時の雫-紡がれていく想い Story21

零度の距離 -2


§12

「あ、そう言えば、今日って部活あるの?」
朝の電車の中で、思い出して私は聞いた。
「ううん。午前授業でも試験前だから」
「そうだよねぇ」
少しだけむくれ気味の頬で言ったら、彼が「何かあるの?」と聞いてきた。
「前に一週間休んだので、今日の午後体育の補講があるんだ」
「へぇ。補講って何すんの?」
「マラソンなんだ」
「……あ、じゃあお昼一緒に食べてくよ」
「え?」
「どーせ家に帰っても用意してくれてる訳じゃないし。食堂で一緒にどう?」
「うん」
嬉しくって笑顔で頷いてたんだ。
 本当は、部活があったら一緒にお昼食べられるかなって思ってたんだ。
一度聞いてみようと思っていたのを、ずっと何かしら忙しくて忘れていて。
部活がないと聞いて一人で昼食取るか、ってそう思った。
だって、今更お昼誘うのも悪いかなって思ったから。
でも、そうじゃなかったのかな。
気を使って言ってくれたにしろ嬉しかった。

 そしてそれらは朝の和やかな時間だった。


 次の時間は総会だ、という休憩時間、前の授業が体育だったから、一人猛ダッシュで着替えに走ってたんだ。
まるで朝の時間は夢のように感じた、忙しないひと時。
 それが尚激しさを増すとは思っていなかった。
着替え終わった私は、更衣室からそのまま講堂へ向った。
なのに、その途中で強い衝撃に襲われて、今は殆ど使われていない教材室に閉じ込められていた。鍵が壊れているその扉は力強く閉めた拍子に鍵がかかってしまうらしかった。
廊下から聞こえた、遠くなっていく女子数人の笑い声。
そして、足元に落ちている生徒手帳。
とりあえず、それをポケットにしまいこんだ。
我に返って時計を見たら、もう時間は迫っていた。
心に焦りが生じて扉に手をかけたとき、思わぬところから声が飛んできた。
「無駄だよ。ここの鍵壊れてるから」
それには心底驚いた。
声の主はソファの上で横になっている峯君。
「……な、んで……?」
その一瞬疑ってしまった。彼がコレを謀ったのかと思って。
だけど、彼の答えは違っていた。
「さっきの子達は、僕に気付いていなかったよ。 春日さんは同性に敵が多いわけ?」
「……さぁ? 好敵手じゃないことは確かだけど」
まともに取り合ったら話したくない事にまで踏み込まれそうだったから、周りの状況を確かめつつそう言った。
その返しが面白かったのか、「ふっ」と笑みを溢す峯君。
「ちょっとの間、ここでゆっくりしていきなよ。それであの子達も納得するでしょ」
それは一種の妥協案だった。だけど、そんなもの呑めるはずがない。
「それは無理」
峯君の顔は笑顔のままだったけど、少し歪んでいた。
「だって出れないでしょ?」
「次は総会だから急いでるの」
「ふぅん。じゃ、総会が始まれば誰か探し回ってくれるんじゃない?」
確かに亮太たちなら心配して探すかもしれない。
だけど、穴を開ける事は確かで問題になるのは明らかだ。
まして時間に遅れるなんて有り得ない。
どこか抜け道はないかと部屋一体をくるりと見渡した。
「無理だよ。窓は全部固まってるから開けられないよ。女の子にはね。男が必死で開けてやっと外せるから」
それが分かっているのに峯君は動こうとはしてくれないんだ。
この調子なら、たとえ頼んだとしても動いてくれるかどうかは分からない。
もっとも頼む気にはならなかったんだけど。
「……誰も見つけられなくても、総会が終わる頃に出してあげるよ」
今じゃないというその台詞に睨まないでいられなかった。
 この人は何を考えているんだろう、そう思ったときだった。
「はは。 ……ずっと僕と一緒にいたって知ったら、どんな顔するかな」
急に楽しそうにそう口にした峯君の目がさっきと変わった気がした。
 そう、私が昨日まで思っていたこと。
私を通して違う何かを見ている、その目と同じだった。
峯君の纏っている空気が微妙に変わったのを感じて少し躊躇った。
それを都合の良いように解釈したのか、峯君は満足したように笑みで目を細めて言う。
「長い時間他の男といてさ、気にしない奴なんていると思う?」
その台詞に無言で峯君の顔を見た。
「たとえ何もなかったにしろ、本人の意思とは無関係に頭は妄想するからね。男なら尚更。何もなかったって春日さんが言ったとしても、信用しきれるかな。瀧野」
その最後の言葉を口にしたとき、峯君は至極笑顔だった。
そんな笑顔を見た事はないというくらいの。
「な、にを……」
一瞬どうしてそんな事を言うのか分からなかった。
実は本当はこの人が仕組んだ事じゃないよね?そう思ってしまう。
私の困惑を放置したまま、峯君は笑顔のまま言ってくる。
「それに、なんで瀧野なの?」
そう聞かれて、一瞬にして感情的に答えていた。
「そんなことっ!峯君にとやかく言われる覚えはないです!」
「春日さんも、瀧野が優しいからって言うの?」
「……優しいよ」
他の誰かを指しつつ私に向けているその台詞だった。
「まぁ、春日さんにはそうなのかもね。誰だって、男だったら好きな子には優しくするよ。下心があるから優しくできるんだよ。だってさ、瀧野って普段言うほど優しい奴じゃないよ。結構すました顔してる。春日さんが知ってる瀧野って本当の瀧野?」
峯君は、私の知っている彼を嘘だと言う。彼の優しさをホンモノじゃないという。
ちゃんと彼のことを見えているのかとも聞いている。
何をどう言葉にすればいいのか……。
何も言わない私の反応を峯君は楽しんでいた。
「もう今、付き合ってるんだっけ?」
「……」
答えたくなかった。でも、それは肯定になるだろう。
「どの道、二人は駄目になるよ。二人を見てるとそんな気がする。こんな事が何度も続くの耐えられるの? ……瀧野も、もっと上手くやればいいのにね。女の子の扱いなんてそう難しいもんじゃないよ」
確かに付き合う前から似たような事はあった。
だけど、耐えるとか言う問題じゃない。少なくとも私にとっては。
近寄ってくる女の子の扱いをもっと上手くすればいいのに?それは峯君のように?
もっと八方美人になれと?
それは違う。少なくとも私が知っている瀧野くんは……。
 初めて会った時から、瀧野くんは変わってない。彼の優しさは。彼の良いところは。
だから、私は言える。
「……瀧野くんは、優しいよ。今はかなり、だけど。……でも、最初から優しかったよ。5年前も4年前も。それを峯君は知らないでしょう? 見た目よりも、思っていたよりも素っ気無いって人は言うけど、彼の優しさはさり気無いものだから、それに気付かない人がいるだけだよ。私は瀧野くんがそういう人だって、最初から知ってた。それを知らない子が、勝手にやっかんでるだけよ」
「ふぅん」
今まであった笑顔は消えうせた顔でただそう言った峯君。
彼はもう何も言わなかった。
もう興味は消えうせた。そんな様子だった。
だけど、私はいつまでもこんなところでぐずぐずしていられない。行かなくちゃ。
「もう時間がないから」
何処かに抜け道はないかと見回した。そして、見つけた。
廊下側にある壁の上部に備え付けられている窓だった。半分開かれた状態になっている。
あそこから出れる。私なら。
小さな頃からタカと二人で無茶な事をして遊んでいた私なら。
机や椅子などをそこの下に運んでは土台を作っていった。安定性を確認しつつ。
そして、床に転がったままのナップサックを手に取って、思っていたことを言ってみたんだ。
「峯君はもしかして、瀧野くんの反応を面白がってるの?」
さっきから無言のまま峯君。だけど、そう聞いた後の空気が変わったのを肌で感じた。
だから、目だけを向けて様子を見たんだ。
思ったとおり、反応をしている。
初めて見た、驚いたように目を大きくしている顔。
「あと、峯君からすれば、私は物珍しい小動物みたいな?」
「……」
一瞬何かを口に出そうとしたみたいだったけど、思いとどまった様にすぐ口を閉じていた。
だろうなって思う。瀧野くんは峯君のようにはならない。二人は全然違う人間。
「もし瀧野くんが峯君みたいな人だったら、私の事なんて見向きもしなかったと思うよ? 峯君も、本当はそうでしょ。気にしてる所は別にある。だから私の事なんて言うほど気になってない」
周りが言う「峯君」なら、私という人間に興味は抱かないと思うもの。
それに突如として興味を抱いたというなら他に理由があるから。
峯君が表情を変えるのは、瀧野くんの事が出た時だったから。
私の中でそれは解決し、ナップサックから体操服の下を取り出して、するりとスカートの下にはいてからスカートを脱ぎナップサックの中に入れた。
積み上げた土台に登っていく。それは懐かしい感覚だった。
静かだった部屋に峯君が声を出した。
「はっ。春日さんってフツーの優等生だと思ってたよ」
よく言われるその言葉。そして、皆がそう思っているだろうことも知ってる。
だけど、瀧野くんはそう思ってくれてないと思うんだ。
だから、私は平気。
「ご期待に添えなくてすみませんです。周りが思ってるほどおしとやかではないです」
一番上まで辿り着き、開いている窓からナップサックを放り投げた。それから窓を全開に。あとする事と言えば、そこの窓からこの身を出す事。
もうこれ以上余計なことに構っていられなかった。
時間は本当になかったから。今からダッシュすれば、どうにかギリギリ間に合う、そんな時間だった。
窓の桟に足をかけて、身を窓の外に出す。右手でしっかりその桟を掴むと、「せーの」と声を放ち飛び降りるように体を下ろし宙ぶらりん状態にして距離を縮めてから床に飛び降りた。
「よし。」
体操服からスカートに着替えて、心置きなく講堂に向かって走り出した。

私は負けない。
こんなカタチで腹いせをする子達なんかに。
あの子達みたいにこんな風に気持ちを曲げてしまうような、彼への想いじゃないと言い切れるから。

そんな思いを胸に走っていた。
道のりの途中で前方から私を呼ぶ声が聞こえた。
それに顔を上げた時にはもう目の前に瀧野くんが立っている。
彼の顔は、心配しているというのが十分分かるくらいで。
そんな彼に愛しさが湧き上がり勝手に手は彼の袖を掴んでいた。
 心の中でもう一人の自分が「大丈夫」だと言っている。
私は頑張れる。強い思いでそう言える。
勿論、背伸びをして無理をする、という意味ではなくて。
彼がいるから頑張れる。そんな気持ちだった。
「大丈夫?」
私の手をぎゅっと握って彼はそう聞いた。
その気遣いが嬉しいと思うし、その一言で頑張れると思う。
「うん」
迷惑かけるようなことも手を煩わせるような事もないよ。
口には出せなかったけど。だって、そんな問題でもないってことは分かってるから。
ダッシュで向かおうとする私の、曲がりきっていたネクタイを彼が直してくれて、髪の毛も少し整えてくれて。
それが私に力を与えてくれる。心が不思議な強さに満たされる。
「ありがとう。じゃ、行って来ます」
「うん」
時間がないくらいに迫っていて大変な時だというのに、私は笑顔だった。
彼が不思議なパワーを与えてくれるんだ。
彼はそんな事知らないと思うけど。
 強い思いを胸に講堂へと急いだ。

講堂に辿り着き壇上の裏口から中に入った。みんなの心配している顔が目に入ってくる。
「ごめん……、息、整える時間だけ、頂戴」
肩で息をしながらそう告げた。
そして、端にいる野口君に小声で頼んだ。瀧野くんのことを。
全校生徒が集まっている中、一人だけ遅刻して入ったら注目を浴びてしまうかもしれない。それなら、こっちの方に居てもらった方が問題なくこの時間は済むだろうから。
探しに来てくれたから。その事も話して後をお願いした。
 大分呼吸がラクになってきた頃、ポケットにしまった生徒手帳を思い出した。
それを取り出して学生証のページを開いてみた。
それは私のではなかった。私のはいつもの場所に入っている。
学生証の写真を見るに、何度と見た顔だった。
被服室で私の髪にはさみを入れた人間。ちゃんとはっきり覚えている。
勿論、それだけじゃないけど。
「春日、もうそろそろいいか?」
私の様子を確かめるように聞いてきた亮太。
「うん、大丈夫」
心には確固とした思いが湧いていた。これをなんと説明すればいいだろう。
……それは静かだけども怒りに似ていた。

 怒りを根底に置いた時の私の司会は迫力がある分、余計な質問や意見は出てこない。
お陰で予定の時間より早く済んだ。
後は終わりの挨拶をするだけ、のところで、頭に思い浮かんだ行動を実行する事にした。
それは私が負けない事の宣言だったし、これ以上は許さないという意思表現でもあったから。
 おもむろにスカートのポケットからあの生徒手帳を出しマイクに凛と声を放った。
「拾得物の連絡です。先程の休憩時間、ここへ向かう途中教材室の出入り口付近に生徒手帳が落ちていました。心当たりのある方、いらっしゃいますか?」
生徒たちはざわついていた。だけど、誰も反応を示さない。
見回しても、自分だという顔をしている人はいなかった。
自分が犯人だという証拠を残して行ったことにまだ気づいていない。
その幸せな事が終わりを告げる瞬間。
「では、ここで失礼させていただきます」
そう言ってから生徒手帳の後ろのページ、身分証明書を開き名前を確認する。
「2年5組田原さん。いらっしゃいますか」
生徒の間で、一部分がざわついていた。
どの場所にいるかなんて、上から見たらすぐ分かる。
彼女は青ざめた顔で硬直していた。
それは今までの分の仕返しだった。
量より質で。機会を得たらそこで。一番効果が出る方法で。
……充分だった。
これで思い知っただろう。
静かに手帳を閉じると声を放つ。
「いらっしゃらないみたいですね。では、これをもちまして本年度総会を終了します。各担当の方お疲れ様でした。通路側のクラスから順番に退場をお願いします」
一礼をし、壇上脇へと向う。
そこにいるのは、全員が何か言いたい顔をしている生徒会役員。
――なんでもないんだよ。
たとえその台詞を声に出したって、皆色々と聞いてくることは必至。だから、あえて態度で示す。
にこり。笑顔を向けて言うだけ。
「お疲れー。無事終了しました。次は卒業式当日、来賓の受付案内の仕事です」
「……おー、おつかれさん」
最初に返してくれたのは亮太だった。その顔は、いくら何を聞いても答えないという私の事が分かっているものだった。
 後は壇上等の片づけで役員はこの場を解散する。だけど、その前に彼のところへと行った。彼の瞳も心配の色を燈していた。
「心配おかけしました。無事終わりました」
大丈夫だよ。そんな思いを込めて。
「お疲れ様。見事でした」
多分、そう言った時の彼は、理由を聞きたい気持ちがありながらも私を尊重してそう言葉を紡いでくれたのだと思う。
そんな彼の気持ちににこりと笑顔を浮かべた。
だけど、彼の目が違うところにいったと思った瞬間、手に持っていたあの子の生徒手帳を取られてしまった。
本当に一瞬の隙ですぐに声が出なかった。
「これ、俺から返しとくよ」
「あ……」
私からの言葉を待つまでもなく彼は出入り口に向かっていく。
大丈夫だろうか?
そう思ったとき、彼は振り向き笑顔で言った。
「あ、じゃあ、またお昼にね」
「あ、うん」
それに反射的に笑顔になっていた。
彼がこの場からいなくなって一人思う。
大丈夫かなぁ?
でも、相手は女の子だしさすがに殴ったり怒鳴ったりするような事はないと思うし……。
ちょっと痛い言葉を一つや二つ言うくらい、かな?
……あの子、一番気の毒だと思うけど、でも仕方ないよね。間違った事してるんだから。
「……ふぅ」
ため息を一つ吐いて気持ちを入れ替えると後片付けに加わった。
 何事もない日常になったことを空気で感じながら。

 教室に戻りまだ賑やかな中一人静かに席に着いた。
「総会始まる前、色々とざわついていたみたいだったけど、大丈夫だったの?」
ナミちゃんがそっと私にだけ聞こえるように言ってきた。
それに振り向くと、本当に何もなかったような顔で言った。
「うん、大丈夫だった。ちょっとアクシデントはあったけど」
その話はまた今度ね、と小声で言ったところで担任が教室に入ってきた。
そして終礼。それが終わって、荷物を持って教室を出る。
廊下を歩きながら4組の教室を見る。もう既に4組は解散になっていた。
視線を転じた先、教室とは反対の壁にもたれて彼はいた。
そんな自分を待っていてくれる光景を目にするだけで顔は勝手に緩んでしまう。
もうずっと前から、彼氏と彼女の待つ光景は特別に思えていたから。それが今度は自分なのだと思うとなんだかすごく嬉しく感じた。
私が彼の近くに着いたところで、彼は背を起こし横に並んで歩き出す。
それはとても自然に。
それだけだって、心の中に温かい気持ちが湧き出すんだ。
 食堂に入り、いつもとは違ってがらんとしていた。でも、ちらほら生徒の姿はあるんだけど。
向かいに座る彼をちらっと見る。何気ない彼の表情。
何気ない時間。
こんな時間が止め処なくいっぱい訪れたらいいのに。
彼が目の前にいる幸せに、私の顔には普段の3割り増しで笑顔が浮かんでいたと思う。

 集合時間が近くなって、「じゃあね」と彼と別れた。
これからは別々の時間。それを感じるこの瞬間がとても淋しくあるけど仕方ない事。
淋しい、と思う感情を口に出して言う訳にもいかない。
顔には笑顔を取り繕ってそれぞれ歩いていった。

今日は、授業に体育があって、総会の前にも猛ダッシュをして、そして午後にマラソン。部活に入っていない今は結構しんどいスケジュールだった。
走っている間は余計なことを考えないですんで、久しぶりの爽快感を味わった。
けど、体のほうは疲労感がたまっている。
それでも、補講出席者の中では早いほうに走り終えた。
この地面の上に寝転びたいのを堪えながら校庭の端に座って休んでいたんだ。
そうしたら、横に誰かがすっと座ったのを感じて、何気なく目を向けて見た。
すっと目の前にスポーツ飲料を差し出してくれたのは瀧野くんだった。
「あ、ありがとう」
驚きながらも、しんどいときに彼の顔を見ると笑顔になる。
それでも、疲れてヘロヘロなのでプルトックを開けられず、彼が開けてくれた。
体を動かした後のスポーツ飲料は格別に美味しかった。
「おいしー」
そう、満足した後、ようやっと気づいたんだ。今、ここに彼がいる事の意味を。
「今まで待っててくれたの?寒い中?」
「図書室で勉強してた。最初から、終わるまでいるつもりだったから」
「え、……」
彼の言葉を聞いて一瞬のうちに色んな思いが交錯する。
待っててもらえて嬉しいという素直な気持ちと、時間を割かせてしまって悪いことした、今日の補講の事は言うべきじゃなかったかも、とか。
……その時、微妙な空気が流れていた。
彼にしてはいつもと違う雰囲気だった。
「……ごめん」
まるでそのまま流れて消えていきそうな声だった。
それに心臓ははっとした。勿論、意識もだけど。
振り向いた彼が笑顔と共に言った。
「図書室に、いるから」
そう言って、彼は行ってしまったけど。
彼の笑顔が、いつものものではなかった。
どこか暗くて、しんどそうな……。まるでそのままどこかに沈んでいきそうな気配のする、どこか危うい感じ。
どうしたんだろう?
そんな彼を殆ど見た事はなくて、胸がざわついた。
今日あったことを、彼は気にしているのだろうか。
そうだとしても、様子が違うような気がする。
うまく説明できないけど、直感的に感じていた。彼の異変を。

顔を洗って整えてから更衣室に行き制服に着替え直した。
身なりを整えて、息も整えて、彼が待っている図書室へと向った。
静かなそこへ入ると、生徒の数はほんの一握り。一つのテーブルに彼はいた。教科書とノートを広げて勉強をしている様子が見える。
邪魔にならないように静かに隣に置いた。見上げた彼に控えめの声で言った。
「読みたい本が返却されてあるかどうか見てくるね」
「うん」
普段と変わらない声に聞こえるけど、少し沈みがちな声だった。
どうしたのだろう。
本を探しながら頭の中は彼のことを考えている。
彼はすぐ傍にいるっていうのに。
こういう時、どうしたらいいのか分からない。
話を、してみるべきなんだろうか?どうしたの?って聞いてみたほうがいいんだろうか?
だけど、もし聞かれたくないことだったら……。
話したい事だったら言ってくれるよね?私は普段どおりいた方がいい?
 ……いつも私を助けてくれる彼。状況的にも精神的にも。
どうしたら、私は助けてあげられるだろう。
こういうとき、自分の不甲斐無さに悲しくなってくる。
「はぁ」
ため息を吐いた後に、一冊の本が目に入った。
探していた本はこれだったかな。そう思いながら手にとって中を確かめてみる。
ほんの数秒、本に意識を向けていたとき、気がついたら後ろから彼に抱きしめられていた。いつの間に来ていたんだろう。
彼の両腕は私の腰を抱きすくめるように。私の背中を彼の胸が包み込むように。
急に押し寄せる、彼の温もりと匂いに心臓は忽ち騒がしくなる。
思いがけない彼の行動に動揺しきっていた。
「た、た、た、瀧野くん?」
わ、私、今日いっぱい汗をかいたんですけど……。コロンはつけたけど、そんなの気休めだし……。
恥ずかしい気持ちで心の中で呟く。
それに、他にも生徒がいたよね……?
どう反応してよいのか分からなかった。
だけど、彼の反応はなくて抱きしめられたまま。
「あ、あの……」
「もう暫くだけ、このままで……」
初めて聞く、そんな彼の声にはっとした。
本当に辛そうな、声。聞いたこっちが胸を鷲摑みにされたくらい切なくなる声。
もう他の事はどうでも良い事に感じて、持っていた本を棚に戻すと彼にそっと振り向いた。彼はそのまま私の肩に頭を置く。
まるで安らぎを、休まる場所を求めているかのような、そんな様子に胸は締め付けられる思いだった。
「瀧野くん?」
「……ん」
元気のない声。
それになんて言ったら良いのか分からなかった。
もし、今日の事を気にしているなら。
もし、何かに疲れているのなら。
余計な何かを言えるほど私は器用ではないけど、でも、今は元気がなくても、この後は元気を出して?
励ませるほど力は無いけど、でも、迷ったけど口にした。
「あの、……大丈夫だよ?」
言った私の声が一番心もとなかったかもしれない。
……失敗、したかしら?
そう思った瞬後、彼の空気が変わったのを感じた。
そうして紡がれた言葉。
「そう言えば、聞いたよ?脱出するのに凄い所から飛び降りたって」
まさかそっちをそういう風に言われるとは思っていなかった。
しかも、そんな事を話せる人は……。
「え、……あ、もしかして聞いた相手って……」
「うん、……峯」
その名前を口にした瀧野くんの声が下がったのを聞いて特に思った。
「むー。私あの人嫌い」
その台詞に彼は私のむくれた顔を見て笑みを零しそっと頭を撫でてくれた。
だけど、いつもと同じように感じられないのはなぜだろう。
いつもは安心するその仕草に、今日は不安を抱いた。
原因は峯君?あの人のせい?
何か言われた?今日の事で。
心に浮かぶ不安。
彼は困ったように目を伏せてしまった。
それだけで、峯君と何かあったのだと分かる。
私にできる事なんて多寡が知れてる。
だけど……。
心の中で色んな思いが言葉になって回ってる。でも口に出せない。
頭で考えるよりも心で動いていた。
この想いが彼に届きますように。
つま先を伸ばして彼の頬にそっとキスをしていた。
気がついたときには、もうした後で。
「……あ」
あ、しまった。と声が漏れる。
彼の反応だって、驚いている。
急に恥ずかしさが込みあがってきて、顔は真っ赤に染まっていく。その熱さに尚恥ずかしさは積もる。
ど、どうしよう……。
そう思ったら、彼は私の頬にキスを落としてぎゅうっと抱きしめた。
より強く感じる彼に、胸が熱くなるのを感じた。
 好き。彼が好き。
胸の中にそれだけが思い広がる。
思わず声に出そうとしてしまって、必死で堪えた。
さすがにこれは恥ずかしくて言えない……。
彼の温もりを感じながら思っていたのはそんな事だった。
もっとさらりと自然に言えるようになったらいいのに。
自分に対してそう思いながら。
「……このまま、お持ち帰りしようかな……」
彼に抱きしめられるままでいたらそんな事を突然言われた。
「……!」
それは思ってもいなかった台詞。思わず体に緊張が走る。
え?え?え?
今まで考えていた事がぽんと飛んだ。
色んな思いで心も体も熱くなっていく。
そうしたら、聞こえてきた彼の声。
「……冗談、という事にしとくよ」
彼の顔に浮かぶその苦笑に台詞かれの本気を知る……。
私にあわせて言ってくれた言葉に心の中で一人思う。
こんな私でごめんなさい……。
それは恥ずかしさに似た思いで、口には出せなかった。
言ったらきっと、彼は笑うだろうから……。
私の頭を優しく撫でてくれる彼からは何とも言えない彼の感情を感じた。
……ええ、ほんとにごめんなさい。
そんな気持ちが心の中で浮遊していた。

2007.9.7