狼狽した指先 〜美音ver〜
Written by 雅輝
学園祭最終日。
テニスコートに瀧野くんの姿を見つけて、私は自然と頬を緩ましたまま駆け出していた。
彼の姿を目にするだけで何となく嬉しい気分になった私は、完全に気持ちが緩んでいたのだと思う。
――普段の私なら、決してその場には近寄ろうとはしなかっただろう。
「瀧野くん、丁度良かった。今日片付け済んだら晩御飯かねて打ち上げあるから……」
とそこまで言って、瀧野くんの傍に立っている見覚えのある二人に気づいた。
今は野田高校に通っているはずの、私の幼馴染のタカと、アノ人の友達でもあった川口君。
少しニヤニヤしながらこちらを見ているタカに、私は今自分が取った行動を悔やんだ。
しまった……よりにもよってタカにこんな所を見られるなんて……。
当然、生徒会の方にはテニス部からの練習試合の申請が来ていた。
つまり、私は対戦相手が野田高校だってことも知っていたのに……。
文化祭前の生徒会の尋常じゃない忙しさに、すっかりそのことが頭から抜け落ちていたみたい。
その時、ちょっとパニックになりかけていた私の耳に届いた川口君の台詞は、混乱していた頭を真っ白にするのには十分だった。
「あ!聡を好きな女!」
その言葉の意味を理解するのに、少し時間が掛かった。
タカも瀧野くんも、いきなりの出来事に困惑しているのが目の端に映る。
そして次に私を襲ったのは、真っ白になった頭が真っ赤になるくらいの、激しい怒りだった。
手に持っていた文化祭の日程が記してあるバインダーを、思いっきり川口君の顔に投げつける。
それでも気が済まなかった私は、自分でも気づいていない内に大声で怒鳴り散らしていた。
「面識ないも同然の女子に中学校以来顔を合わせて開口一番に言う台詞がそれか!?」
「な、なんだよ!嘘は言ってないだろう!お前だってさんざん本人目の前にして好きだって言ってたじゃないか!」
「言ってない!!周りが勝手に冷やかしてただけじゃない!!」
「それでもお前がその原因だろーが!」
「冷やかして困らせて面白がってた一人のくせに!よくそういうこと……っ」
「春日、注目浴びてるしもうそれ以上はやめておいた方が……」
タカの私を止めようとする声が聞こえる。
でも私はその言葉に従うつもりは毛頭無い。
こんなふざけた男に言われっ放しで、逃げるわけにはいかない。
「今ここで口を噤んだ方が誤解を招く!昔の話を今更蒸し返されて、公衆の面前で、しかもこんなふざけた奴に!!」
「誤解って何だよ!!事実だろう!?嘘は言ってないだろ!それとも振り向いて貰えなくて恥かかされたとでも思ってんのかよ?!悪いのはお前で……」
そのちっとも悪いと思っていないような声に、私の頭の中にある理性の線が切れたような気がした。
殴ってやろうと右手を振り上げた私を、タカが慌てた様子で後ろから羽交い絞めにする。
「落ち着けって!みお坊!ここで手上げたらさすがにやばいって」
「放して!こんな奴!こんな無神経な奴……」
尚も私を抑えようとするタカを引きずって、必死に身体を動かす。
でもやっぱり男の子の力には敵わなくて、どうしても振りほどくことができなかった。
「みお坊は悪くないからっ分かってるから落ち着けって!お前が手を上げたら事は悪化する一方だろ?!もう気にしないって言っただろうが」
タカのその言葉と、川口君の胸をぽんと軽く叩いている瀧野くんの背中を見て、私は幾分か冷静になった。
それでもまだ胸の中に燻る怒りを必死に抑えて、抑揚の無い声で呟く。
「……タカ、はなして」
その言葉にタカは素直に私を解放してくれた。
でも私は怖くて…瀧野くんの反応が怖くて、俯いた顔を上げることはできなかった。
「川口、お前満足か?それで。無神経無責任にも度が超えてるんじゃないのか。以前にもそれで痛い目見てるだろう」
そんな中、瀧野くんの珍しく怒ったような、責めるような声が静かに響く。
その声と言葉を聞いて、安心したような不思議な気持ちが胸を満たしていった。
それでも、先程の会話を彼も聞いていたことを思い出すと、また気持ちはどっぷりと沈んでいく。
それが何故なのかは、分からなかったけど……。
「次似たような事したら今度はグウで殴ってやる。……分かった?!」
私は沈んだ気持ちを無理やり怒りに変えて、彼を真っ直ぐに見据え言葉を放った。
「は、はい」
「忘れるなよ。……じゃあ、またねタカ」
最後に彼を一睨みして、私は走ってその場を去った。
もうそろそろ限界まで来ていた涙腺の緩みを、誰にも気づかれないように……。
私が必死に走って到着して場所は、一番端の校舎の棟と塀の間。
私はよく、一人になりたいときはこの場所に来ていた。
ここなら誰にも見つからないし、他人に弱さなんて絶対に見せたくないから。
一度塀に凭れるように背中を預け、そのまま膝を抱えるようにずるずると座り込む。
顔をその膝にうずめた私は、誰にも聞こえないように細心の注意を払いながら、少しだけ泣いた。
どれくらいそうしていただろう。
涙は既に止まり、そろそろ生徒会室に帰らないと亮太に怪しまれるなぁなんて思っていたその時、誰かが駆けてくる音が聞こえた。
やばい!と思ったときは既に遅く、その足音は私の前で止まっていた。
何故か私には、その足音の主が誰なのか、分かっていた。
その人はたぶん、私が今一番会いたくなかった人。
そして……一番会いたかった人。
何も言わずそのままそっと隣に座った彼を確認するため、私は膝にうずめていた顔を上げた。
「……、ごめん、ね」
すぐに瀧野くんだということを確認して、でも彼の顔を直視できなくて、地面に視線を向けたままポツリと呟いた。
――なんだか惨めで、泣き出してしまいそうだった。
「謝られるような事、何もないよ」
その声はいつも通り優しくて、尚のこと泣きそうになった私は、その言葉に何も答えることができなかった。
「あいつ、さ、昔から無神経なところあるから、後で又ちゃんと言い聞かしておくよ」
「……、うん、知ってる。今に始まった事じゃないけど、……うん、大丈夫」
そう、あの頃はこれくらいの事、いくらでもあった。
それでも今日私がここまでダメージを負っているのは、たぶんあの頃から随分と経って忘れかけていた事実を、無理やり突きつけられたから。
それでも、彼に心配は掛けたくないから……私は今出来る精一杯の笑顔で彼に言った。
「ごめん、……いつも瀧野君に変なとこ見せて。大丈夫だから。……もっと、しっかりしないと駄目だよね。ほんと、ごめん……」
なんだか彼にだけは、私の弱いところばっかり見られている。
私はそういう事を極端に嫌っているなのに、何故か彼にならしょうがないかなとも思い始めていた。
「充分、しっかりしてるよ」
「……そうかなぁ。そんなことないよ」
瀧野くんの優しい言葉にも、今は素直に受け取ることができなかった。
私は全然しっかりなんてしていない。
あれくらいの事でいちいち泣いて、瀧野くんにも迷惑を掛けちゃっている私なんて……。
「……しっかり、してるよ。だから、こうやって、…見せないように、見られないように、一人になってたんだろ?本当は見られない所で一人になって泣こうとしてたんだろ?」
瀧野くんのすごく気持ちのこもったその言葉は、私の胸を熱くした。
彼はしっかりと私のことを見ている……そう思えて、とても嬉しかった。
思わず、目を見開いたまま、彼の顔を凝視してしまう。
その元々整っている顔立ちが、真面目な顔をしている今、尚のこと格好良く見えて心臓の鼓動がまた速くなった。
「ほんとは泣き虫だって事知ってる。俺、春日なら胸くらいいつでも貸すよ」
そしてその言葉を聞いた瞬間、私は我慢しきれなくなって顔を彼とは反対方向に向けた。
いつしか蓋をした筈の淡い想いが、また蘇ってきそうな気がして……。
その感情を表に出さないように、私は手をぎゅっと握り締めて必死に気持ちを抑えた。
「感情を押し殺そうとして無理してでもなんでも一人でこなそうとする。……もっと頼ったらいいのに。一人で無理しなくていいのに」
……彼の言葉を素直に受け入れることができれば、どれほど楽だろう。
このまま彼の温かそうな胸に飛び込めれば、どれほど良いだろう。
彼の一言一言は、私の心を強く捉える。
それでも私は、自分に駄目だと必死に言い聞かす。
血が滲み出そうなほど握られた手の痛みが、何とか私を保っていた。
少しの沈黙があった後、彼は立ち上がり私の頭を2,3度ポンポンと撫でた。
その手は信じられないくらい優しくて、また私は泣きそうになってしまった。
「……戸山が心配してる様子だったよ。
あと打ち上げ少し遅れるかもしれないけど参加するから。帰る頃にはもう真っ暗だし送っていくよ。……あと、余計な事言ってごめん……」
そのまま踵を返して、数歩歩いた所で立ち止まった彼が言ったその台詞に、私は思わず彼の方を振り向いた。
しかし瀧野くんはもう既に歩き始めており、私はその彼の後ろ姿をただ眺めていることしか出来なかった。
―「……あと、余計な事言ってごめん……」―
その台詞が、何度も私の頭で繰り返される。
私の事を心配してくれた上に、優しい言葉も掛けてくれた彼が謝ることなんて、何も無いのに……。
むしろ、そんな優しい彼に、何も応えられなかった――お礼すら言えなかった私の方が、謝らなければいけないはずなのに……。
「……ごめん。ごめんね、瀧野くん……」
ポツリと言った私の声は、もう既に見えなくなった彼に届くはずもなく、秋特有の少し肌寒い空気に溶けていった。
もう既に時刻は6時を回り、3日間に及んだ文化祭は終わりを告げていた。
西日が差す廊下を、私は体育館に向けてゆっくりと歩いていた。
心の奥ではまだ先程の事を引きずっていたけど、それを忘れるほどの忙しい時間が、少しだけ私の心を楽にしてくれた。
「ふう……」
それでもこの後も仕事があると思うと、やりがいがあるとは言え内心ため息を吐いてしまう。
次は何をしようかな?とぼんやりと思いながら歩いていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「春日さんおどろー?」
目を向けてみると予想通り片岡君だったけど、私はきっぱりと言い切る。
「踊りません」
そのまま無視をするように先を進んでいると諦めたのか、片岡君の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
もう少しで体育館という所で、荷物を抱えた藤田君がやって来た。
その何だか危なっかしい足取りに少し心配になったが、次に来た彼の言葉を聞いてそんな気持ちなど微塵も無くなった。
「あ!春日さん、後夜祭踊りましょうよ。俺寂しく一人なんですよ。今までダンス踊ったことないんですよ。踊ってくださいよ」
「それよりそれを運んできなさい」
後ろで「そんなぁ〜」なんてぼやいている藤田君を置き去りにして、私はようやく体育館の前まで到着した。
「……踊らない、って言ってるのに」
そんな事を一人ごちながら、私は体育館の扉に手を掛けた。
――吐き出された私の言葉は、心からの本心だったのだろうか?
少なくとも、踊ろうという気になれる人がいることに、私は内心気づいていたのかもしれない……。
「……春日?もしかしてその上に立ち上がろうとしてる?」
去年も片付けた体育館の2階通路で作業をしていると、またもや聞き覚えのある声が聞こえてきた。
耳にするだけで、何故だか安心できる声だった。
下を見下ろして確認した顔が予想と当たっていたことに嬉しくなった私は、足を掛けていた柵から通路の上に下りた。
下では瀧野くんが安心したように息を吐いていた。
心配してくれたのかな?
そう考えて嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった私は、その気持ちをひた隠すようにもう一度柵に手を掛けた。
でも……。
「春日ストップ。今そっち行くから、動くな」
「あ、うん」
「いいか?絶対動くな」
「あ、はい」
何故か彼に止められてしまった。
しかもその声はと口調はいつになく少し厳しいものだった。
何か彼の気に障るようなことをしちゃったのかなぁ……?
私は彼が来るまでの間、妙に緊張した気持ちで、柵に手を掛けたそのままの状態でいるしかなかったのだった。
「これ、取るの?」
やって来た彼の顔は、やはり普段の穏やかな顔とは少し違った、何だか怒ったような表情だった。
「うん、そう」
まだ理由を理解できていない私の気のない返事に、彼は深いため息を吐いてから呆れたように言葉を紡いだ。
「無謀すぎ。しかも今スカートだって事分かってる?」
「……あ。す、すいません……」
すっかりその事を失念していた私は、彼の言葉にただ赤くなるしかなかった。
恥ずかしい……よりにもよって瀧野くんに……。
しかし彼は何も言わず、そのまま残りの飾りを取っていく。
そしてそんな彼にそっと目を向けた私は、気がつけばずっとその温かそうな背中を見つめていた。
あの時、不審者から私を守ってくれたその背中はとても広くて、見ているだけでとても安心できた。
そしてその辺りを全部取り終えた彼が、次の作業に移るために振り返る。
それだけで心臓が止まりそうなほど高鳴った。
なんだか変に緊張して、彼と顔を合わせられなくて……床に落とされていた飾りをあたふたと拾い始める。
その作業中、私は彼に顔を向けられないでいた。
「無茶はしないように」
「はい……」
全ての飾りを取り終えて下の階に一緒に戻ってきた瀧野くんは、少々呆れたような顔をしていた。
……まあ、無理もないような気もするけど。
恥ずかしくなって小さな返事をした私に、彼はいつもの穏やかな笑みで答えて、自分の持ち場へと戻っていった。
その笑みに思考が少し止まってしまった私は、今更ながらまた彼にお礼を言い忘れていたことに気づく。
でもたぶん、今は面と向かってお礼を言えないと思う。
彼の顔を見る度に、校舎裏で彼が言ってくれた言葉を思い出してしまい、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
さっきだって必死で平静を装っていたのに……結局はお礼も言えず終いだし。
「はぁ、……参ったなぁ」
こんなの、私らしくない……。
私は未だ高鳴っている胸を軽く押さえながら、自嘲するように呟いていた。
「よいしょ……っと」
手に余るほどの荷物を抱えて、私は体育館を出た。
荷物によってほとんど無くなった視界で、なんとか生徒会室に向けて歩いていく。
と、いつの間にか瀧野くんの姿が横にあって、両腕に抱えていた私の荷物に手を伸ばす。
その一瞬でさえ、私の心臓は大きく跳ねる。
結局ほとんど重みのなくなった私の腕に残ったのは、元の4分の1も無かった。
そして彼は、私が再度歩き出すと、その歩調に合わせてゆっくりと歩き始める。
私は彼を横に感じながら、ドキドキする鼓動を必死に抑えていた。
暗がりの廊下を雑談しながら歩いている時間は、とても穏やかな時間だった。
彼の顔がほとんど見えないからか、緊張がだいぶ解れてきた私の口は、ようやく滑らかに動き始めていた。
荷物を一旦生徒会室に置き、また体育館に戻っている途中、ふと校庭から聞き覚えのある音楽が聞こえてきた。
一度も間近で聞いた事の無いその音楽を耳にしながら、私は彼に何気なく訊いてみた。
――そう、本当に“何気なく”だったのに……。
「瀧野くんもダンス誘われてたんじゃない?」
いつも踊っていない私はともかくとして、彼は踊らないのかなぁ?
そんな軽い気持ちで訊いた言葉だった。
「どーだったかな」
瀧野くんはそう一言答えて、そのまま私に歩幅を合わせるように歩く。
とぼけようとしてるけど、瀧野くんなら絶対に誘われているはず。
だって彼は優しいし、格好良いし、私なんかとは全然違うから……。
あっ、自分で言っておいてちょっと落ち込んできた。
「……別に抜けて行ってきてもいいんだよ?瀧野くんは誘ってくれた子たくさんいるでしょ?」
そんな気持ちを隠すように、あまり深くは考えずに紡いだ私の言葉に、彼はピタっと足を止めてしまった。
「……ダンス、踊らないの?」
そんな彼に合わせて私も立ち止まり、素直に思ったことを訊いてみた。
でも彼は私の問いに答えようとはせず、ただ真摯な眼差しで見つめてきた。
その眼差しに、私は何も言えなくなった。
頭がジンジンして、次に言うべき言葉を考える余裕すら無かった。
「……春日は、今回のダンスも踊らないの?」
その声は、静かな廊下にひっそりと響いた。
まるで、私が高校に入ってまだ一度もダンス行事に参加していない事を知っているような、そんな口ぶりだった。
「あの、ダンス苦手だし、それに、ずっと踊ってるの嫌だし……」
「……それで踊らないの?」
「え、その、手が、駄目だから……」
私はしどろもどろになりながらも、必死に言葉を紡ぐ。
ダンスを踊るってことは、何人もの男の人と手を繋がなければいけないということで……。
あの事件以来男性恐怖症となってしまった私が耐え切れるなんて到底思えなかった。
けど、それは彼も分かっていることで……そして、瀧野くんだけは平気なのだということもたぶん彼は分かっている。
「……俺とは? 替わる時に抜けたらいいし、踊らないと、苦手意識も消えないし」
「ほ、他の子は?」
尚も真っ直ぐに見つめてくる彼に、私は誤魔化すようにそう言った。
その時、そろりと上げた視線に映った彼の顔は、いつもの穏やかな顔とは違って凛々しくて……でも、酷く悲しげな顔のように感じられた。
「……じゃ、いい」
そして彼の視線が逸らされて、元の進路方向へと歩き始めた。
「……あ、……」
歩き始めた彼の背中を見て、私は思わず声を上げて俯いてしまう。
何で、こんなに嫌な気持ちになるんだろう。
他の人と同じ様に、一緒に踊るのを断っただけなのに……。
それに、彼はどうして私なんかを誘ったんだろう。
彼なら踊ってくれる人もいっぱいいるだろうし、私なんかと踊らなくても……。
心の中にそういった疑問詞と共に、ズキズキと痛む気まずさが生まれ始める。
――あの時はとても近くに感じられた彼の背中が、今はとても遠くに感じられた。
「片付け入ったからとっくに諦めてたのに、春日が聞いてきたから踊ってくれるのかなってちょっと期待しただけ」
彼が背中を向けながら言ったその言葉に、私は大きな罪悪感に苛まれた。
「……、他の子、いいんだったら、踊る、けど……。私でいいんなら、ちょっとだけ……」
その声は、ちょっと震えていたのだと思う。
なんとなく、それ以上彼の背中を見ているのがつらくて……私は手をぎゅっと握り締め、足元を見つめるように俯く。
――何で素直に踊ろうと言えなかったんだろう?
せっかく彼が誘ってくれたのに……。
彼と踊るのが嫌なはずはないのに……。
むしろ踊ってみたいと思っている自分も、確かにいるはずなのに……。
今更ながらに、後悔の念が押し寄せてくる。
「いいよ、無理しなくて。……戻ろう」
どことなく無理をしているような声で、彼が優しい言葉を掛けてくれる。
でも彼の体は既に進行方向に歩き始めていて、私にはそれがどうしようもなく寂しく感じられた。
自分で断ったくせに……私ってばなんて我儘なんだろう。
軽い自己嫌悪に陥りながら、彼の後を俯きながら付いていく。
けれど、数歩歩いたところで彼が突然立ち止まる。
どうしたんだろうと見上げた彼の顔は、はにかんだ笑顔をしていた。
「やっぱ、踊って」
いきなりのその言葉に、私の頭は咄嗟に反応できなかったけど……
「うん」
頭で何かを思うより速く、体が反応していた。
自分でも意外なほどスラリと出た私の返事に、瀧野くんは満足したような表情を浮かべ、私の手を引いてグラウンドへと歩き始めた。
早足でそれに付いていく私の心は、満たされたような、不思議な気持ちでいっぱいだった。
グラウンドに着くと、瀧野くんは一旦手を放して軽く辺りを見回した。
――手が離れたその一瞬でさえ、私はどこか物足りない気分になった。
だから、彼がまた笑顔で手を差し伸べてくれたとき、私はとても素直に彼に手を預けることができた。
体育の授業で数回しかやったことのないダンス――それも、踊ることはないだろうとほとんど適当にこなしていた授業を頭に思い起こしながら、縺れそうになる足でステップを踏んでいく。
ようやく慣れてきた頃には、曲も中盤に差し掛かろうかというところだった。
その頃になって、彼が下手な私に合わせてステップを踏んでいたことに気づいて、恥ずかしい気持ちと共に彼の優しさを嬉しく感じた。
繋がっている手から感じる彼の温もりは、とても居心地のいいものだった。
他の男性からは決して得ることはないであろう安心感……それをいつも感じさせてくれる、優しい手。
いつも私を助けてくれる、頼りがいのある手。
その手に触れているだけで、私の心臓はドキドキするというのに……今はそれすらも心地いい。
ふと、彼の視線を感じて顔を上げる。
ドキンッ!
真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳はとても熱っぽくて……私の心臓は鈍い音を立てて一つ跳ねた。
顔が紅潮するのが分かる。
途端に心の中に緊張が生じ、自分でもどうしていいか分からなくなった丁度その時――。
〜♪ 〜♪ ……
「あ、ラストダンスだったんだ……」
音楽が止まり、それと同時に瀧野くんが少し残念そうな声を出す。
繋いでいた手は、いつの間にか離れていた。
「もどろっか」
「うん」
普段通りの穏やかな笑顔で提案する彼に対して、返事を返すだけで精一杯だった。
心臓は今にも飛び出そうなくらい激しい律動を繰り返していたし、彼の顔もまともに見れない状態だったから……。
体育館に戻ってきて、また瀧野くんと別れてそれぞれの作業に移っても尚、心臓はうるさいままだった。
なかなか細かい作業が出来ないことを疑問に思い、自分の手を見つめてみる。
心臓の鼓動が伝わっているのか、開いた両手は小刻みに震えていた。
そしてその手に、まだ微かに残っている彼の温もり。
手が離れた時に、名残惜しく感じたのは私だけだったのかなぁ。
そんな事を考えながら、開いていた手をぎゅっと握り締める。
彼の温もりが消えないように……私は震えている指先に、無意識の内に力を込めていた。
――その狼狽した指先に、完全に蓋を閉めたはずの彼への想いが、少しずつ緩まってきているのを感じた。
BY Memories Base 雅輝サマ