。

「……あ」
不意に出された彼の声に顔を向けた。
彼は道路の端に自転車を停めると、カバンを開けていた。
どうしたのだろうと思っていると、すっと包みを差し出してきた。
「これ、ちょっと早いけど、ホワイトデーのプレゼント」
「え？いいの？」
「うん、受け取って」
思ってもいなかった物に信じられない気持ちだった。壊れ物に触れるみたいにそっと両手を差し出したんだ。
「あ、ありがとう」
どきどきする心臓のままお礼を言った。彼は笑顔を向けてくれた。
「……じゃ」
それだけ言って、自転車に乗っていこうとするのを見て、もうそれは咄嗟的に彼のジャンバーの裾を掴んでいた。
行かないで。まだ一緒にいたい。
心に浮かんだ正直の思い。
そして、なんだかこのまま彼が遠いところに行ってしまいそうな気がして無意識に手を伸ばしていたんだ。
ぴんと張ったはずのジャンパーがゆとりを見せたのを見て、彼が足を止めたのだと気づいた。そして、らしかぬ自分にはっとして慌てて手を放した。
あ、私、何やって……。
そう思うと恥ずかしさでいっぱいだった。
そんな自分を誤魔化すように言葉を口にした。
「あ、ごめん。え、と、本当にありがとう。あの、来てくれて、……その送って貰って、あとこれ、も。その、嬉しかったから」
言っているうちに緊張が増していくような間隔だった。
でも、そう言っていても、彼からの反応がなくて。
……やっぱり、昨日の事が……。
言わなくちゃ。このタイミングを逃したら、駄目なような気がする……。
「あの……、あの、ね……」
意を決して、言おうと彼を見上げた。
言葉がうまく伝わらなくても、ちゃんと口に出して言わなきゃ。
思うような結果に繋がらなくても。彼の反応が怖くても。
そんな必死な思いを胸に抱いていたんだ。
なのに、次の瞬間、思いがけない展開が起こった。
気がついた時には彼にキスされていた。
腕をつかまれ引き寄せられてたのがあまりにも一瞬の出来事でその時に把握できなかったんだ。
それでも、はっとした次の瞬間には落ち着いていく不安に目を瞑る。
彼の温もりに愛しさが積もっていくのを感じた。
好きでたまらないのは私のほう。
唇がそっと離れてから、ぎゅっと抱きしめられていた。その温もりに安心して彼の胸にそっと額を預けた。
尚、ぎゅうっと心地よく締め付けられる彼の腕に、埋もれていくような感覚だった。
「……軽蔑されて、嫌われたのかと、思った」
そんな事を思われているなんて思ってもいなかった。その台詞にわが耳を疑った。
そして、辛そうな声にも。
「……え？」
「もう、ふられるんだと、思ってた。……マジで」
「……、あ、……ごめん……でも、……違うよ？」
「……うん」
私の態度が、彼にそんな事を思わさせていた……。
悔いる思いが心の中に溢れるように出てくる。
深みにはまっていたのは私。あの人の言葉に動揺して掻き乱されて大切な事を見失いかけてた。
「それに、瀧野くんは何もしてないよ。……私が勝手に……。だから、ごめん……」
「何を、言われたの？教えて」
それを気にする彼の言葉が胸に痛く響いた。
本当はもう思い出したくない。口にもしたくない。誰にも言いたくない。
そんな事を言われたなんて。
次、同じことを言われたら、今度は負けない自分でいられるよう……。
そう願う自分もいる。
だって、失いたくないのは、私も同じだから。
「……んでも、ない。なんでもない。……大丈夫だから。ホントに絶対。……だから、だから、瀧野くん」
それ以上もう何も聞かないで。ただ、今は傍にいて欲しい。
そんな思いで彼を見つめた。
私を心配して、不安そうに見つめる彼の目がとても切なかった。
私の中は彼でいっぱいになる。

その目が少しずつ変わっていくのを見た。
先程まであった凍えそうな瞳が何かの暖に燈されていく……。
「…………美音」
彼の切ない声でそう呼ばれて、心臓を鷲掴みにされたようにどきんと音が鳴った。
私の片手は彼を離さないように、彼のジャンバーをぎゅっと握る。
彼の目の熱さに気づき心臓が音を立てた次の瞬間、背中に回されていた腕がぐっと引き寄せられるように力が込められたのを感じた。
まるで逃げ場を閉ざされたように。
頬に当てられた彼の熱い手を感じたら、唇を塞がれていて。
彼にしては強引な素振りに驚きながらも嫌じゃなかった。
……ただ、いつものキスと違った。
今までの優しいだけのキスじゃなかった。私の気持ちごと覆い尽くすような、彼の目に見た、熱い、……キスだった。
そんなキスは初めてでなんかもう耐えるのに必死だった。
指先が震えてくる。どこに置けば良いのか分からなくなった手。
ふと彼に刺激を与えられて、体に電気が走ったような気がして、勝手に声は漏れる。
「……んっ」
自分でも聞いた事のない声に驚いても、今の私では何も反応できず、ただ尚与えられる彼のキスに翻弄されていた。
……もうだめ。
そう思った時には、彼から受け取ったものが手から零れ落ちていった。

目の前からふっと何かが消え、冷たい空気が顔を撫でていくのを感じた。
後は何も分からなかった。
「……あ、ごめ……」
そんな彼の声が聞こえたような気もした。
気がつけば、彼に支えられるようにして玄関まで歩いていた。
鳴り響いている心臓がまるで遠くに感じられて、自分の意識がぼんやりしたままだった。
あたふたしている彼が、私が落としたものを拾い上げ手に渡してくれると言っていた。
「あ、えと、勉強、頑張って……。……今日はごめん！」
あっという間に去って行ってしまった彼。
そんな姿を見たのも初めてのような気がする。
冷たい風に不安がっていたつい数分までの空気が嘘のようだった。
顔は熱く心臓だけが鳴り響いている。
力の入らない体に、その場にずり落ちるように座り込んでいた。
地面の冷たさにも気にならないほどの火照り具合だった。
何も考えられない。
力も入らない。
ぎゅっと握られているのは彼から貰ったプレゼントだけ。
心に残っているのは熱い彼、その人だけ。
初めて知った彼の一面に、心は囚われていた。
全ての事が飲み込まれてしまうほどに。

　……そう、好きで好きでたまらない彼のことで全てはいっぱいに埋め尽くされてる。

2007.12.18